【06】-6
「え?」
シシィがきょとんとして、足を止める。俺もまた、きょとんとしてフィーを見、その表情に、忽ち体を強張らせた。
「本当に運が良いな、お主は。間違いなく瞬殺されると思うたのに」
自ずと息を殺してしまうほど険しい表情で、フィーが俺に向けて言う。だけど、その目は俺を映してはいなかった。周囲のすべて、空気までも萎縮させるような凄みを持って、フィーの目は今、俺を通り越して、他の誰かに向けられていた。
「………どういう心積もりなのだ? 何故、こやつを殺さぬ? 御身ならば私の守りなど、赤子の手を捻るより容易く崩せように」
苦味を大量に孕んだフィーの声。俺は身動きひとつ、出来ずにいた。フィーの表情や、声色のせいじゃない。その時になってようやく俺も、何かの視線を、確かに、背中に感じていた。
肌という肌が毛羽立っているのが、見なくても分かる。
心臓が、自分のものとは思えない速さで鳴り響く。動物的危機本能の警鐘だろうか、血流の激しさに、がんがんと頭に痛みが走る。
恐い。
これまで、これほどの恐怖を味わったことはないと言い切れる。
それほどに、背中の向こうからこちらを見る誰かの眼差しは、おぞましいほど冷ややかで、そして、圧倒的に強かった。
まるで、ライオンを前にした生まれたての小鹿のように、ただただ居竦むしか出来ない。冷たい嫌な汗が、全身から玉のように吹きだす。
今になって、何故フィーがあんなに強く死を警告したか、よく分かった。敵うわけがない。震えることすら、出来ないのに。
フィーは猛然と鋭い目を瞬きすらせずじっと向けることで、それに対抗していた。一瞬の隙が命取りになると言わんばかりに、緊迫した顔つきだった。
いつのまにか握られていた左手に、痛いほど力が入る。
と、急にふっと、背中を刺し続けていた視線が、忽然と消えた。
凝り固まっていた空気に、やっと、風が通る感覚。
張り詰めていた筋肉が、徐々に少しずつ緩んでいくのを体で感じた。時間に直せば恐らく、二分もなかったかもしれない。それでも俺の体は、激しい緊張で、気絶しそうなほど疲労困憊していた。
フィーはそれでも、掴んだ俺の手を離そうとはしなかった。
「穢れ堕ちた身とは、交わす言葉も持たぬということか。気高き御身らしいことよ」
消えた視線の持ち主に向かって、フィーが毒づくように言い捨てる。その表情はまだ険を孕んでいるものの、さっきまでのような緊迫感はない。恐らくもう、いないのだ。
フィーの表情にそれを確認して、俺は大きく息を吸うと同時に、へなへなと頭から砂の上に上半身を崩し落とした。
「えっえっ、おい! おいでなのか? おいでになっていらっしゃるのか!?」
今頃になってシシィが、慌てたように声をあげる。まあ実質二分もなかっただろうから、今頃と言うのもおかしいかもしれないけど。
「もう去った。そなたも、そこまで入れあげるくらいなら、それくらい分かれ」
フィーが忌々しそうに、棘のある声を投げて返す。シシィはそれに動じることなく、遠い沖に顔を向けながら、高揚したように頬を染めている。こいつの神経が、よく分からない。あれほど絶大な恐怖をもたらした視線を、そこに張り詰めていた緊張を、少しも、何も感じなかったのだろうか。
「……大丈夫か?」
ややあって、フィーの声が俺の上に落ちた。それを機に、へたりこんだままだった上半身を何とかして持ち上げて起こす。
「……大丈夫…」
本当は全然大丈夫じゃないけど。でも、死んではいない。生きている。
「何の気まぐれか知らぬが、とりあえず、この場は助かったことだけは事実のようだ」
僅かに安堵した面持ちで、フィーが言う。いまだに握って離さないその手が、微かに震えていた。
あれは何だったのだろう。気になるものの、口にするのさえ躊躇うほど、俺の中にそれは激しい恐怖を残していた。もう去ったというなら、それでいい。早くここから、遠ざかりたい。
恐怖のあまり吹き飛んでいた孝のことが、ようやく頭の中心に戻ってくる。そうだ、早く帰らなきゃ。孝が待っている。こんなところで、へばっている場合じゃない。
俺のその心を見越したように、フィーが立ち上がった。
「もうこの場に用はない。早急に、戻るぞ」
「おっ。オレの出番か」
フィーの言葉に、シシィが振り返る。内心、またあの風の激流に溺れるのかと、少しげんなりしたけど、ここから去れるなら何でもいいとすぐに思い直して、俺も立ち上がる。
情けないほど、足元がふらついた。支えるように俺に手を貸しながら、フィーがシシィに顔を向ける。
「いや。もう、そなたは良い。世話になったな。礼を言う」
「別に気にしなくていいのに。ま、力が戻ったって言っても、またあんな濁った精気ばかりのところにいたら、すぐなくなっちまうだろうし、そしたらまた、オレを呼べよ。いつでも来てやるからさ」
「いいや。そなたはもう、私と関わらぬほうが良い。………なんて、こちらの都合で呼んでおいて、今更だな」
言い聞かせるように言って、フィーが少し苦く笑う。
シシィは、頭の後ろで両手を組んで、ふわふわと浮き上がりながら言葉を返した。
「そうそう。今更だよ。オレ、知ってるもん、本当は全部。ぜーんぶだよ。でも、オレはオレだし、銀の姫は銀の姫だ。お前が呼べば、オレは行く。どこへだって、どんな時だって」
きっぱり言って、にっと笑って付け足す。
「それに、その人の子、やっぱ欲しいし」
またそれか。口を挟む元気はないものの、俺はやや呆れてシシィを見た。シシィはそれに気づくと、やっぱり、にいっと笑ってみせた。無邪気な子供なのか、その反対なのか。よく分からないやつだ。
「気持ちは嬉しいが、どれほどそなたが強請ろうと、こやつはやらぬぞ」
フィーは諦めたように笑って言うと、顔を俺に向けた。
「戻ろう、真生」
「うん。…え?」
その言葉に頷いた途端、―――頷くより早かったかもしれない。視界が、いや、世界そのものが、ぐらっと大きく揺れた。




