音喰い
No.132
『助けてください。上の部屋がうるさくて、頭が狂いそうです』
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第一話 音喰い
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ドンッ!
まただ。
ドンッ! と天井が鳴った。
もう何度目なのか、佐藤美咲には数える気力も残っていなかった。
やめて。
お願いだから。
「……やめて」
声には出ていなかった。出したつもりだった。
けれど、自分の声すら押し潰すほど、真上から降ってくる男女の濁った笑い声が大きかった。
二〇三号室。
深夜二時を過ぎても、薄い天井を踏み鳴らす足音が頭蓋骨に直接響く。
奥歯が軋む。血の滲んだ爪でシーツを掻き毟る。
耳の奥が熱い。
何度もねじ込んだウレタン製の耳栓には赤黒い血がつき、最高級のノイズキャンセリングヘッドホンさえ、遮音された空間で行き場を失った美咲自身の心臓の音を爆音へと変えるだけだった。
逃げ場は、どこにもない。
『佐藤さん、集合住宅なんだから。お互い様でしょ。……それにね、二〇三号室の住人は【先月引っ越して今空室】ですよ? ちょっと気にしすぎじゃないですかねえ』
昼間、管理会社の窓口担当者が放った、他人事のへらへらとした声が耳の奥で反芻する。
空室。
そう言われた。
だから、昼間に自分で確かめに行ったのだ。
二〇三号室の古いアクリル板のドアプレートには、間違いなく黒いマジックで【長谷川】と手書きされた紙が挟まれていた。インターホンの脇にはチラシがみっちりと詰まっている。
だが、ポストの奥深く。
指先を突っ込んで引き引っ張り出したのは、黄色く変色した一枚の管理用シールだった。
【長谷川家 契約終了】
印字された日付を見た瞬間、美咲の指が止まった。
平成十八年。
指先が冷たくなる。
今年の日付を確認する。令和八年。
十八年ではない。二十年近く前のシールだった。
じゃあ。
今、あの部屋で足を鳴らし、笑っているのは誰だ。
枕元には、強い睡眠導入剤の空きシートが転がっている。
規定量を超えて三錠目を噛み砕いたが、意識は鋭利に尖る一方だった。
狂いそうな手でスマホを掴み、憎悪のまま匿名掲示板へ行き着く。
そこで、不気味なレスの応酬が目を捉えた。
『No.120:昨日もうるさい隣人が消えた。音喰いじゃね?』
『No.121:うちの上の部屋も急に静かになったわ。また音喰いきたか』
『No.125:音喰いは音を喰う』
『No.126:じゃあ人間は?』
『No.127:知らない』
『No.128:でも昨日まで隣にいたやつの名前、思い出せなくなった』
都市伝説。不気味なミーム。
だが、天井から「キャハハ!」と鋭い高音が降ってきた瞬間、美咲の指先は画面を叩いていた。
スレッドの最下部に、新規投稿の欄に書き込む。
No.132
『助けてください。上の部屋がうるさくて、頭が狂いそうです』
送信ボタンを押した瞬間──
天井から、最後の一音が落ちてきた。
コン。
それは足音ではなかった。
天井の向こうから誰かが、こちら側の存在を確認するために、一度だけノックした音だった。
直後、室内から一切の「残響」が消えた。
自分の荒い吐息も、心臓の鼓動も、まるで極厚の綿で世界全体を包み込まれたかのように、吸い込まれて消えていく。
世界のどこかで、巨大な何かが、ぬっとこちらを振り向いた気配がした。
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No.158
『聞こえません。ありがとうございます』
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第二話 移動する音
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朝の六時、美咲は跳ね起きるように目を覚ました。静かだった。静かすぎた。古いアパートの配管を流れる水の音も、常に低く唸っていた冷蔵庫の駆動音も、外を走る車の音も、昨日まで確かに存在していた生活の証拠だけが世界から切り取られていた。パチ、パチと自分が瞬きをする音だけが、異様なほど鮮明に鼓膜の内側で響いている。二〇三号室からは物音ひとつ聞こえない。「本当に……静かになった……?」安堵より先に冷たい鳥肌が腕に立った。美咲はカーテンの隙間から外を覗くが、通勤時間帯だというのに道路には誰一人として通りかかる気配がなかった。
それから数時間が経過した。部屋の中で息を潜めていた美咲は、ふと「違和感」に気づいた。
──カン……カン……カン……
踏切の警報音だ。だが、このアパートの徒歩圏内に踏切など存在しない。音は徐々に近づいてくる。道路からではない。美咲の部屋の「壁の中」から聞こえていた。
コンクリートの壁に耳を押し当てる。冷たい壁の向こうから、踏切の音に混ざって別の音が響き始めていた。『アハハハ! ウケるんだけど!』『待って、マジでやめてって!』昨夜、真上の部屋から聞こえていた男女の笑い声だ。だが、おかしい。声が増えている。女の笑い声が二人分、いや、三人。
『アハハハハハ!』
壁の向こうで女が笑った。美咲は耳を離した。もう一度聞く。違う。似ているんじゃない。録音でもない。声の癖も、息を吸うタイミングも、笑った後に少しだけ喉が鳴るところも、全部自分だった。
けれど、それは自分自身の声でありながら、美咲には分かっていた。あの声は、自分がまだ経験していない未来の笑い声だった。これから誰かに向けて笑うはずだった声、怒るはずだった声、泣くはずだった声。まだ生まれていない音まで、壁の向こうで先に使われていた。
「……あ」
声だけではない。これから人生で紡ぐはずだった感情も、言葉のすべてが、先払いのように壁の向こうへ奪われていく。
ガタン、ゴトン。すさまじい電車の走行音が壁の奥を駆け抜けた。美咲は恐怖に引きつりながらスマホを開き、震える指で嘘を書き込んだ。
No.158
『聞こえません。ありがとうございます』
そうしなければ、「次」は自分自身が壁の中に引きずり込まれるような気がしたからだ。
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No.250
『もっと、もっと綺麗にしてください』
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第三話 奪われる世界
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異変は、美咲の生活圏から静かに始まり、やがて境界を失っていった。翌朝、駅へ向かった美咲はスクランブル交差点で足を止めた。歩行者信号の誘導音が聞こえず、車は走っているのにエンジン音もタイヤの摩擦音もない。巨大な鉄の塊りが、無音で通り過ぎていく。駅のホームでもドアの開閉音や車内アナウンスが消え、乗客たちは不気味な沈黙の中で吸い込まれていった。職場のテレビには【〇〇区周辺で原因不明の広域音響障害】のテロップが映り、「うちの区だけみたいだね」と囁き合う同僚たちに美咲は一瞬安堵した。
だが、ポケットの中で震えるスマホを開いた瞬間、その淡い期待は打ち砕かれた。スレッドは見たこともない速度で更新され、大阪でも海外でも同じ沈黙が始まっていること、誰もその“無音”の動画を録画できず、マイクには音が入っているのに空気の振動だけが消失していることがリアルタイムで報告されていた。同僚の一人が突然自分の耳を押さえてうずくまり、「聞こえない、自分の声が聞こえない」と口を大きく開けて泣き叫んだ。喉が激しく震えているのに、放たれるはずの音は生み出された瞬間にどこかへ吸い取られていく。周囲の人間が顔を蒼白にしてガタガタと震えていた。
初めてだった。
生きてきて、初めてだった。
誰も美咲に「我慢しろ」と言わなかった。誰一人として「お互い様だ」「気にしすぎだ」と笑わなかった。世界中でただ一つ、この音喰いだけが美咲の長年の苦しみを理解し、すべてを奪い去ってくれたのだ。車の騒音も、他人の不快な話し声も、世界中の醜いノイズも、何一つ私を邪魔しない。睡眠不足と頭痛が嘘のように消え去り、美咲は深く滑らかな息を吸い込んだ。夜、自室のベッドに座り込むと、壁の向こうからは相変わらず喰われたクラクションや悲鳴、そして自分を含む増え続ける人々の笑い声が聞こえていた。美咲はスマホを取り出し、慈愛を込めて文字を打ち込んだ。
No.250
『もっと、もっと綺麗にしてください』
音喰い。私の救い。
この汚れた世界から、不快な音をすべて喰い尽くしてください。
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No.312
『返してよ……私の音を、返してよ!!』
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第四話 最後の音
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美咲にとって、世界で最後の「音」が手元に残っていた。クローゼットの奥深く、埃をかぶった箱の底にあった一本のカセットテープ。『みさきへ』と書かれている。記憶の中で、そのテープには幼い頃に亡くなった母親の優しい子守唄が入っていた。周りの生活音に怯えて泣き叫ぶ美咲を抱きしめて歌ってくれた母。幼い美咲の「音への嫌悪」を最初に買い取り、救ってくれたのは母だった。この無音の世界で、唯一鳴らすことを許されるべき聖域。美咲は古いラジカセにテープをセットした。
ガチャリ、と再生ボタンを押した。
だが、何も聞こえなかった。サーという磁気テープ特有のノイズすらない。そこにあったはずの過去までもが、完全な沈黙の中へ消えていた。「……なんで?」ラジカセに耳を押し付けるが、やはり無音だった。(これも喰ったの? 私の、一番大切な音まで喰ったの……!?)「返してよ……私の音を、返してよ!!」狂ったように叫び、ラジカセを床に叩きつけようとした瞬間、パチンと何かが弾ける音とともにドアが跳ね飛んだ。三人の警察官がなだれ込んでくる。口を大きく開けて叫んでいるが美咲の耳には何も届かない。美咲は組み伏せられ、冷たい手錠が手首に食い込んだ。刑事の一人が、あのカセットテープを乱暴に抜き取っていった。
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No.405
『聞こえません。何も、聞こえません』
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第五話 取り調べ
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警察署の取調室。年配の刑事が美咲の前にポータブルレコーダーを置き、あの『みさきへ』のカセットテープを再生した。遅れて、かすかな声が届く。スピーカーから流れ出してきたのは子守唄ではなく、ガシャーンと何かが割れる音と『静かにしなさい!』という甲高い怒鳴り声、そして幼い少女の泣き叫ぶ声だった。『お願いだから……っ、静かにして!!』ドスッという衝撃音。呼吸の詰まる苦しげな呻き。美咲の脳裏に、封印されていた記憶が雪崩れ込んできた。
音に過剰反応して暴れていたのは幼い美咲自身であり、その美咲を静かにさせようと狂気の中で暴力を振るっていた母親。凄惨な虐待の記録。母親は美咲の「音への憎悪」を受け止めきれずに狂っていき、二十年前、美咲の目の前で「何か」を呼び出して自ら命を絶ったのだ。テープの最後、母親の呼吸音が途絶えた直後、人間のものではない声が確かにこう囁いていた。
『……やっと、静かになったな』
ブツッとテープが止まり、年配の刑事が青ざめた顔で額の脂汗をぬぐった。「この声……知っている。昔……どこかで聞い……いや。見たんじゃない。俺は、忘れていたんだ」刑事の手が狂ったように震え始める。「本庁の捜査員たちもそうだ。この掲示板のアドレスを解析しようとした奴らが次々に忘れていく。『自分たちが何の捜査をしているのか』をだ」刑事は引きつった顔で美咲を見た。音喰いはただ音を喰う怪異ではなかった。「消えてほしい」「静かにしてほしい」と誰かが激しく拒絶した音を餌に、その音を出していた人間の記憶も、名前も、存在した証拠そのものも世界から削り落としていく。母が一度呼び出し、美咲が完全に引きずり出した「侵食」だった。
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No.504
『あなたの音、届きました』
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最終話 まだ、うるさい
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手続きが終わり美咲は護送車に乗せられた。小さな窓から見える夕暮れの街では、人々が路上に立ち尽くし、車は衝突し、歩行者信号が虚しく点滅を繰り返している。だがそこには悲鳴も、怒号も、割れる音すらない完全なる静寂があった。隣に座る若い刑事が耐えかねたように襟元を緩め、青ざめた顔で「……静かですね」とぽつりと言った。美咲は答えない。若い刑事の胸の奥で小さな鼓動が鳴り、彼は怪訝そうに自分の胸に手を当てて「……あれ?」と眉をひそめた。「どうかしましたか?」という美咲の問いかけに、若い刑事の表情からゆっくりと感情が抜け落ちていく。「俺……ここで、何をしていましたっけ」自分の手を見つめ、自分が着ている制服を見つめ、美咲の顔を見つめる彼の瞳から理由が生気が急速に消えていく。自分が誰なのか、なぜここに座っているのか、誰を守ろうとしていたのか、すべてが音喰いに喰われていった。
「……あ」という若い刑事の薄い吐息を最後に、彼の存在感は空気の中に溶けるように霧散した。助手席の運転手も後方の警護官も、誰一人として「若い刑事」がそこにいたことすら覚えていない。そこにはただ、誰も着ていないシワの寄った制服と手錠の鍵だけが静かに残されていた。
美咲だけが、その男の最後の吐息を聞いていた。消えたはずの存在が、まだ音として残っている。いや、残っているのではない。音だけになった存在が、美咲の中へ流れ込んで来ているのだ。美咲は音喰いを呼んだ張本人であり、世界中のすべての音が流れ込む「巨大な終着点」になっていた。
助手席の証拠品袋の中で、美咲のスマートフォンが静かに画面を点灯させた。スレッドには『No.501:警察署、静かになったな』『No.502:音喰いきた?』『No.503:次、どこ?』という投稿に続き、最後のレスが静かに更新される。『No.504:あなたの音、届きました』──。
美咲は目を閉じた。
世界は静かだった。
けれど。
彼女だけには聞こえていた。
壁の向こうから、空の向こうから、世界中の無数の音が、人間が存在していた証拠が、巨大な顎に噛み砕かれて消えていく凄まじい絶望のノイズが。
まだ誰にも喰われていない、最後の一音が。
美咲の耳の奥で、激しく鳴り響き続けていた。




