【08】-6
硬直していた樹霊さんの顔が、ゆるゆると崩れていく。眉尻が下がり、目が狭まり、口端が下がる。わなわなと震える口元を必死で堪えるようなその顔。ぼんやりと透けてしまっているのに、その表情はあまりに雄弁で。
自分が愛されていることの深い実感と、強い感動と感謝。それらが篭った重い雫が、その目からぽろりと落ちる頃には、俺もつられて目頭が熱くなっていた。
「どうか、星を離れてはもらえぬか? 母のために。我らのために」
フィーの静かな、優しい響きの声が、月の光に沈む部屋に木霊する。樹霊さんは、震える口元に力を込めて堪えようとしながらも、その目からぽろぽろと零れる涙を抑えきれずに、声もなく泣いていた。
その泣き顔を優しく見守るように見つめながら、フィーはただじっと、包み込むような柔らかい笑みを浮かべている。
その優しい眼差しの中に、滲む色。今だけの話じゃなく、フィーの目に度々見てきたその色を、俺はずっと、悲しみだと思っていた。それほどにいつも、その色を滲ませるフィーが哀しげに見えたから。
だけど今、黙って樹霊さんを見守るように見つめているフィーを見て、初めて気づいた。フィーがいつもどこか哀しげに、その目に滲ませていたあの色は、悲しみじゃない。悲しみよりもっと、深くて、強いもの。もっと、ずっと深くて、切ないもの。
ただ、ただ、愛しいと、まるで我が子のようにその存在を心からただ愛しく思う、深い愛情の色だ。
思い返さずとも、すぐに思い出せる。人間は阿呆ばかりだと涙を湛えた目を狭め歪ませたあの時も。孝を救う方法を教えてくれと、頭を下げる俺を黙ってじっと見ていたあの時も。その色は確かにいつも、そこにあった。浮かべていた表情は、今より遥かにずっと、哀しげではあったけど――――……。
( この身に与えられていた愛情にも、気づきもせずに )
( 何も、応えようと、しなかった )
( それでも愛しいと、慈しむしか出来ぬこの身が、どれほど哀しいと思う? )
耳に蘇る言葉に、胸の奥が焼けるように熱を持っていくのが自分で分かった。同時に、身を切るような切なさが湧き上がってくるのも。
樹霊さんを見つめているフィーを見つめながら、ぎゅっと手のひらを握り締めて、肩に力を入れた。涙を零し続けている樹霊さんに顔を向ける。その顔を真っ直ぐ見て、喉の奥からはっきりと声を出した。
「由希ちゃんもさっき、同じことを言ってたんです。保証はないけど、どうか『 』を抱いて、天に一緒に還ってほしいって」
突如、割り込むように声を発した俺に、二人の視線が集中する。その視線を受け止めながら、口を動かす。
「愛してくれた世界から愛するものを奪った、せめてもの罪滅ぼしをさせてほしいって。あなたを苦しめた『私』が、お願いできる立場じゃないけど、でも、あなたを愛する世界のために、『私』が愛する世界のために、どうかって」
由希ちゃんは確かに、最後にそう言ったんだ。その言葉は、樹霊さんに向けたものだったけど。
だけど俺は、樹霊さんだけじゃなくて、フィーにも届いて欲しいと思った。由希ちゃんの思いが、フィーの哀しみに少しでも届けばいい。そう祈りながら、由希ちゃんの最後の願いのために、樹霊さんに頭を下げた。
「俺からも、お願いします。由希ちゃんは、あなたや孝を苦しめるのが目的で、孝に憑いたわけじゃないんです。由希ちゃんが孝から離れなかったのは、ただ、好きだから孝の傍にいたかっただけで、ずっと病気で会えなかったから、だから、」
「その方は生前、この方を好いておられたのですか…?」
捲くし立てる俺の声を遮って、樹霊さんの声が響く。顔をあげると、樹霊さんが答えを待つように、涙で濡れた目でじっと俺を見ていた。その顔に頷いてみせる。
樹霊さんはそれを確認すると、涙で一杯の目を柔らかく狭めた。
「……そうでなのですね。この方を……。そうでしたか……」
呟きながら、ふんわりと花が綻ぶかのように、涙に濡れた顔が微笑む。その目が俺を離れ、月の輪のような光に包まれて漂っている由希ちゃんへと向く。
「あの方の命が流れるこの方を、好いてくださったのですね………」
顔全部で笑む樹霊さんの頬を、ぽろぽろと涙が零れて落ちる。そんな樹霊さんに、由希ちゃんはふわふわと近づいていった。そして、その胸の前で、ぴたりと止まった。
その光景はまるで、樹霊さんを誘いに来たかのようで。樹霊さんはいまだ涙が止まらない目で、にっこりと笑った。
「穢れが穢れを撒くは本能。そこに罪などありませぬ。なれど、私を思ってくださったその方のお気持ちは、真に嬉しく存じます」
言いながら樹霊さんが、そっと両手を差し出す。と、まるで最初からそこが定位置だったかのように、由希ちゃんは樹霊さんの手の中にすとんと降りた。月の輪のような光が、ぽうっと柔らかく滲む。
「ラインの乙女。恩情を、謹んで頂戴致します」
由希ちゃんを両手の上にしっかりと抱いて、樹霊さんは真っ直ぐにフィーを見て言った。
もはやその体は、頼りないほど透けてしまっているにも関わらず、その涙に濡れた真っ直ぐな目や声を、とても強く感じた。
「必ずや、願いに応えられるよう、星に幾度となく戻ることが叶うよう、大いなるもの元で、新たなる魂となってみせまする」
フィーは樹霊さんを見つめたまま、その言葉に黙って頷いた。眩しいものを見るように細められた青い目が、これ以上ないほど優しく、柔らかな涙で光っていた。
「よくぞ申した、賢者の娘よ。そなたの父に代わり、この水の姫が名送りをしよう」
光る涙を零すことなく、フィーが微笑を携えたまま、威厳に満ちたはっきりした声で言う。それに樹霊さんが頷き、何か言いかけるのをフィーは遮った。
「良い。聞かずとも、知っておる」
その言葉に樹霊さんは、一瞬驚いたような顔をしたものの、すぐに敬意を表すかのように口を閉じ、重く頷いてみせた。
「だが、その前に」
言いながら、フィーは樹霊さんから、ベッドの上の孝へと視線を移す。
「私が、約束を果たさねばな」
昏々と眠っている孝を見下ろし言うと、フィーは片手で孝の額を覆った。青い目がじっと、孝に注がれる。
俺と樹霊さんが固唾を呑んで見守る中、フィーは黙って、孝から手を離した。
「有り難き、幸せに存じます」
大事に由希ちゃんを両手に抱いたまま、樹霊さんが深々と頭を下げて言う。さっきの強い感じの声とは違い、今にも詰まりそうな涙声だった。
フィーは静かに首を横に振って、それに答えた。俺もまた、そんなフィーに顔を向けて礼を言った。
「ありがとう」
孝は変わらず眠っていて、目に見える変化はない。だけど、もう大丈夫だと、何一つ疑うことなく俺も確信していた。孝をじっと見下ろしていたフィーの目にあの深い色が滲んでいるのを確かに、この目で見たから。
フィーは頷いた。それを見届けて、俺は再び孝へと目を向ける。今となっては暢気にも見えるその寝顔に、心の中で、大きく安堵の息を吐く。
能天気だろうと間抜けだろうと、何だっていい。携帯を勝手に弄る悪癖なんて、失うことに比べたら、何でもない。いてくれれば、それだけで充分だ。心底、そう思った。
樹霊さんの手の上で、由希ちゃんを包む月の輪のような光が、ぼんやりと点滅し始める。樹霊さんはそっちには目を向けず、微笑むようにして、じっと孝を見ていた。
「健やかに。どうかいつなるときも、健やかにあられますよう。そしてどうぞ、後世に命を繋いでくださいませ」
愛しげに細めた目に孝を映しながら、願いをかけるように樹霊さんがそっと呟く。
「樹霊。魂は無垢の状態では、そう長く星に留まれぬ」
そんな樹霊さんを見つつ、フィーが勧告するように呼びかける。樹霊さんはその声にも、顔をすぐには上げなかった。微笑みながらも目に涙を一杯溜めて、孝をじっと見つめている。その眼差しに、あの公園であの日、眩しそうに桜を見上げていた、あの時の彼女の眼差しが重なって、切なさに自然と胸がじんと熱くなった。
そこにある過去を見つめているのだろう目から、盛り上がって零れる涙。それを流れるに任せながら、樹霊さんが震える口を動かす。
「……ずっと、お慕いしておりました。ずっと、お慕いしております。たとえ、触れたこの身が消えようとも、ずっと」
か細い声で小さく、そこに言葉を残すと、樹霊さんは潔く顔を上げた。涙に塗れた顔が、そのまま俺に向けられる。
「主様。なんとお礼を申し上げてよいか分かりませぬが、この御恩は必ず、いつかどこかで」
確約するように、じっと俺の目を見つめて言って、返事を待つことなく、樹霊さんはその目を顔ごとフィーに向けた。
「ラインの乙女。お会い出来ましたこと、この身の至福と存じます。星に愛され人を愛し、私は真、幸福にございました。残せるものはございませぬが、貴女様のご幸福を、せめてこの身の終わりまで祈らせて頂きとう存じます」
フィーを真っ直ぐに見て、樹霊さんが言葉を噛み締めるように声にする。フィーは、ぎゅっと力を入れるように口元で小さく微笑んで、目で優しく、しっかりと頷いてみせた。
由希ちゃんの月の輪のような光が、急かすように濃く点滅しだす。
それを合図にしたかのように、口からも目からも微笑を消し、フィーが粛として樹霊さんを見る。その視線に樹齢さんが、由希ちゃんを大事に抱え、しっかりと頷く。俺は黙って、ぐっと両手に力を入れて拳を握った。
「地より生まれし、樹木の精たる霊よ。我は母より生まれし精。はじまりの霊なり」
厳然として開かれた口から発せられた厳かな声が、暗い部屋に響き渡る。
「我に許されし権限にて、星が汝に与えし名を、今この時より永久に剥奪せん」
これが最後なのだろうと、俺は瞬きも拒んで、由希ちゃんと樹霊さんを目に焼き付けた。
由希ちゃん。孝を好きだった女の子。俺に大切なことを教えてくれた。
樹霊さん。身を挺して孝を守ってくれた。人以上に、人を思ってくれた。
二人ともが、きっといつかまた必ず、戻ってこれますように。願えるなら、またいつか、会えますように。
祈りを込めて見つめる視線の先で、樹霊さんの頬に新たな涙が一筋、流れて、落ちた。
それが、最後だった。
「汝が名は、花衣」
フィーが名前を告げた瞬間、ぼんやりと透けてはいたものの、それまで確かに人の姿に見えていた樹霊さんの体が、何十枚もの桜の花びらを寄せ集めて人型にした、花の人形になった。
目を見張る暇も、なかった。
まるで突風に煽られたかのように突如派手に、その花びらがばらばらに飛び散ったかと思うと、一瞬後には何もかも、すっかり掻き消えていた。舞い散った大量の花びらも、そこにいたはずの樹霊さんも、由希ちゃんも。もう、いなくなっていた。
俺とフィー、そして眠る孝の三人だけになった暗い部屋に、静かに月の光が差し込む。
その光の方を見上げながら、フィーがぽつりと低く言った。
「去った」
目の青が、月の光に濡れていた。




