【07】-5
「それは……」
冷ややかな物言いを前に、つい口篭った。狭まった青が、嘲るように光る。
「言えぬであろう? だからと別に責めておるわけではない。人間とはそういう動物だ。だが我らとて、」
「いいえ、ラインの乙女。叶うならば私も、消滅ではなく浄化をと、心よりそう望んでおります」
フィーの言葉を遮るようにその時、樹霊さんが消え入りそうな声で、でもはっきりと言った。
「生きたいと願うが生物の本能ならば、還りたいと望むが魂の本能。何ゆえにあの魂が害されたか知る由もございませぬが、還りたいと望むからこそ、穢れを撒く憐れな存在となったのでしょう」
フィーを真っ直ぐに見ながら、樹霊さんは口を動かした。
「私は自分の意思で星に還らぬ道を選びました。なれどあの穢れは、還りたくとも還れずに、苦しみもがいているのです。その身の穢れさえ清まれば、無垢なものに戻り、大いなるものの御許に還ること叶いましょう。望むのならば、そしてそれが叶うのならば、そうなるべきにございます」
消え入りそうな声とは反対に、きっぱりとした態度で言って、樹霊さんは濡れた頬もそのままに、少しはにかむように微笑む。
「ラインの乙女。私は遥かより風達から貴女様のことを聞き及んでおります。同じく人ならぬ身でありながら、同じように人を愛し人に愛された方が、貴女様のようなお方だと知り、真に嬉しく心強く、憧憬をも抱いておりました。恐れ多いことではありますが」
フィーはじっと樹霊さんを見た後で目を伏せ、やや間をおいて言葉を零した。低い静かな声だった。
「……同じではない。そなたと、私は違う」
「存じております。それでも貴女様は、慈しむほうを選ばれた。どうぞ、私にも慈しませてくださいませ」
目を伏せたフィーに真っ直ぐ顔を向け、樹霊さんが噛み締めるようにゆっくりと、強く言う。
「高潔で情深きその在り方を、私にも倣わせてくださいませ」
その頭が深々と下がる。肩から流れる髪の毛の一本一本まで優雅に見えるその動作。とても女性的で柔らかい印象なのに、不思議と雄雄しさを感じた。
「御心に、星に愛されたこと、けして忘れませぬ」
頭を下げたまま言って、樹霊さんは動かない。フィーは歯を食いしばるようにして、ずっと目を伏せていた。その睫の先が微かに揺れていた。
俺は、内心で感情をぐるぐるさせていた。何をどう感じればいいのか、自分がよく分からなかった。
口先だけの思考。悔しいけど、否定は出来ない。相手を思いやれるのは、自分の心に余裕があるからだ。フィーが言ったように、還れなくなったのが樹霊さんじゃなかったら、俺はあの子を消そうとするフィーを止めただろうか。
樹霊さんが穢れになって孝に取り憑いていたわけでなく、孝に取り憑いた穢れから孝を守ろうとしてくれていたことは、俺だってもう理解している。そのせいで、樹霊さんが還れなくなったことも。理解していて、それでもあの時俺は咄嗟に、フィーを止めた。あの子が人間だから。
俺の心に余裕があるとするなら、それは、還れなくなったのが樹霊さんであって孝じゃないからで。そして、あの子が人間で、樹霊さんがそうじゃないから、なのだろうか。人間の孝を身を挺して守ってくれて、今こうして人間のあの子のために深々と頭を下げてくれている樹霊さんの命を、心のどこかで俺は軽んじているのだろうか。所詮人間じゃないからいいと、そう思っているのだろうか………。
伏せていた目を一度ぐっと閉じて、フィーは顔をあげた。見つめる先で、フィーの横顔は堂々としたものへと変わっていた。
「好きにせよ」
吐き捨てられた言葉に、樹霊さんが顔をあげる。フィーは、さっきまで、ともすればわなわなと震え出すんじゃないかと思うほど弱々しかった口元を引き締めて、強い口調で言葉を続けた。
「孝の澱は私が清めよう。あの穢れを流し消すも諦めよう。だが、浄化はせぬ。還したいと己が望むのなら、己で何とかせよ。私に倣いたいと申すならば、やってみせよ」
「フィー」
つい横から口を挟む。自分で何とか出来るものなら、樹霊さんだってとっくにやっているだろう。出来ないからこんなことになっているのに。
咎めるような俺の声に、フィーはくるりと顔を向けた。厳しいまでに毅然とした表情だった。
「お主もだ。孝を救い、尚且つ、あの穢れをも消すなと本気で願うなら、その心を見せてみよ。穢れからは私が守ってやる。だが、私がするのはそれだけだ」
言った青は、凛と研ぎ澄まされていて、本気だとそれだけで充分に分かった。無意識に、ごくりと喉が鳴る。
天井では相変わらず、女の子が泣いている。その下、ベッドの上では孝が昏々と眠り続けている。フィーの力なしで、俺に何が出来るというのだろう。でも、俺が動かなきゃ、二人は助からない。
孝に視線をやれば、樹霊さんと目が合った。あの日公園で会った時とは全く違う、白くぼんやりと透けてしまったその姿。人間じゃないのに、人間の孝のために、ここまでしてくれた人。自分の精気を穢したあの子のために、頭を下げてまでフィーに懇願してくれた人。彼女のためにも、何とかしたい。真摯にそう思う。彼女を助けることは俺には無理でも、孝やあの子と同じ人間として、彼女の思いにくらいは応えたい。
落ち着け。落ち着いて考えるんだ。俺には、声が聞こえている。フィー達には聞こえないらしいこの声が。姿も見える。それがどんな助けになるか分からないけど、何も全く出来ないわけじゃない、きっと。俺にだって、出来ることが何かあるはずだ。
ぐっと唇を噛んで、拳を握り締めた。
「……分かった。それでいいよ。ただ、少し教えて欲しい」
心を決めてフィーに向き直る。フィーは真っ直ぐ俺を見ていた。
「穢れは、害された魂だって言ったよな? その害を取り除くことが出来れば、穢れは消えるってことで、間違ってないか?」
尋ねながらも正直心のどこかで、フィーは答えてくれないんじゃないかと思っていた。だけど、フィーは淡々とながらも、はっきりと答えを返した。
「概ね合っていて、概ね間違っている」
「え?」
「害は今更取り除けぬ。あれを害した腐った精気は、肉体と共に既に消えておる。言うたであろう、あの穢れは強いと。本来なら私の気に触れれば、魂は浄化され無垢な状態に戻る。だがあの穢れはそれが出来ぬ。何故だと思う?」
「強い、から?」
「何が?」
「魂、が…?」
「正しくは、害された時に魂にあった念がだ。魂は無垢の状態で大いなるものの元を離れ、この星に存在する間に念を形成する。魂が精気と肉体を得て、最初に形成する念が、お主達のいう自我だ。その後生きた年数によって、念はいくらにでも増え、どんな形にも変化する。そして精気が尽き肉体が滅び大いなるものの元へ還る際に、この世で培った念はすべて浄化され、魂はまた無垢に戻る。それが本来の在り方だ。たが、あの魂は精気が腐ったことによって、害を受けた。その害によって念が深く刻み込まれてしまっておるゆえに、私の気に触れてもそれが浄化されずに、無垢に戻れぬ。分かるか?」
試すように見据えてくる目を見返し、頭の中を整理する。
「じゃあ、その念を取り除いて無垢に戻してやればいいんだな?」
「口で言うは簡単だがな」
俺の問いにフィーは淡々とそう言い、軽く首を竦めてみせた。この結論で、間違っていないということだろう。
深く息をひとつし、俺は樹霊さんに顔を向けた。疑いひとつなく見てくる綺麗な目が、胸に突き刺さる気がした。
「……すみません。俺、あなたの命より人間のほうが大事だとか、そんな考えであの子を消すなって言ったわけじゃないんです」
嘘だ。言いながら自分で思った。樹霊さんの命の重さなんて、あの時の俺は考えてもいなかった。ただあの子が人間で、しかも小さい子供で泣きじゃくっていたから、俺はそれだけで、フィーを止めた。あの子のせいで消える樹霊さんのことなんか、これぽっちも頭になかった。
「俺は大事な人達を亡くしています。記憶にすら残ってない。あの子にもきっと家族がいて……。だから、生まれ変わりってものがあるなら、その可能性があるなら、それを消したくないんです」
だけどそれは、樹霊さんにも言えることだ。精霊に生まれ変わりがあるのか分からないけど、還るってことが出来るなら、あるのかもしれなくて、そしてそれを心待ちにする精霊だっているはずで。その重さを、俺は何も考えていなかった。
樹霊さんは俺を見たまま、にこりと柔らかい笑みを浮かべた。
「良いのです。人は人を思いやってこそ人。主様は人なのですから、それで正しいのです。もし今、私のことで胸を痛めておられるのなら、それは主様の心がお優しい証拠。何一つ、後ろめたく思うことなどありませぬ」
俺の心を見透かした上で、それでもくれる、その優しい言葉。労わるような温かな眼差し。
物凄く、胸が苦しかった。この人はもうどうしても、消えるしかないのだろうか―――……。




