月下美人
父の実家には大きな月下美人の木がある。
誰に言っても子供の嘘だと信じて貰えなかったけれど、僕は木の下に綺麗な女の人が立っているのを時折見かけていた。
透き通るように美しいその人は何も言わず、ただ微笑んで子供の僕を撫でてくれた。今となってはそれが本当にあったことなのか、それとも母を早くに亡くした子供故の想像の産物だったのか、自分自身でも定かではないのだけれど。
中学三年の春から東京の親戚に預けられ、都会の忙しい日常に流され過ごしていた僕は大学4年の夏、久しぶりに実家に戻っていた。呑み助ばかりの親戚連中にしこたま飲まされ、逃げるように庭に涼みに出る。
東京とは違い、陽が落ちると川から吹いてくる。その涼しい風に乗って、懐かしい香りが漂った。
その香りの先、庭の隅にある大きな月下美人の木の下に、彼女が……いた。
不思議と恐いとは感じず、僕は妙な懐かしさと酒の力も手伝って、初めて自分から声をかける。
「久しぶりです、覚えてますか?」
咲き誇る月下美人の下、彼女は昔のように微笑んで、昔よりうんと背が高くなった僕の頬に手を伸ばす。
「ふうっ」
ため息をついて僕は空を見上げた。東京に戻る駅のホームで綺麗な夕焼けに染まった空を見上げる。
「また、会えるかしら?」
初めて聞いた彼女の言葉が、声が脳裏によみがえる。
「ええ」
頬を撫でられドキドキしながら、酔いで朦朧とする中、そう返事をしたのを覚えている。
僕は嘘をついた、この嘘はきっと取り返しのつかない嘘なのに。
肌寒い風にザワリと木立が揺れる。
夏の終わりを告げるヒグラシの声がピタリと止まった。
祖父が亡くなって七回忌が過ぎ、父の実家は売りに出されることが決まっていた。
なんでも敷地一杯にマンションが建つそうだ。
いつも優しかった彼女に僕は嘘をついた。
空を見上げて僕はもう一度ため息をついた。