婚約者に相応しいかテストされたので全問間違えてやりました。婚約破棄?上等でございます。
「エレノア。君には、婚約者としての自覚が足りないようだ」
ヴァレンシュタイン公爵邸の庭園に面したテラスに、尊大な声音が響く。
午後の陽光が白磁のティーカップを照らし、色とりどりの花々が風に揺れている。噴水から流れ落ちる水音も、普段なら心を和ませてくれるはずだった。
けれど、目の前に座る男の声が、その優雅な空気を台無しにしているのだ。
アルベルト・ヴァレンシュタイン。私の婚約者であり、この国でも別の意味で、名の知れた公爵家の跡取り息子である。
かつてのヴァレンシュタイン家は、豊かな鉱山と広大な農地を所有する、王国屈指の名門貴族だったという。
しかし、先代当主の浪費と杜撰な領地経営によって財政は徐々に傾き、今では借金の返済すら危うい有様となってしまった。
収益を生むはずの鉱山は荒れ果て、農地も十分に管理されていない。領民の流出も相次ぎ、数年後には爵位を維持できるかどうかさえ怪しいと囁かれていた。
そんな窮地に陥ったヴァレンシュタイン家が援助を求めた相手こそ、我がルーヴェル公爵家。
ルーヴェル家は肥沃な大地と豊かな水源に恵まれた、王国有数の穀倉地帯を治めている。財政的にも政治的にも、ヴァレンシュタイン家とは比較にならないほどの基盤を有していた。
父は、鉱山や農地が復興した暁には、そこから得られる利益の一部を還元することを条件に援助を承諾した。
こうして両家の関係を強固にするため、私とアルベルトの婚約も取り決められたのである。
父は婚約が決まった際、私にこう告げた。
『あの家を立て直すためにも、まずは相手の人柄を見極めなさい。お前が彼を理解し、支えられるかどうかも大切なことだ』
だからこそ、私はアルベルトという人間を理解しようと努めた。
彼の領地について調べ、財政状況を把握し、再建に向けた改善案をいくつも考案した。
使用人たちが困窮していると耳にすれば、父に相談して支援物資を手配したこともある。
初めの頃は、彼の役に立てることが純粋に嬉しかった。いつか私の努力を認めてくれるのではないか。そんな淡い期待を抱いていた時期もあったのだ。
しかし、現実はどうだろう。
「聞いているのか? エレノア」
アルベルトの苛立ちを含んだ声に、私ははっと意識を現実へと引き戻された。
「申し訳ございません。少々、別のことを考えておりました」
「ほう。つまり、私の話は退屈だとでも言いたいのか? せっかく私とクラリッサの逢瀬の場に、お前を招いてやったというのに」
「申し訳ありません。私は、アルベルト様のお邪魔になっているようですので、この辺りで失礼した方がよろしいですね。」
「……本当に、可愛げというものが微塵もないな。空気は読めないし、話も通じない。お前は一体、何の役に立っているのだ?」
彼は呆れたように眉をひそめ、手元のカップを乱雑に置いた。
私が何をしても、彼の目には欠点として映るらしい。
そのとき、隣から甘ったるい声が割って入った。
「まあ、アルベルト様。そんなに厳しくなさらなくてもよろしいではありませんか」
声の主はクラリッサ・ベルモント男爵令嬢。アルベルトの恋人とでも言おうか。
彼女は当然のように彼の腕に自分の腕を絡め、私の存在など気にも留めず肩へ頬を寄せていた。
「エレノア様も、もう少し殿方を立てることを覚えたほうがよろしいのでは? アルベルト様は次期公爵なのですから」
「そうですか」
「ええ。私なら、アルベルト様をこんなに困らせたりいたしませんわ」
クラリッサは勝ち誇ったように微笑む。
「婚約者なのに、ちっとも可愛げがないんですもの」
「クラリッサの言うとおりだ。君には彼女を見習ってほしいものだな」
アルベルトは彼女の腰に腕を回し、さも当然といった顔で頷く。
「おまけに、その貧相な服装。化粧品も選ぶものがことごとく地味すぎますわ。アルベルト様がお可哀想!」
私は静かにカップをソーサーへ戻した。
(よく言うものだ。)
クラリッサが身につけているけばけばしい装飾品も、鼻につくほど強い香水も、すべてアルベルトから贈られたもの。そして、その購入資金の出所は、言うまでもなくルーヴェル家からの援助金だった。
つまり彼女は、私の実家が支援した資金で着飾り、そのうえで私の服装を嘲笑っているのである。
(ああ、本当に反吐が出る)
もっとも、今の私には傷つくほどの感情は何処にも残っていない。
かつての私の思いは、彼にとって恩着せがましい余計なお世話でしかなかったのだろう。
アルベルトが必要としていたのは、私ではなく、ルーヴェル公爵家の財力だった。
それに気づいてからは、何を言われても受け流すようになった。浮気をされようと、侮辱されようと、私が悪かったのだと自分に言い聞かせてきた。
夜、枕に顔を埋めて声を殺したこともある。
涙が枯れた翌朝、虚無感だけが胸に居座っていたこともあったっけ。
けれど、それも今となっては遠い記憶だ。
それを理解してからというもの、彼に対する期待は少しずつ私の中から消えていった。
陶器がソーサーに触れ、かすかな音が立つ。
ゆっくりと視線を上げ、私はクラリッサをじっと見つめた。
「一つ、伺ってもよろしいでしょうか」
「何だ?」
クラリッサに代わってアルベルトが返事をした。
彼女は不安げに眉を寄せると、そっと彼の上着の裾を引き寄せる。
誰が見ても可憐で、庇護欲をそそる彼女。涙を浮かべて見上げられれば、思わず手を差し伸べたくなるような、そんな愛らしさを持ち合わせている為、殿方に好まれる理由も分からなくはない。
ただし、その愛らしい顔の裏に何が隠されているのかは、また別の話だ。
「クラリッサ様は、私たちの婚約関係について、どこまでご存じなのでしょうか?」
アルベルトは、わざとらしく鼻で笑って見せた。
「何を言っている。彼女は私にとって特別な女性だ。君のように、家の都合で結ばれた婚約者とは訳が違う。勘違いも甚だしいぞ。」
「まあ、アルベルト様ったら」
クラリッサは頬を染め、恥じらうように目を伏せた。両手で頬を包み込み、わざとらしいほど小さく身をすぼめてみせる。
「聞こえたか、エレノア。私が愛しているのはクラリッサだ。君は、ただの婚約者にすぎない」
私は二人を交互に見つめた。
(なるほど。)
この方は、婚約者の目の前で恋人だと包み隠さずに公言するほど、ご自身の立場を理解していらっしゃらないらしい。
それならば、私も婚約者としての務めを果たす必要はなさそうだ。
***
その後も、二人の振る舞いは目に余るものだった。
ただ、嫉妬などという感情は、こちらとしても、これっぽっちも抱いていない。
そう、これっぽっちもだ。
むしろ、いい歳をした大人が人目も憚らず、べたべたと身を寄せ合っている姿を見ると、どうにも虫唾が走る。胸焼けどころか、今にもむせ返りそうだ。
「エレノア様。こちらのお菓子、召し上がらないのでしたら私がいただいてもよろしいかしら?」
クラリッサは返事を待つことなく、私の皿に置かれていた菓子を手に取った。そして、それをアルベルトの口元へ運ぶ。
「はい、アルベルト様。あーん」
「ははっ。まったく、君は甘え上手だな」
アルベルトは鼻の下を伸ばしきり、頬を緩ませていた。目尻はとろけるように垂れ下がり、口元には締まりのない笑みが浮かんでいる。あまりにだらしないその顔を見ていると、こちらまで気が緩みそうになってしまった。
もちろん、呆れの意味で。
(…………………うげぇぇ。吐き気が……。)
二人は私の存在など忘れてしまったかのように、仲睦まじい様子を見せつけてくるのだった。
給仕をしていた侍女たちまで、忍び笑いを漏らしている。
「エレノア様は、いったい何を考えていらっしゃるのかしら」
「せっかくアルベルト様がお時間を割いてくださっているというのに」
「クラリッサ様のほうが、よほどお似合いですわね」
囁き声は、明らかに私に聞かせるためのものではないか。
この屋敷に足を運ぶようになってから、こうした嫌がらせは日常茶飯事である。
私が手配した支援物資はクラリッサへの贈り物として紹介され、私が負担した領地の修繕費はアルベルトの手腕によるものだと吹聴される。時間をかけて作成した財政改善案も、彼の執務机の隅で埃を被っていた。
それでも、私は黙っていた。彼の家が苦境に立たされていることは事実だったし、婚約者としてできる限りの支援をしたいと思っていたからだ。
ふとクラリッサと視線が交わる。彼女は私を見るなり、まるで何かを面白がるかのように、意味ありげな笑みを浮かべた。
「エレノア様お顔が怖いですわ。。もしかして、嫉妬なさっているのですか? アルベルト様は私を愛していらっしゃるのですもの。どれだけ努力なさっても、私には勝てませんわ」
「………。」
「そもそも、エレノア様は恵まれすぎているのです。豊かな領地も、立派な屋敷も、高い家格も。何もかもお持ちなのですから、少しくらい譲ってくださってもよろしいでしょう?」
”恵まれている。“その言葉自体は否定しない。生まれた家にも両親にも、私は十分に恵まれてきたと思う。
けれど、だからといって、他人の努力や財産を当然のように差し出せと言われる筋合いはない。
「クラリッサ様。他人のものを欲しがる前に、ご自身の力で手に入れる努力をなさってはいかがですか?」
クラリッサの顔に浮かんでいた優雅な笑みが、ぴたりと凍りついた。口元だけは笑みの形を保っているものの、その目には隠しきれない困惑と苛立ちが滲んでいる。
「……何ですって?」
「エレノア!」
アルベルトがテーブルを叩いた。食器がかすかに揺れ、銀のスプーンが甲高い音を立てる。
「クラリッサに謝れ!」
「なぜでしょう?」
「お前はどれだけ空気を壊せば済むのだ!」
「では、アルベルト様も、私の目の前で婚約者としての立場を侮辱なさるのはおやめくださいませ」
彼の顔が見る見るうちに赤く染まってゆく。
「もういい! 君がどれほど傲慢な女なのか、よくわかった!」
婚約者の浮気を見せつけられ、浮気相手に嘲笑され、それでも声を荒らげずに耐えていた私が傲慢なのだという。
実に愉快な話である。
***
それから数日後、私は再びヴァレンシュタイン家に呼び出された。
案内された応接室には、アルベルトとクラリッサのほか、数人の使用人まで顔を揃えていた。何かの審判でも始まるかのような物々しい雰囲気に、私は小さく眉を動かす。
「それで、本日はどのようなご用件でしょうか?」
「今日は、君にテストを受けてもらう」
「テスト、ですか?」
「ああ。君が私の婚約者に相応しいかどうか、確かめてやる」
アルベルトは得意げに胸を張ると、一枚の紙を机の上へ置いた。そこには、几帳面な文字で十個の質問が書き連ねられている。
私は紙に目を向けたものの、いったいなぜ、このような試験を受けなければならないのか、理解に苦しんでしまう。
「問題は十問。一問でも間違えたら、婚約破棄だ。分かったな?」
アルベルトは、こちらの意思など確かめる気もないらしく、けんもほろろに言い放った。
(随分と簡単におっしゃる)
その言葉に、どこまで責任を持つつもりなのだろう。婚約を破棄した後のことなど、少しも考えていないのだろうか。
自ら口にした条件が、いずれ自分の首を絞めることになるとも知らず、得意満面にこちらを見下ろすアルベルト。その愚かな姿を前に、私の胸の奥で、ちりりと小さな火が灯るのを感じた。
(そういうことなら、こちらにも考えがある。)
エレノアとしても、いつまでも黙って言いなりになっている訳にはいかない。
私は、再び静かに紙へと視線を落とした。
一問目は『婚約者にとって最も大切なものは何か』。
二問目は『夫となる男が愛する女性を、婚約者はどう扱うべきか』。
三問目には『婚約者が男の浮気を疑った場合、どのように振る舞うべきか』とある。
読み進めるほど、出題者の浅薄な価値観が透けて見えた。
四問目には『男の意見に反論する女は、賢い女といえるか』。五問目には『夫となる男の判断を疑うことは、妻としてふさわしいか』。
そして最後の十問目。
『婚約者は、婚約者の命令に無条件で従うべきか』
私は紙から顔を上げた。
「アルベルト様。この試験には、正解があるのでしょうか?」
「当然だ。私が正解を決める!」
彼は一片の疑いもなく堂々と言い放った。
「私の考えに従える女こそが良き妻になるのだ。君には、それを理解してもらう必要がある」
隣ではクラリッサが口元を押さえ、上品ぶった笑みを浮かべている。
「まあ、エレノア様。まさか、こんな簡単な問題もおわかりにならないのですか?」
彼らの傲慢な言葉を聞いた刹那、頭の奥で何かがぷつりと弾けた。これまで辛うじて保っていた理性の糸が、音を立てて断ち切られたようだった。
気のせいだと思いたい。
「…そうですか。それでは、始めましょう」
私はペンを手に取り、一問目から回答を書き始めた。
『婚約者にとって最も大切なものは何か』
――互いの尊重と信頼。どちらか一方が他方を支配する関係は、健全とはいえない。
『夫となる男が愛する女性を、婚約者はどう扱うべきか』
――婚約者がいるにもかかわらず別の女性を愛しているのであれば、婚約を解消するのが誠実な対応でしょう。
『婚約者が男の浮気を疑った場合、どのように振る舞うべきか』
――疑うまでもなく、目の前で堂々と浮気をしている場合は、事実を確認したうえで婚約の継続を再検討する。
『男の意見に反論する女は、賢い女といえるか』
――意見の正誤は性別ではなく、内容によって判断されるべきです。
『夫となる男の判断を疑うことは、妻としてふさわしいか』
――誤った判断を正すことも、伴侶としての責任の一つです。
私は淡々と回答を書き続けた。
どれも特別に難しい考えではない。人と人が対等な関係を築くうえで、至極当然のことばかりだ。
しかし、この男にとっては違うらしい。
彼が求めているのは、意見を交わし、互いを尊重し合う伴侶ではない。自分の言葉に疑問を抱かず、どんな理不尽にも従順に頷く人形のような存在なのだろう。
それならば、私がその役目を引き受ける理由はどこにあろうか。
やがて、最後の一問にたどり着く。
『婚約者は、婚約者の命令に無条件で従うべきか』
私は一度だけペンを止めたが、迷いなく答えを書き記す。
――いいえ。互いを尊重できない関係に、無条件の服従は必要ありません。
「終わりました」
紙を机に置くと、アルベルトは待ちきれないといった様子でそれをひったくった。
しかし、回答に目を通した途端、彼の眉間に深い皺が刻まれる。
「……何だ、これは」
「解答ですわよ?何か問題でも?」
「ふざけるな! 何一つ、私の考えに従っていないじゃないか!」
「一問でも間違えたら婚約破棄、とのことでしたので。全問、アルベルト様の意見にそぐわないように答えてみました」
応接室の空気が、ピタリと凍りつく。
先ほどまで聞こえていた衣擦れの音さえ途絶え、誰もが口を閉ざしている。アルベルトも、クラリッサも、まさかそのような返答が返ってくるとは思っていなかったのだろう。
室内には、なんとも言い難い沈黙だけが残されていた。
クラリッサは口を半開きにしたまま、私と回答用紙を交互に見つめる。
「何を言っているのだ?今お前が置かれている状況が分からないのか?」
私は微笑んでみせた。
「おめでとうございます、アルベルト様。これで、私たちの婚約は解消ですね」
「き、貴様……!」
彼は、我に返ったのか、顔を真っ赤にして立ち上がった。
「この私を馬鹿にしたな! 婚約破棄だ! 今すぐ、この場で婚約を破棄してやる!」
「なんと素晴らしい贈り物ですこと。」
「二度と私の前に顔を出すな!」
「そのままお返ししますね。」
「視界から今すぐ消えろ!!ブスクソ女」
「目をつぶれば良いじゃないですか。」
あまりにもあっさりと応じたせいか、彼は一瞬言葉を失ったようだ。
それでも、すぐに気を取り直したように胸を張る。
「君がいなくなれば、我が家は自由だ。居なくなったとしても何一つ困る事はないだろう。ルーヴェル家の援助など、こちらから願い下げだ!」
アルベルトは勝ち誇った笑みを浮かべたが、一方で私は呆れて物が言えず目を瞬いていた。
(……ああ。この方は、本当に何もご存じないのだ。)
自分の家がどれほど危うい場所に立っているのか。そして、誰のおかげで今日まで公爵家の看板を掲げていられたのか。
「これで、ようやく私たちが正式に結ばれますわね!」
クラリッサは、アルベルトに腕に寄り添いながら、これ見よがしに声を張り上げる。
こちらをちらりと横目で窺いながら、勝ち誇ったような笑みが浮べていた。
まるで、自分こそがこの場の勝者であると、私に知らしめたいようだ。
どうか、その幸せが長く続きますように。
私は心からそう願った。
もちろん、ほんの少しも助けるつもりはなかったけれど。
***
翌朝、ルーヴェル公爵邸にはヴァレンシュタイン公爵本人から一通の書状が届いていた。前日の婚約破棄について事実を確認したいこと、そして両家の今後について話し合いたいという内容だった。
父は書状を読み終えると、深々とため息を吐く。
「……ついに、あの家の馬鹿息子はやらかしたか」
「お父様。ご存じだったのですか?」
「ああ。あの家がどれほど我々に依存しているか、当主なら知らぬはずがない」
父は傍らに積まれていた分厚い書類の束を、私の前へ差し出した。
「エレノア。これを見なさい」
そこには、ヴァレンシュタイン家との取引記録や援助の明細が事細かにまとめられていた。領地の復興資金、困窮する領民への食糧支援、滞納していた商人への支払い。さらには、彼らが王都で生活するための費用まで記されている。
頁をめくるたび、見覚えのある項目が次々と目に飛び込んできた。
「……こんなにも」
「婚約が決まってから、我々が肩代わりしてきた負担だ。あの家は、もはや我々の援助なしでは領地を維持することすら難しい」
「アルベルト様は、ご存じないようでした」
「だろうな。財政にも政治にも興味がないと聞いている。公爵家の跡取りという肩書さえあれば、何とかなるとでも思っているのだろう」
父は書類を閉じ、静かに告げた。
「婚約を継続する意思がないのであれば、これ以上援助を続ける理由もない。契約に基づき、今後の支援は停止する。未返済分については正式に返済を求め、領地の再建計画についても我々がこれ以上関与する必要はない」
「……よろしいのですか?」
父は穏やかな眼差しを私に向けた。
「エレノア。我々は彼らを救うために手を差し伸べたのだ。彼らに踏みにじられるためではない。今まで、ルーヴェル家のために頑張ってくれたな。ありがとう。」
その言葉が、胸の奥に静かに染み込んでいく。思わず泣きそうになった。
そうだ。私はもう十分に尽くした。これ以上、自分を犠牲にする必要などない。
その日の午後、ヴァレンシュタイン家には正式な通知が届けられた。援助の停止、未返済債務の精算、婚約解消に伴う契約関係の整理。そして、私に対する侮辱行為や婚約関係を利用した不当な要求についての事実確認。いずれも契約と手続きに則った正当な措置だった。
翌日、ヴァレンシュタイン公爵邸は未曾有の騒ぎに包まれた。
「何だと!? 援助金が止まっただと!?」
アルベルトの怒声が執務室に響き渡る。
父親であるヴァレンシュタイン公爵は、青ざめた顔で書類を握りしめていた。
「そうだ。ルーヴェル家が、すべての援助を停止すると通告してきた」
「なぜだ!? こちらは、あの女との婚約を解消しただけだぞ!」
「お前が自分で婚約を破棄したのだろう!」
「それが何だというのです! 婚約者が一人いなくなった程度で、なぜ家が困窮するのですか!」
公爵は、しばらくアルベルトを見つめた。その眼差しには、怒りだけでなく深い失望が宿っている。
「アルベルト。お前は、自分の家がどのように成り立っているのか考えたことがあるか?」
「公爵家なのですから、領地から税が入るに決まっているでしょう!」
「その領地は荒廃している。税収だけで借金を返せる状態ではない。ルーヴェル家が資金を融通し、食糧を送り、商人たちとの交渉を支えてくれたからこそ、我々は何とか持ちこたえていたのだ!」
「……は?」
「お前が毎日遊び歩き、豪奢な服を買い、クラリッサ嬢に宝石を贈っていた金も、どこから出ていたと思う! どこまで愚かなのだ、お前は!」
「ま、待ってください。では、私が彼女に贈った首飾りも……?」
「ルーヴェル家から融通された資金が含まれている!」
アルベルトの顔から、見る見るうちに血の気が引いていった。
自分が贈ったと思っていた宝石も、豪奢な衣服も、華やかな生活も。その大部分が、婚約者の実家からの援助によって成り立っていた。そして、その婚約者を自分の手で追い払ったのである。
「お前は何も知らずに、援助してくれていた家の令嬢を侮辱し、婚約を破棄したのだぞ!」
「しかし、私は……!」
「言い訳は聞かん!」
そのとき、執事が慌ただしく部屋へ駆け込んできた。
「旦那様! 商会から、取引条件の再審査を行うとの通知が届きました! 銀行からも返済計画の見直しを求められております!」
公爵は言葉を失い、椅子へ腰を落とした。
援助停止から一週間。ヴァレンシュタイン家は領地の運営費すら捻出できなくなった。一か月後には債権者たちが正式に返済を求め、ついに王宮から財政状況に関する調査が入ることも決定した。
もはや、彼らの没落は時間の問題だった。
***
一方、クラリッサはというと、ヴァレンシュタイン邸の応接室で声を荒らげていた。
「アルベルト様! いったい、どういうことですの!?」
「……今は、それどころではない」
アルベルトは疲れ切った顔で答えた。以前なら彼女の些細な不満にも耳を傾け、機嫌を取ろうとしただろう。しかし、今の彼にはそんな余裕など残されていなかった。
「それどころではない、ですって?」
クラリッサは机に身を乗り出した。
「私は男爵家の娘ですのよ! あなたが公爵家の跡取りだからこそ、お付き合いして差し上げたのです! まさか、本当に没落するなんて聞いておりませんわ!」
「……何だと?」
「だって、そうでしょう!? 領地が多少傾いていたって、公爵家なのですから何とかなると思っていましたわ!」
アルベルトは、その言葉を聞いてようやく気づいた。彼女は自分自身を愛していたわけではなかった事を。
求めていたのは、公爵夫人という華やかな肩書と、それに付随する贅沢な暮らしだったのだ。
「出ていけ」
「……え?」
「出ていけと言ったんだ!」
「何ですの、その態度! 今まで私を甘やかしてくださったのは、あなたでしょう!?」
「黙れ!」
「いいえ、黙りませんわ! あなたがエレノア様に嫌がらせをするよう勧めたのは私だけではありません! あなた自身だって、私の前で彼女を侮辱していたではありませんか!」
アルベルトは言葉を詰まらせた。反論などできるはずもない。彼女の言葉は紛れもない事実だったからだ。
クラリッサは思考を巡らせるように、しばしの間、あれこれと思案を重ねた。やがて考えがまとまらないのか、苛立たしげに爪を噛む。
(どうすればいいの……!?)
実のところ、クラリッサにはもう一つ、誰にも明かしていない事情があった。私には別の婚約者がいたのである。相手は伯爵家の嫡男。家同士の取り決めによる婚約だったが、私はその相手に少しも関心を持っていなかった。
アルベルトとの関係が順調に進み、彼が正式にエレノアとの婚約を解消すれば、伯爵家との婚約も自分から破棄するつもりだったのだ。
しかし、すべてが狂ってしまった。
翌日、これまでのクラリッサの振る舞いは、王都の社交界でも瞬く間に広まってしまうのであった。
婚約者の目の前で不貞を誇示し、相手を嘲笑していたという話は、当然彼女の家族にも、伯爵家の婚約者にも伝わり、伯爵家との婚約は取り消され、かつて親しくしていた令嬢たちからも距離を置かれることとなった。
さらに、ヴァレンシュタイン家の資金で購入した宝飾品の一部についても、購入資金の出所や契約内容を巡って精算の問題が浮上した。
結局、彼女は華やかな暮らしを維持できなくなり、実家からも厳しい叱責を受け、家から追い出されることとなったのである。
「こんなはずでは、なかったのに……!」
彼女は何度もそう嘆いたという。
けれど、その嘆きに耳を傾ける者は、もう誰もいなかった。
***
ヴァレンシュタイン家の没落が決定的になった頃、私は王都の公爵邸で静かに読書を楽しんでいた。
窓の外には、秋の気配を帯びた庭園が広がっている。木々の葉は少しずつ色づき、風が吹くたびに乾いた葉擦れの音が聞こえてくる。
かつては、こうして穏やかな時間を過ごすことさえ、どこか後ろめたく感じていたものだ。アルベルトの家が苦境に立たされているのに、自分だけが安穏としていてよいのだろうか。もっと何かできることがあるのではないか。そんな考えに囚われ、常に彼のことを気にかけていたなあ。
「お嬢様。アルベルト・ヴァレンシュタイン様がお見えです」
執事の報告に、私は読んでいた本から顔を上げた。
「……お通ししてください」
数分後、私の前に現れたアルベルトは、以前とは別人のような姿で、仕立ての良かった服はくたびれ、顔には隠しきれない疲労が滲んでいる。かつて自信に満ちていた表情は見る影もなく、目元には深い隈さえ浮かんでいた。
「エレノア……!」
彼は私の姿を認めるなり、縋るように駆け寄ってきた。
「頼む! もう一度、私と婚約してくれ!」
私は本を閉じ、彼を静かに見つめた。
「……何とおっしゃいましたか?」
「君が戻ってくれば、すべて元どおりになる! ルーヴェル家が援助を再開してくれれば、我が家は立ち直れるんだ!」
「切り捨てたのはそっちでしょう。」
「君も、私のことを愛しているのだろう? だから今まで、あれほど尽くしてくれたのではないのか?」
この人は、まだ何もわかっていない。私が彼の家のために尽くしてきた理由も、彼が何を失ったのかも、何一つ理解していないのだ。
「アルベルト様。私は、あなたを支えるために努力してまいりました。領地の再建案を作成し、必要な資金を手配し、あなたの家が困窮しないよう、できる限りのことをしてきたつもりです」
「ああ! だから、もう一度……!」
「ですが、あなたはその努力を一度でも認めてくださいましたか?」
彼の言葉が途切れた。
「私が作成した再建案を読んでくださいましたか? 領民の生活について気にかけてくださいましたか? あなたの家を支えている人々に、感謝を伝えてくださいましたか?」
アルベルトは口を開くが、何も言えないようだった。
「それどころか、あなたは私を傲慢だと罵り、浮気相手とともに嘲笑し、私の目の前で婚約破棄を宣言なさいました」
「そ、それは……あのときは、頭に血が上っていて……!」
「では、伺います」
私は静かに微笑んだ。
「もし、あなたの家が今も裕福であったなら。ルーヴェル家の援助など必要なかったのなら。あなたは、私に謝罪しに来たでしょうか?」
アルベルトは俯くままである。
沈黙こそが、何より雄弁な答えなのだ。
「答えられないのですね」
私は椅子から立ち上がった。
「アルベルト様。あなたが失ったのは、私という婚約者だけではありません。人を敬う心。恩を受けた相手への感謝。そして、自分の行いに責任を持つ覚悟。そうしたものを、あなたは最初から持ち合わせていなかった」
「エレノア……!」
「お帰りくださいませ」
「待ってくれ! 君なら、私を見捨てないと思っていたのに!」
アルベルトはなおも何かを叫んでいた。
しかし、彼の人生を立て直すことは、彼自身の責任だ。私が背負う義理は、もうどこにもない。
**
それから半年後。
ヴァレンシュタイン家は、ついに領地の大部分を手放すことになった。借金の返済が滞り、資産の整理が進められた結果、公爵家としての威信は地に落ちた。爵位についても、領地の統治能力や財政状況を踏まえた審査が行われることとなり、かつての栄華を取り戻す見込みはほとんどなかった。
これまで彼を持ち上げていた人々は、誰一人として助けの手を差し伸べやしない。彼が誇っていた肩書には、もはや何の価値もなかったからだ。
クラリッサもまた、以前のような贅沢な暮らしを送れなくなった。彼女の振る舞いは長く社交界で語り継がれ、どれほど取り繕おうとも、その評判が消えることはないだろう。
私は窓の外へ視線を移す。
広がる庭園。風に揺れる花々。穏やかな陽光。以前と何一つ変わらない景色のはずなのに、今は不思議なほど鮮やかに見える。
かつての私は、婚約者に認められるために必死だった。
けれど、どれほど尽くしても、相手がそれを当然だと思っている限り、報われることはない。
他人の評価を得るために、自分をすり減らす必要などなかったのだ。
ふと、机の隅に置かれた書類が目に入った。
あの、自分の人生を変えた、十問の婚約者テストだった。
私はそれを手に取り、最後の一問を読み返した。
『婚約者は、婚約者の命令に無条件で従うべきか』
ーー『いいえ。互いを尊重できない関係に、無条件の服従は必要ありません』
今になって思えば、あれはアルベルトに向けた回答であると同時に、私自身への宣言でもあったのだろう。
私は紙を折りたたみ、暖炉へとくべた。端からゆっくりと燃え始めた紙は、やがて炎に包まれ、灰となって崩れていく。
その様子を見つめながら、私は静かに微笑んだ。
婚約者として相応しくなかったのは、いったい、どちらだったのだろうか。
もちろん、今さら答えを教えてあげるつもりはない。
だって、十問すべてを間違えたのは、他でもないこの私なのだから。
完




