水魔法
「む、無茶言わないでくださいよ」
突然、怪我をしろと言われて、分かりましたと答えられる奴などいない。
俺が嫌がって一歩下がると、その身体を後ろから押さえる人物がいた。
「健之助、私がやってあげる」
「か、楓さん!?」
「大丈夫、痛くしないから」
「ちょっ!? は、放してください!」
怪我をさせるのに痛くしないという矛盾した発言を信用できるはずもなく、俺は楓さんの手を振り払おうとするが、物凄い力で両肩を掴まれていて引き離せない。
「……痛いのは最初だけ、我慢して?」
「痛いんじゃないですか! 嫌ですよ」
「じゃあ、他にやっても良いって人いる?」
楓さんが周囲のサムライたちを見回すと、全員がサッと視線を逸らした。
「いないって。じゃあ、健之助、動かないでね」
「ま、待ってください。なんで俺になるんですか!」
楓さんは後ろから俺を抱きかかえるようにすると、右手を左手でがっしりと掴んで動かないようにする。
「じっとして? 動いたら、斬り落としちゃうかも」
「ひっ!?」
耳元で恐ろしい事を囁かれて、俺は身体を硬直させた。
楓さんの場合は冗談ではなく本当に斬り落とせる力があるので恐怖が倍増する。
「行くよ?」
俺が動かなくなったのを確認すると、楓さんは物凄い速さで俺の右腕の袖をまくると、刀を抜いて俺の腕の近くを滑らせる。パックリと皮膚が裂けて、思ったよりも血が流れ出た。
「いっ!? か、楓さん! 普通に痛いです!」
「あれ……ごめん。健之助が可愛いからやりすぎた」
「どういう意味ですかそれ!?」
意味不明の理由で腕をそれなりに深く引き裂かれた俺は、腕の痛みに耐えながら傷口をララミアさんへ向けた。
「ララミアさん、これ治りますか?」
「その程度の傷なら余裕です。見ていてください」
ララミアさんが生み出した浮遊する水が空中を飛んで俺の腕へと近付いて来る。どうやら魔力によって自由に動きを操作できる魔法らしい。
魔法の水が俺の傷口に触れると、ゆっくりと傷口が塞がって痛みが引いていく。ものの数秒で俺の怪我は完治してしまった。
「ちなみに、この魔法はその場に残るので飲むことも出来るんですよ」
「す、凄い魔法ですね」
飲み水として使えるのはこの世界において必須級の魔法ではないだろうか?
江戸の生活で今のところ飲み水に困った事はないが、地方や外国では水が不足している地域もあるだろう。そういった場所に住んでいる人々は全員が当たり前のように習得している魔法な気がする。
「他にも、『浄化の水』っていう汚れを落とす魔法もあるので、水魔法は一人旅には必須の魔法です。皆さんも魔獣退治――鬼討伐って言うんでしたっけ? それで数日かかるような場所へ行くこともあると聞きました。そういう時には水魔法が役に立つと思いますよ」
俺は今、歓喜に打ち震えていた。
江戸での生活はそれなりに楽しめていたし、前の世界ほどではないにしても、江戸で暮らすほとんどの人よりも裕福な生活をさせてもらっている自覚はある。
けれど、どうしても我慢できない事があったのだ。
日本人として、これだけはどうにか改善したいと考えていたが、どうしようもなかった事を水魔法は解決できる。
俺がララミアさんへ近付こうと一歩前に出ると、同じタイミングで弥生さんがサムライたちの中から目を輝かせて飛び出して来た。
一瞬、弥生さんと目が合う。
もしかして、彼女も同じ悩みを抱えていたのではないか?
俺が感情のままに口を開くと、弥生さんも同時に喋ろうとしているのが見えた。
「「その魔法を教えてください!」」
特に狙ったわけではないのだが、俺と弥生さんの声が綺麗に揃った。
二人の声が揃ったことに驚いたララミアさんは目をぱちくりと瞬かせた後で破顔した。
「二人とも、よっぽど水魔法がお気に召したんですね。『命の水』を習得するコツは――」
「あっ、そっちじゃないです?」
「え?」
「俺が習得したいのは、汚れを落とす魔法です」
「わ、私もそっちです」
やはり、弥生さんも俺と同じ魔法が狙いだったようだ。
何について悩んでいたのかここで言うつもりは無いが、おそらくは弥生さんも同じ用途に水魔法を使いたいと思っているのだと思う。
日本から日ノ本へ落ちて来てから、最も困っている事と言えば間違いなくこれだと言える。
トイレ事情だ。
この世界で最初に泊まった農村はトイレが外な上に扉が下半分だけしかない状態で最悪だった。トイレットペーパーなんて上質なものがあるわけもなく、藁で拭くという体験をした。
一振家はさすがにそんな酷い環境ではなかったのだが、粗悪な和紙で尻を拭くのはいまだに慣れないし、少し痛い。
そして何よりも、綺麗になっている気がしないのだ。洋式トイレのウォシュレットがどれだけ素晴らしいものだったかが分かる。
それを水魔法で解決できると分かれば、習得しないわけがない。
「なるほど。二人とも綺麗好きなんですね」
ララミアさんがクスクスと笑いながら言う。
俺が綺麗好き?
全くそんな自覚はないが、この世界基準ではそうなのかもしれない。
「では、健之助君と弥生さんは『浄化の水』を最初に練習しましょう。他の皆さんは木魔法と水魔法どちらを習得するか決まりましたか?」
ララミアさんが尋ねると、伊吹さんが軽く手を上げて口を開いた。
「木魔法と水魔法は分かりましたけど、残りの3つは無いのですか?」
「教える事は出来ますが、木や水ほど皆さんの役に立つとは思えません」
「もしよろしければ、そちらも見せては貰えないでしょうか? 私自身が習得するかは別にして、一般魔法にどのようなものがあるのか興味が湧いたので」
「それは私としても嬉しいです。では皆さんにコツを教えた後、私の習得している一般魔法を順番にお見せしましょう」
ララミアさんは伊吹さんに少しだけ待ってもらえるように言った後、俺たちに魔法のコツを教えて周った。
水魔法は普通の水に触って確かめる事で水をイメージしやすくし、自分の魔力を水へ変質させやすくするのがコツらしい。
俺と弥生さんが練習に集中している間、伊吹さんはララミアさんから下級の一般魔法を一通り見せてもらっていた。
後で聞いた話だが、中級魔法からは規模が大きくなってしまうので、見せてもらえなかったそうだ。鬼魔法はかなり一対一の戦いに特化した性能の魔法らしく、中級や上級になれば本来はもっと広範囲に影響を及ぼす魔法が増えるらしい。
種族によっても得意不得意があるらしいのだが、人族はあまり得意な属性がなく、『獣魔法』が苦手らしい。それだけ聞くと弱い種族のようだが、その代わりにスキルの才能は全種族の中でもトップクラスでユニークスキルを持っている者までいるので、バランスは取れているらしい。
その後も松葉組一同で魔法の訓練に力を入れたのだが、今日は誰一人として一般魔法を習得することが出来なかった。
夕暮れに差し掛かったので、俺と一振家三姉妹はララミアさんを江戸城まで送り届けてから帰宅する流れになる。
ララミアさんは無期限で江戸城の客間に泊めてもらえることになっているらしい。将軍様もずいぶん太っ腹な事を言ったものだ。
「そういえば、全ての属性の魔法が使えるララミアさんは凄いですね」
「魔法の研究を何年もやっているので当然ですよ。私は魔法が得意な種族ですからね」
「え?」
「……どうしました?」
今、サラっととんでもないことを言わなかったか?
俺はララミアさんの発言に動揺しつつ、弥生さんたちへ目を向ける。
「健之助君、ララミアさんの事、人族だと思ってたの?」
「ええっ!? ち、違うのか?」
俺が驚きの声を上げると、華火さんがからからと笑った。
「健之助は変なところで鈍いなあ。こんな美人が人族なわけがないだろ?」
それは人族に失礼な気もするが、確かに人間離れした美貌だとは思っていた。
俺が視線を戻すと、ララミアさんは困った子供を見るように仕方なさそうに笑った後で、自らの種族を教えてくれる。
「半分は人族ですから、気付かない人もたまにいます」
「ハーフってことですか?」
「はい。私は人族と亜人族のハーフです」
「亜人族……」
亜人族とはどのような種族だろう?
名前からあまり想像が出来ない。亜人とは人と似ている違うものみたいな意味だと思うのだが、魔法が得意で美人な種族のことなのだろうか?
俺がピンと来ていないと分かったのだろう、ララミアさんが補足してくれる。
「エルフと言えば……分かりますか?」
「エ、エルフ!?」
「人族とのハーフですけど」
ララミアさんは、とても美人のハーフエルフのお姉さんだった。
俺が創作物の中にしか出て来なかったハーフエルフを前にして感動していると、ララミアさんは少しだけ困ったように眉を寄せた。
「ハーフエルフでは……仲良くはなれないかしら?」
「い、いえ。とんでもないです。仲良くしたいです!」
「あら、嬉しいわ。それじゃあ健之助君。明日も君に会いに行っても良い?」
「はい。七々扇邸で待ってます」
俺は明日もララミアさんに魔法を教えてもらえるのだと喜んでいたせいで、華火さんと弥生さんが不機嫌になっていたことに気付かなかった。
この世界のエルフは耳が尖っていないので、初見の健之助は気付きませんでした。




