【11】-3
「その時いきなり、がっしゃああんって、ガラスが降って来たんだよ。な、真生?」
頭にネット包帯、両腕に包帯を巻いた姿で熱弁し、ベッドの上から孝が、立っている俺に相槌を求めてくる。
「うん。マジでいきなりだった、あれは」
その痛々しい姿とは正反対の元気一杯の顔と声に、そう頷いて返す俺の斜め前方で、見舞い客用の簡易椅子に座った彩乃ちゃんが眉を曇らせる。
「怖いねえ。どうして窓が割れたか、分からないんでしょう? でも、目とかにガラスの破片が入らなくて、本当に良かった」
孝を見ながら、心から案じるように言い、彩乃ちゃんは顔をこっちに向けた。
「真生くんとフィーちゃんもその場にいたんだよね? 二人は大丈夫だったの?」
「あー…俺達は…」
「それがさあ」
僅かに言いよどんだ俺の後を引き継ぐように、孝が大きく口を開く。
「こいつらは無傷だったらしいんだよ。同じ場所にいたのにさあ。あ、フィーちゃんはいいんだよ。怪我なんかしなくて、本当に良かった」
そう言って、彩乃ちゃんの隣に座っているフィーに向かって孝がにっこり笑いかけ、フィーもにっこりと笑顔を返す。
「俺は駄目なんかい」
仲良く微笑みあう二人を前に、軽く半目になって突っ込めば、孝からつれない目が返ってきた。
「お前は痛みを分かち合えよ。一緒に坊主になれよ」
実際のところ、今は孝は丸坊主というわけじゃない。頭を縫うために一部分の髪を剃られているだけだ。でも退院したら、丸坊主にする気らしい。確かに、剃った部分の髪が元通り生え揃うまで、そのままでは不恰好だし、それならいっそ坊主にしたほうが潔い。
俺的には、孝が坊主頭だろうとレゲエ頭だろうとどうでもいいけど、本人にしてみればやっぱり、どうでもよくはないのだろう。特に孝は今、好きな子がいるから余計かもしれない。
だからといって、一緒に坊主にしてやる気は更々ないけど。
「やなこった」
笑って言いながら、痛みなら充分分かち合ったよと、心の中だけで付け加える。本当に、失くすかもしれない恐怖が、どれだけ胸を痛めつけたか。あんな思い、孝は一生知らなくていい。
立っているのがだるくなってきたので、フィーが座っている椅子の背もたれに、尻を半分寄りかからせてもらう。途端、フィーが邪魔そうに睨んできたけど、知らん顔をしてやった。
そんな俺達の横で、彩乃ちゃんが安堵したように声を和らげる。
「でも、怪我はあれだけど、元気そうで良かった。来る途中で真生くんから、昨日麻酔から醒めないで一時昏睡状態だったって聞いたから、すごく心配しちゃった」
彩乃ちゃんのその言葉に、孝がベッドの上で胡坐を掻いたまま、思い出したように身を乗り出す。
「そう、そう。そん時さあ俺、なんか不思議な夢見ててさあ」
「夢? 昏睡状態でも夢なんて見るの?」
きょとんとして彩乃ちゃんが首を小さく傾げる。俺も彩乃ちゃんと同じ思いで、孝を見た。
「うーん。まあ俺の場合、夢っていう夢でもないんだけどさ。でもお医者さんに話したら、脳の動きによっては夢見たりすることもあるみたいよ」
「そうなんだ。それで? どんな夢見たの?」
興味ありげに、彩乃ちゃんが少し前のめりになる。女の子って何気にこういう夢の話とか好きだよなあと思いつつ、俺も耳を傾ける。
孝は彩乃ちゃんの興味深々の反応に、いい気になったらしく、笑顔で口を開いた。
「それがさ、めっちゃ綺麗な女の人が出てきて、俺のおでこに触って、もう大丈夫、遅くなってすまなかったって言って消えたんだよね」
「…へ、へえ……」
思いがけない内容に、頬が軽く引きつった。
おでこに触っためっちゃ綺麗な女の人。その言葉だけで充分すぎるほど、孝が夢で何を見たか分かる。
言葉を失う俺とは反対に、彩乃ちゃんが興奮したように声を高くした。
「わあ! それって、孝くんの守護霊なんじゃない? ご先祖様の霊とか。きっと守ってくれたんだよ!」
「俺もそうかなって思ったんだけど、でもその女の人、銀色の髪してたんだよ。目も青かったし。あ、そうだ。ちょうどフィーちゃんみたいな、綺麗な目だった」
彩乃ちゃんの問いに孝が首を捻りつつ答え、フィーを見る。内心で狼狽する俺を余所に、当の本人であるフィーは落ち着き払った顔で笑っていた。
「ふうん。綺麗だった、その人?」
「うん、見たことないくらい美人だったよ」
迷いのない孝の返答に、フィーは黙って笑う。その様子に、よくよく考えてみれば俺が狼狽する必要なんてどこにもないことに今更気づく。
孝が、あのフィーと、このフィーを同一人物だと思うわけがないのだ。孝が知っているフィーは黒髪で、十三、四歳くらいの少女だし、そもそも、銀髪のフィーは孝にとっては夢の中の話だ。
一人密かに息を吐いて、こっそり胸を撫で下ろす。
……だけど、それにしても。
「じゃあ、その人、もしかしたら女神様だったのかもね」
真面目な顔で彩乃ちゃんが言い、孝も真面目に頷いて返す。
「そうかもしれない。マジで、神々しいっていうか、それくらい綺麗だった」
大真面目な顔で、フィー女神説を語る二人をちょっと見、俺は少し呆れて孝に白い目を向けた。
「お前、人をあんだけ心配させといて、暢気にそんな夢見てたわけ?」
事実、孝の精気を綺麗にしたのはフィーだけど、そこに至るまでに、樹霊さんは勿論のこと、俺の頑張りだってあるわけで。
まあ、俺のことはいいとしても、由希ちゃんにしろ、樹霊さんにしろ、行動の底にあったのは、孝への思いだ。それぞれ形は違えど、あんなにも思ってくれた二人のことは何にも覚えていないのに、フィーのことだけ夢で見たなんて。
仕方がないと分かっているけど、それにしてもなんか、何て言うか、気持ちの収まりどころが悪い。
口に出せない分、責めるような顔つきになっていたのだろう。孝が笑って俺を見ながらも、訝しげに首を竦める。
「悪い悪い。つうか、怪我も夢も、俺のせいじゃないんだから仕方ないじゃん」
「まあ、そうだけどさ……」
歯切れの悪い返事を返す俺の横で、フィーが徐に顔をベッド脇にある備え付けの棚へと向けて、一点を指さした。
「孝お兄ちゃん。あれ、なあに?」
「ん? ああ、これ?」
その視線を受けて、孝が棚のほうへと体を動かし手を伸ばす。
「母ちゃんが、お守りにしろって。なんか、昏睡状態の時の俺の手のひらから出てきたんだって」
言って、孝が取って見せたものに俺は一瞬、瞬きを忘れた。
フィーは孝からそれを恭しく受け取ると、大事そうに両手で持つ。その青い目が、眩しそうに細められていた。
「これって、桜の花びらだよね?」
フィーの手元、白い台紙にラミネートされた一枚の桜の花びらを横から覗き込みながら、彩乃ちゃんが言って不思議そうに孝を見る。
「孝くんの手のひらから、これが出てきたの?」
「うん、そうらしいよ。母ちゃんは、それが俺を守ってくれたって信じてるみたい。母ちゃんは母ちゃんで、昨日なんか変な夢見たらしくてさあ」
「変な夢って?」
「なんか大きな桜の下に俺が寝てて、その桜が枯れていくほど、俺が元気になっていくって夢見たらしい。朝からしつこいくらい、桜にお礼言わなきゃって、そればっか言ってた」
「へえ~、不思議な話だねえ」
「……本当に」
驚嘆に目を丸くした彩乃ちゃんの言葉に、俺はやや遅れて同意を返した。フィーは黙って俯くようにして、じっと、ラミネートされた花びらを見ていた。
「でも、じゃあ大事にしなきゃだね。孝くんを守ってくれた桜だもんね」
「うん」
驚き冷めやらぬ様子で、しみじみと感じ入ったように彩乃ちゃんが言い、孝が頷いて続ける。
「ああ、でも退院する頃にはもう桜、全部散っちゃってんだろうなあ。つうか、この雨でもう、散っちゃうかな。あーあ、今年は花見なしかあ。毎年欠かさない俺の大事な春の行事なのに」
「残念だけど、今年は仕方ないよ。そうだ、来年はみんなでお花見行こうよ」
ちらりと窓の外に目をやってぼやく孝に、彩乃ちゃんが宥めるように微笑んで言う。
俺は黙って、じっと花びらを見ているフィーを見ていた。
―――樹霊さんは、大いなるもののところにちゃんと辿り着いただろうか。
いや、由希ちゃんの魂が連れて行ったのだから、きっと大丈夫だ。あの人ならきっと、フィーが言ったように、強くて美しい魂になる。絶対に。
強い願いにも似た思いを乗せて見つめていた視線の先で、俯き加減だった顔が上がる。フィーは大事そうにラミネートされた花びらを持ったまま、その顔を真っ直ぐに孝へと向けた。
「孝お兄ちゃん」
「ん?」
「桜、好き?」
真っ直ぐ顔を向けたまま、一字一字を噛み締めるような口調で、フィーが尋ねる。
孝は視線を真っ向から返しながら、あっけらかんと笑った。
「好きだよ? ていうか、桜が嫌いな日本人なんていないんじゃない? 多分、大昔からDNAに刻まれてんだよ、桜は特別ってさ」
「でぃーえぬええ?」
「血の記憶だよ」
微かに首を傾げたフィーに、横から教える。その言葉に、フィーは咄嗟に俺を見た。その目が表情ごと止まる。だけど、それは一瞬だった。
視線の先で、フィーはすぐにまた、すごく眩しいものを見るように目を細めた。
「……そうか」
細められた目が少しだけ俯き、俺から孝へと戻る。そして涼しげな笑顔と一緒に、花びらを孝へと渡して返しながら、フィーはしっかりと孝を見て言った。
「ありがとう」
その目には、言葉に込められた以上の思いが溢れていた。感謝も、深い愛情も、哀しみも、その青の中で混ざり合って、優しげに揺れていた。
それは、昨日の夜この病室で、樹霊さんに向けられていたものであり、俺に向けられていたものであり、孝に向けられていたものであり、魂になった由希ちゃんに向けられていたものでもあって。
俺はそんなフィーを横から見ながら、由希ちゃんの言葉を思い返していた。
「………孝」
何度か躊躇った後に、意を決めて口を開く。
「あー?」
孝は、ラミネートされた桜の花びらを元の場所に置きながら、こっちを見ることなく声を返した。それを良しとして、口を動かす。
「ありがとな」
「は?」
ぽかんとして、孝が俺を見る。その視線が照れくさくて、逃げるように顔を彩乃ちゃんのほうに向ける。
「彩乃ちゃんも、ありがとう」
孝同様、彩乃ちゃんも、唐突な感謝の言葉にきょとんして、目を瞬かせた。だけど、孝に向かって言うより、彩乃ちゃんのほうが気分的に何となく照れが少なくて済んで、彩乃ちゃんには言葉と一緒に笑顔も付けられた。
曖昧に笑う俺に、孝が怪訝を通り越して不気味そうな目を向けてくる。
「なに、突然」
「なんでも。なんか言いたくなっただけ」
言いたい時に言いたい相手にちゃんと言っておかなきゃ、いつ言えなくなるか分からない。だから、ありがとうと、今ここに、俺の傍に当たり前のようにいてくれてありがとうと、その気持ちを声にして出しただけのことだ。
とは言え、やっぱりこういうことを突然言うのは、気恥ずかしい。とても大事なことだと、由希ちゃんが身を持って教えてくれたことだから、ちゃんと実践しようと思ったけど、かなり照れるし、孝の不審な目が地味に痛い。
曖昧に笑うしかなくて彷徨わせた視線が、意図せず青い目とかち合って、止まる。その瞬間、すべて見通しているかのような清んだ綺麗な青が、俺を捕えてゆっくり微笑んだ。
どこか誇らしげにも見える、愛情に満ちたその眼差しで、温かく包み込むように、柔らかく。
不意に、いつもの罪悪感じゃない別のもので、胸から喉元にかけてが一気に詰まった。
早まる鼓動に、咄嗟に目を顔ごと逸らす。
勝手に上気していく頬を隠すべく、片手で口元を押さえたところで、彩乃ちゃんの声が聞こえた。
「じゃあ私も、ありがとう」
にっこりと、八重歯を覗かせて彩乃ちゃんは、フィーの向こうから俺を見て笑っていた。その顔と声に、何となく救われた気分になる。
本当はフィーにも、というか、フィーにこそ、俺はありがとうと言うべきなのだろうけど、少なくとも今は出来そうになかった。
意識してフィーを見ないようにしながら、彩乃ちゃんに笑って返す。それでも一度乱れた鼓動は、なかなか鎮まらなかった。
次で、「桜流し」は最終回になります。




