【03】-4
音もなく、はらはらと桜が舞う。淡い水彩画のような風景の中、不意に何かが見えた。
人……? 人だ、男の人。時代劇に出てくるような格好をして一人、桜の木を見つめている。いや、桜じゃない。女の人だ。桜の花びらを集めて作ったみたいな着物を着た女の人と互いに見つめ合いながら、男の人が何か言っている。女の人もそれに対して何か答えている。必死に耳を澄ますけど、何も聞こえない。まるで無声映画を見ている気分だ。
男の人が女の人の髪に優しく触れ、その手に、女の人がそっと手を添える。微笑み、見つめ合っている様子から、声は聞こえずとも、二人が好き合っていることが分かる。見るからに、仲睦まじそうな恋人同士。
そう思った瞬間、男の人の手が女の人から離れた。そのまま、男の人が背を向ける。いつのまにか男の人は鎧を着ていた。それこそ、郷土歴史博物館とかにありそうな鎧。女の人がその背に向かって何か言っている。だけど、男の人は振り向くことなく、馬に乗って去っていく。
どうしたのだろうと考える間でもなく、何故か事情が分かった。戦に行くのだ、遠い地へ。彼には無関係の、大儀と言う名で飾られた権力争いの場へ。彼はそこで、顔も知らない人への忠義を果たして死ぬ。それが彼の運命だ。
一人残された女の人が、崩れるようにその場に座り込む。着物の袖が邪魔して顔は見えないけど、きっと泣いているに違いない。肩を震わせ、殆ど倒れ込むようにして女の人は一人、延々と咽び泣いている。そのまま、早送りの画面のように季節が変わっていく。夏が来て秋が来て冬が来て、また春が来ても、女の人は泣き続けている。その次の年もその次もその次も、ずっと。
なんだか、寂しさや侘しさと言った感情が流れ込んでくるようで、胸が痛い―――……、?
いや、待て。本当に痛い。痛い、痛い、痛い。 胸だけじゃなくて身体全部が、焼けるように痛む。なんだ、これ。どうなっているんだ。一体、何が起きている? 焼け付くような痛みに思わず目を瞑った瞬間、微かに銀色に光る何かが見えた。
フィー…? そうだ、髪の毛だ。フィーの、銀色の。良かった、フィーがいる。良かった、助かった。
そう意識にほっとしたのも束の間、直後、心臓を太い針で直接刺されたみたいな強烈な激痛が走った。
一瞬にして、呼吸さえ危うくなる。助けを求めて、かろうじて薄く開いた瞼の隙間から、フィーらしき影が見える。銀色の髪と青い目。それは確かに俺が見知っているフィーのそれだ。だけど、背格好が、顔つきが違う。俺が知っているフィーじゃない。今よりずっと年上の、綺麗な女の人になっていて、しかも、どういうわけか、泣きじゃくっている。
草も木も空も、何もないだだっ広い場所で、一人ぼっちで、声もなく泣きじゃくるその姿が、さっきの着物姿の女の人と被る。視界が掠れる。声が出ない。心臓が、痛い。痛 い。 息 が、出 来 な い―――――――――――――――…………。
もうだめだと思ったその時、耳の奥で突然、水面に雫が一滴落ちたような、澄んだ音が響いた。
途端、全身を駆け巡った清涼感に、すっと体が軽くなる。まるで、細胞の奥の奥まで清流で洗われて、芯から一気に息を吹き返したような、そんな清々しさ。
気がつけば、今にも気絶しそうだった激痛も息苦しさも、何もかも嘘みたいにすっかり消えていた。
「大丈夫か、真生」
確認するように言って、フィーが下から見上げてくる。髪を黒くした、俺が知ってるフィーだ。その手が包み込むように俺の耳に当てられていることから、さっきの水音の出所は彼女なのだろう。そう思うと、何故か妙にほっとした。
「…あ、ああ。大丈夫」
頷いて返しながら、徐々に緊張が解けていく身体で周囲を見渡せば、元通りの喧騒がそこにあった。見る限り、どこにも変わったところはない。空は長閑に晴れているし、桜もちゃんとまだ三分咲きの状態だ。道もきちんと舗装されている。
「今のって……何?」
まるで何もなかったみたいに普通に話したり笑ったりしている周囲の人達を訝りつつ、そう訊いてから、精神が参りかけてて白昼夢見たんだったらどうしようと少し不安になったけど、どうやらそういうわけではないらしい。すぐに答えが返って来た。
「恐らく私の力に共鳴するあまり、ここの地の気が一遍に溢れ出したのであろう。通常ならば、人間の感覚で感じられるものではないし、影響も受けぬのだが、お主は指輪をしておるからな。引き込まれやすくなっていたとしても不思議はない」
「地の気?」
「ここに在る精気のことだ。太古の昔からすべてのものには精気が宿っておる。水や風や土、火は勿論、木や花や草、石ころにもな。お主が見たのは、この地に存在するありとあらゆる精気が蓄えてきた、言わば、この土地の記憶の断片のようなものだ」
「この土地の、記憶……?」
じゃあ、最後に見えたあれは何なんだ。この土地の記憶だというなら、あの何にもない空間は、そこで一人ぼっちで泣いていたあの銀髪の女の人は、何なんだ。あれは、フィーじゃなかったのだろうか。それに、あの尋常じゃない痛み…………。
いまひとつ納得のいかない答えに、自然と顔が険しくなる。知らず黙り込んだ俺をどう取ったのか、フィーがあからさまに顔つきを変え、肩を竦めた。
「そう怯えずともよい。お主が嫌いな幽霊の類ではなし、邪気も感じぬ」
その、いかにも小馬鹿にした表情にむっとして反論しかけたその時、いきなり背後から、柔らかな声が割って入ってきた。
「邪気などとんでもない。皆、喜び逸っているのですわ。貴女様は、私共の生命の根源ですもの」
反射的に声のほうへと顔を向けて、直後、ああっ。と、人目も忘れて思わず大きく叫んでしまった。そんな俺を無視して、フィーが意外そうな声で呟く。
「ほう、先ほどの樹霊か」
「じゅれい?」
「具現可能な樹木の精のことだ。昨今稀に見かけなくなったと思ったが、このような街中にまだ残っておったとは、人の世もなかなか捨てたものではないらしいな」
一応説明はしてくれたものの、既に心此処に在らずといった感じで、フィーは一人すたすたと歩き出す。俺はと言えば、すぐには状況が飲み込めずその場に立ち尽くしたまま、フィーと、フィーが樹霊と呼んだその人を交互に見やるしかできない。
ずらりと並ぶように植えられた桜の中でも、特に大きく立派な木の下に立つその人は、間違えなく、あの女の人だ。さっき見た白昼夢、フィー曰く土地の記憶の断片とやらに出てきた着物姿の女の人。腰まである長い髪も、桜の花びらで出来ているような着物も、全部そっくり同じだから間違いない。
「風達から聞いてはおりましたが、まさか本当に貴女様がこの地にいらっしゃるなんて。お目にかかれて光栄にございます、ラインの乙女」
柔らかな声を響かせて、女の人がフィーに向かって深々と頭を下げる。その動作の優雅なことと言ったら、肩から流れる髪の毛の一本一本まで優雅に見えるくらいだ。それに対し、フィーは小さく頷いてみせただけ。お前はどっかの王族か。
なんて突っ込みが出来るわけもなく、大人しく突っ立ったまま二人を見守る。
「随分と懐かしい名で呼ぶ。それも風達か?」
訝しげに尋ねるフィーに、女の人は目を細め、たおやかに微笑んだ。
「探しものは見つかりまして?」
「どうやら相変わらず要らぬお喋りばかりしておるようだな、そなたらは。大概にしておかぬと、シシィに言いつけるぞ」
呆れたと言わんばかりにぐるりと目を回し、フィーが、俺には見えない何かに向かって咎めるような口調で言う。それをくすくすと柔らかい声で笑って見ていた女の人がふと、俺に目を留めて、見るからに優しい微笑を浮かべた。
「では、こちらの方が目下の主様なのですね。さすが、良きものをお持ちでいらっしゃること」
「あ…、どうも」
慌てて会釈しつつも、顔が赤くなるのが自分でも分かった。
さっきはよく見えなかったけど、こうして見るとすごく綺麗な人だ。和美人とでも言うのだろうか、切れ長の目にすっとした鼻筋、白粉を塗ったような白い肌。桃色に仄かに色づく目元や口元からは、上品な色気が匂い立っている。
普通ではまずお目にかかれない美人を前にして、すっかりのぼせ上がってしまった俺とは逆に、いつになく神妙な顔つきで桜の木を見ていたフィーが、振り返って、やっぱり神妙な顔で女の人を見る。
「もう、時を過ぎておるようだが?」
「ええ、存じております」
「還らぬのか……?」
どこか悲哀を感じさせるようなフィーの声。女の人は静かに微笑み、ゆっくりとその視線を木に移した。
「約束したのです、この地の春の姿を誰より愛でてくれた方と……。後々の世まできっと、何一つ美しさを損なうことなく此処を守ると」
まだ蕾のほうが多い桜を仰ぐように眺めるその姿に、胸がじんと鈍く痛んだ。眩しそうに目を狭めた彼女が今ではなく、過ぎ去った過去を見ているのが、切ないまでにありありと伝わってきたから。
あの白昼夢がこの場所の記憶だというなら、彼女の愛しげなその眼差しの先にいるのは、きっと、あの男の人なのだろう。俺にはもう、ぼんやりとも顔を思い出せないあの男の人の姿が、彼女には今も、互いに見つめ合っていたあの時のまま、はっきり見えているのかもしれない。




