第二章 淡い芽生え 2
「狼に襲われたって聞いて心配していたんだ。無事で良かった。どこも怪我してないのか?」
突然の出来事に思考が停止し、固まっていたリシュナだが、その言葉でようやく我に返った。いや、初めから気付くべきだったのかもしれない。
「……ヘリオスなの?」
リシュナの問いに、彼はますます嬉しそうに顔をほころばせた。
「ああそうさ、君の親友ヘリオスだ」
「うそ……」
「嘘なんてつきようがないだろ?」
むしろ嘘であってほしかった。想像していたよりも最悪の出来事だった。
確か年齢は二十一歳。落ち着きと余裕を持ちながら、笑うと少年のような無邪気さが覗いて、他人に警戒心を与えない。金色の短い髪と涼やかな青緑色の瞳も人を惹きつける魅力に満ちている。それでいて凛とした中に精悍さが窺われる、実直そうな面立ちの美丈夫だった。
これでは本当にうっかり好きになってしまいそうだ。そんな彼が親しげに笑みを浮かべているという状況だけで舞い上がってしまいそうだというのに。
(きっとあの子と並べば、絵になったのでしょうね……)
そう考えただけで、罪の意識で胸が痛んだ。彼は信じているのだ。目の前にいるのが、彼が親しげに名を呼ぶ、旧知の友なのだと。
あまりに近すぎる距離にある青緑色の瞳に気づき、リシュナは慌てて相手の体を押し返した。ヘリオスはリシュナの気持ちを察したのか、あっさりと腕をほどいた。
「ごめん、君が無事だったことが嬉しくて……」
「う、ううん。わたしもこういうのに慣れてないから、どうしていいのかわからなくて」
あまり彼の顔を見てはならないと、リシュナは不自然に顔を背けてそう誤魔化した。
「どうしてわたしがここにいるってわかったの?」
「今日プリマヴェーラが来たことは知らされたから。でも部屋まで押しかけるわけにもいかないし。それに、君のいそうな場所なら想像がついたから」
「そう……」
ペンダントさえ確認すれば、誰がプリマヴェーラなのか一瞬でわかる。ルキウスが言ったように、ヘリオスは目の前のリシュナが手紙の差出人ではないなどと微塵も疑っていないようだった。
「それにしても、本当にこうやって会えるなんて……五年前は思いもしなかった」
「わたしだって……」
喉の奥に何かがつっかえているかのように、言葉が上手く出てこない。何を言っても、彼の前では嘘にしかならない。
二人にとって待ちに待ったはずの再会なのに、リシュナの表情が暗いことに気付くと、ヘリオスは心配げにもう一度リシュナに問いかけた。
「本当にどこも怪我してないのか? なんだか具合が悪そうだけど」
「大丈夫よ。怪我一つしてないわ。ルキウスが助けてくれたから」
「ああ、君たちを助けてくれた星術師がいたんだってね。その人にもお礼を言わないと。リシュナを助けてくれてありがとうって」
「う、うん……そうだわ、ルキウスってば具合が悪そうだったの。わたし、彼の様子を見てこなくちゃ。ごめんね、ヘリオス。また今度ゆっくり話しましょう」
「リシュナ!」
急いで駆け出そうとしたリシュナの腕をヘリオスが掴んだ。何かを請うように不安げに見つめてくる彼の視線にぶつかった瞬間、リシュナの心臓は大きく跳ねた。
「また、明日も会えるかな」
「う、うん……明日もここに来るわ」
「わかった。俺はたいてい左翼塔にいるから。常若の騎士団の詰め所になってるんだ。何かあれば訪ねてきてくれてかまわないから」
「うん、ありがとう!」
逃げるようにその場を後にしたリシュナを、ヘリオスはいつまでも見送っていた。
「危ない……想像以上に危ないわ!」
あてがわれた自室へと戻る最中、リシュナはうわごとのようにそう繰り返していた。
こちらの勝手な想像が外れて、せめて見た目くらいは冴えない人でいてほしかったのに、文句のつけようがないくらい見た目が良いと、恋愛経験の乏しいリシュナはそれだけで好きになってしまいそうだ。さらにあんな風に優しく、いかにも自分に好意を持っていますと言わんばかりにこられると、もはやリシュナには逃げることしか出来ない。
「ルキウス、大変だわ!」
勝手に彼の部屋に入り込むなり、リシュナは唯一の協力者である彼にすがった。
「……どうかなさいましたか」
いい加減リシュナの言動に慣れてきたルキウスは、視線を机の上の星辰図と渾天儀から外さずに、慌てることなくそう問い返した。
「さっきヘリオスに会ったんだけど……」
「まさかもうばれてしまったのですか?」
その名前が出るなり、ルキウスは一番の危惧を口にした。
「ううん、彼は全く疑ってなかった。気の毒なくらいに……」
「では、何も問題ではありません」
「そうかもしれないけど……」
彼が本気で取り合ってくれないことに、いささか水を差された形で、リシュナはそれ以上続けることが出来なかった。確かに彼に相談して解決する問題でもないような気がした。
「ね、それ何してるの?」
目の前の問題よりも好奇心の方が先に立ち、リシュナは机の上の不思議な模型に釘付けになった。
「渾天儀で天体の位置を測定しているのです。おおよその位置を割り出して、今の星相を肉眼でも確認しなくてはいけませんから」
「へえ、おもしろそう! 夜空を見るってことよね? わたしも一緒にやりたいわ」
「……おもしろいことではありませんよ」
「いいの。わたしはおもしろいと思うから。ね、いいでしょ?」
「まだ作業がありますから、観測するのは明日以降になります。それでよろしければ」
「もちろんよ、楽しみにしてるわ。……あ、でも具合は大丈夫? やっぱり顔色が悪いわ」
リシュナは心配そうにルキウスの顔を覗き込んだが、彼は避けるように顔を背けた。
「問題ありません。どうかお気になさらず」
そう言われてしまうと、それ以上何も言えなくなって、しぶしぶリシュナは頷いた。
次の日、昨日と同じ頃合いに花畑を訪れたリシュナだが、ヘリオスは既にそこで待っていた。リシュナに気付くと、彼は昨日と同じように温かい笑みを浮かべた。
「良かった。もう来てくれないんじゃないかと思った」
「そんなことあるわけないじゃない」
本当はリシュナ自身そうしたかったのだが、約束した手前破ることも出来ず、重い足取りでここに来たのだった。
ヘリオスに会うのが嫌なのではない。彼に会うことで罪悪感を覚えることが何よりも辛かった。何も知らない彼の前では、彼が望んでいるリシュナを演じなければならないとわかっているのに、笑顔を向けられるたびに、苦しくなって逃げ出したくなるのだ。
「……俺は本当にリシュナに会えるのを楽しみにしてたんだ。君がくれた最後の手紙を何度も読み返して、早く冬になればいいと願ってた」
言葉には切実さが込められていた。彼の思いを感じるからこそ、リシュナは無責任に彼を喜ばせることなど出来ないと感じていた。
「わたしだって、ずっとあなたに会いたかった……」
それは本心だった。リシュナになる前の自分の。親友の手紙を見せてもらうたびに、どんな人なのかと思いを馳せた。けれどこうなってしまった以上、会ってはならなかったのだと思う。自分は彼に会う資格がないのだと。
「会わなければ良かったって今は思ってる?」
ヘリオスの澄んだ青緑色の瞳が今日は翳っていた。リシュナは彼の知るリシュナとして最低限不自然でない対応を繰り返すしか出来ない。
「そんなわけないじゃない」
「じゃあ、どうして。俺には君が喜んでいるようには見えない……」
リシュナはすぐに応えられなかった。違うと呟いても、その言葉もこの現実も全てが嘘なのだから。
「正直に言ってくれた方がいい。君は俺に会ってがっかりしたんだろ。俺の顔を見るのも嫌そうだし……」
その言葉にリシュナは弾かれたように顔を上げた。彼は本気でそんな風に思っているというのだろうか。だとしたら何もわかっていないことに憤りすら感じる。そう思うと、後先のことなど考えられず、反射的に口が動いていた。
「そうじゃないわ! あなた、自分がどれだけ素敵かわかってないの? むしろあなたがわたしを見てがっかりしてくれた方が良かったのに! わたしみたいな田舎娘があなたみたいな人と平然と並んでいられると思うほど、自分に自信なんてないもの。それなのに、あなたはとっても優しくしてくれるから……もうどうしていいかわからないの!」
言いたいことを言ってしまえばすっきりはしたが、目の前のヘリオスは呆気にとられたようにリシュナを見つめるばかりで動こうとしない。リシュナらしくない発言だったかと心配になるが、何がリシュナらしいのかもう自分でもわからない。けれど、彼女が生きていれば、きっと彼を好ましく思ってしまうのはおそらく一緒だろう。
「……なんだ」
ヘリオスは地面に視線を落とすとぼんやりとした声で呟いた。
「嫌われてたわけじゃなかったんだ」
つと視線を上げて見つめてきた上に、近づいてきたものだから、リシュナは身体を緊張させた。また抱きしめられるのではないかと身構えていると、それを察したのか、ヘリオスは腕を伸ばしてリシュナの髪に触れるにとどめた。
「良かった……」
青緑色の瞳が心から安堵したように細められ、そこに潜む熱い想いとともに見つめられると、胸の鼓動が早鐘を打ち始める。視線をそらすことも出来ないまま、リシュナは彼の大きな手が頭を撫でてくれる心地よさに時を忘れた。
「でも、リシュナは充分可愛いよ。外見だけじゃなく」
「そういうことをさらりと言うあなたに、とても距離を感じるんだけど……」
「……難しいな」
少しの間の後、二人は同時に笑った。悩んでいても仕方ないのだとリシュナはどこかで吹っ切れた。今はただ、自分がリシュナであることに責任を持たなければならないのだ。
思いがけない形で距離が縮んでしまったことに気付き、そっとヘリオスの顔を盗み見る。彼が見ているのは自分ではなく、彼の親友のリシュナなのだ。そう自分に言い聞かせると、少しだけ胸が痛んだ。
「ねえ、ルキウス。荷物はこれだけでいいの?」
夕食後、頼んでいた天体観測に同行するべく、リシュナはルキウスが用意していた観測器や記録用の紙をまとめた鞄を指し示して問うた。
「はい、私が持っていきますので置いておいてください」
「これぐらい持つよ。ルキウスなんだか最近疲れてない?」
明らかに顔色が悪い彼を心配して、リシュナは遠慮がちに問いかけた。
「月の影響を受けるものですから、新月の日の前後はどうしても体調が思わしくないのです。けれど、実生活に影響が出るほどではありません」
「そっか、今日は新月なのね」
窓から外を見やると、確かに月明かりのない夜空は薄暗く生気がない。
「星術師はみんなそうなの? それともルキウスが特別なの?」
「私が特に影響を受けやすい体質なのです」
その言葉に潜む意味に、その時のリシュナは全く気付かなかった。
トランダフィル城は思いの外広く、敷地の内部には花畑はもちろん立派な樹木が植わっていて、小さな森を形成していた。木々の葉は赤や黄色に色づき、半分ほどは地面に落ち、土に還ろうとしている。
ルキウスは視界を遮るものがない場所を選び出すと、渾天儀をはじめ、観測に必要なものを取り出した。新月のため辺りは暗く、リシュナは手にしたカンテラをルキウスの方に差し出して作業を助けた。
「これで何がわかるの?」
「天体や星々は人の運命や時代の流れを司っているのです。あらかじめそれを知ることにより、災厄を未然に防くことも出来るのです」
「初めからわかっていれば、あの子が命を落とすこともなかったかもしれないのね……」
リシュナは空を見上げ、ぽつりとそう呟いた。プリマヴェーラになるのが運命だとしたら、彼女が亡くなることもまた運命だったのだろうか。だったら、プリマヴェーラにならずに生きていてくれれば良かったのにと思わずにはいられない。
「星魔術は万能ではありませんから……」
「そうよね、ごめん。別に責めてるわけじゃないのよ。わたしはルキウスに感謝してるんだから」
明るくそう返したリシュナだが、当のルキウスはこちらに背を向け、肩を落としたようにうなだれて立ち竦んでいた。
「それは本当よ。もう、そんなに落ち込まないでよ」
リシュナが肩に触れた瞬間、ルキウスは突然その場にくずおれ、膝を突いた。
「ど、どうしたの?」
苦しそうに胸を押さえ、何かに耐えているルキウスを見ても、どうしていいのかわからないリシュナは、おろおろと彼の肩を支えることしか出来ない。
「……大丈夫です。じきに治まりますから」
荒い息を繰り返し、切れ切れにそう呟いてはいるが、額には汗が浮かびはじめ、明らかに尋常な様子ではなかった。
「全然大丈夫じゃないわよ! ねえ、どうしたらいいの? ねえ、ルキウス!」
既に自力で身体を支えられなくなったルキウスは、ついに意識をも手放した。リシュナは何度も彼の名を呼び、身体を揺すったが、返答はなかった。ただ、浅いながらも呼吸だけは確かなことがせめてもの救いだった。
どうすればいいのかわからない。でも、彼を助けなくてはいけない。
その思いだけを胸に、リシュナは一人、月明かりのない夜空の下を全速力で駆けだしていた。
──真っ直ぐに、左翼塔を目指して。
トランダフィル城の正面左手にある左翼塔に行くのは初めてだったが、リシュナはすぐにその場所がわかった。常緑の葉を象ったレリーフが掲げられているから、ここで間違いはないのだろう。リシュナは無我夢中で分厚い扉を叩いていた。
「すみません! 開けてください! お願いがあるんです!」
すぐに扉は開かれ、夜分に一人で訪れた少女を何事かと不思議そうに見つめる複数の瞳と出会う。皆、若い騎士たちだった。
「ヘリオスはいますか? 彼に会いたいんです!」
騎士たちは顔を見合わせ、そして誰かが小さく呟いた。プリマヴェーラだ、と。
その瞬間、騎士たちの目が一斉に自分に注がれた。値踏みするように見下ろされ、恐ろしくなり、一歩後ろへ下がる。確かに彼らに会うのは初めてだが、ここまで自分が注目される存在だと思いもしなかった。
「リシュナ?」
逃げ出したい衝動に駆られた時、ようやく聞き覚えのある声がした。奥の階段から騒ぎを聞きつけたのか、降りてくるヘリオスの姿が見えた。
「ヘリオス!」
彼の姿を目にするなり、リシュナは必死の思いですがりついた。
「こんな夜遅くにどうかしたのか?」
「ルキウスが大変なの! お願い、彼を助けて!」
「星術師の人? 助けるって……」
「お願い、一緒に来て!」
説明するのももどかしく、リシュナはヘリオスの腕を掴むと、もと来た道を全速力で戻っていった。
やっとの思いでルキウスが倒れている場所までヘリオスを案内すると、まずリシュナはルキウスの様子を確かめた。額に汗を浮かべた苦しそうな表情のままなのは変わらないが、きちんと息はしている。
「こんなに若い星術師だったなんて……」
ヘリオスはルキウスを一目見るなりそう呟いた。けれど驚いていたのはほんの一瞬で、すぐさま彼は動き出した。
「意識はないみたいだけど、一体何があったんだ?」
「わたしにもよくわからないんだけど……突然胸を押さえて苦しがって……」
ヘリオスは落ち着いた動作でルキウスの腕を取ると手首に自分の指を当てた。
「呼吸も脈もあるから、ひとまず最悪の状態ではないけど……毒物の影響か、はたまた心臓の病だとすると一刻を争うかもしれない。彼に持病があったとかは聞いてる?」
冷静そのもののヘリオスの問いかけに、リシュナは一瞬ぽかんとしたが、すぐに我に返ると首を横に振った。
「わたしはルキウスのこと、何も知らないの……でも、病気とかじゃないと思う。新月の夜は体調が悪くなるって言ってたから。多分、そのせいで……」
倒れる直前にルキウスが言っていた言葉を思い返して、リシュナは頷いた。少なくとも、ルキウスにとっては予測できていた事態のようだった。
「どういうこと?」
「ええと、星術師は星の影響を強く受けて、ルキウスの場合は月だそうなの。それで……」
「ああ、魔術師特有のあれか。だったら俺がこの場で出来ることは何もない。急いで救護室に運ぼう」
ヘリオスはそう呟くと、倒れているルキウスを抱え上げた。




