【06】-3
―――音が、する………。
遠く……。いや、すぐ近くで。
何だろう。どこかで聞いた、懐かしい響き。ずっと、こうして聞いていたいような………。
なんだか、うっとりするほど、心地がいい。
何だろう、あの音。静かで、落ち着く。どこで聞いたんだっけ……。気になる……。ああ、でも、目開けたくないなあ。折角、気持ちいいし……。もう少しこうしてたいなあ………。ああ、でもそろそろ起きないとバイトが……………バイト………? バイトって、何だ? …あれ、待てよ……。……あれ? 俺、何してたっけ………?
がばっと、勢いよく起き上がった。つもりだった。
「気がついたか?」
すぐさま聞こえてきた声に、声を返す。
(フィー? …え……? あれ?)
おかしい。口を開けて声を出しているはずなのに、全く音になっていない。微妙に焦って、喉に触れようとして、はたと止まる。
………手の動かし方が、分からない。
手だけじゃない。足も、頭もだ。動かしていたと思った喉や口ですら、考えれば考えるほど、どうやって動かしていたのか分からない。焦りつつ、周囲を見る。
見て、いるのだろうか、これははたして。真っ暗だ。眼球を動かしている感覚もなければ、瞼を開けているのか閉じているのか、その感覚すらさっぱりない。
ただ、音だけが聞こえる。さっき、夢うつつとしながら聞いていた音。どこかで聞いたと思った。今なら分かる。プールなんかで、水の中に潜った時の音だ。それも深く潜って、暫くじっと動かなかった時に耳に響く、静かな、心地いい水の音。
………一体、どうなっているんだ、これは。
(フィー、大変だ。なんかおかしい、俺、)
つい焦って話しかけたものの、声が出ないことを更に思い知らされただけだった。動揺のあまり、さあっと、全身から血の気が引く思いがした。
だけど、俺のその不安を見抜いたように、すぐにフィーの声が響いた。
「落ち着け、大丈夫だ。聞こえておる」
(え、聞こえてるの?)
一気に安堵して、矢継ぎ早に問いかけた。
(ていうか、なんで声出ないの? 俺、今、どうなってるの? ここ、どこ? 何がどうなったの?)
「落ち着けと言うておろう。簡単に言えば、お主は今、私の中だ。私の気を大量に注ぎ込むことで、お主を私に融合させた」
(融合?)
「分子レベルで溶け合ってひとつになったと言えば、分かるか?」
(分子レベルで溶け合ってって、どう……)
どうやって? そう尋ねかけて、一瞬で、記憶が生々しく蘇った。
―――そうだ、そうだった。俺は、こいつとキスしたんだった。先にしてきたのはフィーだけど、途中からなんか暴走して、今考えると、とんでもないことをした記憶しかない。ほぼ強引に弄って吸い付いた小さな舌の感触を思い出すと同時に、自分の行動に青ざめる。謝るべきだろうか、これはやっぱり。いやでも、フィーが。いやでも、やっぱり俺が。
内心悶々と悩む俺を余所に、フィーは少し気が抜けたような声を出した。
「しかし、よう眠っておったな。シシィが案じておったぞ。私が気をやりすぎたせいだとか、そもそもが間違いだとか、喧しいほどに。あれはよほど、お主を気に入ったようだな」
何もまるで気にしていなさそうなその口調に、俺もまたちょっと気が抜けた。
(そっか。シシィは?)
「もうおらぬ。月の光が届かぬ場所まできたゆえ、先に上がらせた。渋っておったが、あれを危険に晒すわけにはいかぬ」
危険。その言葉に緊張が走る。
(じゃあ、今もう、母の胎内?)
「いいや、違う。ここはまだ、人間達が言うところの深海だ」
(深海……)
「真生、私の言うたことを覚えておるな?」
(うん)
「じきに着くゆえ、お主にも分かるよう、少し説明をしておこう」
言って、フィーは語るように続けた。
「私は最上古精だと、シシィから教わったであろう? 最上古精はかつて、四源精と呼ばれる精気の結晶から生まれた。そして、その四源精の大元が、始精根。始精根は、この星の起源に纏わる精気で、星に満ちる全ての精気の源だ。母の胎内には、この始精根の源流が渦巻いておる」
(…始精根の源流…)
想像力が足りなくて、どんなものかはっきり想像出来ないものの、とにかく凄そうだってことだけは分かる。
「この星で生まれた精気は、どんなものであれ、この大渦に近づくだけで、始精根に融合する。己という一は完全に消え、皆等しく始精根という全に還り、母の胎内の大渦、星のゆりかごの中で、永久にまどろみ続ける。二度と、元の一には戻れぬ。ゆえに、私達最上古精しか行けぬ場所だといわれるのだ」
「私達は四源精の結晶ゆえ、元々が始精根に限りなく近い。融合してもまたそこから、完全な一として抜け出せる。お主に私の精気の三分の二以上を注ぎ、私に融合させたのは、そのためだ。お主本来のままでは、始精根と融合したら最後、二度と元の一に戻れぬからな」
(そうなんだ……。ありがとう)
「しかし、お主には精気だけでなく、魂がある。魂というのは本来、大いなるものの一部であって、この星のものではない。始精根から派生した精気とは別の、独立した生命体なのだ。これまでずっと禁忌とされてきて、前例がないゆえ、魂が始精根と融合した場合、どんな支障がどちらにどれほど出るか、正直私にも分からぬ」
(え)
「だが、お主は指輪と正式な契約を交わしておる。あの指輪の中にあるのは、私の魂だ。魂が契約を結ぶのは、魂相手にだけ。そして契約を結ぶということは、それに縛られると同時に、守られるということでもある。何が起こっても、私の魂が必ず、お主の魂を守ろう」
はっきりと強く、フィーの声が響く。
「案ずるな。私の魂は星より強い。なんせ、自ら請うて封印せねばならなかったほどだからな」
そう言う口調は、いつもの権高なものなのに、何故かそこに僅かに、自嘲めいたものを感じた。
そういえば、フィーは前にもそんなことを言っていた。八百年前、精霊王の許しを得て、自ら魂を移したとか何とか。あの時は大して気にも留めずに聞き流したけど、もしかしたら、何かそこに深い事情があるのだろうか。俺の知らない、深い事情が。
考えてみれば今更だけど、俺はフィーのことを殆ど何も知らないに等しいのかもしれない。
( お前、本っ当に何も知らないのな )
( ま、人の子が人の子のため以外で動くわけないもんな )
さっき、風の道でシシィが言ったそんな言葉達が、脳裏を過ぎって、ちくりと胸を刺した。
正直、状況が許すのなら、フィーに今すぐ聞いてみたいことが沢山ある。でも、今は、やることはひとつだ。
(うん。分かってる。お前は絶対俺を守るって、分かってるから、大丈夫)
可能な限り、力強く答えた。それに返ってきた声もまた、凛々しいほど力強かった。
「よいか、真生。始精根と融合しても、私と融合しておる限り、一という己をお主自身が消さなければ、私と共にそこから抜け出せる。お主がすべきことは、一である己を忘れぬこと。それだけだ」
(お前は? お前は何をするんだ? 大丈夫なのか?)
「私は始精根に融合し、再び一となることで、失った力を取り戻す。まあ恐らく、それも一時凌ぎにしかなるまいが、それでも穢れくらいは浄化できよう」
淡々と答え、フィーはまた声に力を込める。
「その後、お主を融合させたまま、すぐに陸へ上がり、そこでお主を切り離す。私はお主を取り込む気はないゆえ、お主が注意すべきは、始精根との融合時、その時だけだ。よいな? 一である己を、けっして忘れるでないぞ」
(分かった)
しっかり答えながらも、心臓が震えているのが分かった。実際、分子レベルでフィーとひとつになっているらしいから、俺の心臓が震えているのか、フィーのそれが震えているのか、よく分からないけども。
緊張のあまり、高揚しているのだろうか。火照るように体が熱くなってきた。その感覚さえ、俺のものなのか、フィーのものなのか、あやふやだ。
「見えてきた。あれが、母の胎内への入り口だ」
響いてきた言葉と同時に、闇に包まれていた視界に、ゆらゆらと立ち上る煙のようなものが見えた。
それに近づくにつれて、体がどんどん、焼けるように熱くなってくる。これはもう、どう考えても、高揚しているせいなんかじゃない。吹き上がる猛烈な熱に、意識が否応なしに朦朧としてくる。光も届かない深海にいるはずなのに、この熱。ここまできて、ようやく俺も合点がいった。
真っ暗な深海の底、もくもくと湧き立つ水蒸気、その遥か奥にちらちら見える、赤とも黄色とも取れる熱の光。マグマだ。海底火山――――。
「行くぞ。よいか、一であることをけして忘れるな!」
フィーの声は、そこで途切れた。
溶けて、根こそぎ蒸発しそうな熱の噴射。
抵抗すれば全身が砕けそうな、強い引力。
俺は、俺達は、それに包まれるように海底火山の噴火口の中、ぐらぐらと煮え滾るマグマが待ち構える地殻の割れ目、その奥へと飛び込んでいた。
それが、意識の最後だった。




