男の意地と女の見栄(9)
控えめに演奏される軽快な音楽が、薄闇を透かして聞こえてくる。そこに混じるは、微かな人のざわめき。
サフィールにいくつも点在する小劇場の一つは、今日も大入り満員とまでは行かないまでもそこそこの人が入っているようだ。
舞台袖で出番を待つ少女──ヴィオラは、ぎゅっとその両手を握り締めて何かに耐えるような表情で佇んでいた。
服装と言えば舞台の衣装にしては質素な部類だ。色みこそ清楚さを漂わせる淡いラヴェンダーだが、こうした衣装につきものの、ビーズの飾りもレースも、普段着よりは幾分多い程度でしかない。
所属する役者も数名、脇役どころか主演が今まで演劇と縁のなかった素人──つまり、彼女の事だ──といった無名に等しい弱小劇団ではこれでも奮発している方だ。ひどい所は役者の私服をそのまま衣装にしている所もあるという。
全体的に白っぽい色彩のヴィオラが装飾の少ない、やはり白っぽい衣装を身に着け、硬く強張った表情で暗がりに立っている様は人離れした容姿を益々無機質に見せ、まるで幽鬼の類のようだった。
せめて表情がもう少しでも柔らかであれば違うだろうに、ヴィオラは普段なら何よりも気にしていたであろう、自身が傍から見てどう見えるのかという事に意識が行っていなかった。
『なあ、君。娼館で埋もれるにはあまりにも惜しいと前々から思っていたんだ。試しにうちで「女優」をやってみないか?』
──そんな事を持ちかけられたのは、一月ほど前の事だっただろうか。
確か丁度、『家族』が増えた辺りだ。その単語を思い浮かべた瞬間、よく出来た人形のようだった表情がようやく僅かに緩んだ。
今もきっと広いとは言えない部屋の隅で、毛布に包まって自分の帰りを待っているだろう、小さな小さな『家族』。その存在を思うだけで、縮こまっていた心がほっと綻ぶ。
それは雨のひどい夜、店の裏で弱って死にかけていた黒い子猫のことだ。
全身真っ黒で、人で言う額の所に菱形に生えた白い毛が星みたいだったから、異国の言葉で星を意味する『ステラ』という名前をつけた。
抱きあげた時はまるで骨と皮でそのまま死んでしまうのではないかと思われたが、今は随分元気になって身体も少ししっかりしてきた。
ステラは不思議な猫で、ヴィオラが言う言葉がわかるように、話しかけると小さく甘えたような声で返事をしてくれたり、慰めるようにすり寄ってくれたりする。その小さな温もりは『姉』を亡くして心の拠り所がなかったヴィオラにとって、この上ない救いとなった。
もちろん、家族なんてヴィオラが勝手にそう思っているだけだし、元気になるまでの間の仮初のものである事は理解している。
──買われたこの身に、自由になるものはほんの一握り。
小さな子猫一匹だって、女将さんに見つかればきっと簡単に取り上げられてしまうだろう。そうでなかったとしても、いつか手放さなければならないとわかっている。
自分が生きる世界は、夜の世界だ。人の様々な欲望が渦巻くここは、ひどく薄汚れて狭い。人でないあの子にはもっと広くて、光に満ちた世界で自由に駆け回れる方が似合う。
そんな家族を拾った頃に突然持ち上がったこの話は、昼の世界に焦れるヴィオラにとって願ってもない機会だった。
──男はちょくちょく店で見る顔ではあったものの、馴染み客と言う程でもなく、直接会話した事は数える程の人物で、頭から信頼するには危うい相手である事は間違いなかったけれど。
話した事がろくになかったのも当然と言えば当然で、娼婦は金を生む『商品』だ。いくら今は下働きと言っても、娼館にいる以上は『未来の商品』である。
下手な手を出されて傷をつけられては困ると、余程の場末でもない限りは基本的に大切にされる。容姿が整っているならなおの事だ。
世話になっている店はそういう意味では比較的良心的な所で、時に無体を働く人間が全く来ない訳ではないものの、そうした人間はすぐに取り押さえられて二度と店の敷居をまたぐ事はなかったし、客は趣味人や学者、芸能関係の人間が多かった。
件の男もそうした一人で、小さな劇団の主宰者兼脚本家だった。彼が言うには主演女優が身重になり、一月後の舞台に穴が空きそうなのだと言う。
『小さ目だけどとても雰囲気の良い劇場なんだ。興行主が若いのに演劇や音楽に対して理解がある人でさ、客も根っからの舞台好きが多いんだよ。僕も何度も客として足を運んだものだ。いつか、ここで自分の書いた脚本で舞台を演りたいって思いながらね。やっとその念願が叶いそうなんだよ。だからと言って、身重の体に鞭打って舞台に立てなんて言えないだろう?』
男は以前からヴィオラを見かけては、自身の作品のイメージにぴったりだと思っていたと、傍から見ると愛の告白にも取られかねない熱心さでヴィオラに訴えかけた。
最終的に引き受けはしたものの、正直な所、その申し出は特に心に響いたものではなかった。何故なら明らかに男は彼女の容姿に目を留めて声をかけてきたに違いなかったからだ。
それも仕方のない事だろう。ヴィオラの何処か人離れした雰囲気と美貌は、十代中頃という年齢も加えて儚げな危うさを醸しだしていた。
女優は演技に関して素人でも、見目が良ければ多少大根でも許される風潮があるらしい。巷に名の知られた大劇団ならともかく、無名にも等しい駆けだしの弱小劇団ならばなおさらである。
彼が見目の良さでヴィオラに声をかけて来た事は、それだけ彼女の容姿が完全な素人を採用しても損失にはならない程であると見なしたからに相違なく、責められる理由は何処にもない。
そう、たとえヴィオラが自分の容姿を嫌っていたとしても――。
何故だろう、この変わった容姿のせいで売られたのだと思うからだろうか。幼い頃からヴィオラは自分の容姿に劣等感を抱えていて、たとえ純粋な賛美でもそれを褒められる事が苦手だった。
それでも引き受けたのは他でもない。そうすれば光溢れる昼間の世界に、その間だけでも堂々と出る事が出来る──そう思ったからだ。
ヴィオラは今年、十五歳を迎えた。来年、十六歳になったら客を取る事になっている。
それは娼館に買われた時点で確定的な未来だった。とっくにそうなっていても不思議ではないのに十六まで猶予を与えられたのは、単に運や様々な要因が絡んだ結果に過ぎない。
幸せは人それぞれで、今の生活も考え方次第では『幸せ』に思う事も出来るだろう。
けれどヴィオラは足掻いてみる事にした。限られた時間の間だけでも、自分の力で、自分の手と足で、違う未来を探してみようと思ったのだ。
子供だったヴィオラを優しく姉のように守ってくれていた人はもういない。味方などこの世の何処にもいないのだ。ならば──自分で自分を守るしかない。
一人になって、ヴィオラは貪欲に知識を得ようとした。無知なままでは何も変わらないと考えたからだ。
客層的に娼館を訪れる人々には教養高い人物も少なくなく、恥を忍んで彼等に教えを請うた。すると、最初は興味半分だった彼等は思った以上に熱心にヴィオラに読み書きを教えてくれた。物覚えの良いヴィオラが、良い教え子であったのも理由の一つだろう。
やがて一通りの読み書きが出来るようになった次は、女将さんの目を盗んで手に入る限りの様々な分野の書籍に目を通し、理解しようと試みた。
そこには不思議な事や難解な事などヴィオラの知らない事がたくさん書かれており、知らない世界を教えてくれる。理解が進めば進むほど広がって行く世界に、ヴィオラは夢中になった。
『諦めないでね、ヴィオラ』
今も心の奥底にある言葉が背中を押す。生きる事、幸せになる事を諦めるなと──。
男の申し出に対し、娼館の女将は最初こそ良い顔をしなかったものの、その熱意とヴィオラの価値を高める事に繋がるという説得に心を動かされたのか、たまには客の酔狂に付き合うのもいいだろうと舞台に立つ事が許された。
ただし、当然ながら許されたのは準備期間と公演期間の一月にも満たない期間だけ。
これが本当に何らかに切っ掛けになるかはわからなかった。ただの思い出の一つとして終わる可能性もあっただろう。
──結果として、この事がその後のヴィオラの人生を大きく変えてしまったのだけれども。
男がヴィオラに割り振った役は、皮肉にも結婚を間近に控える幸せいっぱいの女性だった。劇の内容は至ってありきたりのいろいろな騒動の末に大団円を迎えるという恋愛劇の一つで、それでもヴィオラは精一杯役作りに励んだ。
演劇なんてもちろん初めての体験だ。立ち居振る舞いや言葉の言い回し、発声の仕方など、戸惑う事も多かったものの、演じる事に対しては特に難しさは感じなかった。
何しろヴィオラの今まで生きてきた世界は、偽りのもので溢れていた。
周囲の娼婦達はいつだって偽りの笑顔で、偽りの恋をして、嘘で塗り固めた睦言を相手に囁く。脚本上の恋愛劇も、ヴィオラにとってはそれとさして変わらなかったのだ。
彼女達を模倣しながら、自分に出来る最高の笑顔を造り、これ以上とない幸せの中にいるのだと表現する。男はそんなヴィオラの演技を素晴らしいと褒めてくれた。
──そして、今日はいよいよ公演初日。
大勢の人々の前で演じるのも初めてなら、これほど不特定多数の人間を見る事も初めてで──急に怖くなった。
自分は、うまくやれるのだろうか。
かたかたと微かに音がすると思えば、しっかり立っているつもりだった足が震えていた。身体もすっかり委縮している。
もうすぐ出番だと言うのに、すぐにも逃げ帰りたい気持ちが湧き上がってきた。
部屋に戻って、帰りを待つステラを抱いて、ベッドに潜り込んでしまいたい。暖かく柔らかな温もりは、きっとこの心細さから救ってくれる。
けれど──今更そんな事など出来ない事も理解していた。
誰か無理矢理、舞台へ連れ出してくれないだろうか。言う事を聞きそうにない足を見つめながらそんな事を思う。背中を押して、いっそ後戻りなど出来なくしてくれたなら。
「──いでしょう、これくらいやってくれても」
その時、不意に人の声が聞こえて、ヴィオラはびくりと身体を震わせた。