彼の地の雪の神様は純真です
一子は雪が嫌いだ。けれども認めざる得ないことがある。
「一子、一子」
布団に深々と潜り込んだ一子を六太は呼ぶ。起こそうという意図があるのだが、そこまで必死な訳ではないので声を掛けるだけだ。六太の声は少年特有のソプラノでありながらどこか深みがある。一子は何時もその声を子守唄により深く眠りについてしまう。勿論、六太はこの事実を知る由もない。
結果、一子が起きたのは六太が起こしに来た数時間後であった。
「あー…九時か」
枕元に置いてある雪だるま型の目覚まし時計を見ながら一子は擦れた声で呟いた。六太は一子の枕元に正座で座っている。視線は右下にある一子の旋毛辺りを意味もなく見ていた。
「よっこいしょ」と言う少しおばさん臭い声を漏らしながら一子は布団から出て立ち上がる。出来るだけ扉を閉め、暖気が逃げないようにしていても冬の朝は寒い。一子は厚手の上着を羽織ると土間へと足を進めた。六太が自分の後を着いてきていることを一子は分かっているので何も言わない。
土間に着くと、一子は暖房の電源を入れながら「炬燵のスイッチ入れて」と六太に言った。六太はそれに答えることをしなかったが、言ったことはしてくれると分かっているので一子は気にしない。台所に向かい、小鍋に水を入れて火にかける。冷蔵庫から紅鮭を二切れと卵二つを出すと一子は手早く調理を始めた。六太は使い終わった調味料を閉まったり、味噌を溶いたりと簡単な仕事を手伝う。ほぼ毎日行われるお蔭で、二人の動きは慣れたものだ。朝食はアッと言う間に出来上がった。
今朝のメニューは紅鮭の塩焼き、豆腐と葱の味噌汁、厚焼き玉子、ホウレン草のお浸し、白米だ。すっかり温まった炬燵に二人は足を入れると「いただきます」と言って食事を始めた。ミヤは紅鮭を焼き始めた頃に食事をせびって来たので、一子が先に食べさせている。今は炬燵の中で惰眠を満喫しているのだろう。一子がだらしなく伸ばした足に六太とは別の柔らかいものが触れていた。
二人は黙々と食事をする。テレビも点いていないリビングは沈黙に支配されていたが、二人は気まずさを感じたりなどしない。寧ろのんびりとした空気の中で食事を楽しんでいた。
「六太、緑茶とほうじ茶のどっちがいい?」
先に食事を終えた一子が炬燵から足を抜きながら言う。紅鮭と白米で頬を膨らませた頬を何とか凹ませると、六太は「緑茶」と答え再び頬を膨らませるために紅鮭に箸を伸ばした。
一子は「んー」と返事ともつかない声を発しながら台所へ向かう。食器を適当に水で流した後、急須に茶葉とお湯を入れた。それと一緒に湯呑を二つお盆に乗せると再び炬燵に戻る。
六太は既に食事を終え、一子がお茶を持ってくるのを待っていた。視線は一子を捕えて離さない。けれどもそれに何か言うこともなく、一子はお盆を置くとお湯を注いだ。緑茶の適温は八十度、侵出時間は約六十秒と一子は知っているが自身も六太も味に頓着しない性質である。だから気が向いた時にしかそうはしなかった。一子は小さな吐息を、六太は少し目を細めて緑茶の一口目を終える。
「そういえば」
一子がお茶を半分程飲み干した後に言った。同じく半分程になった湯呑を覗いていた六太が顔を上げる。目があったのを確認すると「今朝はどうしたの?」と一子は言った。
六太は普段、一子を起こしたりしない。朝起きると横に座っていることは頻繁にある。布団に入っていることも多くはないがある。だが声を掛けてくるのは初めてだった。
「空気が澄んでいたから」
六太は一子の問いにそう返す。それだけで一子には十分だった様で「ああ」と言うと視線を窓の外に向けた。
炬燵の横には縁側へと続く硝子戸がある。雪国仕様の硝子戸は厚い上に二重扉になっているので冷気が入ってくることも、霜が張ることもない。そこからは汚れ一つない雪原が見わたせた。太陽の光を浴びて煌めく雪原は月明かりで光るのとはまた別の美しさがある。けれども日の出と共に見る雪原はそれとは一線を画す。
六太はそれを自分に見せたかったのだろうと一子はすぐに分かった。元旦に偶々その光景を見た時、思わず笑顔を浮かべた一子を見て六太はとても喜んでいたのを覚えている。
――確かに綺麗だったけど、それを見て笑ったわけじゃないんだけど
一子はそう思ったが敢えて口には出さず、「起きられなくてごめんね」とだけ言う。六太は特に気にした風もなく「一子が謝ることじゃないよ」と言った。
***
「いってきます」
六太は炬燵に入ったまま、一子の声を聞いた。他の挨拶はしっかりするのだが「いってらっしゃい」だけは言う気になれず何時も返事をしない。一子がそれを注意しないこともあり六太は一度もその言葉を言ったことが無かった。
六太は炬燵から足を抜くとその穴から中を覗く。中ではミヤが丸くなっていた。
「ミヤ、出かけてくる」
小さく声を掛けると、ミヤは片耳をぴくりと動かして答えた。
一子は家の鍵を閉めて出かける。六太も鍵を貰っているがそれを使ったことは一度もない。六太が出かける前にすることと言えば、ガス栓の確認と暖房の電源を切るぐらいだ。勿論、ミヤが居るので炬燵の電源だけは切らない。
出かける準備を済ますと、六太は空気に溶けた。この状態になってしまえば、誰も六太に気付けない。一子も例外ではなかった。事実、雪下ろしをしている一子の傍に六太が付きっきりで居ても反応はない。
雪下ろしは重労働なだけでなく危険を伴う仕事だ。六太は一子が転ばないように、少しでも楽に雪を下ろせるように手伝っていた。とはいえ、あまり大げさにすれば一子に気付かれてしまう。だから少しだけ、本当に少しだけ六太は一子を手伝っていた。
「直おばあちゃん、終わったよ」
一子は無事雪下ろしを終え、梯子をゆっくりと降りながら大声で言う。家の中から「はいよ」と言う声と共に一人の老人が姿を現した。六太は空気の中をふわふわと漂いながら二人の会話に耳を澄ます。会話から一子が次に向かう家を突き止めると、六太は先にその家に出向き自然に思える程度に雪を落とすのだった。
六太は昼間、勉強するなり遊んでいるなりしていると一子は思っている。だが現実はこうして六太の一日は過ぎて行っているのだった。とは言え、六太に不満は一切ない。誰かにお礼を言われることなどは無いが、自分が確実に誰かの役に立てていると分かるだけで十分なのだ。
***
「一子、一子」
布団に深々と潜り込んだ一子を六太は呼ぶ。昨日とは違い、一子は布団から片手を出した。何かを探す様に動く手が六太の膝に触れる。膝の上でぱたぱたと動く手を六太は何となしに握った。一子は氷の様に冷たい六太の手に一度手を震わせる。だが、その冷たさに眠気を飛ばされ勢いよく上半身を起こした。
「六太、手が物凄く冷たいよ」
一子は掛布団を半分被ったまま六太に近づき、自分と一緒に六太を布団に入れる。すると、六太の全身が手と同じように冷たいことが分かった。温かいはずの朱色のセーターも内側がもふもふとした素材でできているズボンも冷えている。一子は六太がある程度温まるまで自分の体温を分けた。
暫くすると、六太の体は随分暖かくなった。一子の方が六太から体温を貰っている気がする。もう良いだろうと、一子は六太を放した。すると、今度は六太が一子の手を掴む。
「こっちだよ」
六太は一子の手を引き、土間に向かった。六太の手は子供らしくポカポカと温かくなっている。何を見せたいのか分かっているので、一子は抵抗なく六太に続いた。土間はいつもと変わらない冷たい空気に満たされている。
「うわぁ」
硝子戸から見える光景に一子は小さく息を上げた。雪原の地平線から太陽がゆっくりと姿を現す。金剛石の向日葵が咲いていた。
「一子、綺麗でしょ?」
六太の声に一子は視線を左下に下げる。そこには目じりを下げ、口角を僅かに上げた六太の顔があった。
「うん」
一子は六太の柔らかい表情を見ながら頷く。そして内心、溜息を吐いた。
本当、認めざるをえないよ。雪はやっぱり嫌いだけど、六太がこんな風に笑うなら…。
強く手を握りながら、二人は朝日が昇り切るのを見つめていた。