【07】-3
どさっと、背後で何か重たいものが倒れた音がしたけど、そんなことを気にしている余裕はこれっぽっちもなかった。
俺は無意識に息すら止めていた。痛みに備え目をきつく瞑ったまま、一秒、二秒、三秒……。
だけど、そうやってかちこちになって身構える俺を襲ったのは、いわゆる激痛と呼ばれる類の感覚ではなく。なんていうか、至極普通の感覚。例えばアイススケートをしているとき、手を掴まれて引っ張られたら足を動かさないでも体が前に進み出るみたいに、掴まれて引っ張られていれば(この場合、掴まれているのは手ではなく頭だけど)、極当たり前に感じる感覚だった。
「え」
「へ?」
フィーの戸惑ったような短い声に、しつこく目を瞑ったまま、俺も短い間抜けな声を返す。
どうしたんだろうか。頭を引っ張られたことで体がやや前のめりになっていることは分かるけど、それ以上引っ張られる感覚はないし、激痛とやらの気配もない。それでも五秒くらいは待ってみたけど、やっぱり何も変化がない。俺はちょっと悩んでから、恐る恐る、きつく瞑っていた目を開けてみた。
そこにあるのは、目を瞑る前と何ら変わらない光景だった。俺の頭を片手で掴んでいるフィー。その左向こうには、胡坐をかいて座っているシシィ。右隣には、口元から小さな赤い舌を覗かせて座っている小さなチワワのゴロウさん。みんなそれぞれ、俺を凝視している。それぞれ何故か、呆気に取られたような妙な顔で。
「? なに? ダメだったの?」
みんなのその顔つきから、失敗したのだと思った。実際、痛みも感じなかったし、どこも何も変わった感覚がない。理由は分からないけど、きっと肉体と魂を切り離せなかったに違いない。
だけど、俺がその思考にたどり着いたのとほぼ同時に、フィーが、はっと我に返ったようにいきなり態度を変えた。
「真生、大丈夫か!?」
「え。うん、大丈夫だけど? てか、痛くも何ともなかったし」
ついさっきまで、それこそ魂が抜けたみたいにぽかんとしていたくせに、急に目つきも口調も険しくして早口で捲し立てるフィーに、今度は反対に俺が呆気に取られながらも、素直に答える。
そして、それより出来なかったの? と、続けて尋ねようとした時だった。
さっきと同じ調子でフィーが、声を張り上げた。
「聞こえるか!? 聞こえておるなら、首でも手でもどこでも良いから動かせ! 大きく!」
「は?」
「大丈夫なら、動け! 我らの耳には魂の声は届かぬ、聞こえておるなら、何かしてみせよ!」
「魂の声…?」
切羽詰まったように眉を吊り上げて殆ど怒鳴るように言うフィーを目に、思いっきり眉間に皺を寄せた。だけど、それも数秒。
はっと、俺は状況を理解すると同時に、ばっと勢いよく両手を胸の高さまで上げ、まじまじとそれを見やった。
見る限り、何の変化もない。見慣れた自分の手。黒子の位置は勿論、指輪もいつもどおり指に嵌っている。だけど。
フィー達には魂の声は聞こえない。声だけじゃなく、姿も見えない。形が分かるだけだ。由希ちゃんのことがあった時に、フィーは確かにそう言っていた。そして今、どうやら少なくともフィーには、俺の声が聞こえていない。
ということは。今、俺は。
痛みなんて微かにもなかったし、手とか足とか、いくら見回してもどこもおかしなところはないけども、だけど。
「俺、今、魂だけなの……?」
たどり着いたその可能性に、半信半疑の複雑な気持ちのまま、手を握ったり開いたりしてみる。
一方フィーは、俺のその行動を見て少し落ち着いたらしく、ふうっと肩の力を抜くように息を漏らした。
「お主は、ほんにもう……。何故いつもそう型破りなことを唐突にしてくれるのだ。寿命が千年縮まったぞ、今ので」
何故か文句口調でぼやくフィーに続いて、シシィも気を取り直したらしく、心底愉快そうな目と声を向けてくる。
「やっぱ面白いな、こいつ! こんな、つるんって何の弊害もなく簡単に出てくるやつなんて初めて見たよ! いいな~いいな~! オレも、つるんって出して遊びたい!」
よく分からないけど、どうも俺は、つるんって出てくることでフィーをびびらせて、逆にシシィを面白がらせたらしい。というか、つるんって出てくるって、俺はプリンか。
「私は、遊びで出したのではない」
目を爛々とさせるシシィにすげなくそう言って返しながら、フィーが俺の後ろへと移動する。
何となくその動きを目で追って背後を振り返った俺は、一瞬目を点にして、次の瞬間、思わず大声を出していた。
「ぅおっ!!」
俺がいた。
正確に言うなら、俺の体が、俺の背後でぶっ倒れていた。仰向けの状態で、手足を投げ出して。
そういえば、何か重たいものが倒れるような音がした。あれは魂が抜けた体が倒れる音だったのか。
一人盛大に驚く俺には構わず、フィーは俺の体の横に座ると俺の頭を抱き起こし、膝枕の要領で自分の足の上にそれを乗せた。その周囲でアオ達も、それぞれ「ご主人様」と呟きながら、俺の体の方の顔を覗きこむようにしてぐるぐる回りだす。
俺は驚きも冷めやらぬまま、言葉もなく自分の姿に見入っていた。よく、幽体離脱体験集なんかで寝ている自分を上から見るっていうのを聞くけど、それは間違いなく、この状況のことなんだろう。自分なのだから見慣れているはずなのに、こうして見ていると自分じゃないみたいだ。俺の耳ってあんな形なのかと、つい、しげしげと自分観察をしてしまう。
と、不意にフィーが体のほうではなく、こっちの俺に顔を向けた。
「真生」
「ん?」
こっちの声が聞こえないことを忘れて、普通に返事をしてしまった。フィーは何も気にせず、続けて口を動かす。
「聞こえておるな? 己の左手を見てみよ。指輪らしき何かはあるか? 黒い泥のようなものとか、何か、そこに見えるか?」
指輪らしき何かどころか、指輪そのものがそのまま嵌っていることはもう確認済みだ。それを伝えるべく、大きく首を縦に振って返す。フィーは安堵しように、少しだけ笑った。
「そうか、やはりお主に憑いておるのだな」
そう言ったフィーが視線を落として、俺は初めて、体のほうの俺の指にも指輪が嵌っていることに気づいた。
俺が今、ある意味二つに分裂しているのと同じように、指輪も二つに分裂していると思っていいのだろうか。その場合フィーの魂は、魂自体が分裂しているということなのか……?
なんだかややこしくてよく分からない。訊きたいけど、こっちからは質問出来ないし、どうしようもない。
会話が自由に出来ないのはやっぱり不便だと思いつつ、体の方に嵌っている指輪と、こっちの指輪を見比べていると、視界の隅でゴロウさんが動くのが見えた。
「さあて。準備が良ければ、そろそろ行こうか。あまり長く肉体を放置もできぬしのう」
ぶるる、と、小さな体を大きく震わしてゴロウさんが言う。すかさず、シシィが顔を輝かせた。
「オレ、手伝ってやろうか?」
「ほっほ。勘弁してくだされ。風伯殿の手で引き裂かれたら、肉体どころか魂までちぎれておしまいじゃ」
「シシィ。要らぬ世話は焼くな。誘い、早うせよ。そなたの肉体は、主の肉体と共に私が預かる。早う連れて行って早う連れて戻ってまいれ」
申し付けるようにきっぱりとフィーが言い、ゴロウさんが朗らかに笑いつつ深々と頭を下げる。
「ありがたや。では、お言葉に甘えるとするかのう」
そして、そう言った直後。ゴロウさんの背中辺りから、にょきっと何か明るい光みたいなものが生えた。
思わずぎょっとして、腰を引いてしまう。
それはまるで、セミの羽化を見ているようだった。速度は全く違うけど、セミが羽化する時みたいに、ゴロウさんは背中から背を丸めて出てきた。柔らかな明るい光と一緒に。
ぼてっと、俺の時とは比べ物にならない軽い音が響いて、ゴロウさんの体、つまりチワワが横に倒れる。
俺は、瞬きするのも忘れていた。胸が震えるような、それでいてぼうっとした一種の恍惚状態で、ひたすら見惚れていた。チワワから出てきたその人のその姿に。
あまりに不躾すぎたのだろう、俺の視線にその人が気づいて、にこりと微笑む。途端、俺は緊張のあまり動けなくなった。
それを知ってか知らずか、その人が浮かべた微笑みもそのままに、こっちへと近寄ってくる。俺はますます緊張して萎縮してしまう。圧倒的な存在感もさながら、そのすべてから感じ取れる強大なパワーみたいなものに気圧されて、膝がかくかく震え出す。
神様だ。
神様、なんだ。
これが、本当の。
俺は完全に竦み上がっていた。知らないうちに跪いてまでいた。声なんて出せるはずもない。
そんな俺を変わらず微笑み見ながら、その人は徐に手を伸ばすと、立たせるように俺の腕を掴んだ。その口が優しげに開く。
「貴殿はまこと、人として育てられたのじゃなあ」
その瞬間不思議なことに、震えあがるほど感じていた畏怖が一気に消え去った。代わりに俺を包んだのは、温かいお湯に全身浸かったような、なんとも心地いい安心感。
支えてもらい立ち上がりながら、改めて俺はしっかりとその人を見た。
すっと細く涼しげな朱い目。きりっとした印象の口元。柔らかな明るい光で縁どられたその体はがっしりと逞しく、真っ直ぐの長い黒髪がその背で静かに揺れている。
更によく見れば、目が白目まで全部朱いことに気がついた。でも全然怖くない。むしろ、ものすごく綺麗だ。いや、綺麗っていうより、美しいって言葉の方が似合う。俺がこれまでの人生で見た誰よりも、細部まで完璧に美しい男の人。
「ゴ、ゴロウさん、ですか?」
「いかにも」
思いっきり声が上擦ってしまった俺の問いかけに、その人、ゴロウさんが細い目を更に細めて頷く。そしてそのまま、俺の腕を掴んだまま、続けて言った。
「いざ共に参ろうぞ。偉大なる父母の寵児よ」




