第八章 観測者②
旧放送室には古い機材が残されていた。
埃を被ったマイク、割れたヘッドホン、使われなくなって久しい卓上ミキサー。
さっきまでの空気とは打って変わり、誰も口を開かない。
湊が怪物に触れられた。そして、記憶が消えた。
その事実が、全員の肩に重くのしかかっている。
私は思わず腕をさすった。
肌寒かった。
「さっきの記憶がないって......。」「そのままだよ。」
湊は困ったように笑う。
「気付いたら怪物から逃げてたって感じ。」「そんなことある?」「俺もそう思う。」
朝日が机の上へ腰掛ける。
”巨大な怪物”と記憶保管室に残された”限界観測記録”。
私たちが失った記憶である、”対象者の生存理由”。
その全部が、少しずつ繋がり始めている。
その時だった。
カタン。
放送室の棚の方から小さな音がして、全員が振り返る。
そこには一冊のファイルが落ちていた。
「……落ちた?」
私は思わず床に落ちたファイルを拾った。表紙には何も書かれておらず、古い紙の匂いがした。
ページを開くと、そこに書かれていた文字を見て全員が息を呑んだ。
『観測対象が自身の記録に接触した場合、断片的な記憶再生が発生する。ただし、再生には個人差がある。』
次の行。
『ただし、観測者による捕食を受けた場合、再生された記憶は再び欠落する可能性がある。』
「観測者。」
やはり怪物のことだ。私はそう確信した。
ページをめくると、さらに下にかすれた文字が続く。
『観測者は対象の生存理由を優先的に捕食する。理由を失った対象は自発的な生存意欲を喪失する。』
誰も口を開かなかった。
私たちは、この世界へ迷い込んでからようやく、あの”観測者”の恐ろしさを理解した。
好きなものや将来の夢、大切な人、幸せだった記憶。
全部、全部が生きる理由に繋がるものだった。だから最初に失われる。私は無意識に手帳を握り締めた。
胸が苦しい。怖い。
しかし同時に、知りたいと思った。
そもそもこの学校は一体何なのか、自分たちは何者なのか、そして、なぜここへ来たのか。
しばらく沈黙が続いてから、湊が勢いよく顔を上げた。
「待て。」
湊は放送室の窓の外を見ていた。
「......?何か思い出したりした?」
湊は答えないまま、信じられないものを見る顔をしている。
「......俺、ここ知ってる。」「え?」
湊は窓の外を見たまま続ける。
「この放送室にも、来たことあるんだ。」
全員が固まった。
「にも?」「今まで通ってきた教室も、廊下も、この放送室も。全部、何回も来た気がする。」
「気がするって何。」「分かんないけど。」
湊は続けた。
「でも、初めてじゃない。全部が。」
その返答は曖昧で、なのに妙に確信が混じっていた。
湊、いや、湊だけじゃない。少なくとも朝日以外は、何らかの理由によって複数回この世界に訪れている。彼は今、きっと大事な何かを思い出そうとしているのだ。
―――――。
外には今と同じような真っ赤な夕焼け。古い放送機材。
窓のない壁。
そして。
誰かの笑い声。
『また放送室?』
『全く湊も物好きだね。』
『次もここ集合で。』
脳を駆け巡る知らない記憶の断片。顔は見えず、声も曖昧だ。
しかし、記憶の中の誰かが、”確かに自分はここにいたのだ” と思い起こさせるかのように言葉を訴えかけてくる。
誰だ、一体、俺はここで何を......。
――――—
その瞬間、頭痛が走った。
「っ……!」
衝撃の大きさに耐えられずに、思わずよろけて膝をつく。
「湊!」
私は急いで駆け寄る。
「大丈夫!?」「……平気。」
全然平気そうではなかった。湊は額に汗を浮かべながら放送室を見回している。まるで、何かを探しているかのように。
「どうした?」
朝日が尋ねる。なんだか湊自身も困惑していたように見えた。
「何かがある気がするんだ。」「何か?」「ここ。」
放送室の一番奥にある古い棚、使われなくなったスピーカー、その横の壁で、湊の視線が止まる。
「……あそこだ。」「何かって何?」「それは分からない。」
湊は立ち上がり、壁の前に移動し始めた。
「でも……。前来た時も、たぶんここから逃げた。」
湊がこちらに振り返り、四人は顔を見合わせた。
古い掲示板に破れたポスター。一見すると、他と変わらない埃のかぶった普通の壁だ。
しかし、湊は迷わずに壁の一部へ手を伸ばした。
指先が、木の継ぎ目をなぞる。
カチ。
聖女区の中で、小さな音が響いた。
「え?」
私は目を見開く。壁が、数センチほど開いたのだ。
湊の勘が、またしても私たちを次のステージへ導いたということなのだろうか。
「嘘っ......。」
朝日が呟く。
「隠し扉……?」
ゆっくりと扉を開くと、暗い階段が上へ向かって続いていた。
誰も声を失う中で、湊自身が一番驚いていた。
「なんで……。俺、知ってた。」
湊は声を震わせながら、そうつぶやいた。
その時だった。
ゴン。
遠くから、あの足がした。観測者だ。四人の表情が一気に変わる。
「とりあえず!今は進もう!」
私たちは暗い階段を上り始めた。




