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アルテニカ工房繁盛記  作者: 宗像竜子
第3話 男の意地と女の見栄
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男の意地と女の見栄(10)

 きょろきょろと周囲を見回すと、奥の扉の所に人影が見えた。ドレス姿と思われる影とその後に続く男性と思われる影は、話しながらこちらに向かって来る。

「これくらいって……、これで何度目ですか」

「照明係が急病になったんだから仕方ないでしょう? 大体何度目って言うけど、そんなに……あの時とあれと、それからあれに……あら? 数えてみたら結構あったわね」

「姉さん……」

 ひそひそとはばかるような男女の声はこちらに近付いて来る。

「だってあなた、上手いんだもの。才能あるわよ? それに今は見習い中の身でしょう。四の五の言わずに手伝いなさい。いざとなったらうちで正式に雇ってあげるから」

「劇場の照明係であの人が納得する訳がないじゃないですか。丁重にお断りします」

「まっ、本当にすっかり生意気になって」

「イテッ」

 ヴィオラの存在に気付いていないらしく、そんな遠慮のないやり取りが目の前で繰り広げられる。

 扇子か何かで頭を叩かれたらしい男が、後頭部を擦りながらこちらに目を向け、ぎょっと驚いたように足を止めた。よもやここに人がいて、やり取りを見られていたとは思っていなかったのかもしれない。

 連れが立ち止った事で、女性の方もヴィオラの存在に気付いたようだ。軽く首を傾げると、声をかけてきた。

「あら……。もしかして今日の主演女優さん?」

 少し低めの、柔らかく掠れたアルトの声が尋ねて来る。

「は、はい……」

 答えた声は、自分でも驚くほど小さく震えていた。情けない声だと自分で思う。この様で主演女優が聞いて呆れる。

 女性が何者かは不明だが、劇場関係者であろう事はこの場にいる事と雰囲気でわかる。ヴィオラの様子に何を思ったか、ぱらりと優雅に扇子を広げてしばし考え込むように沈黙すると、おもむろに横で佇む男の背を急き立てるように軽く叩いた。

「ほら、もう幕が開くわ。何をぼんやりしているの? この可愛らしいお嬢さんの為にも男を見せなさい」

「まったく……、先に手が出るのは何とかなりませんか? ……やらないなんて言ってないでしょう」

 催促の声に不満そうなため息を一つ。男はそのままヴィオラの方へ近づいて来る。

「悪いけど、そこ退いてくれるかな」

「あ、はい」

 至近距離になってようやく男が自分とさほど年の違わない少年である事に気付く。口調が落ち着いていたからもっと年上かと思ったのだが、十代後半──少し年上といった所だろうか。

 言われるままに場を譲ると、背後にキャットウォークに繋がる細く長いはしごがある事に気付く。今までヴィオラの身体が塞いでいる形だったのだ。

 擦れ違い際に少年がちらりとこちらに視線を向け、ぼそりと声をかけてきた。

「……肩」

「えっ?」

「力入り過ぎてる」

「あ……」

 緊張しきっている事が声ばかりか見ただけでもわかるのかと恥ずかしさで死にたい気持ちになる。やはり、無理だったのだ。自分のような素人が、端役どころかいきなり主演だなんて──。

「これから出るの?」

「ええ……」

 無意識に視線が下がる。相手の顔など見れそうになかった。

 こんな調子で出るなんて、と呆れられているのだろうか。そんな事を思っていると、不意にぽんと肩を叩かれる。

 驚いて見上げた顔は何処となく途方に暮れたような、困ったような──何とも曖昧な表情を浮かべていて、ヴィオラは緊張していた事を一瞬忘れた。

「上で応援してる。……頑張れよ」

 やがてその口から紡がれたのは、非常に素朴な励ましの言葉だった。初めての舞台を前に怖気ずいている自分を見て気の毒に思ったのかもしれない。

 そのまま何事もなかったかのように梯子はしごに足をかけ、上へと昇って行く。ヴィオラは慌ててその背に声をかけていた。

「あ、あのっ、ありがとう……!」

 劇場関係ではこの手の励ましは普通の挨拶と何ら変わらないのかもしれない。それでも、今のヴィオラには何よりも嬉しいものだった。

 頑張れ、と明確に応援されたのは『姉』を除くとこれが初めてだ。その喜びを少しでも伝えたい一心だったのだが、声を受けてこちらに向けられた顔は随分と怪訝そうなものだった。

 まさかこの程度で礼を言われるとは思わなかったのかもしれないし、もしかするとよく聞こえなかったのかもしれない。

「ありがとう、お陰で頑張れそう」

 念の為ともう一度繰り返すと、少年は怪訝そうな顔のまま何故か固まった。

 一体どうしたのだろう、何かおかしな事を言ったのだろうか──そんな事を思っていると、はっと我に返ったように再び顔を上に向けながらも小さな声が返って来る。

「……良い舞台を」

 ぼそぼそとした素っ気ない言葉。やり取りとも言えないやり取り。まったく関わりのない人物なのに――否、だからこそなのか――自分を見てくれている人がいる、そう思う事で少し心が軽くなった。

「ふぅん。意外なこと」

 不意にすぐ側でそんな声がして視線を向けると、いつの間に距離を詰めたのか、彼と一緒にやって来た女性が背後に立って同じように上を見上げていた。

「あ、あの……」

 何となく落ち着けずに声をかけると、ヴィオラに視線を移し、何故か珍しいものを見るように上から下まで眺めてくる。正直居心地は悪いが、その視線に悪意が感じられないせいか不快ではなかった。

「あなた、見ない顔だけれど、もしかしてこれが初舞台?」

 やがて問われたのはそんな事だった。

「はい、そうです」

 正直に答えれば、女性は何故かにっこりと満面の笑みを浮かべた。

「そう……。あなた、幸運よ?」

「?」

 どういう意味かと視線で問えば、悪戯っぽく片目が閉じられる。同性ながらもどきりとする所作だ。

「ふふ、今日の照明係は特別上手いの。人物を効果的に引き立ててくれる。だから失敗を怖れず頑張りなさい」

 言いながら何かを思いついたのか、女性は自分の胸元に挿していた花を外した。

 部分的にラメで飾られており造花だとばかり思っていたのだが、その大輪の白い薔薇は近くで見ると生花そのものでヴィオラは驚く。その花がすっと目の前に差し出された。

「えっ? これ……」

「あげるわ。わたしからも餞別よ。髪飾りも薔薇だから合うんじゃないかしら」

 そう言いながら飾り気の少ない衣装に自ら飾り付けてくれる。娼館の姐さん達が好んでつける甘ったるい香水とは別の、花そのもののような瑞々しい香りが微かに漂った。

 衣装の華やかさが増した様子に満足げな笑みを浮かべると、そっとヴィオラの肩を舞台の方へ向けた。

「さ、出番よ。行ってらっしゃい」

 気付くと音楽が静まり、薄暗かった舞台に一筋の光が落とされていた。

 舞台の中央に置かれた簡素なテーブルと椅子がその光で浮かび上がっている。素っ気ないほどだが、必要最小限の資金でやりくりしている劇団のなけなしの大道具だ。

 舞台を隠していた幕が、するすると持ちあがって行く。

 ヴィオラは胸元の花に一度触れ、ちらりと光の源に視線を向ける。暗がりが邪魔してそこには人影すら見つけられなかったが、それでもヴィオラの不安を確かに払ってくれた。

 ぎゅっと手を握り締め、ヴィオラは舞台に挑むような視線を向けると、ついにその一歩を踏み出す──ずっと焦れていた、光に満ちたその場所へ。


+ + +


(……あの時は『良い人』だって思ったのにねえ)

 思い出深いフランの小劇場に行ったせいか、どうしても当時の事を思い出してしまう。

 ヴィオラにとって、ポンドとの初めて顔を合わせたのは初舞台のあの時だ。けれど、数年後に再会した彼はその時の事など覚えていなかった。


『初めまして』


 彼が澄ました顔でそう言い切った時の衝撃は、今でも忘れられない。

 確かに周囲は薄暗く、しかも言葉らしい言葉を交わした訳でもない。ヴィオラが勝手にそのやり取りを大切な思い出として心に仕舞っていて、いつかまた会う事があれば改めてお礼を言いたいと思っていただけだ。

 ポンドは悪くない。悪くはないけれど──こちらばかりが覚えている事が何故か無性に悔しくて、ヴィオラも初対面であるかのように振る舞ったのだが。

(いえ、『良い人』なのだけど……、まさかあんなにタヌキだなんて)

 少し遠い目をしながらヴィオラは足元にまとめてあった荷物を持ち上げた。

 嵩張るものはすでに船室に運びこんであり、手にしているのは旅券や貴重品などの身近に置いておきたい物を詰めたものだ。

「奥様、くれぐれもお気をつけて」

「すぐに我々も後に続きますから!」

「ええ、よろしくね」

 ティル・ナ・ノーグへはいつも利便性を取って水路で行く。実に数日の船旅だ。

 船着き場にまで見送りにきた使用人達が心配そうな顔で見守る中、過去に幾度も乗った事のある船に乗りこむ。

 ──何事にも抜け目ないポンドは、しっかり使用人にもヴィオラに同行しないよう根回ししていた。

 とは言っても、同行を禁じただけだった為、使用人の半数程が二日後には同じように船上の人になる予定だ。その渡航費用も全てポンドが支払う事になっている。

 彼等にとっても、ティル・ナ・ノーグ行きは一種の余暇的な位置づけなのである。

 ポンドはやる事為す事一筋縄では行かない主人だが、使用人達を必要以上に縛り付ける事もなければ、仕事さえきちんとこなせば給金も休暇も気前良くくれるので、彼等の忠義心は篤い。人数こそ館の規模に対して多い方ではないものの、いずれも長く仕えている人間ばかりだ。

 信頼出来る上に勝手を良く知っているから長期に渡る留守も任せられるし、彼等夫婦のいい年をして子供のようなやり取りも見て見ぬ振りをしてくれる有りがたい存在である。

「……フミャウッ」

 ヴィオラに続いてステラも船に飛び乗って来るが、その声はいつも以上に不機嫌なものでヴィオラは苦笑する。

 高地の乾燥した地帯がそもそもの生息地であるアルフェリスは暑さと水が苦手だそうで、水の上に浮かぶ船はステラにとっては居心地の悪い場所に違いなかった。主人であるヴィオラが乗るのでなければ、きっと乗ろうともしなかっただろう。

 これも毎度の事なので慣れたように使用人の一人が絹の小さな布袋を取り出し、ヴィオラに差し出す。

「奥様、例のアレです。数日前に届いておりましたので用意しておきました」

「まあ。ありがとう」

 受け取ったヴィオラは、その布袋を不貞腐れたように足元に寝そべるステラの鼻先に近付ける。

「……!」

 その効果は絶大で、だるそうに伏せていた耳と尻尾が途端にピンと立ち上がった。

「ミャウ、ナーウ♪」

 あからさまに上機嫌で布袋に鼻先を擦りつけるステラの姿に、ヴィオラはその中身──マタタビを中心にした特別製ハーブ──を寄越してくれた人物へ心の内で感謝した。

(クローナ義姉さん、相変わらず素晴らしい効力です。感謝しますわ)

 名付けて『猛獣殺し』──物騒な名前だが、実際はネコ科に近い生き物に軽い酩酊効果を発揮するクローナ特製のアイテムである。

 ティル・ナ・ノーグに毎月のように行くようになった頃、道中ずっと虫の居所の悪いステラの話をポンドから聞いたクローナが試しにと送ってくれたのだが、思った以上に効果があった為、それならと毎月送ってくれるようになったのだ。

 猫扱いされるのを嫌がるステラだが、本能には逆らえないらしい。

 やがて出発を告げる鐘が鳴らされる。いよいよだと思うと、ヴィオラの内に随分と懐かしい感覚が甦った。緊張と不安──そして寂しさ。

(ああ、あれに似てる)

 少しずつ陸を離れて行く船に向かって見送りに来た人々が手やハンカチを振る姿に、しみじみとヴィオラは思う。そう、生まれて初めて舞台に立った時の──。

 ヴィオラはその感覚を『懐かしい』と思える自分に、あの頃との違いを知る。悔しいけれど、それは今ここにいない誰かのお陰に違いないのだ。

(……そうだわ。この旅自体が『お返し』だそうだけれど、わたくしが何かしてはいけないという事はないわよね?)

 ふと浮かんだ思い付きに満足し小さく笑みを零す主人を、すっかりご機嫌になったステラが不思議そうに金色の瞳で見上げていた。

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