男の意地と女の見栄(1)
「枯れない花はないわ」
それが、ヴィオラを実の妹のように可愛がってくれた人の口癖だった。
王都サフィール──積年の歴史と風格を漂わせるその街は、華やかな昼の世界の他に夜には全く別の顔を見せる。
国や言葉、あるいは部族や種族の異なる様々な階層の人々が集まる所には、様々な欲が澱のように集まるものだ。夜の世界の片隅で、その『澱』を糧にひっそりと生きる人間達がいる。彼女もそうだったし、ヴィオラもまたそうだった。
経緯は様々だが、他にも多くの『帰る場所』を失った人達がそこで暮らしていた。血の繋がりはなくても、同じような境遇というだけでも人は近く寄り添う事が出来る。
まだ世間や物事を理解していない幼少時に連れて来られたヴィオラは、彼女からその場所で生きて行く為のあらゆる事──必要最小限の知識と知恵──を教えてもらった。
母と言うよりは姉のような存在と言った方が近い。
彼女はヴィオラの毛先に行くに従って紫に色を変える髪が特にお気に入りで、事ある毎に弄っては楽しんでいたものだ。
──自分を人間離れさせて見せる、ヴィオラ自身は嫌っていたそれをとても綺麗だと言って。
その言葉もそんな時によく口にしていた。どうして彼女がそんな事を口にするのか──まるで自分に言い聞かせるように──、その理由は定かでない。
けれど繰り返し耳にする内に、彼女の言葉はヴィオラの中にも刻み付けられていた。
「人も花と一緒。たとえ十分な水や光――手入れが行き届いていたって、容色なんていつか必ず衰える。永遠の美しさや若さなんて、生きている普通の人間には有り得ないものよ。それでも見た目が良ければ得をする事は多いし、持て囃される事もあるでしょう。こんな仕事をしていればなおさらね。逆にそうである為に人の嫉妬を買ったり、自分に溺れて身を崩す人も少なくない。……この世の中はね、綺麗なものほど綺麗なままで生きて行く事が難しいの。だから──……」
そんな事を言いながらも抱き締めてくれた優しい腕は、もうこの世の何処にもない。それから間もなく、彼女は呆気なくこの世を去ってしまったからだ。だからこそ、余計に心に残っているのだろう。
「あなたには、どうか……見つかりますように」
最後に彼女が祈るように遺した言葉を、今もヴィオラは大切に胸の奥に仕舞っている。
「……諦めないでね、ヴィオラ」
いつかは枯れる花ならば、せめて誰よりも美しい花を。それはその後のヴィオラの生きる指針そのものとなった。
見つかりますように──彼女のその言葉の真意が別にあった事に気付くのは、それから随分と後の事だったけれど。
+ + +
王都サフィールの閑静な住宅街の一角にある落ち着いた佇まいの屋敷の朝は、その主──ポンド・ステイシス、今年で四十六歳──の爽やかな朝の挨拶で始まる。
「おはよう、ヴィオラ。今日も化粧のノリが良くて何よりだよ」
いかにも人の良さそうな笑顔で紡がれた毒舌に、対する妻・ヴィオラは完璧な身支度で優雅に微笑んで答える。
「おはようございます、タヌキさん。今日も真っ黒なお腹が透けて見えそうないい笑顔ですこと。夢見がよろしくて?」
そんなやり取りを、使用人達は若干生ぬるい視線で見守る。
朝っぱらから少々剣呑なやり取りを応酬する彼等だが、決して夫婦喧嘩をしている訳ではない。これで夫婦仲は大変良好なのだ。
現に二人はお互いにこやかな笑顔のまま共に食卓につき、和やかに朝食を摂り始める。
「うむ、美味い。今日の燻製は良い出来だね。塩だけでなくスパイスのきかせ方も申し分ない。ヴィオラ、君も習ってみてはどうだい。料理の一つや二つ、出来た方が何かあった時に困らないと思うがね?」
「ええ、そうですわね。いつ路頭に迷ってもいいように、パンの一つくらいは焼けた方がいいかもしれませんわ」
──ただし、交わされる会話はやはり不仲としか思えないやり取りなのだが。
横で聞いている方が胃が痛くなるような会話を繰り出しつつ、妻は夫の襟元を整え、夫は妻の手に口付けを落として仕事へと出て行く。
そんなやり取りを離れた所──天上の梁付近──から羽根の生えた黒い猫がじっと見守っており、主人である妻が出かける時はそこからひらりと飛び降りてくるのだ。
それがこの屋敷、ステイシス家で毎朝のように繰り返される日常である。だが、今日はいつもの流れと少し違っていた。
「──ああ、そうだ」
「あら、どうしましたの? 何か忘れものでもありまして?」
外へ出ようとした所で、ふと何かを思い出したようにこちらを振り返った夫に、ヴィオラは不思議そうに首を傾げた。
「今度のティル・ナ・ノーグ行きなんだが、行くのが遅くなりそうなんだ」
「まあ……」
彼等夫婦は月の半分近くを大陸南部にある都市、ティル・ナ・ノーグで過ごしている。いつ頃行くかは時々で違うが、夫のポンドの仕事が忙しい時期を外した中旬頃に行く事が多かった。
行くのが遅くなるという事は、場合によっては滞在期間が短くなる可能性も示している。
「それは確かに残念ですけれど、お仕事なのでしょう? 気になさらないで」
ヴィオラがティル・ナ・ノーグを殊更気に入っている事を知っているポンドの事だ。その事を申し訳なく思ったのだろうと思いつつそう言えば、いつもヴィオラの予想を良くも悪くも裏切る夫は、今回も全く思いがけない事を口にしたのだった。
「そうもいかないさ。あちらには君が来るのを心待ちにしている友人が何人もいるだろう。そこで思い付いたんだが、丁度良い機会だ。今回は一人旅をしてみないかい?」
「えっ?」
驚きを隠せないヴィオラに、してやったりといった笑顔を浮かべてポンドは懐をポンポンと叩いた。そこは一体何が入っているのか、不自然に膨らんでいる。
「いろいろ考えて、今回はそれを『お返し』にしようと思うんだよ。今回のサングリエでの商談が終わったら、そのまま私もティル・ナ・ノーグに向かうつもりだ。その方が早いし、丁度着くのがリ・ライラ・ディを少し過ぎた辺りになりそうなのでね。たまにはこういう趣向も面白いだろう?」
ポンドの言葉にそういう事かとヴィオラは理解する。
――彼の不自然に膨らむ懐には、先日のライラ・ディに彼女が贈った金時計が仕舞われている。
貴石をふんだんに使いフルーツタルトの形を模した、いい年をした男性が持ち歩くには色んな意味で難易度が高いはずのそれを、ポンドは翌日からずっと持ち歩いてくれていた。
彼の事だ、きっと意地か意趣返しのつもりなのだろうと思っていたのだが、どうやらそれだけでは終わらなかったらしい。
彼がこれから向かうサングリエはティル・ナ・ノーグが位置する同じ半島に存在する都市だ。狩人を数多く有する狩猟の街としても知られている。今朝の朝食に乗った燻製も、ここの肉を使ったものだった。
ヴィオラは直接行った事はないが、海沿いにティル・ナ・ノーグに向かっての街道が整っているという話なので、王都をわざわざ経由するより早く辿り着けるだろう。
「君は今まで一人で旅なんてした事がないだろう?」
「え、ええ……」
困惑を隠せずに頷けば、ポンドはどんどん話を進めて行く。
「もちろん人もつけるが、君には優秀な騎士がついているし、ティル・ナ・ノーグまでの道のりはもう慣れたものだ。特に問題もないと思うんだが」
「ちょっと待って下さいな」
当事者を置き去りにして進んで行く話に、慌てて口を挟む。
「確かに今まで何度も行った場所ですから、行く事に対しては特に不安などありませんわ。ライラ・ディのお返しが『旅』というのも確かに面白いとは思います。けれど……」
行くまでの道中で立ち寄る宿はもはや常宿と言えるほどだし、目的地は第二の故郷のように思っている場所である。その事に関しては特に問題はない。
ただ──いつも一緒に赴く夫がいないという事には素直に頷けなかった。
元々、ポンドは仕事の関係上、基本的にあちらこちらに出向いていて家にいる期間は短い。ティル・ナ・ノーグに行く事を楽しみにしている理由の一つが、そんな夫とゆっくり過ごす時間が持てる事にもある事をヴィオラは自覚していた。
確かに一人旅はした事はない。けれど移動がないだけで、一人で過ごす時間は今までも飽きる程あったのだ。これがお返しと言うのなら、いっそ一月くらい休暇でも取って見せれば良いのにと、出来ないであろう事を承知で思う。
けれどそれを素直に言うのは流石に癪で口ごもれば、ポンドはその沈黙をどう受け止めたのか、軽く片眉を持ち上げた。
「おや、我が奥方は旅だけでは不満かな?」
茶化すような口振りに反論する前に、ポンドはにやりと何かを企むような笑みを浮かべた。
普段、人畜無害そうな笑顔の──身内にすら簡単に手の内を見せない彼が、そんな顔を見せるのは本当に珍しい。その事に驚いて思わずまじまじと顔を見つめると、ポンドは勿体ぶった口調で言葉を重ねる。
「『旅』は行く道中だけではないだろう? 帰るまでが、と言う位だしね。……『それだけ』で終わるなんて、私は一言も言っていないがね?」
彼にしては随分と手掛かりをくれる。『お返し』だから、いつもより手加減してくれているのだろうか。ならば、受けて立たねばなるまい。
ようやく自分を取り戻したヴィオラは、これ以上とない極上の笑顔を浮かべた。
「それほどまで仰るのなら、お手並み拝見といたしますわ。……気をつけて行ってらっしゃいませ」
「ああ、あちらで会おう。何かあったらすぐに知らせるんだよ」
「ええ。素敵な旅になる事を期待してますわ」
こうして彼等が夫婦になって初の、別行動での旅が始まったのだった。