人にはそれぞれ、想いの形(3)
それが時計なのだと認識を確かにした瞬間、目に見えてユータスの目の色が変わった。
「これが時計……!!」
何処か興奮を隠せないその言葉と、先程までとは打って変わった様子のユータスを満足そうに眺めながら、ヴィオラは頷いた。
「どうやらあなたの興味は引けたみたいね?」
「はい、一度見てみたかったんです!」
現在の時刻を正確に刻み、持ち主にそれを知らせる時計は、まだ限られた身分の者しか持たない物だ。
一つを造るのに非常に精密な部品をいくつも必要とし、またそれを寸分の狂いもなく組み合わせるには専門の技術を必要とする。ある意味、細工品としては最高峰の一つと言えるものだろう。
それを造る事が可能な職人はまだ少なく、供給が少ないが故に結果として高級品として扱われている。
大体の時刻は太陽の位置などで判断がつく為、一般の民にはさして需要はないが、一部の上級階級では一種の地位を示す為に時計を所持している事もあるという。
過去に何度か顔を合わせた事のあるヴィオラの夫の顔を思い浮かべる。
見た目こそ、その辺りにいる街の住人Aといった風貌なのだが、実際は王都を中心に手広く商売をしているやり手だ。時計の一つや二つ、持っていても確かに不思議ではない。
「今回の依頼はね、これを装飾し直す単純な仕事よ」
ヴィオラの言葉に、ユータスははたと我に返る。
前から見てみたかった時計を前に決して仕事を忘れていた訳ではないが、それはヴィオラにしては珍しく普通の依頼だった。
「装飾、ですか」
「ええ。その時計の裏側を見て御覧なさい」
言われてひっくり返すと、おそらく往時は鏡面のように磨き上げられていたであろうそこには、抉れたように見事な傷が刻まれていた。
ああ、とユータスは心の内で嘆息をつく。
(折角、綺麗に処理してあるのに……)
何があったのかは不明だが、傷がついた原因の一つは使われている金の純度が非常に高い為だろう。
金の純度が上がれば時計自体の価値は上がるだろうが、装飾品としてならともかく、実用品に使うには向かない。
道具は、使うための物。本来の用途で役立てない物は道具としては失格だ。
それは師から何度も言い聞かされた言葉でもある。たとえ造形が一流でも、道具を道具として造っていないなら二流と言われても仕方がない、と。
考え込むように黙り込んだユータスに、ヴィオラは微苦笑を浮かべた。
「それね、王都で夫が暴漢に襲われた時に傷がついたらしいの。幸い、護衛の人がすぐに取り押さえて事なきを得たけれど、そんなに派手に傷がついてしまったら持ち歩きにくいでしょう。しかも、夫とお義父さまって仲が良くなくて。元々、王都にいる間くらいしか持ち歩いていなかったのだけど、傷がついたのを良い事に修復もせずにずっと仕舞われたままだったの。折角造られたのに、それは可哀想でしょう?」
この時計には何の罪はないのだもの、と続く言葉に、ユータスも頷いた。確かに時計に罪はない。
「だからわたくしが、この時計に違う意味を与えようと思ったの。お義父さまから貰ったのが気に食わなくても、見た目が完全に変わってしまったらそれもさほど気にならないだろうし、それに──」
一度言葉を切り、ヴィオラはこれ以上とない極上の笑みをその面に浮かべた。
「何より、あのタヌキの驚く顔が見たくって」
往年の輝きの片鱗を漂わせる神々しい笑顔で言い放った言葉は、いささかその表情にそぐわない。
(相変わらずだな、ここの夫婦)
ユータスにまでそう思われるほど、ステイシス夫妻はお互いに遠慮なく夫は妻を『愚妻』と表現して憚らないし、妻は夫を『信用ならない腹黒タヌキ』と評する。
それでいて夫婦仲はすこぶる良く、ティル・ナ・ノーグに滞在中、背に羽根を生やした猫連れの夫婦の姿を至る所で見る事が出来る。
ユータスにはまだまだ理解出来ないが、これもまた夫婦の形の一つなのだろう。
「──この時計を『世界に一つしかないもの』に。それが今回のご要望ですか?」
「ええ、どうかしら。今回はティル・ナ・ノーグには十日ほどいる予定だから、出来ればそれまでに仕上げてくれると嬉しいわ」
ここまで傷が付いていると外側のカバー部分はほとんど造り直す事になるだろうが、修復自体は慣れた仕事だし、得意分野でもある。完全に一から造る事に比べればさして時間はかからない。
問題はデザインとそれに合わせた原材料の設定だ。あまり珍しいものを使うと、取り寄せるだけで無駄に日数を食う。それを考慮しても、いくら小さな物だとは言え(否、小さい物だからこそ)十日はかなり厳しいだろう。
しかし、ユータスは珍しく表情を楽しげなものにして頷いた。日常生活では面倒臭がりな彼だが、仕事は別だ。むしろ、やりがいのある仕事は大歓迎である。
「承りました。取りあえずデザインを考えます。その時点で一度見てもらってもいいですか?」
「あら、出来あがってからのお楽しみじゃなくていいの?」
「はい。それをステイシスさんが驚くかどうか、オレじゃ判断つきません。一番その人を知っている人に見てもらうのが確実だと思うし、何よりこれを渡すマダムが納得する物じゃないと意味がないです。オレは、今回『代理』だから」
珍しく長く口を開いたユータスの言葉に、ヴィオラは虚を突かれたのか、そのオレンジ色の瞳を見開いた。やがて言葉の意味に気付いたのか、少しだけ気恥ずかしそうに苦笑する。
「……それ、意識して言っている訳ではないのよね? 妙に鋭い事を言うかと思えば、本人無意識なんだもの。イオリちゃんも苦労するわねえ」
「?」
思った事をただ口にしただけで、何故そこでイオリの名前が出てくるのかユータスにはさっぱりわからなかったが、取りあえず自分が言いたい事は伝わったようだ。
ヴィオラ自身が先程言った事だ。今回はあくまでも『ヴィオラの代わりに』、彼女の夫を驚かせる物を造るに過ぎない。そこまでの意図はなかったのかもしれないが、ユータスはそう受け取った。
ならば多少自分の趣味から離れても、『代わりの手』として今の自分に出来る最高の仕事をするまでだ。
「ありがとう、期待しているわ」
二日後にまた来ると言い残して、ヴィオラはさほど長居をせずに帰って行った。
+ + +
ヴィオラが帰ってからしばらく、工房で手元に残された古びた金時計を眺めつつデザインを考えていると、表の方から来客の訪れを知らせるドアベルの音に重なって聞き慣れた声が聞こえてきた。
「兄ちゃーん、生きてるー?」
そろそろ来るのではという予想通りだ。そもそも死んでいたら返事自体が出来ないのではと疑問に思いつつ、店舗の方へ出て行けば、今日も元気そうな弟──ウィルドがそこにいた。
兄よりも赤みの強い赤茶の髪に、好奇心の旺盛さを隠さない大きな緑がかった薄茶の瞳を持つウィルドは少し小柄な為、無駄に縦に細長い兄と並ぶと正に大人と子供の図になる。
顔立ちこそ似ているものの、年が離れているとは言っても八歳程度なので、幸い一緒に歩いていても親子と思われた事はないが。
「あ、今日は生きてた」
「──いつも生きてる」
にぱっと笑う顔からは特に他意は感じないのだが、何となくそのまま受け入れるのは微妙な気がして反論すると、ウィルドは大げさな身振りで肩を竦めた。
「何言ってんの。この間、姉ちゃんと来た時は仕事明けでグールみたいになってたじゃん」
ウィルドはそう言うと、その時の様子を再現するかのようにカウンターへぐったりと上半身を突っ伏して見せた。否定出来ないのか、ユータスからの反論はない。
少しは他から自分がどう見えるのかわかってくれただろうかと期待したウィルドの耳に、やがて兄の少し感心したような言葉が聞こえてきた。
「ウィル……。お前、グールを見た事あるのか? よく無事だったな」
「──いや、兄ちゃん。そこは引っかかる所じゃないから」
予想の斜め上の反応はいつもの事だが、毎度脱力する。ウィルドはさらに深くカウンターへ突っ伏した。