【03】-4
「よっしゃー! じゃあ、探そうぜ! って、何探すの?」
やっと玄関から居間に到着した孝が、入ってくるなり能天気な声を響かせた。その声に気を取り直して、台所から答えを返す。
「それがさ。俺も見たことないんだけど、古い櫛があるらしくて」
言いながら、茶湯器を洗うべく、蛇口を捻る。この季節の水道水は、冬のように冷たくもなければ、真夏のように熱くもなく、何となく柔らかく感じる。手を濡らす水の柔らかさに、苛立ちで尖った感情が、ゆるゆると解れて溶けていくような気がした。
「櫛?」
「うん」
不思議そうな声で聞き返してくる孝に、言葉で頷きつつ、薬缶に水を入れる。
「ちょっとその前に俺、仏壇の世話済ませるから、先に二階行ってて。階段上がって、右の部屋」
「おっけーい」
軽い返事と共に孝が再び廊下へと出て行くのが、床の軋む音で伝わった。その軋む音が階段を上る音に変わって、それを追いかけるように、フィーの声が続く。
「ねー、孝お兄ちゃん。この前話してた漫画なんだけど……」
遠ざかっていく足音と声を耳に、俺は薬缶をコンロにかけ、火を点けた。ぼっと音がして、青い小さな炎が揺らぐのをちょっと眺めてから、急須の準備をする。
二階から聞こえてくる話し声とは逆に、俺しかいない一階は静かで、少し足の位置を変えただけで、ぎしぎし軋む床の音がやたら耳につく。ここに住んでいた時はあまり気にならなかった…、というか、正直気にかけてもいなかったのだけど、別の場所で生活するようになって初めて、この家が相当古いことを思い知らされた。トイレは今時なかなか見ないタイル張りの和式だし、風呂場の窓なんて、老朽しすぎて開け方によっては閉まらなくなるし。そういえば、築何年になるのだろう。店舗のほうはシャッター取り付けとか、ガラス替えとか、部分部分でリフォームしてきているけど、住居のほうは、俺が知っている限り全く手が入っていない。耐震性とか、大丈夫なんだろうか。皐月さんが帰ってきたら尋ねることリストの、二十番目くらいに付け加えておこう。
そんなことを考えつつ、沸いたお湯でお茶を淹れ、水と一緒に仏間に運んだ。
前に掃除してから、正確にはまだ一週間も経っていないというのに、既にうっすらと積もっている仏壇上の埃を払い、軽く掃除をしてから、定位置にお茶と水をお供えして、線香に火を点ける。目の先にあるのは、見慣れた写真。遺影と呼ばれるその写真の中で笑う両親の顔を少し見つめてから、鈴を鳴らし、手を合わせた。
目を閉じ口を閉じ、そこにいる二人に語りかける内容は、大体いつもと同じこと。皐月さんのことや、俺のこと、フィーのこと、レネのこと。それに加え今週は、ゴロウさんのことや、櫛のことも報告する。
と、ふっと、空気が微かに揺れた感覚が頬に伝わった。多分、目を開けて普通にしてたら、気づかなかったに違いない。その本当に微かな空気の動きが意味するものは、ひとつだ。
「……やっぱ来たか」
「お前、男親に似てきたな」
半目で振り返りながら放った言葉とほぼ同時に、背後から、もはや聞き慣れた声が飛んできた。窓を背にしたその顔は、逆光ではっきりは見えないものの、派手なオレンジの髪をしたやつなんて他に知らない。
はずなのに。
「何だあ、その嫌そうな顔。わざわざオレ様が、自ら様子見に来てやったっていうのにさあ」
その責めるような声の調子。逆光で照らし出されたその輪郭。薄暗い部屋の中、座ったまま振り返って見上げる派手なオレンジ色。その背後に見える部屋の様子。
思わず固まった俺を前に、シシィも一瞬、怪訝な顔つきで止まる。
「なんだよ?」
「……や。なんか、こういうの前もあったっけ?」
訊きながら俺自身も、怪訝さに首を捻った。
この家で、シシィに会うのは初めてのはずだ。いや、初めてだ。シシィはいつも、アパートにいる時しか現れない。なのに、何故だろう。この場所で、この構図で、今みたいに振り返ってシシィを見上げた記憶がある………、ような気がする。そんなことがあるわけないのに。他の誰かとシシィを混同しているのだろうか。いやでも、こんなオレンジ色の髪の人なんて、他にいない。でも確かに、俺はいつか、ここにこんなふうに座って、オレンジ色の髪をした人を、今みたいに逆光の中で振り返って――――……。これが、デジャヴってやつだろうか。
「何言ってんだ、お前?」
器用に左右の眉を上下ばらばらに歪め、俺を見ながら、シシィがふわりと宙で胡坐を掻く。その行動を目の当たりにして俺は、微妙に納得がいかない、あやふやな感覚を抱えたまま、否が応でも頭を切り替えなくてはならなかった。シシィに面と向かう形で座り直し、口を開く。
「あのな、シシィ。今日は俺の友達が来てんだよ。頼むから……」
「うん、知ってる。お前じゃない人の子の匂いがするもん。ついでに何か、甘ーい匂いもする。銀の姫、また羊羹食べてんの? 大概好きだな、あいつも」
俺の話を邪気なく笑って遮って、オレも貰って来よーっと。と、早速フィーのところへ、いつものごとく飛んで行こうとするシシィの足を掴んで止める。
「お願いだから俺の話聞いて。つうか、他の人がいるの知ってるなら、飛ぶな。歩け」
「なんで?」
「なんでって…」
常識で考えろ。と、声を荒げたくなるも、こっちの常識が、シシィ達には通じないことくらい、もう俺にも分かっている。どう説得しようかと、一瞬口篭ったその時、階段の上から孝の声が届いた。
「真生ー? 誰と喋ってんのー?」
「えっ、いやっ、」
「誰か、お客さん?」
声と一緒に、とんとんとんと、階段を降りてくる音が仏間に響く。やばいやばいやばい。まだ全然、二人を対面させる下準備が出来ていないのに。
焦りに内心冷や汗だらだらになりつつ、咄嗟にシシィを畳の上に無理やり引きずり下ろす。その無理強いに、不満顔で抵抗するシシィの肩を力ずくで押さえつけて座らせながら、シシィが十五歳くらいの華奢な少年で良かったと心底思った。これでシシィが筋肉隆々の大男とかだったら、力でも勝てない。押さえつける前に俺が伸されてしまう。
「あれ? 誰、その子?」
間を置かず、居間から顔を出した孝が俺の横のシシィを見、当然の問いを投げかけてくる。
「あー、えーと、この子は、その、あれ。あの、俺の…、いや、えっと、」
焦りのあまり、何と紹介すべきか、一番無理がない説明が思い浮かばない。
しつこく抵抗するシシィを力技でなんとか押さえつけながら、歯切れの悪い言葉しか出てこない口をぱくぱくさせていると、孝の後ろから、ひょこっとフィーが顔を出した。
「私の幼馴染なの。私が日本に来たもんだから、追いかけて来ちゃったのよ。ねっ、シシィ?」
言いながら、孝の横を通り抜け、フィーがシシィを見下ろす。まさに天の助けだ。俺の言うことは聞かなくても、フィーなら、シシィは大体大人しく言うことを聞く。
「そ、そうなんだよ。なっ、シシィ?」
味方を得てほっとし、畳み掛けるように言えば、シシィはじっとフィーを見た後で、浮き上がろうとする抵抗をやめた。まるで何かそこで会話がなされているかのように、緑の目を一直線にフィーへと向けたまま、動かない。と、思ったらすぐ、うざったそうに肩から俺の腕を振り落として、不服そうに口を開いた。
「幼馴染、ねえ。まあ、銀の姫がいうなら、そういうことにしてもいいけど」
「銀の姫?」
きょとんとする孝に、フィーがすかさず、にっこりと笑って答える。
「私のあだ名なの。お姫様みたいに美人だから」
「へえ」
納得して頷く孝を目に、その説明で納得するんかいと内心突っ込みつつも、俺はひとまず、胸を撫で下ろした。いや本当、孝が能天気馬鹿…、もとい、素直な性格で良かった。後は、隙を見つけてフィーからシシィに、飛んだり消えたり風を起こしたり、とにかく人間離れした行動をしないよう強く言ってもらえば、数時間くらいは何とか誤魔化せるだろう。
多少安心して肩の力を抜いた俺を余所に、孝が明るくシシィに笑いかける。
「よろしくね、シシィくん。俺、真生の友達で、たか……」
だけど、その明るい自己紹介は、ふてぶてしいほどにでかいシシィの溜息で掻き消された。
「まっ、仕方ないか。銀の姫に免じて、シシィって呼ぶのは許してやるよ。人の子二号」
「…は?」
笑い顔のまま、ぽかんとする孝を軽く無視して、ひょいと、シシィが立ち上がる。
「で、何食ってるの、銀の姫。オレにもちょうだい、それ」
そのまま、孝にも俺にも目もくれず、フィーの手にある缶を指差すシシィに、フィーが澄ました顔で言って返す。
「食べているんじゃなくて、飲んでいたのよ」
「何その喋り方。似合わなすぎて、怖いんだけど。何もそこまでしなくていいじゃん。お前は充分、人の子寄りなんだしさあ。まあいいや。それ、一口ちょうだい。……って、何だよ。空っぽじゃんか」
「だから、飲んで『いた』と言ったでしょ。人の話は、最後までちゃんとよく聞きなさい。怒るわよ?」
「ちぇっ。おい、人の子一号。オレの分は? オレも飲みたいー。銀の姫ばっかりずるいー。オレにも何かちょうだいよー」
不満げに口を尖らせて、シシィが駄々をこねる子供のように、俺に纏わり付く。そんなシシィを目に孝は、ぽかんと口を開けたまま、呆気に取られて突っ立っている。
「ねー、ねー、ねーってば。聞いてんのかよ、おい? 人の子一号? お前に言ってんだぞ、こら。人の振りしてやっから、オレにも何か寄越せよ」
俺の視界に入ろうと纏わり付くシシィから顔を背けつつ、俺はもう、殆ど引き攣り笑いの苦笑いを浮かべるしかなかった。
「……ごめん。ちょっと、変わってんだ、こいつ………」




