始まりは空飛ぶ魚(1)
※7月1日 扉絵をつけました
今でも夢に見る。
目と心に焼き付いた、鮮やかな虹色の──。
+ + +
その日は数日続いた長雨が止み、久方振りに晴れた日だった。
たまたまいつも忙しくて家にあまりいない父が一日休みの日で、晴れた空を見た瞬間
『これはきっと日頃の行いが良かったんだな! よーし、こうなったらみんなで出かけるぞ!!』
とやたらテンション高く宣言し、父の言う事には喜んで応える母も同調、生まれて間もない弟を連れて郊外へピクニックと相成った。
家族思いで、多忙な中でも家族との時間を何より大切にする父の気持ちはわからなくもないのだが。
「──だからって、雨上がりの森はないだろ……」
これぞニーヴの恵みと無邪気に喜ぶ父には何となく突っ込めなかったので、側に誰もいないこの場でぼそりと呟く。
別に父の事は好きだし、出かける事が嫌という訳でもない。雨続きで家に閉じ込められていて、飽き飽きしていた事も事実だ。
だが出かけるにしても、もっと違う場所でも良かったのではないかと思う。
確かに雨上がりの森はしっとりとした空気が漂い、草木も久し振りの陽射しの下で心なし輝き、神秘的な雰囲気がある。普通に散歩をする分にはありだろう。
──だが、しかし。父は大事な事を見落としている。
はあ、とため息を零し、父の見落とした穴にまんまとはまりつつある妹を回収すべく足を速めた。
「にーちゃ!!」
近寄って来る兄の姿に気付き、先日二歳になったばかりの妹がぱあっと満面の笑みを向けてくる──全身泥だらけの姿で。
(遅かった……)
絶対、こういう事になると思っていたのだ。
自分で自由に歩けるようになり、元々好奇心の強い妹はちょっと目を離すと大抵とんでもない所にいる。ある時はテーブルの上、ある時は植え込みの下、そしてまたある時は余所様の花壇の中。
母は非常に楽観的な上に弟の世話もあり、妹までは目が完全に行き届かない。父は仕事でほとんど家にいないとなると、必然的にそういう場面を見つけるのは兄である彼なのだった。
「あーあ、真っ黒……」
長雨でぬかるんだ地面は、元々粘土遊びが好きな妹にとって格好の玩具だったようだ。
すでに泥団子らしきものがいくつか妹の足元に転がっている。ちなみにらしきもの、と表現するのは、『団子』と断言するにはあまりにも形が歪だからである。
「にーちゃ、ごはん!」
自分の置かれている現状を理解していない妹は、無邪気に泥団子もどきを指さして笑うが、とてもではないが笑い返せる状況ではない。
「ごはん、じゃないだろ? 笑ってる場合じゃないぞ、これ」
直接地面に座り込んでいるせいで、母のお手製の服は泥水を吸ってすっかり裾が茶色に変わっていた。
ある程度汚れる事を想定して汚れに強い生地を使っているだろうが、果たして洗濯して元通りになるのか怪しい所だ。
『お母さんちょっと手が離せないから、見ててくれる? あの子、すぐに変な所に行っちゃうから。お願いね?』
そう頼まれたのはここに到着して間もない頃だった。
父と母が昼食の準備をする間、近くで遊んでいてもいいと言われたまでは良かったのだが、こんな事なら自分も手伝うと言えば良かったと後悔する。
いつも通り、ほんの少し目を離した隙にどんどん森の奥に行く妹に気付き、追いかけてみればこの有様である。
「はい!」
妹はご機嫌で、泥団子(仮)を差し出してくる。
悪気がないのはわかっているのでいつもなら受け取ってやる所だが、今日はそういう訳にも行かない。団子ではなく手を掴んで立ち上がらせる。
「ままごとなら帰ったら付き合ってやるから。取りあえず戻るぞ。……多分、怒られるけどさ」
言ってわかるとは思えなかったが、ついつい零してしまう。何しろ、母に怒られてべしょべしょ泣く妹を宥めたり慰めたりするのは、理不尽な事ながら大抵彼の仕事なのだ。
母は普段はふわふわと何処か浮世離れしているくせに、怒るとこの世で一番怖い(と彼は思っている)。
大声で叱り飛ばしたり手を上げる事はないのだが、不自然な笑顔のまま淡々と罪状を述べられ小言を貰い続けるのは、きっと今にも襲いかかってきそうなモンスターを前にしているのと同じ位神経を擦り減らしていると思う。
(……というか、もしかするとオレも怒られるかなあ)
こういう最悪の事態を回避する為に『お願い』されたのに間に合わなかった訳で、多少のお叱りがある事は覚悟しておかなければならないだろう。
遠因はこういう足元具合の森に行こうなどと言いだした父にあるが、目を離さなかったらこういう惨状にはならなかったかもしれないのだ。
げんなりしながら、握った泥だらけの妹の手を引く。
「ほら」
「やー!」
母に怒られるという事を理解したのか、単に遊び足りないのか、妹が手を振り払おうとする。ここで手を離せば何処に行くかわからない。しっかり握り、もう片方の手で宥めるように頭を撫でる。
「やー、じゃないって。オレも一緒に叱られてやるからさ。それにこれ以上奥に行ったら、オレも道を覚えていられるか自信がないから駄目」
基本、意識して目にしたものは忘れない。
たとえば、十日前の夕食に出た付け合わせが何で、さらにどんな風に盛りつけられていたか、今でも鮮明に思い出せるし、過去に母と出かけてはぐれた際も一人で家に帰りつけた。
本人にとっては当たり前の事なので、それが特殊であるという自覚はないのだが、一種の特技と言えるだろう。
しかし、森はただでさえ似通った木々が密集している。太陽の位置などで方角を割り出せるような知識もなく、そうでなくても子供二人で森を歩くのは危険に違いなかった。
そのまま手を引こうとするが、まだ乾ききれないぬるぬるの泥に塗れた手はしっかり掴んでいても滑りやすい。
「やっ!」
力任せに腕を振り回され、折角掴んだ腕を取り戻されてしまう。
「っ、こら!」
そのまま逃げるようにさらに森の奥へと走って行く妹を慌てて追いかけ、茂みの中に飛び込む寸でで服の端を捉える。
「駄目だって言って──」
言いかけた言葉は途中で途切れた。暴れようとしていた妹も、驚いたようにぴたりと動きを止めている。
ほんの少し森が開けたその場所は、木漏れ日が降り注ぎ、まだ木々に残っていた雨露に反射してキラキラと輝いていた。元々日当たりもいいのだろう、足元には白い小さな花が咲き誇ってまるで花畑のようだ。
けれど二人が言葉も忘れて固まったのは、決してその場の美しさからではなかった。
──そこに、いたのは。
+ + +
「あ、あなた! 戻って来たわ!!」
「何!?」
しばらく目を離している間にまだ幼い子供二人の姿が見えなくなり、顔面蒼白でおろおろとしていた若夫婦は、森の方からこちらに向かってくる小さな人影に深い安堵の息をついた。
「ああ、良かった……。いつも任せてしまっているものだから、ついお兄ちゃんに頼んでいたら大丈夫とは思ってしまって。ごめんなさい、あなた。これじゃお母さん失格ね」
しょんぼりと俯く妻に、コンラッドは安心させるように肩を叩く。
「いや、俺も考えが甘かったよ。子供だからそんなに遠くまで行かないと思い込んでいた。戻って来て本当に良かった。……エリー、ひょっとしたら怖い思いをしたかもしれないから、今日はあまり叱ってやるなよ?」
「ええ、そうね。わかったわ」
そんなやり取りを両親がしているとも知らずに、人影はやがてしっかりと顔を判別するほどに近付いてくる。
妹の方は疲れて寝てしまったのか、兄の背に完全に身体を預けるようにして背負われている。二人の姿はどちらも泥だらけで(兄の方はどうやらとばっちりのようだが)ひどい有様だ。
一瞬、思わずといった様子でエリーの眉がぴくりと持ちあがったものの、すぐにその表情が不審そうなものに変わる。
「……どうした?」
妻の様子に怪訝そうな目を向けて来るコンラッドに抱いていた末の息子を押しつけると、そのまま二人の元へ駆け寄った。
「──ユータス、どうしたの?」
駆け寄ると同時に問いかけられた兄──ユータスは、母にぼんやりと視線を向けた。
やっぱり何かおかしい、と母の直観が告げる。
「顔色が悪いわ、ニナに何か……」
元々あまり表情が豊かな方ではないが、何処か抜けている自分に変わって何だかんだと暴れん坊の妹の世話や家の事を手伝ってくれる責任感の強い子だ。
もしや怒られると思って表情が冴えないのかと思ったが、明らかに違う。
「……、ニナは、寝てるだけ。大丈夫」
ぼそぼそ、と答える言葉も何処か力がない。もしや、と嫌な予感が過る。
ユータスは今まで病気らしい病気をした事がない。そういう意味でも手のかからなかった子だが、どんな事でも『絶対』はないのだ。
背負い続けているのが辛そうだったので、泥だらけの娘を引き受けると普段あまり見せないほっとした様子で笑ったかと思うと、そのまま地面に倒れ込む。
その姿にエリーは自分の直感が最悪の形で当たった事を知った。
「ユータス!?」
「ユータス、どうした!?」
驚いて駆け寄るコンラッドの声も何処か遠い。抱きかかえた娘もこの騒ぎで起きる気配がない。寝ているだけにしては眠りが深すぎる。
混乱の中、反射的に触れた小さな額はここまで二歳の子供を背負って歩いて来れた事に驚くほどに熱かった。