【08】-3
何だって出来るときに、何もしなかった自分。
本当に何も出来なくなって、初めて、気づいたんだろう。何だって出来たことに。もうそれが、出来ないことに。
駅でいつも、孝を見ていた彼女。いつも、ただ、見ていただけだった。いつも、いつのときでも。小さくても一言声を発すれば、ほんの少しでも手を伸ばせば、すぐに届く。そんな距離に孝がいたときでさえも、彼女は、ただ見ていただけだった。
きっと、孝のことだけじゃない。他にもあるんだ。思うだけで、しなかったことが沢山。出来たのに、しなかったことが沢山。出来なくなってから初めて、したかったと心底願ったことが沢山。
彼女の魂が害されたとき、彼女の中にあったのは、理不尽な世界に対する怒りや憎しみなんかじゃなく、何もしなかった自分に対する強い後悔、それだけだったんだ。
「なんで……。そんなに、消せないくらい後悔するなら、なんで生きている間に、元気で何だって出来たときに何もしなかったんだよ」
俺を見る彼女の目が、ぐっと睨むように狭まる。きつく責めるような眼差し。だけど、その感情は恐らく、俺に向けられているのではないのだろう。
「していないことも、やってみたかったことも、もっとやりたかったことも。一杯あるなら、なんでその時にしなかったんだよ。なんで……」
言って、ぎゅっと拳を握り締めた。そうしないと、悔しくて、俺が泣きそうだった。
「孝のことだって。そんなに好きなら、なんであの頃、声をかけなかったんだ。孝はそこにいたのに。君のすぐ傍にいたのに」
知らない子でも、自分を好きだという子から声をかけられたら、孝はきっと、それだけで有頂天になるくらい喜んだはずだ。付き合う付き合わないは分からないけど、その気持ちに対して、ありがとうって、絶対、喜んでいた。それなのに。
俺を見たまま、その睨むような目元が、眼差しが、崩れるように歪む。
『……だって』
声と一緒に、頬に涙が一滴流れて落ちた。
『だって、こんなことになるなんて思わなかったんだもの。ずっと、普通に毎日、明日が来るって、そう思ってたんだもの』
責めたてるように言うその顔が、涙でぐしゃぐしゃになっていく。
『自分が病気でこんなに早く死ぬなんて、思うわけないじゃない! したいのに出来ないことが、出来たのにしなかったことが、こんなに辛いなんて、分かるわけないじゃない!』
悲痛な叫びを部屋に響かせて、彼女は両手で顔を覆った。震えるその肩を目に、俺ももはや、滲む涙を堪えられなかった。
彼女の言うとおりだ。思うわけがない。分かるわけがない。
どれだけの人が、明日自分が死ぬ可能性と真剣に向き合って生きているだろう。
生まれたからには、いつか必ず死ぬ。そんなことは誰でも知っているのに。死が自分に突然ふりかかってくる可能性を、不思議なくらい、殆どの人が考えない。
俺だって、両親のことでその唐突さを知っているくせに、明日すればいいやとか、今度でいいやとか、そんなことをしょっちゅう思って過ごしている。その明日や今度が、本当に自分に訪れる確証なんかどこにもないのに。一日一日を大事にしろとか、後悔しないように生きろとか、頭ではいくらでも分かっているくせに、心では多分、理解のりの字にも届いていない。彼女に、ものを言える立場じゃない。
人は失くさないと、その本当の価値を知ることは出来ないとよく言う。悔しいけど、きっとその言葉は真実だ。今実際、そのことで悔やんで泣いている彼女を前にして、張り裂けそうに胸を痛めていても、それでもきっと俺は、明日が来ることの本当の価値を、自分がそれを失くすまで、本当には理解できないんだ。大事だと、知っているくせに。失いたくないと、思っているくせに。
こんな俺が、彼女に何を言ってあげられるというのか。何も言えない。言えっこない。
だけど、彼女は還らなきゃいけないんだ。それだけは、絶対なんだ。自分自身への後悔の念が、還ることの妨げになっているなら、それを消してやれば、きっと彼女は還れる。
でも、どうしたら、そんな重い後悔を消してやれる? 言葉じゃ無理だ。失って本当を知った彼女に、知らない俺が何を言っても、所詮そんなの虚言でしかない。じゃあ、どうしたらいい? 何をしてあげられる? 失った彼女に、まだ失っていない俺が、何を。考えろ、考えろ、考えろ。考えるんだ。
彼女はまだ、両手で顔を覆って肩を震わせている。彼女が泣いているのは、後悔しているからだ。
後悔………。俺なら……。いや、でも。………いいや、それしか俺には出来ない。それにもう、彼女にそれがしてあげられるのは、俺だけだ。フィーにも樹霊さんにも、出来ない。俺にしか、出来ない。だったら。
「言って」
こんなことで、彼女の後悔が和らぐか分からないけど。
「俺に言って。君がしたかったこと全部。出来なかったこと全部。聞くしか、出来ないけど」
もし俺が彼女の立場なら、せめて誰かに聞いて欲しいと思うから。自分の気持ちを。後悔している、その気持ちを。
「だけど、きちんと聞くから。君が思ってること全部、俺に聞かせて」
震える肩が、微かに止まる。どうか、俺の気持ちが届くように。必死で祈った。
「大丈夫。俺にしか聞こえない。だから、何でも言って。何でも、聞くから」
涙で濡れた頬が、躊躇いがちに上がる。俺を見ながら逡巡する彼女に、安心させるようはっきり言って、彼女の言葉を待つ。
黙って目で諮詢するような間の後、彼女がおずおずと口を開いた。
『……もっと、本を読みたかった。読みかけの本があったの。読んでみたい本もあった。観たい映画も。行きたい場所も』
まだどこか躊躇うようなその声に、しっかり頷く。
「うん」
『勉強も、もっとしたかった。もっと真面目に授業を聞いて、試験を受けて、もっとちゃんと、勉強したかった』
「うん」
『友達とも、もっといっぱい遊びたかった。もっとお洒落をして、お化粧も髪型も洋服も、いろいろ』
「うん」
『就職して、働いて、お給料で旅行とか行って、好きな人と結婚して、子供を産んで……』
喉を詰まらせたように、彼女が言葉を止める。その目から、大粒の涙が零れ落ちて、次から次に流れていく。
『もっと……、もっと、生きていたかった』
「……うん」
ちゃんと聞くって言ったのに、彼女の顔が滲んでどうしようもない。胸が押し潰されそうで、口で息を吐いたけど、何の助けにもならなかった。
涙に歪んだ顔で訴えるように俺を見ながら、彼女が声を震わせる。
『ごめんなさいって、お母さんとお父さんに、謝りたい。ありがとうって、言いたい』
「…うん」
『もっと、ずっと、優しくすればよかった。いつも自分のことばっかりで、心配ばっかりかけて…。こんなことになるなら、二人のために、もっといい子でいればよかった。もっとちゃんと向き合って、色んなこと話せばよかった。恥ずかしがらないで面倒くさがらないで話をして、もっとちゃんと、話を聞いて………。いつだって愛してくれてたのに……。ありがとうって、ごめんなさいって、ちゃんと……。友達にだって……』
しゃくりをあげて、彼女は両手で目元を押さえた。その肩の震えが、刺さるように胸に痛い。
『みんなに、ちゃんと、言えばよかった。もう言えなくなるなら、何十回でも何百回でも、言える限り、言っておけばよかった。ありがとうって、ちゃんと言葉で……。愛してたこと、みんなに伝えたかった』
「…うん…」
顔を覆ってしゃくりをあげる彼女に、何とか返した頷きは、情けないほど上擦っていた。手の甲で濡れた目元を拭って、真っ直ぐ彼女に顔を向ける。
「ちゃんと伝わってる。君の気持ち、俺に届いてる。伝わってるよ」
伝わりすぎて、痛いくらいだった。どうして人は、失ってからじゃないと、こんな大事なことに気づけないのだろう。
周りにいる人達を、本当に大事に思っていること。伝えなきゃ、いけないんだ。思っているだけじゃなくて、相手にちゃんと伝えることに、大切な意味があるんだ。伝えたくても伝えられなくなる日が、必ず来るんだから。自分の気持ちを自分で相手に伝えられることが、どれだけ幸福なことか、彼女のおかげで、初めて心に知れた。
しゃくりをあげながら、それでも顔をあげた彼女が、震える口を戒めるように噛む。そうしてから、何度も何度も呼吸を整えるようにして、彼女はやっぱり、泣きながら言った。
『………好きだったの。初めて会ったとき、人混みで転びそうになったの助けてもらって。ずっと、好きだったの』
ぽたぽたと涙を零す彼女の声に、真摯に耳を傾ける。
『最初はただ、親切な人って思っただけだった。でもその後、何回か駅で見かけて、携帯で誰かと話してるときの笑い顔とか、声とか、いつも明るくて楽しそうで。嫌なことがあった日でも、それだけで何だか気分が明るくなって。ああ、この人いいな、お話してみたいなって……』
一語一句忘れないように、耳に、胸に、刻む。今ここにいる彼女の思いを。
『でも、勇気がなくて。折角会えても、今日は恋愛運が悪いからとか、今日は服が変だからとか、そんな言い訳ばっかり自分にして。また今度、今度頑張ろうって……。馬鹿みたい。怖がってばっかりで、何もしないで……。こんなことになるなら、友達になってくださいって、勇気出して言えばよかった。また今度なんて逃げてないで、ちゃんと……』
溢れる涙に負けたように、彼女は震える瞼を閉じた。悲嘆に暮れる顔が沈む。
『好きですって、思ってること全部、素直に伝えればよかった』
震える涙声を、ひたすらに俺は噛み締めた。出来ることなら、孝を揺さぶり起こしてでも、孝本人に向かって言わせてあげたかった。たとえ、彼女の声が孝に聞こえなくても、通訳なら俺がしてやれる。だけど、それが出来ないのも、彼女の思いの結果で。
どうして、こんなことになったのだろう。彼女はただ孝を好きなだけで、穢れになって孝に害をなそうなんて考えてもいなかっただろうに。穢れになることも、穢れを撒くことも、本人の意思とは無関係なのだろうか。だとしたら、あまりに酷だ。
ずずっと鼻を啜って、軽く息を整えてから、口を開く。
「君の本当の名前、教えてくれる?」
俺の言葉に、彼女は子供のように、グーにした両手で涙を拭いながら答えた。
『宮原、由希』
「由希ちゃん。こいつ、能天気で間抜けなところもあるけど、友達思いのいいやつだよ。由希ちゃん、見る目あると思う」
涙で濡れそぼった目で見てくる由希ちゃんを真っ直ぐに見て、心の底から湧き上がる言葉を口にする。
「ありがとう。孝の友達として、君の気持ち、嬉しい。忘れない」
たとえ孝が知らなくても、他の誰が知らなくても。
「俺が覚えてるから。宮原由希っていう一人の女の子が、孝を好きだったこと。君が忘れてしまっても、俺が忘れないから」
きっと、ずっと、忘れない。忘れられない。由希ちゃんのことも、その思いも、何もかも。
「孝を好きになってくれて、ありがとう」
しっかりと、言葉に気持ちを込めた。由希ちゃんに伝わるように。俺が本当にそう思っていることが、ちゃんと伝わるように。
由希ちゃんは濡れそぼった目を更に濡らして、俺を見ていた。
わなわなと震える口元もそのままに、溢れ出す涙を感受するように、静かにその瞼が閉じられる。
そうしてから、こくりと頭を揺らして、由希ちゃんは頷いた。
『……ありがとう……』
呟かれたその言葉は、今までに俺が聞いた誰のどんなものより、胸を震わせて、心に深く沁み込んでいくようで。
俺もまた頷き返しながら、浮かんでくる涙に目を瞑った。そして。
「駄目だ、真生」
「え…」
突然割り込んできたフィーの声に、振り向く暇なく、俺は意識を失った。




