男の意地と女の見栄(8)
ポンドがティル・ナ・ノーグへ極秘で立ち寄っている頃、旅の準備を整え、しばらく王都を離れる事を伝えに出向いた先の一つで、ヴィオラの話を聞いたフラン・ステイシスは呆れたように目を丸くした。
「まあまあ、ポンドったらそんな事を?」
彼女は夫であるポンドの実姉で、男男女女男と続く五人兄弟の上から三番目──長女である。
フランは王都にいくつもの小・中規模の劇場を有する知る人ぞ知る女傑で、ヴィオラもかつては女優として幾度もお世話になったものだ。
その時の縁もあり、引退した今もかつて役者であった経験を活かして彼女の手伝いをしている。王都周辺の何処かへ出掛ける際も彼女に同行する場合が多く、身内の中では最も親交が深い相手と言えるだろう。
フランもヴィオラを気に入ってくれているようで、女優時代も露骨な特別扱いこそしなかったものの何かと気にかけてくれたし、ポンドと結婚してからは実の妹のように接してくれている。
弟のポンドは特徴と言う特徴のない、演劇ならばせいぜい『商人A』か群衆といった風情なのだが、フランは興行主として長く芸能という華やかな世界に身を置くからか、決して派手ではないが何処かはっと目を惹く空気を持つ女性である。
「あの子ったら、あなたに対してはいつまでも子供なんだから。本当に可愛らしいこと」
黒いレースの扇子で口元を隠し、貴婦人然としながらも言う台詞がこれだ。きっと隠された口元には人が悪そうな笑みを浮かべている事だろう。
弁も立つし細かい気配りも行き届いた大人の女性だが、ことポンドが絡むとただの『弟ばか』になる。そんな所もヴィオラがフランを好ましく思う理由の一つだった。
たとえポンドが四十の半ばも過ぎた男でも、人畜無害そうな外見に反して一癖も二癖もある腹黒タヌキであっても、フランにとっては今でも可愛い弟に変わりないようだ。
嫁ぐ前は詳しく知らなかったのだが、彼等の実家であるステイシス家は王都でも資産家に数えられる家である。
そうした家に付き物の『家庭の事情』があるにはあるが、兄弟仲に関してはこちらが羨ましく思うほどに良い。得てしてそうした家は、実の兄弟で利権や金銭を巡って血生臭い事件が起こったりするのに、そうした事とは無縁だ。
もちろんちょっとした口喧嘩や意見の相違は生じるが、そんな時も深刻になる前に他の兄弟が何かと手を尽くして仲裁に入るのが常である。誰かが困れば、誰かが助ける──当たり前のようでいて大人になると色々と難しいそれを、子供の頃も今も当たり前のように実行しているのだ。
そしてまた、彼等は性格も得意分野も異なっており(だからこそ上手く行くのかもしれない)、それぞれの道で一定の成功を収めているばかりか、それを互いに活かし合っており、傍で見ていて見事としか言いようがない。
たとえば、今日もフランは生花と見紛うような大輪の花のコサージュを胸元につけている。
これは現在、王都サフィールから北西に位置するキルシュブリューテで大規模な花卉農園を営む、次女のクローナが特殊な加工を施して作ったものだ。
それは随分昔からフランのトレードマークとなっており、業界関係やサロンなどに出入りする事の多い彼女を通じてその花を知った人間は多い。つまり、フランは一種の広告塔なのだ。
通常の花と異なり、一月ほど色褪せる事無く美しさを保つそれは、一つ作るのに手間も費用もかかるのだそうでまだ一般には流通していない。その為、手に入れようとすれば輸送費を含めて相応の費用がかかるが、それでも欲しいと言う人間は多いそうだ。
ちなみにフランが出入りしているサロンのいくつかは、彼等の次兄に当たるマルクが運営しており、フランはそこで人脈を広げると同時に、クローナの作品やポンドが見つけてきた珍しい物、そして彼女が支援する役者や劇団の宣伝をしている。
その結果、実際の取引の話になれば今度は各地とやり取りしているポンドが仲介として間に入るし、そうして生まれた資産は長兄のユーロが一部管理しており、出た利益がまたクローナの元に戻って新たな花の品種改良や加工に使われる──という流れになる。
彼等兄弟は万事こんな感じだ。
しかもどうやら自然とそういう役割分担が出来ていたらしく、本人達は特別な事だと思っていない節がある。
ちなみにユーロは本業の先物取引関係とは別に『資産を管理する』事が趣味という変わった人で、ポンドをして『使ってもいつの間にか元に戻るから感覚がおかしくなる』と言わしめる程だ。
彼のもっとも変わっている所は、減れば増やすが元の金額からは決して増やさないという所だろう。
実際、ヴィオラも女優時代の資産をユーロに託しているが、それなりに使っているはずなのにしばらくすると元に戻っている。
何かしらの投資などしているのだろうが、何がどうなったらそうなるのかさっぱりわからないので、いつもまるで魔法のようだとヴィオラは思う。
「フラン義姉さんにかかると、あの腹黒タヌキさんも形無しですわね」
「ふふ、当然でしょう? 誰があの子のおしめを替えてあげたと思ってるの」
ころころと笑いながら、フランはポンドがもっとも嫌がるネタをここぞとばかりに口にする。
なお、この手のネタは長男から次女まであらゆるバラエティが揃っており、ポンドの密かな悩みの種だったりするのだった。
というのも、上の四人は全員、末弟のポンドをからかう事が好きという共通点があるのだ。いずれも肉親故の遠慮のなさと愛情故なのだが、一身に受ける事になるポンドには堪ったものではない。
ポンドが普段大陸各地を飛び回っているのは、仕事の関係だけでなく、もしや下手に王都にいると兄姉が何かと絡んでくるからなのではと密かにヴィオラは考えている。
特にフランには頭が上がらないらしく、同じ王都で暮らしていながら、下手をすると一月に顔を合わせる回数はヴィオラの方が多いくらいだ。
(あのタヌキさんにも子供の頃があったのよね……)
当然と言えば当然なのだが、出会った頃にはもう今の性格が形成されていたので、フラン達の話す『素直で可愛かった』という幼い頃をどうしても想像出来ない。ましてや、おしめの必要がある赤ん坊の頃など。
(──生まれていたら、似ていたのかしら?)
ふと、普段は考えないようにしている事に思考が向かう。途端に思いだしたように胸の奥が針で刺したようにツキリ、と小さく傷んだ。
ああ、とヴィオラは思う。
すっかり笑えるようになり、自分なりに過去の事に出来たのではと思っていたのに、あの出来事はまだ傷として自分の内に残っているらしい。
「……ヴィオラ?」
一瞬表情を失った事を怪訝に思ったのか、フランが声をかけて来る。ヴィオラは何事もなかったかのように普段の笑顔を浮かべてみせた。
「済みません。何度聞いてもあの人の子供の頃を想像出来なくて」
「まあ、そうよね。今のふてぶてしさからじゃ難しいと思うわ。でも本当に可愛らしかったのよ。ちょっと意地悪しただけでビービー泣いてユーロ兄さんにしがみついてねえ」
その頃を思い出したのか楽しげに笑いながら、フランはふと思い出したように立ち上がり、奥の書き物机から何枚かの書類を持ってきた。
「そうだわ、いつものあれだけど。先日知り合った方にも頼まれたのだけど、あなたにお願いしても良いかしら」
手渡された書類に軽く目を通し、それがいわゆる注文書の類だと理解するとヴィオラは微笑んだ。
ティル・ナ・ノーグに行った際に土産として買ってくるワインや菓子類はとても好評で、今ではフランやマルクが接待の席や自分が楽しむ為にまとまった量を仕入れるまでになっていた。
「いつもの黄金林檎の糖蜜漬けとワインですね。わかりました。タヌキさんに確かにお渡ししますわ」
「ええ、お願い。今に始まった事じゃないけれど、あの子やあなたが見つけて来るものは本当にはずれがないのよね。あの瓶の中に林檎が入っているお酒なんて、味も良かったけれど見た目が本当に独特で! お世話になっている方にお祝いで差し上げたんだけれど喜んでもらえたわ」
「ああ、『ティルノグーシュ』ですわね」
「そうそう、それ」
ティルノグーシュとはティル・ナ・ノーグの名前を冠したブランデーの一種である。
名産である黄金林檎を瓶の中に丸ごと封じ込めて作る奇抜さもさる事ながら、爽やかな風味の香り高い一品で、ヴィオラも食前酒などで好んで口にする一品だ。
「あれは飲み終ってしまっても、新しくブランデーを次ぎ足せばまた楽しめるんですよ。今度はそちらもお持ちしましょうか」
「いいわね。それに先月あなたがお土産にくれた焼き菓子。あれも本当に美味しかったわ。何かしら、奇を衒う程ではないのだけれど、何処か目新しくて試行錯誤を感じられたわ」
フランとヴィオラには芸能の世界に関係している以外にも共通点がある。
それは才能ある若者を発掘、あるいは支援する事で、その才能を開花させる手伝いをする事が好きだという事だ。
フランの言葉を我が事のように嬉しく受け止め、ヴィオラは頷いた。
「気に入って頂けました? でしたらまた買ってきますわ。あれを作ったのはコレットさんという名前のお嬢さんで、まだ若いけれどとても良い腕を持ってますの。日持ちのする焼き菓子しかお持ち出来ないのが悔やまれます。生菓子も美味しいだけでなくとても独創的ですから、フラン義姉さんの好みだと思うのですけれど」
「ああ、きっとそうでしょうね。これは本当にいつかわたしもティル・ナ・ノーグに遊びに行かなくてはいけないわね!」
「是非いらして下さいな。本当に素敵な街ですから。……タヌキさんには内緒で」
「ふふっ、そうね。こっそり行って向こうで驚かせましょう」
きっと今頃、旅先の空の下でポンドが嫌な予感でも感じている事だろう。
くすくすと笑い合いながらちょっとした『悪巧み』をしていると、あっと言う間に時間が過ぎて行く。
『一人旅の道中、気をつけてね』とフランに見送られ自宅への帰途につきながら、足元に従うステラにヴィオラはそっと話かけた。
「ねえ、ステラ。おかしいわね。あの街に出掛けるはずなのに、何故かこれから『帰る』ような気分なのよ」
いつの間に逆転してしまったのかはわからない。旅立つ為の挨拶回りのはずなのに、何故か暇を告げに回っているような感覚なのだ。
人生の大半をこの王都で生きてきた事を考えれば、もはやここがヴィオラにとっては『故郷』と位置付けられる場所に違いないのに。それでもあの海を臨む城塞都市の事を考えると、心が浮き立つ事を否定出来ない。
主人の言葉をどう受け止めたのか、金色の大きな瞳をヴィオラに向け、ステラが小さくミャウと鳴き、歩く邪魔にならない程度にその身体を擦り寄せる。
何処となく慰めるような仕草に、ヴィオラは微苦笑を浮かべた。
(ふふ、ステラにはわかってしまっているみたい)
人の姿をしていなくても、ステラはヴィオラにとっては夫と共に大事な『家族』だ。彼(彼女?)が普通の猫ではなくその何倍も長生きするアルフェリスであった事を、ニーヴにはいくら感謝しても足りない。
長く共にあったステラには、今ヴィオラが寂しさを感じている事はお見通しなのだろう。いつも同行する夫がいない──彼と長く顔を合わせない事なんてよくある事だと言うのに。
ふと、ヴィオラは背後を振りかえる。そこには今しがた後にした、フランの小劇場がある。そこはヴィオラが女優として第一歩を踏み出した場所でもあった。
それだけではない。思い返せばそこはいつも、ヴィオラの人生の大きな分岐点が訪れる場所だった。
(……そう言えば、あの人に初めて顔を合わせたのもここだったわね)
再び歩き出しながらヴィオラは回想する。まだこの手が小さくて、生きる事にただ必死だったあの頃を。




