第二章 淡い芽生え 4
「困ってるみたいだったから。ひょっとして迷惑だった?」
歩きながらそう囁かれ、リシュナはぶんぶんと首を横に振った。
「ううん、とっても助かったわ。ありがとう」
感謝を込めて繋いだ手をぎゅっと握り返すと、ヘリオスは照れたように微笑み返してくれた。
「……なら良かった。少し外の風に当たろう」
広間から外へ続くバルコニーに出ると、冷たい夜気が火照った頬に心地よかった。星は明るく宵闇に瞬いていたが、月は見当たらなかった。
「……わたし知らなかったの。ヘリオスが太陽の騎士になっちゃいけないなんて」
バルコニーの手すりに手をついて、星を見上げながらリシュナはぽつりとそうこぼした。
「え?」
ヘリオスは驚いたように、リシュナを見つめた。
「あの人に聞くまで知らなかったの。ごめんなさい……危うくヘリオスに迷惑をかけるところだったわ」
「何の話?」
「ヘリオスは実家を継がなきゃいけないから、五年も王都を留守にできないって。だから太陽の騎士になったら……」
「エルナトが言ったのか?」
「そうよ。それであの人は太陽の騎士になるまで実家に帰っちゃだめだって言われてるって。わたし気の毒で、それにヘリオスに迷惑ならって思って……」
そこまで聞いたところで、ヘリオスは呆れたようなため息を漏らした。
「……あいつ、相当必死なんだな。よくもまあそんなことを……」
「嘘なの?」
「半分は嘘じゃないけど……でもエルナトは休暇ごとに実家に帰ってるから。あいつのことは心配しなくても大丈夫だよ」
リシュナは愕然としてその言葉を聞いていた。
「……わたしが田舎者だから簡単に信じると思ってそんなことを言ったの……?」
「あいつにもいろいろ事情があるのは確かなんだ。あいつは有名な商家の息子なんだけど、少し前に父親が商売で失敗して痛手を被って。なんとか持ち直そうと、あいつの妹を富豪の息子に嫁がせる話が出たんだけど、それに反発した妹が屋敷で働いてた庭師と駆け落ちして行方不明で……なんとか富と名誉を取り戻したいと必死なんだ」
「それならそうと言ってくれればいいのに。どうして嘘なんて……」
そう呟いたところでリシュナは気づいた。今現在ヘリオスに対して自分がしていることも同じなのではないか。仕方ないからと言って、嘘を並びたてて正論を装っているだけだ。
「そうだね。本当に心からリシュナに頼みたいと思うのなら、本当のことを言うべきだ。でも、王都はリシュナが思うよりずっと……ずるい世界なんだ。嘘もまかり通るぐらいに」
ヘリオスは寂しそうに目を伏せた。こんな世界をリシュナに見せたくなかったとでも言うように。
「それじゃあヘリオスのことは?」
「うん、半分は嘘じゃない。父親には騎士団に入るのも反対されていたし、実際に今回太陽の騎士にならなければ、すぐに騎士団も退団する予定なんだ。そういう約束で無理を聞いてもらったから」
「じゃあ、やっぱり……」
迷惑なのね、そう続けようとしたリシュナより早くヘリオスは言葉を継いでいた。
「そうじゃないよ。太陽の騎士になれるのなら、もう少し無理を聞いてもらえるから。……こんなこと言うと、リシュナに強要してるみたいだから、今まで言えなかったんだ。でも心のどこかで確信してる気持ちもある。エルナトには絶対に譲れない。──リシュナ、君が俺を選んでくれると思っていいのか?」
真剣な眼差しの中に、嘘は一欠片も見当たらない。リシュナはその瞳の輝きに吸い寄せられるように目が離せなかった。
「本当に、迷惑じゃないの?」
「何が迷惑だと思うんだ?」
逆に穏やかに問い返され、リシュナは戸惑った。
「だって、住み慣れた都を離れて、どこに行くかもまだわからないし、それも五年もの間よ。そんな長い間、自由を失うのよ」
「何言ってるんだよ。少なくとも五年は一緒にいられるってことだろう? それに、俺はそのために騎士になったんだ。今更何を迷うんだ」
真っ直ぐすぎる瞳が自分だけに向けられ、胸が痛んだ。その煌めく眼差しは自分に向けられるはずではなかったのに。
「エルナトが欲しがっていたのは太陽の騎士に付随する名誉だけど、俺はそんなものが欲しいわけじゃない。それに、プリマヴェーラがリシュナでなければ意味がない。君を護る騎士になりたいんだ」
真っ直ぐな視線と想いを前に、リシュナはついに逃げるのをやめた。
今まで何かと理由をつけて彼の想いから逃げていた。向けられるのは自分ではないはずだと、そう言い聞かせて。
けれど、彼の想いは純粋で本物だった。リシュナとして生きると決めたのなら、その想いを真摯に受け止めなくてはいけない。──受け入れることはできないとしても。
「ありがとう、ヘリオス。上手い言葉が浮かばないけど……とっても嬉しいわ」
もし自分が本物のリシュナなら、これほど嬉しいことはないだろう。その想いを、リシュナも素直に言葉にすることが出来た。
「良かった……ようやくそう言ってもらえて。せっかく会えたっていうのに、逆に昔より遠くなった気がして寂しかったんだ」
「ごめんなさい。手紙なら上手く伝えられても、実際あなたを目の前にすると何も言えなくなってしまうの」
リシュナも彼に会った時に言うべき言葉を何度も頭の中で練習したのだが、いざヘリオスを前にすると逃げることしか考えられなくなっていた。
「いいよ。時々でも、少しでも、本当の気持ちを聞かせてくれるなら」
「うん……」
「そうだ、ずっと渡したかったものがあったんだけど受け取ってくれる?」
「なあに?」
ヘリオスは懐から何かを取り出すと掌に乗せてリシュナに差し出した。
「君に似合いそうだと思って、随分前に買ってたんだ。会えたら渡そうと思って」
淡い緑色をした宝石が光る、それは可愛らしい銀細工の指輪だった。小振りの宝石の周りに草花を象った精緻な模様が彫られている。
「受け取ってもらえる?」
「わたしがもらっていいの?」
おずおずと聞き返すリシュナに、ヘリオスは笑いながら言葉を返す。
「もちろん。君のために選んだんだから」
「ありがとう。大切にするわ」
ヘリオスはリシュナの笑顔に満足そうに頷き返すと、指輪をリシュナの手に握らせた。
「じゃあ今度は君の番だ。俺に伝えたいことって?」
「え?」
「ほら、手紙で言ってただろ。まさか忘れてたんじゃないよな」
相手からの手紙はくまなく読んだが、こちらから送った手紙はもちろん手元にないので何を書いたかなどわからないのだ。
「あ、そ、そうだったわね!」
急いで相づちを打つ。親友が伝えたかったこと……? ぱっと思いつくのは愛の告白ぐらいしかない。けれどこんなところで、自分が言うわけにもいかない。
「えーと、また今度でいいかな。今日はちょっと……」
「別に俺は構わないけど。俺も直接会って話したいことがあったから、ちょうどいいかと思ったんだ」
「あなたも?」
驚いたリシュナの視線を受け、ヘリオスは気まずそうに髪を掻き上げた。
「……隠してるつもりはなかったんだ。でも、言ってしまえば多分何かしらぎくしゃくしてしまうんじゃないかって心配でさ……」
「何のこと?」
「さっきの話でも家を継がなきゃいけないとか言っていたんだけどさ……俺、レアード家の跡取りなんだ」
「……」
「あ、別に驚いてない?」
「驚くようなことなの?」
反対に問い返され、一瞬虚を突かれたようなヘリオスだったが、次の瞬間声を上げて笑い出した。
「いや、いいんだ。俺の取り越し苦労なら」
ヘリオスの反応に慌てたのはリシュナの方だ。
「お、驚かなきゃいけないことだったなら謝るわ! わたし、何も知らないから……」
「いいんだよ。いや、むしろリシュナが俺に教えてくれたんだ。やっぱり思い上がりは良くないって。ありがとう、気付かせてくれて」
くしゃりと髪を撫でられ、考え込もうとしていた思考が一時停止する。
「さあ、そろそろ戻ろうか。俺がずっとリシュナを独り占めするわけにはいかないし」
室内に足を向け、遠ざかっていくヘリオスの後ろ姿を見て、寂しいと思ったリシュナは自分の気持ちに戸惑った。それでもゆっくりと歩みを進める。
これから他の騎士たちと話をするとしても、もうリシュナの心は決まっているのだから。
プリマヴェーラ歓迎の祝宴から三日後に、太陽の騎士叙任式が行われることになった。プリマヴェーラとして正式に認定されるのは、初めて与えられた任務をやり遂げてからになるが、騎士は初めからプリマヴェーラに付き従う決まりになっている。そして、プリマヴェーラを救ったルキウスもこの式典で褒賞を与えられることになっていた。
「なあんだ。ルキウスやっぱりそういう色なんだ」
式典のために機能性より装飾性を優先した衣装を着たルキウスを見て、自身も華やかに着飾ったリシュナはどこか残念そうに感想をもらした。
これからまもなく式典が始まる。その前にルキウスの胸元を飾る花を自分で届けたくて、リシュナは彼の元までやってきたのだ。
「お気に召しませんか」
倒れた日から丸一日ほど経ってようやく目覚めたルキウスだが、今ではすっかり顔色も良くなっていた。何事もなかったかのように平然としている彼が倒れるまで何も言ってくれなかったことを未だに寂しく思いながらも、リシュナに自分の失態だと詫びるルキウスにそれ以上何も言えなくなってしまったのだった。
「そういうわけじゃないけど……意外性がないっていうか。でもなんとなくそんな予感はしたから赤い花を選んだの」
黒とまではいかないが濃紺のローブは銀糸に縁取られた細工がされているにしても華やかさに欠ける。
彼の胸元に赤い大輪の花を手ずから飾ると、リシュナは満足気に頷いた。
「うん、思った通り。ルキウスやっぱり赤が似合うわ」
「リシュナ様もよくお似合いですよ。ですが、それは指輪ですから首から下げるのでなく指にはめた方がよろしいかと」
いつになく彼が自分の容姿に関することに言及したので驚きかけたリシュナだが、はたと我に返った。
「ちゃんとこれが指輪だって認識はあるから安心して。でもこれはこれでいいの。わたしじゃなくてあの子が持つべき物だから……」
ヘリオスにもらった指輪はリシュナには重すぎた。リシュナも女の子なので、アクセサリーに胸をときめかせないはずがない。何度かはめてみようかと思ったが、どうしても出来なかった。これは親友のために贈られた指輪なのだから。
彼女の形見とも呼べるプリマヴェーラのペンダントの鎖に通しておけば、リシュナの気も少しばかり晴れた。
「ねえ、ルキウスはレアード家って言われてぴんとくる?」
指輪をもらった時のことを思い出し、ふとリシュナはルキウスに訊ねてみた。
「……では、リシュナ様の旧友の騎士殿はレアード家の関係者だったのですね。ならば彼が常若の騎士団に在籍していることも納得できます」
皆まで言わずともそこまで察したルキウスに驚きつつも、リシュナは少し付け加えた。
「うん、そうなんだけど。関係者っていうか跡継ぎだって言ってたわ」
「……それならそれでまた疑問も生まれますが」
「ねえみんなして何なの? わたしにも教えてよ」
今度は驚いて考え込んでしまったルキウスに、リシュナはたまらずそう問いかけた。
「レアード家は医師の名家です。王都でその名を知らない人はいないような。卓越した医術の腕を持ち、それは直系の男子にしか受け継がれないと聞いているので、そんな人が家業も継がず騎士団にいるのはどういうことかと思ったのです」
「え……」
エルナトやヘリオスが言っていた話と一致はするが、リシュナが思っていたよりずっと大きな話だった。
「えええー!?」
「彼は何も言ってなかったのですか」
「い、言ってたけど、わたしがわかってなかっただけみたい……」
そんな名のある家の出なら、田舎に住む少女に自分の出自を告げなかったのは理解できるが、告げられても理解できないとはさすがにヘリオスも思わなかったのだろう。
「実はとっても失礼なことをしたかも……」
「その時気付かなかった時点で相手も諦めているでしょうから、大丈夫ですよ」
「そんなの全然大丈夫じゃないじゃない! ……にしてもますます危ないわ!」
「またその話ですか」
やや呆れ気味にそう返され、リシュナも少しむきになった。リシュナにとってはかなり重大な問題なのだ。
「家柄も立派で、格好良くて、文句のつけようもない人に、あんな風に優しくされたら勘違いして好きになっちゃうわよ! だってわたしなんて手紙読んだだけで、うっかり恋しちゃいそうだったぐらいだもの!!」
リシュナの言い分を聞いていたルキウスは、ようやく真剣に聞いてくれたのか、じっと何かを考え込んでいた。
「……要するにリシュナ様はあの方を好きになっては困るとおっしゃりたいのですね」
リシュナは我が意を得たり、と勢いよく答えた。
「ええ、困るわ。困るなんてものじゃない! 前にも言った通り、わたし、あの人だけは好きになってはいけないもの」
「わかりました。でしたら、私を好きになってください」
「……え?」
思いもよらない返答が返ってきたため、リシュナは目を瞬いた。
「あなたは、二人の人間を同時に好きになれるほど器用な方とも思えませんので」
軽く馬鹿にされているのか、一途だと遠回しに誉められているのかわからない。
「え、えーと。でもそれって……」
「なにか、問題ですか?」
問題かどうかを問う以前の問題だと思う。
「言っている意味はわかるんだけど。その、意図がわからないというか……」
「ですから、同時に成り立たないのであれば、あなたの困りごとが解消すると思ったのです。私を好きになってください」
どうやら聞き間違いでなかったことは二度言ったことで明らかだが、ともすれば愛の告白にも聞こえるこの言葉をどう理解すればいいのか。彼はきっと大真面目に言っているのだろう。それは理解できる。しかしムードというものがまるでないことからも、これが愛の告白などではないことは明らかだった。
「あなたは、それで困らないの? わたし本当に惚れっぽいんだけど」
「より結構じゃありませんか」
ますますどう返していいかわからず、固まっていたリシュナに、ルキウスはいつものごとく冷静な言葉で締めくくった。
「では、そのようにお願いします」
大広間には既にたくさんの来賓が集まっていた。天井から吊り下げられたシャンデリアが彼らの身につけた装飾品を一層輝かせる。騎士たちは玉座の前に整列してその時を待っていた。
最後に入室したリシュナは赤い絨毯をゆっくりとした足取りで進み、王の前で敬意を示すと、その横に立って騎士や来賓の方を振り返った。
「これより、太陽の騎士の叙任式を行う」
ルティリクス王が立ち上がり厳かにそう告げると、常若の騎士たちはみな一斉に跪き頭を垂れた。
「プリマヴェーラ、リシュナ・フレールよ。自らの騎士の選定を」
王の呼びかけにより、リシュナは一歩前に進み出た。青い花を閉じ込めた胸元の琥珀と銀細工の指輪が触れ合い澄んだ音をたてる。それが合図であったかのように、リシュナはゆっくりと口を開いた。
「わたしが太陽の騎士に任命するのは……」
騎士を除く大勢の瞳に見つめられる中、小さな少女が決意を秘めた眼差しで、その名を告げた。
「ヘリオス・レアードです」
「はい」
呼ばれたヘリオスはすぐさま顔を上げた。その表情が自信と誇りに満ちていることは誰の目にも明らかだった。
常若の騎士たちの中で唯一立ち上がったヘリオスは、自らが護るべき主の前まで移動した。他の騎士たちも面を上げ、多くの観衆が見守る中、ヘリオスは恭しく頭を垂れ、リシュナの前に跪いた。
「プリマヴェーラの名において、あなたを太陽の騎士に任命します」
緊張の面持ちでそう告げたリシュナとは対照的に、ヘリオスはそれが当然であるかのように堂々としている。
「あなたにも花の精霊の加護を」
そばに控えていた従者から花を受け取ると、リシュナは面を上げたヘリオスの胸元に白い大輪の花を飾った。正装である若葉色の制服に落ち着いた彩りを添えるその花を誇らしげに見やってから、ヘリオスはリシュナの手を取るとその甲に口づけた。
「プリマヴェーラを護る騎士として、あなたに絶対の忠誠を誓いましょう」
二人だけの約束は、今ここに結実したのだった。