【10】-3
「真生?」
隣からの呼びかけに、はっとする。
握り締めた携帯を耳に宛てたまま、そっちに顔を向けた。同じ傘の下、怪訝そうに見上げてくるフィーの足が止まっている。どうやらそれより先に、俺の足が止まっていたらしい。
携帯は既に、ツーツーという機械音だけを繰り返し響かせていた。のろのろと携帯を耳から離し、そのままじっと、小さな画面を見やる。
―――なんで、だ。
「どうした?」
自分が今どんな顔をしているのか、分からない。だけど何か変だと思ったのだろう、フィーが覗き込むように見てくる。
「皐月に、何かあったのか?」
訝しげな響きから心配へと変わった声に、もう一度顔を向ける。その場に立ち止まったまま、こっちを見てくる小さな顔を茫然と、ただ見つめた。
なんでだ。どういうことなんだ、これは。
皐月さんはさっき確かに、電話を切ったら、俺は会話の内容を忘れると言っていた。だけど。
覚えている。全部、覚えている。電話はとっくに切られたのに、フィーについての話も、俺についても、皐月さんのことも、聞かされた内容を全部覚えている。それとも、気がつかないだけで、何か忘れたのか、俺は。
分からない。何も分からないのに、不思議なくらいはっきり分かるのは。
今すぐ皐月さんに電話を掛け直しても、もう繋がらないということ。たとえ、今すぐあの家に帰ったとしても、もう、皐月さんはどこにもいないということ―――…。
「真生? おい、どうした? 何かあったのか?」
不安を隠すことなく顔に浮かべて、フィーが、俺の服を掴んでいる手にぎゅっと力を入れた。それを感じながら、まじまじとフィーを見る。
「………フィー」
傘を持つ自分の手に、全くと言っていいほど、現実感がなかった。叩き付けるような雨の音も、肌に感じる生温さも、およそ五感に響く何もかもに、まるで現実感がなかった。
「お前……。前から俺を知ってたの…?」
「は?」
隣から見上げてくるフィーの眉根に、皺が寄る。その顔に、何を思えばいいか分からない。
フィーが三百年間指輪に篭っていたのは、俺を守るためだと、そのために消えようとしたのだと、皐月さんは言っていた。それはつまり、俺のことをフィーは、ずっと前から知っていたということだ。俺が指輪の所有者になる、ずっと前から。生まれる、ずっと前から。
俺が生まれるずっと前から、フィーは俺を知っていて、そして、俺の存在は暗示を解く最大の鍵になるほど、フィーにとって重要なもので………。
まさか。
でも。だけど。
俺が俺であることに意味があると、俺はレネじゃなくて俺自身だと、レネと同じ道を辿るなと、しつこいくらい皐月さんは繰り返していた。それはつまり、俺とレネが………。
まさか。
そんな、まさか。
「まさか……俺が、レネとか、そういう……」
訊く声が、震えた。動揺なんて一言じゃ、片付けられない。何をどう感じたらいいのか、本気で分からない。
フィーは眉根を寄せたまま、一瞬固まった。
その顔が、俺の言葉の意味を理解して、不愉快だと言わんばかりに一気に鼻白む。
「何を言うておるのだ。お主がレネのわけがなかろう」
「…絶対に…?」
「絶対も何も、私がレネを間違うはずがない。魂の形も感じも、お主とレネでは、どこを取っても全く違う。お主はレネではない。何を血迷いごとを。そもそも、お主がレネであったならば、あの浜辺で白の姫に殺されておるわ」
不快そうに吐き捨てて、フィーが睨むような目を向けてくる。その青い目を少しだけ見返して、俺はぐるぐると頭の中で渦巻く疑問やら感情やらに目だけで俯いた。
「……そう、だよな」
そうなんだ。今のフィーに分かるはずがないんだ。効力が弱まっているとしても、本当のことを思い出さないように暗示を掛けられて、記憶を塗り替えられた今のフィーに、俺が知りたい本当のことなんて分かるはずがない。
今のフィーの記憶、俺に話してくれたことのどこからが偽りで、どこまでが事実なんだ。穢れになった話は? 水の姫達の話は? 本当のことなのか? それとも、全部暗示によって植えつけられた偽の記憶? 分からない、分からない、分からない。
「どうしたのだ、突然。皐月に何か言われたのか? 何用だったのだ、皐月は」
目だけで俯いた俺を、下から覗きこむようにしてフィーが見てくる。思わずじっと見返してしまった青い目に、当然のようにこみ上げてくる、いつもの罪悪感のような嫌な感情。こんな時に。そんな場合じゃないというのに。
混乱に苛立って、目を顔ごと背ければ、フィーが服を握る手に更に力を込めたのが分かった。多分きっと、不安に焦りを覚えて、自分のほうを向かせようとしているのだろう。分かるけど、でも。
皐月さん、こんなのひどいよ。訳が分からない。混乱させるだけさせといて、どこに行ったの。俺はどうしたらいいの。どうか消えないでって、あれは、どういう意味? 俺は何なの? レネなの、レネじゃないの?
なんで、忘れるって言われたのに、全部覚えているんだ、俺は。それとも、何か大事な部分は忘れてるのか? それとも実は、この記憶自体が偽物だとか? 分かんないよ、どこ行ったんだよ、皐月さん。
「真生。こっちを見ろ。皐月に何を言われた?」
ぐいっと手を引いて、フィーが服の裾を引っ張る。焦りで声が細く尖っている。いけない。フィーをあんまり不安がらせちゃいけない。過度の不安はフィーの精気に良くない。分かっている。分かっている、けど。俺だって。
どうしたらいいのか、分からない。混乱しすぎて、何が何だか。濡れたアスファルトも、濡れた電柱も、道沿いに並ぶ人家の濡れた塀も、目に映るもの何一つとして、何も少しも助けにならない。
俺が皐月さんからの伝言をフィーに伝えれば、フィーの暗示を強めるきっかけになるって、皐月さんは言っていた。そうしたら、もうフィーは俺のことで過度の不安を抱かないようになるって。だけど、それと同時に、本来のフィーが俺に対して持っていた大切な感情も失くすとも言っていた。
本来のフィーが俺に持っていた大切な感情って何だ?
俺がレネなら、そういう感情だろうけど、でも、俺は本当にレネなのか? 皐月さんは、そうだとは言わなかった。それに、もし俺がレネなら、フィーは来世を約束した大切な相手のはずだ。陳腐な言い方だけど、それこそ運命の相手のはずだ。運命の相手なら、本人を目の前にして少しくらい、何か感じるものがあって然るべきだろうと思ってしまうのは、映画やドラマに影響されすぎなのだろうか。第一、俺はフィーに対して、何も特別なものなんか――――…。
「真生、答えろ。皐月と何の話をしていたのだ」
辿り着いた思考に愕然として、顔を声のほうに向けた。
不安に揺れるその青い目を、故意に真っ直ぐ見返す。
「………うそ、だろ」




