【04】-4
「は?」
「だから、誰かに突き落とされたんだよ、後ろからいきなり」
意味が分からず訊き返せば、孝はますます身を乗り出して繰り返した。
「じゃなきゃ普通、階段一番上から下まで転げ落ちたりしないって。仮に一段踏み外したとしても、転げ落ちるまでいかないだろ、普通に考えて。俺、運動神経いいし」
唾を飛ばして、孝が熱弁する。俺は、少し距離を取るように身を引いた。
「孝。気持ちは分かるけど、そうやって何でも人のせいにばかりしてると、将来ろくな大人になれないらしいぞ」
「本当なんだって。信じろよお前、友達だろ」
「まあ、混んでたら、すれ違いざまにぶつかることもないとは言えないけどさ、だからって、突き落とされたっていうのは、ちょっと大袈裟だろ」
「混んでなかったし、落ちる直前に、すぐ真後ろに誰かがいる気配がしたんだ。一瞬だったけど。なんでこんなにくっついて立つんだろうって俺、変に思ってさ。振り返ろうとしたらいきなり、どんって背中押されたんだよ」
真顔で話しながらも、孝は怯えたように声を潜ませた。らしくないその態度に、自然と俺も顔が険しくなる。
「見たのか、そいつ?」
「いや。落ちた直後は俺、頭打ってそれどころじゃなかったし。後で駅交番のおまわりさんに言ったんだけど、目撃してた人の話によると、俺の周りには誰もいなかったって」
「なんだ。じゃあやっぱり、お前の思い違いじゃん。あんま驚かせんなよ」
「思い違いなんかじゃないんだって、絶対!」
気が抜けて表情を緩ませた俺に、孝が吠えるように声を荒げた。
「ちょ、落ち着けよ。でかい声出すなって」
「本当に、違うんだよ」
宥める俺を縋るような目で見ながら、孝は続けて訴える。
「勘違いなんかじゃないんだ」
いつもの能天気な顔からは想像できないほど真剣なその顔つきに、怪訝さが募って、嫌な感じに胸が騒いだ。
「だって、俺、その時、」
「真生!」
「ぇ、…ッ!!」
「うわああッ!!」
孝の声を掻き消して、突然フィーが叫んだのが先だったか、それとも、ガラスの割れる音が先だったか―――…。
一瞬の出来事すぎて、判断はつかない。
ただ、次の瞬間にはもう、派手な音を立てて落ちてきた窓ガラスが、白いシーツの上に、点々と赤い染みを散らせていた。
「それで、あなた達は本当にどこも怪我してないのね?」
「はい」
気遣わしげに見てくる婦長さんに頷いて返す。その拍子に髪から雫が垂れて、貸してもらった病衣にぽたりと落ちた。
「そう。怪我がなくて何よりだけど、でも災難だったわねぇ、あなた達も。こんなこと初めてよ。去年ガラスを新しくしたばかりなのに、どういうことかしら、本当に………」
納得いかない様子で頬に片手を当てそう話しながら、婦長さんはふと、並んで座る俺とフィーを見、少し首を傾げる。
「でも不思議ねぇ。あなただけ、そんなずぶ濡れになるなんて。雨もそんなに強くないみたいなのに……あ、佐藤さん、尾上さんのご家族の方と連絡取れた?」
忙しそうに去っていく婦長さんの足音を耳に、俺は貸してもらったタオルで濡れた髪を拭った。
午前中で診療時間は終了なのか、処置室前の廊下は閑散としている。合皮製の長椅子はひんやりと冷えていて、薄い病衣越しにそれが直接お尻に伝わってきて冷たかった。
「フィー」
ひとしきり髪の毛を拭いてから、声をかける。ずっと黙ったままだったフィーは、少し遅れて返事をした。
「……なんだ?」
「助けてもらっておいて、なんだけどさ」
「ああ」
「ここまで全身、パンツまで全部、雫が滴るほどびしょ濡れにする必要はあったの?」
訊きながらフィーを見る。その視線に、フィーが心なし口を尖らせた。
「仕方なかろう。テレビに夢中になりすぎて、気づくのが遅れた。お主の周囲に水壁を作るだけで、お主を濡らさないとかそういう配慮をしておる暇まではなかった」
ぶすっとしてフィーは、目線を廊下の床に落とす。
「お主のアパートのテレビより、映像が綺麗だったのだ。私とて、力が全部この身に戻れば、こんな失敗はぜぬ」
文句を零すようにぶつぶつと一人言い、むすりと睨むような顔でフィーが俺を見る。
「よいではないか、別に。お主は怪我をしなかった」
「まあ、俺はね……」
小さな溜め息と一緒に言葉を吐いて、俺は視線をフィーから処置室のほうへ移した。それを見、フィーが、きっぱりと念を押すように口を開く。
「言っておくがな、真生。指輪がお主の手にある限り、私はお主を守るが、お主の友人まで守る義務も必要も、私にはない。それを忘れるな」
「別に、何も言ってないだろ」
返した言葉には、また溜め息が混じった。精神的疲労で、体が酷く重く感じた。
事故は突然起こるものだとよくいうけど、本当に、本当だ。
あの瞬間、何の前触れもなく、突然割れて砕け落ちてきた窓ガラスの破片で、孝は頭と腕に、縫わなきゃいけないほどの怪我をした。同じ場所、いや、むしろ、孝よりも窓に近い場所に座っていた俺は、フィーが咄嗟に俺の体の周りに作ったという、水の膜のようなものに守られて無傷だったけども―――…。
別にフィーを責めるつもりはないし、守ってくれて感謝もしているけど、血を流す友達を目の当たりにして、自分は無傷でよかったと思えるほど、俺は大人でも子供でもない。
処置室の中で、今まさに傷を縫われているだろう孝を思うと、何とも気持ちの収まりが悪かった。
「真生」
「ん?」
呼ばれて振り向く。フィーは足をぶらぶらさせながら、俯き加減でそれを見下ろしていた。
「お主の服は、いつ乾くのだ?」
「さあ。一時間くらいじゃないの」
「私に任せれば、一瞬で終わるというに」
「そういうわけにもいかないだろ」
窓ガラスが割れたとき、俺が全身ずぶ濡れになったことは、同室の患者さんや、騒ぎを聞きつけて駆けつけてきたお医者さんや看護師さんにばっちり見られている。フィーの申し出は有難いけども、雫が垂れるほど濡れていたのに、それが一瞬で乾いたら、みんな驚くどころの騒ぎじゃないだろう。よって、俺の服は今、看護師さんのご好意で病院の乾燥機の中で回っている。
「真生」
足をぶらぶらさせるのをやめて、でもやっぱりこっちは見ないで、フィーがまた呼ぶ。
「なに?」
「頭を貸せ」
「頭?」
「髪の毛くらい、よかろう」
訊き返した俺に、ふて腐れたように答えて、フィーが片手を差し出す。その動作で、フィーの意図してることが分かった。
「どうした。やけに親切だな、今日は」
意外さにやや目を見張りながら、素直に頭を傾ける。ふん。と、フィーは鼻を鳴らし、わしゃっと俺の髪を撫ぜた。
「私はいつだって親切だ」
その声色に、ちらりとフィーを窺がう。髪はもう、完全に乾いていた。
「ありがと」
「ああ」
頷き返すその声色も表情も、やっぱりそうだ。ぱっと見、いつもの生意気な口調と権高な表情に違いはないけど、そこに、どこか微妙に拗ねているような色が混ざってる。
フィーは手を引っ込めると、再びぶらぶらと動かし始めた自分の足を見る。俺はちょっとの間、そんなフィーを観察する気分で見た後、少し迷いながらも口を開いた。
「……フィー、お前。もしかして、気にしてんの?」
「何がだ」
「テレビに夢中になって、俺をびしょ濡れにしたこと」
途端、フィーの足がぴたりと止まる。図星だったらしい。
「なんだよ、今更。いっつも何か腹立てるたび、すぐ水ぶっ掛けてくるくせに」
なんだかちょっと可笑しくなって、少し笑ってしまう。普段やたら、老成しきったみたいな態度で偉そうにしてるくせに、自分の失敗にしょげて拗ねるなんて子供みたいなところが、こいつにもあったとは。指摘されて狼狽でもしてるのか、俯いて動かない姿に、ますます可笑しさが募る。
「不可抗力だったんだろ、これは。別に俺、怒ってないし、つうか感謝してるし。孝が怪我したのはあれだけど……、まあ不慮の事故だったんだしさ。ちょっと失敗したくらい、んな気にしなくて…」
「五月蝿い! そういう問題ではないのだ!」
笑い混じりの俺の声を、フィーが鋭く撥ね付けた。その声の迫力に、思わず一瞬、黙る。顔にあった笑みも、一遍に消え飛んだ。
「………なんだよ、いきなり。そういう問題じゃなかったら、何だっていうんだよ?」
フィーは躊躇うように少し口を噤んだ後、思い切ったように、こっちを向いた。




