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精霊奇譚  作者: のっこ
~ 1、桜流しの章 ~
41/95

【08】-5


「……き!」

 ばちばちと強く頬を叩かれ、痛覚と聴覚が先に戻った。甲高い泣き声が響く中、フィーが焦った声で俺の名前を連呼している。

「真生!」

 次に戻った視覚で最初に認識したのは、フィーの青い目。不安げに揺れるそれが、俺の目が開いたのを見とめた瞬間に気丈さを取り戻す。

「…フィー。…痛い…」

 まだどこかはっきりしない意識を持て余しながら、感じたことをそのまま言えば、フィーは軽く肩を上下させて息を吐き、怒ったようにもう一度、俺の頬をべしっと叩いた。

「意識を共有するほど、穢れの念に共鳴する阿呆がどこにおる。まったくお主は。肝を冷やさせよってからにもう」

 その最後の一撃で、しっかりと意識が定まった。どうやら、あのままぶっ倒れて、床の上でフィーに膝枕されていたらしい。部屋に響く泣き声に、はっとなって、俺は急いで上半身を起こした。

「由希ちゃんは?」

 俺の問いに、フィーは座ったまま、顎でベッドの上を指した。慌てて立ち上がって、そこを見る。

「由希ちゃん……?」

 冬虫夏草のように小さい由希ちゃんから生えていた彼女は、既にもう、影も形もなく。

 小さい由希ちゃんが一人、樹霊さんに見守られるようにしながら、今尚、孝の上で泣きじゃくっていた。

「お主の意識が離れたゆえ、これでもう戻るだろう。―――ようやってくれた」

「え?」

 付け足された言葉に篭った深い労いの響きに、思わずフィーを振り返る。柔らかな微笑がそこにあった。

「まあ、見ておれ」

 今ひとつ事態が飲み込めていない俺に、フィーが立ち上がりながら言う。その言葉にもう一度、ベッドのほうへ目を戻せば、樹霊さんが真剣な眼差しで由希ちゃんを見つめていた。その両手が、祈るように握り締められている。その姿に、さっき、どちらのものともはっきりしない意識の中で聞いた由希ちゃんの言葉を思い出し、俺もまた祈るような気持ちで由希ちゃんを見つめた。

 それぞれが黙ってじっと見守る中、由希ちゃんの泣き声は、どんどん甲高いものになっていく。それと同じに、徐々に、由希ちゃんの体に変化が起こり始めた。

 俺は瞬きも忘れ、ただ、ただ、目を見張った。まるで、時間が巻き戻っているかのようだった。俄かには信じがたいその現象に、ひたすら驚き入るしか出来ない。


 由希ちゃんは、四歳児くらいの体格から、三歳児、二歳児、一歳児くらいへと、ゆっくりと、逆成長していた。それに合わせてその泣き声も、少しずつ、ほわほわしたものへと変わっていく。 やがて、おぎゃあおぎゃあという生まれたての赤ん坊の声が部屋に響く頃には、その体はすっかり、新生児のものになっていた。

 樹霊さんがフィーを見、その視線にフィーが頷く。声も失くして、ただ見るしか出来ない俺の前で、樹霊さんは、赤ん坊となった由希ちゃんに腕を伸ばした。孝の上からそっと抱き上げると、そのまま自分の胸に抱く。泣き声が消える。同時に一旦止まったかに思えた逆成長が、また始まる。俺はもはや、その現象に釘付けになっていた。

 中学か高校か忘れたけど、生物の教科書で見た胎児の姿。いつのまにかその体を、薄い半透明の膜が覆っていた。その膜の中で由希ちゃんは、更に逆成長を進めて、どんどん小さくなっていく。何の動物なのか、その判断すらもう不可能な形になった由希ちゃんは、ついに、一ミリもないくらいの小ささになって、樹霊さんの腕から離れた。ふわふわと浮かぶその周りに、月の輪のような光がぼうっと滲んでいる。

「戻った」

 フィーの声に驚いて、びくっと肩を揺らすくらい、俺は我を忘れてその現象に見入っていた。生命の神秘のその深淵に触れたような、そんな気分だった。

「お主にどのように視えておるか、私には分からぬが、これが無垢なる魂ぞ」

「魂……これが……」

 高揚に声が震えた。なんて、小さいんだろう。小さすぎて、形なんて何も見えないに等しいのに、何故か、何が何でも守ってあげたいと強く思わせる愛らしさで、目を引き付けて離さない。これほど何かに対して、愛らしいと感じたことはない気がする。

 月の輪のような光に包まれて、ふわふわと由希ちゃんの魂が漂うように移動する。恐らくもう、その光の中の魂は、由希ちゃんではないのだろうけど。『私』から『 』に戻るという言葉は、そういう意味だったのだろうから。だけど、俺にとっては、それは由希ちゃん以外の何ものでもなく。

 無垢な状態に戻った証なのか、由希ちゃんは、きらきらで痛いと言っていたフィーに躊躇なく近寄っていく。そして、フィーの周りを心なしか嬉しそうに、ふわふわと舞ってみせた。その動きを黙って見つめながら、フィーが手のひらを差し出す。

 フィーはまるで、聖母のような微笑を浮かべていた。その手に、由希ちゃんが降りる。無性に泣きたくなるような優しい表情でフィーが、俺には聞き取れない言葉で何か呟く。途端、由希ちゃんを包む月の輪のような光が、ぱあっと明るくなった。それだけで、声はなくとも由希ちゃんが喜んでいるのが、ありありと分かる。

 その光景に見惚れ、少しぼうっとしていた俺は、再び由希ちゃんがふわふわと浮き上がったことで、はっと我に返った。

 慌てて、樹霊さんを見やる。由希ちゃんが最後に教えてくれたこと。それを樹霊さんに伝えるべく、口を開く。

 だけど。

「樹霊。星を離れよ。この魂がそなたを導く」

 俺が言うより早く、フィーが、それを口にした。


 無垢に戻った由希ちゃんを薄っすらと涙を目に溜めて見ていた樹霊さんは、フィーの言葉に涙目のまま、ぽかんとした顔をした。急に言語が理解出来なくなったかのような、そのきょとんとした呆け様。

 その顔を見ながら、フィーがやんわりと微笑む。包むような優しい眼差し。だけど、そうやって樹霊さんに向けている顔は、どこか哀しげに見えた。

「前例はあるが、確証はない。ゆえに保証は出来ぬ」

 優しく語りかけるようにゆっくりと、フィーが樹霊さんを見たまま言う。

「だがこの魂は、私の浄化の力に頼るでも、従来通り他者にすべての穢れを撒き尽くすでもなく、己自身でその身の穢れを清めた稀有なるものとなった。稀有なるものには、稀有なる力が宿る。この魂ならば、そなたを大いなるものの元まで導くことが出来る」

 その言葉は、さっき由希ちゃんが言っていたものと同じで。俺も樹霊さんほどではないにしろ、思わず唖然としてしまった。

「私を、大いなるものの元へ……? 何を……私は星の……」

 言いながらも樹霊さんは、全く持って意味が理解出来ないといったふうに、いまだ呆けた顔で目を瞬かせる。フィーはそれにやっぱり、柔らかい微笑を返した。

「そうだ。そなたは星の精気だ。星が、愛し育てた娘だ。星がそなたを愛するのと同じに、大いなるものもすべての魂を愛しておる。大いなるものが愛する魂を、稀有なるものとして還すことが出来るは、そなたがそれを望み、我が主が力を貸したからだ。そなたには、大いなるものに愛される権利がある」

 包み込むような優しさの中にどこか哀しげな色を混ぜて、真っ直ぐ樹霊さんを見つめるフィーの目。その口が、力強く言葉を放つ。

「星を離れ、大いなるものの元で、新たなる魂として大いなるものの一部となれ」

 優しくも、はっきりとした声だった。フィーを見つめていた樹霊さんの目が、愕然としたように大きく見開かれて固まる。

 本当にちらりとも考えたことがなかったのだろう、告げられた内容に樹霊さんは完全に茫然自失状態で、体を硬直させたまま、声も発さない。

 フィーはそんな樹霊さんを変わらずじっと見つめながら、言い聞かすように優しく話す。

「大いなるものが、そなたを新たな一部として受け入れるかどうかは分からぬ。だが、前例がある。可能性が全くないわけではない。それにどの道、そなたはもう、星には還れぬ。そなた自身が還らぬ道を選んだ。このままここにおれば、星がそれを望まずとも、間もなくそなたは消滅してしまう」

 静かなその口調に合わせて、包み込むように樹霊さんだけを映した青い目が、静かに濡れて揺れていた。

「ならばいっそ、大いなるものの元で魂となり、またいつかここに戻って、そなたを愛する夢を我らと共に見させてほしい。それが星の、母の願いだ」





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