裂け目の先
永遠に闇の中を落下し続けて一生を終えるのか、それともどこかのタイミングで地表へと激突して死ぬのか。どちらにしろ、俺は17年という短い人生を終えるのだと覚悟していた。
いつの間にか眠っていたのか、見覚えのない河原で目を覚ます。
生い茂る草の感触、暖かな日差し、穏やかな川のせせらぎ。そのどれもが現実のものであり、俺は自分の状況と眠る前の出来事を思い返して一つの結論に至った。
「三途の川って、本当にあったのか」
目の前の川が三途の川という奴なのだろう。見回すと背の高い建物が一つもなく、数百メートルは離れた所にいくつか小さな家屋が見えるくらいの田舎といった風景だ。川沿いの道も舗装されたコンクリートではなく、自然公園などに見られるような大きめの石や雑草だけが取り除かれた剝き出しの土の道だ。
「……誰もいない」
俺はとりあえず人に会うために遠くに見える建物へと歩を進めることにした。死後の世界とはいえ、感覚としては生きていた頃と何ら変わりがない。試しに左腕を軽くつねってみたが、普通に痛みがあった。風景から考えて地獄ではなさそうなので天国にいるのだと思いたいが、確証は無い。まずは誰か人に会ってこの場所の説明を受ける必要があるだろう。
どうせ自分は死んだのだという思いから、俺は驚くほどに冷静だった。突然見たこともない場所に放り出されたような状況だと言うのに大した焦りもなく、行動していればその内なるようになるだろうという諦めにも似た精神状態でのんびりと人を探す。
最初に目星を付けた建物が近付いて来たところで、俺は目論見が外れたことに気が付いた。家だと思っていた建物は、どちらかというと倉庫のような小ささでとても人が住んでいるようには見えなかったからだ。近くには畑らしきものが広がっているので農作業をしている人が居ても良さそうだが、一人として姿が見えない。
「あの~、誰かいませんか?」
ダメもとで声を掛けてみるが、建物からは物音一つ聞こえない。仕方なくこのまま道沿いに進んでみようかと思った矢先、視界の端に人影が映る。声に気付いて近くにいた人が来てくれたのかと思ったが、影の主を視界に納めた瞬間に俺の時間は数秒間停止した。
否。実際に時間が止まったわけでない。ただ、俺の思考はフリーズしていたし、無意識化で行われるはずの呼吸も止まっていた。
目の前には、一人の『鬼』が立っていたのだ。
身長は3メートル近く、目玉は巨大なものが一つだけ鼻の上辺りに付いている。軽く開かれた口から覗く牙は肉食獣のように鋭く尖っており、頭髪の無い赤褐色の頭には白い角が一本生えていた。
外見から鬼としか言い表せないその生き物は、ゆっくりと俺に近付くと大きく右腕を振り上げる。右手の先に生えている熊のように鋭い爪を視界にとらえた時、俺の身体は拘束から時放たれ、予測される右手の振り下ろしに対処するべく身体を右側面へと転がるように飛び退けさせた。
同時に地面が抉れるほどの衝撃で鬼が右手を振り下ろす。もしもあの場に留まっていたのなら、あの一撃で俺の身体はグチャグチャに裂けて潰されていたことだろう。
「う、うわぁあぁああ!」
俺はこれまで感じたことが無いほどの恐怖に襲われながら、立ち上がると同時に走り出す。あれが何なのか、なぜ襲われるのか、そんなことはどうでもいい。とにかく逃げなければ想像できないほどの激痛を伴いつつ二度目の死を味わう事になるはずだ。
鬼の速力や体力は分からないがただ道なりに走るだけでは追い付かれるかもしれない。そう考えて川の反対にある藪の中へと進路を変え、草木をかき分けるようにして逃げる。
鬼が追いかけてきているかなど確認する余裕はなく、ただ一心不乱に体力の続く限り逃げ続けていると、俺はいつの間にか山の中に迷い込んでいた。
「……さ、さすがに……撒いたか?」
軽く息を整えつつ背後を振り返り、鬼の姿がない事を確認する。近くにあった四角い石に腰掛け、自分以外の生き物が近付いていないか耳を澄ますが、木々をかき分けて進むような音は聞こえない。鬼の巨体では音を立てずにここまで来ることは不可能なので、ひとまずは逃げ切ったと考えて良いだろう。
「……何なんだよ、あれ。ここ、天国じゃなくて地獄だってのか?」
俺は自分の人生を振り返る。大した善行を積んではいなかったが、地獄に落とされるような悪行もしたことはない。強いてあげるなら親より先に死んだことだが、人を助けて死んだのだから、そこは大目に見て欲しかった。
自分がいる場所が地獄なのではという不安から、俺は鬼に出会うまでの驚くほど落ち着いていた能天気な自分を責めた。そしてまた一つ、自身を不安にさせる想像をしてしまう。
ここが鬼の住む地獄で、人間など暮らしていない、もしくは地獄に落とされた人間は全員鬼に殺されているのだとしたら、どんなに鬼から逃げ延びたとしても、俺一人では野垂れ死に確定ではないだろうか。
「俺みたいに逃げ延びている人がいれば……ん?」
ふと、自分の座っている石に目を向けた。
立ち上がってまじまじと見ると、その石は四角く加工された物のようにも見える。周囲を見回すと、坂を少し上がったところに似たような石がいくつか見えた。砕けている物や、苔が付いた物が多い上に、本来はもっと数があるはずのものが無いので気付かなかったが、四角く加工された石は紛れもなく石段に違いなかった。
「これが階段だったとしたら、この上か下に何かあるか?」
俺は軽く悩んだ末、先に階段の上を確認することにした。理由としては下へ行くと、先ほどの河原に出てしまうのではないかと危惧したからだ。鬼に追われた人間たちがひっそりと山奥で暮らしているという可能性も脳裏によぎったので、祈るような気持ちで上を目指す。
ゆっくりと階段を登り切ると、不自然なまでに開けた場所に出た。
それまでの道中は人による手入れがされていないからなのか、草木が生え放題で階段が階段に見えないほどだったのにも関わらず、その場所は明らかに植える植物を厳選したかのように短い草しか生えていないので、まるで人が手入れした庭園のように綺麗に開けていた。残念ながら人が住んでいそうな雰囲気はない場所だが、誰かが定期的に手入れに来ている可能性はありそうだ。
開けた空間の中央にはひと際目を引く大きな池が見える。池の真ん中には誰かが綺麗に磨いているのか、この場所に不釣り合いなほどに綺麗な岩が佇んでいる。こういう池にある岩は多少苔むしていたほうが風流で良いと思うのだが、この場所の管理者とは趣味が合わないらしい。
「――ほう、人の子がここまでくるのは珍しいな」
不意に、岩の方から涼やかな女性の声が聞こえて来て、俺はビクリと身体を震わせた。
「い、岩が喋った!?」
「虚けが、そのような岩があると思うのか?」
呆れたような声と共に、岩の上にいた人物の姿が徐々にハッキリと見えるようになってくる。
長い黒髪と白い肌の女性は華やかな赤い和服を身に纏っており、俺を品定めするように上から下まで凝視している。岩の上に突然現れたこともそうだが、驚くべきは彼女の身体が半透明に透けていることだ。
俺は半透明の和服女性を見て、誰もが思い付く質問を投げかけた。
「……ゆ、幽霊?」
「ふむ。そうとも言えるし、違うとも言えるな」
「どういうことですか?」
「妾の事よりも先に、汝の事を教えてくれぬか? 人の子――しかもその着物からして異国の生まれであろう? 何故このような場所へ来た?」
「異国……?」
俺は自分の来ている服へと目を向ける。今着ているのはどこにでもあるような平凡な学生服。黒い学ランだ。これのどこが異国の服なのかと思ったが、彼女が幽霊であると仮定すると、その服装や古風な言葉遣いから察するところあった。
「もしかして、結構昔に亡くなられた方ですか?」
「質問しているのは妾だぞ」
彼女が軽く眉間に皺を寄せたので、俺は軽く頭を下げてから機嫌を損ねないように注意しながら続ける。
「すみません。でも、俺、外国人じゃないですよ。この服を見て外国人だって思うなら、昔の方なのかなって思ったんです」
「ん? 今の日ノ本ではそのような服が流行っておるのか?」
「流行っているっていうか、制服です。学校の」
「学校だと? なぜ日ノ本の学び舎の制服がそのような……もしや、妾の知らぬ間に日ノ本は他国へ降ったのか?」
「話すとかなり長くなりますけど、その前にここがどこだか教えて貰えませんか?」
俺は幽霊に対して日本の歴史語りを続けるよりも、自分の置かれている状況を整理する事を優先するために話題を変える。
「む。まあ、良いだろう。ここは那須野原の南辺りだな。汝が来た階段を下ってゆくと川へ出る。川沿いに東へ行けば街道にも出られるだろう」
「街道? ってことは人がいるんですか?」
「街道なのだから、それなりにいるだろうな」
「そ、そうですか……よかったぁ。俺一人じゃなかったんだ」
「どういう意味だ?」
「いや、ついさっきまで鬼に追いかけられてたんで、この辺の人間は全員鬼に殺されちゃったんじゃないかって思ってました」
鬼の事を口にすると、彼女の表情が険しいものへと変化した。とても真剣な眼差しを向けられて自然とこちらも姿勢を正す。
「鬼が近くにいるのか?」
「はい。……たぶんまだ川の辺りにいるんじゃないかなって思います」
「汝は一人旅なのか? 荷物を一つも持っておらぬが、逃げる時に落としたか?」
「いえ、そうじゃなくて。俺、死んでこっちに来たばっかりなんですよ」
俺が自分の状態を説明すると、彼女は眉をひそめて首を傾げた。
「……どこから来たと?」
「いや、だから、死んだばっかりなんです。ついさっき河原で目が覚めて、すぐに鬼に出会ってここまで逃げてきました」
「死んだというより、死ぬような思いをして逃げてきたということか?」
一向にこちらの置かれている状況に理解を示さない彼女の言葉を受けて、俺は少しだけ不安になって来た。自分が見当はずれの発言をしているのではという気になりながら、もう一度説明する。
「俺、見たこともない空間の裂け目みたいなやつに飲み込まれて、たぶん一回死んだんですよ。それで気が付いたらここにいたんで、ここが死後の世界なのかって思ってたんですけど……もしかして違うんですか?」
「空間の裂け目――それは、物の怪の口のように広がった後に、また塞がって消える裂け目のことか?」
「あ、はい。そんな感じでした」
「裂け目の中は漆黒の闇で、汝はその裂け目に飲み込まれたと」
「そうです。見た事ありますか?」
「……思い当たる節はある。すまぬが、時間がかかっても良いので汝の生い立ちから、教えて貰えぬか?」
「お、生い立ちから?」
「うむ。汝は汝が思っている以上に特殊な状態にあるやもしれんのだ」
「わ、分かりました」
俺は言われるままに、自身の生い立ちから話し始めた。
日本のどこで生まれたのか、両親などの家族構成、中学校を卒業して高校生になるまでを出来る限り省略して簡潔に説明し、高校二年生の秋に裂け目に飲み込まれた話を語り終えると、難しい顔をしていた彼女が口を開いた。
「まず初めに言っておきたいのは、ここは死後の世界では無いという事だ」
「……じゃあ、俺は死んでないってことですか?」
「そこに関しては明言できぬが、おそらく汝は世界の壁を越えたのだろう」
「壁を越える? それって、異世界転移ってやつですか?」
「ふむ。初めて聞く言い回しだが、意味は分かるぞ。汝の言う通り、ここは汝が生まれ育った世界とは異なる世界。汝の世界に鬼は居なかったのであろう? この世界――この国では鬼とは日常的な脅威であり、その歳まで生きて鬼の存在を知りもしないなどあり得ぬことだ」
鬼が日常的な脅威として存在している世界。それは紛れもなく異世界だ。和風ファンタジー世界と言っても良い。俺は頭の片隅でその可能性も考えていたので、そこまで取り乱すことは無く状況を受け入れた。元々死んだと思っていたので、死後の世界も異世界も俺からしてみれば名称が違うくらいのものだ。そして死んだのではなく別世界へ移動しただけなのであれば、同じように元の世界へ移動できる可能性すらあり、少しだけ元の世界への帰還という希望が見え始めた。
「それなら、また同じ空間の裂け目に飛び込めば元の世界に帰れるってことですか?」
「可能性が無いとは言わぬが、限りなく無謀な挑戦だな。汝が飲み込まれたという空間の裂け目だが、妾が思い付くものと同じなら、現代で創り出せる者がいるのかは怪しいところだ」
「それって、あの裂け目は人が創り出したものだってことですか?」
「おそらくは妖魔族が使った魔法の影響だろう」
「ま、魔法……」
鬼と異世界の次は妖魔族と魔法。俺は自分がどうしようもないくらい遠い世界に来たことを実感しつつ、漫画や小説のような世界に対応するべく頭を切り替える。いちいち驚いていては話が先に進まない。
「汝の世界には魔法も無いのか?」
「はい。鬼も魔法も――その妖魔族っていうのも、現実には存在していないとされているものした」
「もしや……種族も人族だけか?」
「人族っていうのが、俺みたいな人を指すなら、そうです」
女性の幽霊は軽く唇に手を当てると、考えるように視線を池の水面に滑らせ、最後に真っ直ぐな目で俺を見据えた。
「汝の世界とこの世界が違い過ぎる故、この世界の当たり前を汝が知らぬ前提で話す。場合によっては汝にとっても常識的な事もあるかもしれぬが、馬鹿にしているわけではないので許せ」
「大丈夫です。お願いします」
幽霊という特殊な立場の彼女だからこそ、俺というイレギュラーな存在にも一定の理解を示してくれたのではないだろうか。いくら鬼や魔法が存在する世界とはいえ、普通は俺の言う事を妄言だと一笑に付すと思う。
俺は彼女に出会えた幸運に感謝しつつ、次の言葉を待った。
死後の世界かと思っていたら和風ファンタジー世界へ転移していました。
次回は親切な幽霊?に色々と教わります。




