プロローグ
「まさか、こんな形で終わるとは……」
萩原健之助は奈落へと落ちていく絶望的な浮遊感の中で、自らの死を覚悟した。
高校生の健之助は古風な名前をしているという事以外にこれといった特徴のない物静かな少年だった。人付き合いにはあまり積極的ではなく、男友達ならば数名は名前が挙げられるが、女生徒とは会話という会話をした記憶がほとんど無いほどに関係が無い。恋愛に興味が無かったわけでは無いが、積極的に女子と関わって恋人を作ろうという意欲を持ち合わせていなかったのだ。だと言うのに今日の健之助は顔も名前も知らない女生徒を助けるという選択をした。何が正しくて何が正しくないかなど分からなかったが、健之助は死へ向かう浮遊感の中で自分の行動を後悔していた。
「最後に人助けしたんだし、天国があるならそっちに行かせて欲しいな」
数時間前。夕方に下校中だった健之助は奇妙な現象を目撃した。逢魔が時と呼ばれる黄昏の空に一筋の亀裂が走ったのだ。それが現実に起きている現象だとは思えなかったが、同じように足を止めて空を見上げている生徒を数名確認したことで、目の錯覚ではないのだと理解した。
目の錯覚でないのなら、あの亀裂は一体何なのか。それを考えるよりも先に、亀裂は右端から広がって地表まで伸びてくる。まるで空間を引き裂くように伸びた亀裂は弧を描くように通学路の地面まで侵食すると、獣の口のように不気味に裂け目を広げた。
亀裂の存在に気が付いていた生徒たちがただ唖然と眼前の裂け目を眺めている中、健之助は裂け目に目を向けていない人物の存在にいち早く気が付いた。
明るい金髪を後ろで緩く編んだ女生徒がスマートフォンを片手に裂け目へと一直線に歩を進めている。
もしかしたら、彼女はただ近付いて写真を撮ろうとしているだけだったのかもしれない。裂け目に気付いていなかったにしても、後ろから声をかければ立ち止まったかもしれない。けれど健之助は数ある選択肢を悩むよりも前に駆け出していた。
裂け目は誰の目にも禍々しく恐ろしいものとして映っており、健之助も逃げ出したい気持ちでいっぱいだった。けれど、どういう訳か彼の身体は顔も名前も知らない女生徒を助けるために動き出していた。
健之助は自分がいざという時に危険を顧みずに身体が動くタイプの人間だったのだと、今この瞬間に思い知った。
結果として、健之助の行動は女生徒を助けるという意味では完璧な正解だった。彼女は車も通らない歩き慣れた通学路ですっかり注意力と警戒心を喪失しており、スマートフォンでの調べものに集中していたのだ。周囲の生徒たちが裂け目へと突き進む姿に気が付いて声をあげた時、彼女は既に禍々しい裂け目に片足を伸ばしていた。
「――えっ!?」
女生徒は自身が踏みしめるはずだったコンクリートの感触が足裏に伝わって来ないことに驚いて声を上げ、同時にバランスを崩す。それまで夢中で見つめていたスマートフォンの画面から視線を外すと、この世の者とは思えない不気味な空間の裂け目が眼前に広がっていた。歩きスマホをしていた後悔や裂け目へと落ちる恐怖が押し寄せるよりも前に、彼女の左腕を健之助が無遠慮に掴む。
健之助は平時では絶対にやっては行けないレベルで力を込めて女生徒の左腕を掴むと、柔道の授業ですらやった事が無いほどの渾身の力で彼女を後方へと回し投げた。
「きゃぁぁあ!?」
悲鳴をあげて後ろへ投げられた女生徒は、当然ながら受け身など取れずにコンクリートの地面を転がる。身体のあちこちを傷だらけにした上に、遠心力で手からこぼれ落ちたスマートフォンの画面がコンクリートに叩きつけられて蜘蛛の巣のようにひび割れた。
健之助は産まれて初めて女性に怪我を負わせた事に罪悪感を覚えつつも、声を張り上げて叫ぶ。既に健之助が立っている場所も裂け目によって飲み込まれていたからだ。
「早く逃げろっ!」
足場を失って裂け目の中へと落ちていく瞬間に、目が合った女生徒に向かって最後の言葉を投げかける。彼女は出血していた右の肘を押さえながら、画面の割れたスマートフォンを拾い上げているところだった。
「……くそっ、そんなもの拾ってる場合かよ」
闇の中へ落ちていく寸前に見えた光景に軽く悪態をつきつつも、健之助の心は少しだけ安堵していた。渾身の力で投げ飛ばしたおかげか、広がっていく裂け目と女生徒の距離がそれなりにあったので、彼女があのまま裂け目から距離を取ったならば飲み込まれることはないだろう。
しばらくすると裂け目が健之助を飲み込んだことで満足したかのように口を閉じる。唯一の光源が途絶えた事で健之助の目に映る物は無くなり、闇だけが広がった。




