人にはそれぞれ、想いの形(2)
昼下がりに、彼女はユータスの工房へとやってきた。
「ごきげんよう、ユータス。変わりはなさそうね」
通称『マダム=ステイシス』、本名ヴィオラ=ステイシスは来客──それも上得意客が来たというのに、いつもと変わらない薄汚れた作業着姿のユータスを気にした様子もなく朗らかな笑顔を見せる。
「マダムもお変わりないようで何よりです」
対するユータスも身なりこそいつも通りだが、口調自体は普段のゆるくぞんざいなものから幾分畏まったものになっている。おそらく普段の彼しか知らない人間がこの場にいたら耳を疑った事だろう。
よく誤解されるのだが、ユータスはこう見えて礼儀作法は厳しくしつけられている方だ。一目で年上とわかる相手には自然と敬語になる。
というのも弟子時代、周囲は十歳以上年の離れた大人ばかりだったし、そこを訪れる人間は基本的に『客』だ。そんな人々相手に砕けた口調で会話が出来るはずもない。
そして彼女は、ユータスが独立する前から目をかけてくれている奇特な人だった。ある意味、恩人と言ってもいいかもしれない。
月の半分を貿易商の夫に付き従う形でティル・ナ・ノーグへやって来るヴィオラは、元々は王都サフィールで名の知られた舞台女優だったという。
聞く所によれば四十の齢をいくらか越えているというのに、目を引く華やかな容姿は衰えを感じさせない。よく見れば、確かに目元や口元には実年齢に見合う年輪が刻まれてはいるのだが、むしろそれが人生経験豊かな大人の女性の艶を出しているようである。
銀色から毛先に行くに従い薄紫に彩られた特徴的な髪を上品に結い上げ、今日はリンゴを象った簪を挿していた。
彼女の年齢を考えると少し子供っぽいと言えるかもしれないが、不思議と違和感がない。
ティル・ナ・ノーグの特産である黄金色のリンゴをそのまま小さくしたようなそれは、まだユータスが見習いだった頃に作った習作を簪に加工したものだった。
たまたま工房を訪れていたヴィオラがそれを気に入り、何か身に着けられる物にと頼まれて簪にしたのだが、今でもこうしてよく身に着けてくれている。
ヴィオラは普通の女性だとあまり好んで使いそうにないモチーフで作った装身具を楽しんで身に着け、またそれが似合う稀有な女性だ。何でもユータスが作ったもの以外にも、変わった細工物が好きで集めているという。
思えば、その簪がユータスがヴィオラの依頼を受けた最初の作品だった。その時の事が切っ掛けで始まった交流は、師の工房を離れた今もこうして継続している。
お互いに挨拶を口にして数拍。
いつもなら訪れる頭部への衝撃がいつまで経っても来ない。心の準備をしていたユータスは少し肩透かしされた思いで口を開いた。
「……、今日はいないんですか」
「え? ああ、ステラ?」
ユータスの問いに、一瞬目を丸くしたものの、すぐに合点がいったようにヴィオラは微笑んだ。
「そうなの、海竜亭の辺りで別れたのよ。あの店にはよくステラのお友達がいるから、その子の気配でもしたのかしらねえ。後でまたあの辺りに寄ろうと思っているけれど、あの子は賢いから大丈夫でしょう」
ステラというのはヴィオラがいつも連れているアルフェリスという名の生き物の事だ。
一見した所は大型の猫のようだが背に翼を生やしており、グリフィスキアという闘技場でもお馴染みの獣と近縁の立派な肉食獣である。
美しい毛並みを持ち、一見愛らしい容姿である為、昔から愛玩用として馴らそうとする者も多かったそうだが、突然変異で生まれる単色の体毛(通常は茶系の斑模様)を持つアルフェリスを所有すると莫大な富や幸運が訪れるという噂が広まり、欲深い人間に乱獲された歴史がある。
事実関係は不明だが、そうした経緯から今では王国から絶滅危惧種に指定されており、一般人が飼う事自体不可能なのだが、ごく稀に自ら主人を選び、生涯を主人と共にする事が知られている。
その場合は引き離すとアルフェリスが衰弱、あるいは狂暴化するという理由から、飼う事が許されるらしい。
どういう経緯でステラとヴィオラが結び付いたのかは不明だが、その話が事実である事を示すように、ステラはヴィオラに非常に懐いており、何処に行くにも大抵付いて来る。
元々降雨が少なく気温が低い高山地帯が生息地な為か、雨の日と暑い日はその限りではないが。
なお、ステラは全身真っ黒で額に星のような白い毛が入る超希少種であり、『星』という名前もそこから取ったそうだ。
「あなたの事もお気に入りよね。少しくらい暑くてもここには大抵ついてくるもの。あの子、夫以外の男の人に自分から近寄る事って滅多にないのよ。一体何がそんなに気に入ったのかしらね?」
ヴィオラが楽しげにそんな事を言う。
アルフェリスは非常に賢い生き物で、こちらの言う事は何となくわかるらしい。そしてプライドが非常に高い──これは単にステラの性格なのかもしれないが。
見下ろされるのを嫌うステラは、背の高い男が近寄って来ると自慢の飛翔能力を発揮し、問答無用に頭の上に乗って来る(ネコは高い所にいる方が上位なのだそうだ)。
当然それは、嫌がらせ以外の何物でもない。
ステラとはヴィオラと初めて顔を合わせた時からの付き合いだ。その頃は流石にそういう目には遭わなかったが、やがて成長期に入りヴィオラの身長を抜いた辺りから頭の上に乗るようになってしまった。
攻撃手段を持つ騎士などにはそういう事はしないようだが、攻撃能力もなければ抵抗もしないユータスは格好の足場らしく、挨拶代わりに頭に飛び乗られては尻尾でぺしぺしと顔を叩かれるのが恒例行事になって久しい。
大きいだけあってそれなりに重量があるので(おそらく軽く見積もっても7、8kg)、心の準備をしないと首を痛めかねない。
様々な理由から見た目に寄らず頑丈なユータスだが、流石に首だけを鍛える事は難しい。それに──。
(あれは、お気に入りとは違うと思う)
どちらかと言うと、群れのボスが舎弟に『元気にやってるか、うん?』と挨拶している感じだ。
そう思うのだが、少なくとも嫌っているのなら頭に乗る事もないだろうから、ヴィオラの言い分も間違いではないのだろう──何となく、腑に落ちないが。
「今日も、何かご注文ですか?」
ともかく、いないのならそれはそれでいい。早速ユータスは気を取り直して尋ねた。
ヴィオラはティル・ナ・ノーグに滞在する間、数度彼の工房を訪れる。注文の為とそれを受け取る為だ。
確か先月は、ラミナを象ったブレスレットを造った。
腕にラミナが止まっているみたいと彼女には好評だったが、それも元々はヴィオラが夫と共に出かけた先のりんご農園で頭にラミナを載せている少年を見かけ、アクセサリーで作ったら面白そうと要望を出した結果出来たものだ。
本体を輝きを抑えた金、林檎の花を淡いピンクのシェルで作ったそれは、一見地味ながらも妙に存在感があり、おそらくヴィオラ以外にはなかなか使いこなせない(そもそも身に着けない)一品だろう。
イオリ辺りは完成品を『……今度はラミナ?』と奇妙なものを見るような目で見ていたものである。
確かにユータスが個人的に造るものは一般的とは言い難い物が多いが、依頼人の要望を受けて造る事もある訳で、何でも自分が造っていると思われるのも心外である。面倒なのでわざわざ正したりはしないが。
今回は月が変わって初めての来訪だ。たまにヴィオラが持つ細工物の修復なども頼まれるが、特に目立つ手荷物がないので他に何か用事がなければ注文だろう。
その予想は正しかったようで、ヴィオラは楽しげに頷く。けれど悪戯っぽい表情で続いたのは、予想外の言葉だった。
「でもね、今日はわたくし個人の物の注文ではないの」
その言葉におや、と思う。
「そうでしたか。……それなら、イオリがいた方が良かったですね」
ヴィオラやユータス自身の知人からといった個人的な依頼以外は、基本的にデザイン担当のイオリを先に通すようにしている。その理由は言わずもがなである。
おそらくイオリも客がヴィオラだから問題ないだろうと思ったのだろうが、ヴィオラ自身が他者の仲介になる可能性を完全に見落としていた。
商人の妻というだけでなく、元々の職業柄かヴィオラ自身も顔が広い。たまたま今までそうした事がなかっただけで、まったく有り得ないという事はなかったのに──。
しかし、ユータスの言葉をヴィオラは安心させるように微笑んで否定した。
「いいえ、いいのよ。確かに使うのはわたくしじゃないけれど、わたくしの代わりにあなたに造ってもらいたいの」
「代わりに?」
「ええ。あなただったらきっと、これを『世界に一つしかない』ものにしてくれると思うのよ」
そう言ってヴィオラが手にしたバッグから取り出したのは、鈍い金の光を放つ物体だった。ヴィオラの掌に収まる平べったく丸いそれは、同じ金の鎖が下がっている。
手渡されてみると、見た目よりも重い。
蓋がついている事に気付き、最初はロケットのようなものかと思ったものの、こんなに大きいものはあまり需要がない。
目線で蓋を開けていいか問えば、ヴィオラは促すように軽く頷く。
「……。これはもしかして」
蓋を開けるとそこには数字が刻まれた文字盤と、長さの違う二本の針。耳を澄ませばカチコチと小さく規則正しい音がする。
「面白いでしょう? これで今の時刻がわかるのよ。夫が昔、お義父様から一人前になった証に頂いたものだそうなの」
それはユータスも初めて目にする、時計というものだった。