【05】-3
カチッカチッと、硬い秒針の音だけが、静まり返った部屋に大きく響く。
俺はベッドの上に体を投げ出して、まんじりともせずその音を聞いていた。
少し、一人にさせてほしい。頭を下げる俺に向かってフィーが返したのは、この一言だけだった。そしてその言葉の通り、人目につかない場所まで来ると、フィーは無言で指輪の中に消えた。以来もう数時間、一向に姿を現さない。
過ぎる時間に気だけが焦るけど、俺一人ではどうしようもないのが現実だった。俺には穢れは見えないし、お寺や神社で、護符とか清めの塩とかを貰ってきて、それで何とかなるのなら今すぐそうするけど、フィーは人間の力じゃどうしようもないと言った。どうしたら孝を助けられるのか、皆目見当もつかない。
考えても考えても何も出てこない自分の頭に腹が立って、乱暴に髪を掻き毟った。不安と焦りを追い出そうと、きつく目を閉じてみても、昼間見た何かに怯えるような孝の顔と、泣くように癇癪を起こしたフィーの顔が、ぐるぐると際限なく脳裏に浮かんできて、少しも落ち着かない。どうしたらいいんだろう、どうしたら。
以前なら穢れを祓えたと、フィーは言っていた。それが今出来ないのは、俺達のせいだと。俺達がフィーのその力を奪ったのだと、そう言っていた。今にも溢れそうな涙を目に一杯溜めて、思い出すだけで苦しくなる表情を浮かべて……。
フィーは水の精だ。あの言葉から推測する限り、環境汚染で水が汚れていて、そのせいでフィーは力を失ってしまったのだろう。でも、俺にそんなことを言われても、俺にはどうしようもないし、そもそも環境汚染だって俺は関係ない。
苛立ちに寝返りを打つ。ふと、炬燵の上、充電器に差し込んでいる携帯が目に入った。白々しい蛍光灯の下、充電中を知らせる赤いランプが光っている。一瞬、体の動きも頭の動きも止めて、まじまじとそれを見つめた。
―――俺は関係ない……?
違う。関係なくなんか、ない。
携帯に、照明。テレビやエアコンやパソコンなんかの、スイッチを押せば使える電気機器。ペットボトルや弁当の容器。お菓子の袋。コンビニのビニール袋。ビニール傘。俺の日常にあるものはみんな、発展した文明の賜物だ。人間が人間の利便性のために発展させた、人間のためだけの文明。その恩恵に与りながら、俺は今のこの世界で生きている。関係なくなんか、全然ない。
電気やガソリンの使用、使い捨ての容器やビニール袋なんかが、環境破壊に繋がることは俺だって知っている。自分の生活が、その上に成り立っていることも、頭では知っている。知ってはいるけど、詳しくは何も分からない。考えたことがないからだ。一般知識として頭に入っているだけで、環境破壊問題と言われても正直、排気ガスによる大気汚染とか、二酸化炭素による地球温暖化くらいしか、ぱっと思いつかない。メディアでエコが謳われて、バイト先でもエコキャンペーンがたまにあるけど、本気で向き合ったことなんかなかった。関係ないと思っていたからだ。実質、自分が困る状況にいないから、何も困っていないから、俺には関係ないって、考えようともしなかった。
だけど今実際、俺はこうして困っている。人間の力じゃどうしようもない事態に直面して、困っている。困ったから、やっと考えようとして、やっと、気づいた。
実際に困らないと、何も考えようとしないなんて。何にも気づかないなんて。どうしようもない馬鹿だ。本当に、どれだけ自分本位なんだ。阿呆だと、フィーが泣いて当然だ。
ごめんな、フィー。俺、あの時、謝ったけど、本当には全然分かってなかった。今の今まで、本当に、少しも気づきもしなかった。
この世界で、自分には関係ないなんてことは、ひとつもないんだ。俺自身、世界の一部で、他の人だって、フィーだって、そうなんだ。みんなみんな、世界と関係しあっているんだ―――…。
だけど、じゃあ、どうしたらいい? 今すぐ環境を元に戻すなんて、魔法使いでもない限り無理だ。俺に今すぐ出来ることなんて、なるべくゴミを出さないようにしたり、節電に気を配ったり、せいぜいその程度だ。どうしたらいい? どうしたら、フィーに力を返せる? どうしたら、孝を助けられる? 考えろ、考えろ、考えろ。お前の頭は、考えるためについているんだ。考えろ、真生。
悶々としながら自分に語りかけたその時、静まり返った部屋の空気を震わせて、携帯が鳴った。
咄嗟に飛び起きて、引っつかむように携帯を取る。ディスプレイに表示されたその名前に、一も二もなく、通話ボタンを押した。
「もしもし孝っ!? おま……」
『もしもし? 真生くん?』
だけど、電話の向こうから聞こえてきた声は期待していたものじゃなく。今この時、聞くのが一番怖いとも言える人のものだった。
「…孝の、おばさん……」
『ごめんなさいね、夜遅くに……』
体中の血液が、すっと冷たくなった気がした。どうしようもなく嫌な予感が、胸に突き上げる。
「いえ、どうかしたんですか?」
訊きながら、縋るように携帯を握り締めた。
『孝が…、目を覚まさないの。もう、麻酔が切れてなきゃおかしいのに。全然目を覚まさないの。頭を打ったこともあるし、もう一度脳波も調べてもらったんだけど、先生達も分からないらしくて』
動揺を無理に押さえつけた、張り詰めた声でおばさんが続ける。携帯を持つ手が、微かに震えていた。
『それでね、真生くんが付き添ってくれてた時、孝に何か変わった様子はなかったかと思って、聞きたくて』
「いえ、何も、特に変わった様子なんか……。普通、でした」
『そう……。ありがとう。ごめんなさいね、夜遅くに突然』
「……いえ」
喉が固まったみたいに、上手く動かなかった。
『そうだ、真生くん。変なことを聞くけど、あの子の手に桜の花びら握らせた?』
「桜の花びら?」
突拍子もないおばさんの問いに、強張った眉間に皺が寄る。
「いいえ。何ですか、それ」
『分からないの。さっきあの子の手握ったら、中から花びらが一枚出てきて。階段から落ちたとき、あの子妙なこと言ってたから、ちょっと気になって……。ごめんなさいね、変なこと聞いて』
「孝、何て言ってたんですか? その、階段から落ちたときのこと」
無意識に、畳み掛けるように問いかけた。心臓の音がどくどく耳に響いて、邪魔だった。
やや躊躇うような、戸惑いに満ちた声が、電話の向こうから届く。
『それが、本当に妙な話なんだけど……。自分は突き落とされたって。落ちる時に咄嗟に相手を掴んだはずなのに、手に握ってたのは桜の枝だったって』
「桜の枝……?」
『でも誰も、桜の枝なんて見てないのよ。多分、頭を強く打ったせいで混乱してたんだと思うけど』
「…桜……」
『ごめんなさいね。突然電話して、心配かけて。あの子、本当に昔からそそっかしくて……。気をつけるよういつも言ってたのに……』
電話の向こうで、おばさんが声を詰まらせた。何か言わなきゃと思うけど、何も言葉が出てこない。
『本当にごめんなさいね。目を覚ましたら、すぐに連絡させるわね』
おばさんは、ごめんなさいね。と、何度も言って電話を切った。俺は通話を切るのも忘れて、呆然としていた。




