【10】-4
「真生…?」
無意識に漏れた心の声に、フィーが眉根を寄せて眉尻を下げた不安を絵に描いたような表情を浮かべる。
嘘だろ。もう一度心の中で、繰り返した。
だけど確かに、この感情は初めて会った時からあった。何もしていないのに、自分が凄く酷いことをしているような、理由のない罪悪感に似た居た堪れない感情。初めて、レネのことを話していたフィーの目を見たときから、ずっと……。目と目で見詰め合ってるときにだけ、フィーにだけ、ずっと………。
……本当に、俺、なのか? 俺が、レネ、なのか………?
「真生、何があった、言え!」
茫然と立ち尽くす俺を目に映しながら、フィーが焦りに駆られて声をヒステリックに張り上げる。いつのまにか片手だけでなく両手で、フィーは俺の上着を掴んでいた。その手が、服ごと体を揺さぶってくる。その必死な表情。切迫した声。不安に縁取られた青い目。
それらを前に、次から次に押し寄せる諸々の感情を全部、頭から締め出すべく、俺はきつく目を閉じた。
落ち着け。落ち着くんだ。今のフィーに何を訊いても、それが事実かどうか、俺には分からない。俺が欲しい本当の答えをくれるのは、皐月さんだけだ。
皐月さんはあの時確かに、フィーの暗示が安定するまで、少しの間、離れなきゃいけないって言った。俺が知ってる皐月さんは、たまに理不尽だけど、言ったことは必ず実行する人だ。その皐月さんが、少しの間って言ったんだ。きっと、大丈夫。二度と会えないとか、そんなことにはならない。フィーの暗示が安定すれば、きっと、戻ってきてくれる。その時に、訊けばいい。全部、何もかも。
教えてくれないかもしれないけど、それなら教えてくれるまで訊くだけだ。俺には、訊く権利も、知る権利もあるはずだ。フィーのことも、皐月さんのことも、俺自身のことも。たとえ俺が、レネであろうと、なかろうと。
今はとにかく、フィーだ。不安が精気を駄目にするなら、これ以上フィーの不安を煽るべきじゃない。
フィーに皐月さんの話を正直に打ち明ければ、俺は一緒に悩む相手を得るけども、それはフィーの不安要素を増やすだけだ。皐月さんが言っていた暗示とやらが成功すれば、不安という点では、もうフィーは心配なくなる。
だけど、なんでそこまでして皐月さん達は、フィーに暗示を掛け続けなきゃいけないんだろう。
フィーがどうしても必要だって言ってたけど、でもじゃあ、暗示が解けたらフィーはどうなるんだ? 三百年間、指輪に閉じこもって消えようとしたように、また俺を守ろうとして、自分を消そうとするのか? なんで? なんで、俺を守るために、消えなきゃいけない? 水の姫達関連か? そもそも、あの話は事実なのか?
それに、来るべき時って、何のことだ。なんで、来るべき時のために、俺達二人が必要なんだ?
分からない。分からないことだらけだけど、はっきり分かっていることもある。俺は、それをするべきなんだろう。
それが正しいのか正しくないのか、分からないし、フィーからしたら、酷い裏切り行為以外の何でもないだろうけど。でも、今俺がフィーの不安を取り除いて、精気を守ってやれる方法は、これしかない。
皐月さんを、信じよう。あの人は俺の叔父さんだ。たとえ何であろうと、俺を愛して育ててくれた唯一の肉親だ。きっと、大丈夫。
「フィー」
決意を込めて目を開けば、不安に散り散りに乱れた青い目と真っ直ぐに視線がかち合った。見つめ合うことで、自然と胸に湧く感情を噛み締めながら、はっきりと口を動かす。
「皐月さんが、昨日の分の報告受け取ったって。それから、もう毎日の報告は要らないって」
見つめる先で途端に、青い目が、焦点を失くした。つい今の今まで、不安と焦りでヒステリーを起こしかけていたとは思えないほど、漫然とした虚ろな顔で、フィーは人形のように動きを止めた。
「…フィー?」
その変化に、半信半疑で名前を呼ぶ。
暗示が掛かったと、そう思っていいのだろうか? 僅かな期待と、苛まれるような後ろめたさ。その両方を併せ呑みながら、じっと見守る。
フィーは俺を見るというより、ただ目に映している状態で、ゆっくりと一度瞬きをした。そして、
「そうか。分かった」
そう頷いた声には、切迫した焦りは跡形もなかった。
そのまま、するりと、フィーが掴んでいた俺の上着を放す。まるで最初から掴んでいた事実すらなかったように、自然に離れていく、その小さな手。呆気ないほど何の余韻もなく、進行方向へと向けられる顔。当然のように動き出す足。
「真生? 行かぬのか?」
傘から半歩出たところでフィーが、立ち止まったままの俺に気づいて振り返る。きょとんとして見てくる青い目。どこを探してももう、目の前のフィーからは、不安のふの字も見つけられなかった。
「……フィー」
「なんだ?」
疑いひとつない真っ直ぐな目に俺を映して、フィーが小首を傾げる。その顔に、傘の柄をぐっと強く握って、喉の辺りで留めた言葉を無理やり飲み込んだ。そうして、なるべくいつものように、いかにも俺らしく、不満げに、違う言葉を口にする。
「お前、皐月さんに毎日、報告してたの?」
「私は皐月からお主を預かっておる身ゆえ、皐月にお主の無事を日々報告するのは、当然であろう」
いつものどこか権高な表情で、あっけらかんと言って返し、フィーはまた前を向いて歩き出す。
それを目で追いながら、俺も足を前へと踏み出した。雨にぐっしょり濡れた靴やズボンのせいじゃなく、足そのものが鉛のように重く感じた。
「預かるって、俺は子供か」
「そうぶすくれるな。お主がどこの娘と交信しておるとか、そういう報告はしておらぬ」
「当たり前だ」
半歩前を行きながら、茶化すように笑って顔だけを向けるフィーを、わざと睨む。フィーはそれにはお構いなしで、前を向くと明るい声で続ける。
「皐月がもう良いというなら報告はせぬが、今後もお主のことはきちんと守るゆえ案ずるな。シシィも協力してくれておるし、白の姫達も、二重の守りがあるお主にはそう易々と手は出せまい。まあ、それでも私はお主を危険から遠ざけるべく何かと五月蝿く言うだろうし、私が傍で始終五月蝿いとお主は鬱陶しいだろうが、捨てることを拒んだはお主ゆえ、そこは堪えよ。何もかも、レネが見つかるまでの辛抱だ」
言い切って、フィーは叩き付けるような雨粒の感覚を楽しむように、腕を伸ばして傘から手を出す。俺は黙って歩きながら、やや斜め後ろから、その顔をじっと盗み見た。
雨に手をかざして、心地良さげに目を細めているフィーの口元には、小さな微笑まで浮かんでいる。穏やかなその表情にフィーを包む空気までもが、強い雨の中にあるにも関わらず、穏やかさに満ちているように思えた。
これで、良かったんだ。たとえ、フィー自身の気持ちがそこになくても、それでフィーの精気が守られるなら。
暗示を掛けているどこかの誰かが、フィー自身の気持ちを塗り消してしまうほどに強く、フィーの感情を支配しているとしても、それでフィーが、過度の不安を抱えなくて済むなら。
これで、いいんだ。フィーの精気のためにも、フィー自身のためにも、これが一番いいんだ。
襲い来る後ろめたさに弁解するように、何度も自分に言い聞かせる。
フィーは、アスファルトに弾ける雨粒達と一緒になって、弾むような足取りで半歩前を歩いている。その顔に、穏やかな微笑を浮かべて。たった今、俺がその誰かの手先になって暗示をかける助けをしたことなんて、露ほども知らなければ、塵ほども疑うことすらない。
「フィー」
押し込めても押し込めても、喉元に迫り上がってくる言葉に、口が動く。
「なんだ?」
振り返ったその顔を、その目に映っている自分を、正視出来なかった。
「……濡れるから、ちゃんと傘に入れ」
感情ごと飲み込んで、押し留めた言葉は、想像以上の苦味を持って、俺の中だけに残った。




