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精霊奇譚  作者: のっこ
~ 2、青人草の章 ~
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【01】-4


 どことなく、にこやかに告げられたその言葉に、自ずと眉根が寄った。フィーはそれ以上何も言わず、百聞は一見に如かずと言わんばかりに、俺の背を押す。

 もしかして、皐月さんが帰ってきて会いに来てくれたとか。促されるままに階段を上りながら、一瞬頭に浮かんだそんな期待は、残念ながら通路の奥、俺の部屋の玄関前に座る小さな影を見とめた瞬間に消え失せた。代わりに頭を埋め尽くしたのは、純粋な驚き。

「えっ」

 思わず、目を丸くして声をあげた。その声に反応したのか、それともその前から足音で察知していたのか、それは顔をこっちに向けて、俺を見ていた。

 その黒い円らな瞳。麻呂眉のような柄のある愛嬌のある顔。ふさふさとした尻尾。片手でらくらく持ち上げられるだろう、小さな体。ぴんと立った大きな耳。チワワだ。犬の。よくペットで飼われている、毛が長いタイプのチワワ。

「どうした、お前。迷子か?」

 驚きも覚めやらぬまま、近寄りつつ声を掛ける。首輪はしていないけど、俺を怖がる様子はないし、黒い毛並みも艶があって綺麗だ。間違いなく飼い犬だろう。一応ペット禁止のアパートだけど、もしかしたら、どこかの部屋の人がこっそり飼っているのかもしれない。

「どこの家の子だ? 勝手に出てきちゃダメだろ。飼い主さん、心配するぞ」

 犬相手に言っても仕方ないことを口にしながら、目線を合わせるように膝を折って屈みこむ。当のチワワは逃げるでも吼えるでもなく、はっはっと口で息をしながら、じっと俺を見上げていた。無垢というに相応しい、その大きな潤んだ瞳に自然と目尻が下がる。 きっとこの子もこの子なりに、帰れなくて困っているのだろう。どうして出てきてしまったのか知らないけど、アパートの玄関なんてみんな同じ形だし、どこが自分の家か分からなくなったのかもしれない。

 そっと手を出すと、匂いを嗅ぐように少しだけ顔を近づけてきた。どうしようか一瞬迷ったものの、このまま知らん顔して放っておくわけにもいかない。俺の部屋の前にいたってことはきっと、この階の人が飼っているのだろうし、玄関に『チワワ、預かってます』と、張り紙でもしておけば、そのうち気づいて迎えに来るはずだ。

「しょうがない。俺んちで、飼い主さんが迎えに来るの待つか?」

 言って、安心していいよという思いを込めてチワワの小さな頭を撫でた、ちょうどその時。

「お前さんが、城戸の現当主の甥かね?」

 いかにも小型犬らしい甲高い声で、でも流暢に、チワワが喋った。

 円らなその瞳と真っ直ぐに目を合わせたまま、一瞬にして固まったのは言うまでもない。大袈裟でも何でもなく、本当に、全宇宙の時間が止まったような、そんな気がした。

「………フィー…。俺、やばいかもしれない」

 かろうじて動かせる頬の筋肉を総動員して、引きつりながらも何とか、背後のフィーにそれだけ言う。

 どうも、自分が思っている以上に、不安やら心配やらその他諸々で、心が疲れてしまっているらしい。犬が喋るなんて、これはもう、病院とかのお世話にならなきゃいけないレベルじゃないだろうか。

「お前さん、城戸の血筋の者じゃろう? あれの匂いがする」

 無理やりでも空耳だと思い込みたかった俺の淡い願いをぶち壊して、目の前でチワワがまた口を動かす。

 認めたくないけど、認めざるを得ない。喋っている。間違いなく、喋っている。チワワが。やや首を傾げて俺を見ながら、人間の言葉で流暢に喋っている。チワワが。

 叶うことなら、今すぐ白目を剥いて倒れたい気分だった。崩壊寸前の思考回路を持ち堪えるのでいっぱいいっぱいで、何の反応も返せない。

 石化する俺と、無反応の俺にどんどん首を傾げるチワワ。その両方を立ったまま黙って見下ろしていたフィーが、やれやれとでも言うように大きく息を吐いて、俺を庇うように横に進み出た。

「すまぬな。こやつは鈍いくせに、極度の怖がりなのだ」

 チワワに向かって言いながら、「こやつ」のところで、フィーはこつんと俺の頭を叩いた。その軽い衝撃で、石のように固まっていた頭と体が少しだけ、柔らかさを取り戻す。

「で、我が主に何用だ? 誘い(いざない)の神よ」

 なんだか、とんでもない単語が聞こえた気がしたけど、口を挟む余裕はない。知り合いなのか、立ったままのフィーにチワワは目一杯首を上げて顔を向けながら、嬉しそうな声を返した。

「久しいのう、罔象三姫みつはのさんひめ。かようなところでまたお会いできるとは、思いもせんかった。いやはや、道理で辺り一帯の気が清浄なはずじゃ」

「驚いたのは、こちらだ。七代の者らは、もう久しく現れぬと聞いておったが?」

「なあに、現れてもこの姿じゃ。誰も気づかんだけじゃよ」

「戯れ言を。そなたほどの古御神が。気づかれぬように、わざと神気を消しておるのだろう」

 やっぱり、知り合いらしい。そうやって二人が朗らかに言葉を交わしている間に何とか思考回路は回復したものの、今度は、時折フィーの口から出るとんでもない単語に、どんどん血の気が引いていく。誘いの神。古御神。神気。整理して考えなくても、目の前のチワワが、いや、チワワ様が、とんでもなく恐れ多い存在だということは、俺の出来の悪い頭でも容易に推察出来てしまう。

「……あの、フィー…さん? こちら様は、その、どちら様で……?」

 引きつる口元を叱咤しつつ、恐る恐る口を挟む。フィーは途端畏まる俺にちらりと視線を寄越すと、呆れたように肩を竦めて、チワワ様に向かって顎で俺を指した。それを受けて、チワワ様が円らな瞳を再び俺に向ける。

「お初にお目にかかる。わしの名は、ゴロウ。見ての通り、ただのチワワですじゃ。様なんぞいりゃあせん」

 行儀良くお座りをしたまま、そう名乗って、頭をちょこんと下げてお辞儀をする姿に、いやいやいや。ただのチワワは喋らないし、お辞儀もしませんから。なんて、突っ込みが出来るわけもなく、慌てて俺も、低く低く頭を下げる。

「こちらこそ、はじめまして。城戸真生といいます」

 焦って返した俺の挨拶にチワワ様、もとい、ゴロウさんは、にっこり笑うように口の形を広げた。

「突然押しかけて、驚かせてしまったようで申し訳なかったのう。城戸の当主に用があったんじゃが、留守のようでな。生憎と飼い犬の身では、のんびりと帰りを待ってもおれん。そこで、お前さんにお願いに来たんじゃよ」

「お願い…?」

 思わず、まじまじと顔を見て訊き返す。俺とフィー、二人の視線を受けながら、ゴロウさんは、はっはっと口で息をしながら、こくんと頷いた。

「急で悪いんじゃが、初代に預けていたものを返してくれんかの」




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