始まりは空飛ぶ魚(16)
ユータスが星にされて数刻。
いつもなら何事もなかったかのように戻って来る頃なのだが、そろそろ夕暮れの気配が漂い始める頃合いだというのにその気配がない。
ユータスを見事な一撃で星にしたイオリも、賭けに興じていた商店街の商人達も、何処か落ち着かない気持ちでさらに待つことしばし。
西の空がうっすらと赤く色づき始め、まさかついに『大穴』の日が訪れたのかと彼等がようやく心配し始めた頃、ユータスが工房へと戻って来た。
一体何処に飛ばされたかは定かではないが、少々服装が乱れて土汚れがついている他はやはり大した怪我もないようだ──が、常と異なる事が一つだけあった。
「やれやれ、やっと着いた」
「マーベルさん、やっぱりオレが運んだ方が早かったんじゃないですか?」
そう、彼は一人ではなかった。見た所六十に差しかかった辺りの婦人が一緒である。
「今更何言ってんの。それにね、いくら足腰が弱ってもそんな細っこい身体に無茶させられるもんか」
「……大丈夫だと思いますが」
婦人──マーベルという名前らしい──の何処か決めつける言葉に否を唱えれば、その細い眉が持ち上がる。
この婦人は先日ユータスに依頼をしてきた人物なのだが、ユータスが落下地点で目を回している所に偶然通りかかり、呆れながらも助け起こしてくれたのだ。
丁度工房に依頼品を受け取りに来る所だったらしく、そのまま一緒に工房に向かったはいいのだが、身長差と彼女の歩み自体がゆったりしていた事もあり、連れ立って歩くと差が開く一方だった。
出来る限り歩く速度に合わせてはいたのだが、このままでは工房に辿り着けても帰る頃には日が暮れてしまいかねない。
夕暮れも近い時刻である事も考え、後日品物を届けるか、あるいは彼女を背負って運ぶ事を提案したものの、ここまで来たら一緒だと断られて帰還にいつも以上に時間がかかる事になったのだ。
「気持ちはありがたいけど、そういう事はもうちょっと肉をつけてから言いなさいね」
「にく……」
「考えてもご覧? 実際に背負ってもらった所で、あんたが動けなかったり持ち上がらなかったりしたら、こっちの立場がないでしょうが」
自分で言うだけあって彼女は全体的に大変ふくよかな体型をしていたし、ユータスの方も肉付きが良いかと言われると疑問である。体格差は明らかだし、不安に思うのも仕方がないだろう。
その辺りの自覚は一応あるので、ユータスは微妙な顔でマーベルを見つめた。
見た目こそひょろいの一言だが、頑丈さに付け加えて弟子時代も今も雑用を含めた力仕事がなんだかんだと多かったので重い物を持ち運ぶ事にはそれなりに慣れていたりする。
(先生でもぎりぎりいけたから、大丈夫とは思うんだけどな)
持ち上げられるかの基準となる師のゴルディは上背こそそこそこだが、横にがっちりした筋肉質の体型なので相応に重い。しかも酔い潰れて正体を無くしていたら余計にだ。
そんな状態の師をかつて背負って運んだ事を考えれば、重量的にはそれと変わらないか少し軽い位と思われるマーベルを背負って歩く位は何とかなる気がするのだが。
かと言っていまさら試しに背負わせて貰う事でもないので、ユータスはそれ以上追及する事は諦めた。その何か物言いたげな鼻先にずいと、指を突き付けられる。
「第一ね。年食ってるからって、女に向かって簡単に年齢や体重の話を持ちかけるんじゃないの!」
「……。はあ」
びしっと突き付けられた言葉に対し、一体何がどうなったら年齢や体重の話になったのかわからずに生返事を返す。
背負って運ぶ事を提案したのも帰宅が遅くなってはいけないだろうと思ったからであって、決して年齢が理由ではないし、体重の事など一言も口にした覚えがないのだ。
しかし、困惑するユータスをどう判じたのか、持ち上がった眉の角度がさらに急になった。
「はあ、じゃなくて。いい? 女に余計な恥をかかせるんじゃないの。大方あんな所に転がっていたのも、誰かを怒らせたからじゃないの?」
「……。済みません」
まさにその通りなのでユータスに反論の言葉はなかった。
今回イオリを怒らせたのは別に体重でも年齢の話でもなかったが、過去に飛ばされた理由の多くはユータスが無頓着にイオリの身体的な禁句に触れたからである。
イオリと知り合うまでは家族以外の女性と関わりなどほとんどなかったし、一番交流のあるヴィオラ・ステイシスは年齢もさる事ながら、体重の話題がそもそも上がらない完璧なプロポーションの持ち主である。仮にそういう話題になっても怒るような人ではないし、当然ながらユータスにとってもどちらも無害な話題だ。
(何で駄目なんだ……?)
今もマーベルの様子からなんだか触れてはならない話題に触れたらしいとうっすら感じ取ったので謝りもしたが、何故年や体重の話をしてはならないのか、どうして『恥をかかせる』事になるのかというそもそもの原因にはまったく考えが及んでいなかった。
この場合、ユータスが空気を読めないと言うよりは、単純にユータスの浅い人生経験では複雑な女心の機微を理解出来なかったと言うべきだろう。
今に始まった事ではないが、最近やたらと説教づいているなあと思っていると、中でユータスの帰りを待っていたイオリが外へ顔を出した。
少し心配そうだった表情がユータスを認めた瞬間に少し怒ったようなものに変わり、次にその横にいる婦人の存在に気付くとその目が丸くなった。
「──マーベルさん?」
「あら、イオリちゃん!」
どうやらお互い顔見知りらしい。先程までユータスに見せていた厳しい表情は何処へやら、マーベルは相好を崩した。
「どうしたんですか、こんな所で。家からここまでって結構遠いんじゃないですか?」
「それはこちらの台詞。まさかここで顔を合わせるなんてね。……って、そうだった。ここ、本業は細工師だっけね。イオリちゃんも年頃の女の子だもの。お洒落の一つや二つはしたいよねえ」
「え、いや、そうじゃないんです! 客じゃなくて、その」
マーベルの一方的な結論に焦ったように手を横に振りつつ、その目が何となく蚊帳の外になっている工房の家主に向けられた。
「あの、もしかしてこいつ……ユータスが、何か失礼な事を?」
場合によっては再び星にする事も辞さないとばかりの言葉に、マーベルはきょとんと瞬きすると、からからと笑い声を上げた。
「マーベルさん?」
「ああ、誤解しないで頂戴な。確かにちょいとお説教はしていたけども、何も悪い事はされてないから。どちらかというと親切にしてもらったと言うべきだろうね」
「そうなんですか?」
「そうだよ。それがね、何があったか知らないけど、この子がここに来る途中で倒れてて。施療院に連れて行こうとしたんだけどいつもの事だから大丈夫だって言うし、丁度ここに向かっていた所だったから心配もあって一緒に来たってわけ」
「そ、そうなんですか。ならいいんです」
どうやら倒れていたのがイオリに星にされた結果だとは思ってもいないらしいその言葉に、イオリは少しだけ無理のある笑顔を浮かべた。
「イオリ、知り合いなのか?」
やり取りを横で聞いている限りでは顔見知りなのは明らかだが、一体どういう繋がりかまではわからない。疑問に思って尋ねると、イオリは施療院のお馴染みさんだと答えた。
血色もいいし、どう見ても健康そのものになのにと不思議に思っていると、当のマーベルが付け加える。
「うちのお義母さんがお世話になってるの。死んだ旦那も随分とお世話になったし、イレーネ先生には本当に頭が上がらないね」
「ああ、なるほど……」
そういう事かと納得する。というのも、マーベルからの依頼は『亡くなった夫に貰った思い出の指輪』を近々嫁ぐ娘に譲る為に手直しする事だったからだ。
(……ん? 施療院?)
ふと何かに引っかかった気がした。
だが、引っかかった気がしたものの、我ながら一体何に引っかかったのか理解出来ない。何かが一本に繋がったような気がしたのだが。
マーベルとイオリが施療院で繋がって──それで?
しばらく考えてみてもわからず、考え込んでもおそらく答えは出ないと早々に諦めたユータスは、取りあえず二人に中に入るように勧める事にした。
立ち話を嫌った訳でなく、このままだと用件がいつまで経っても終わらない気がしたからである。この後、例の試作も待っているし、頼まれた指輪自体はすでに出来ている。
一瞬掴みかけた『何か』が判明するのは、指輪を受け取り、マーベルが帰路についてからの事だった。




