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第六話 牢獄②

8月10日、10時半。

羽田空港の無機質な喧騒から切り離され、機内の気圧変化に耳を震わせること約九十分。高知龍馬空港のタラップを降りた瞬間、尾軽透を待ち受けていたのは、肺の肺胞一つ一つを熱で膨らませるような、圧倒的な「生の空気」だった。都会の排気ガスに濁った酸素とは違う、潮の香りと山の緑が濃縮されたその味は確かに美味い。だが、直後に襲いかかってきたのは、肌を刺すような南国特有の苛烈な洗礼であった。


見上げる空は、網膜に焼き付くほどに四万十川の上流のような水色に塗りつぶされている。その果てしない青のキャンバスに、暴力的なまでに白い入道雲がそそり立ち、鋭いコントラストを描き出していた。視線を落とせば、黒々としたアスファルトの上で逃げ水がゆらゆらと、まるで現世の境界線をぼかすように揺れている。


「……こんなに空って綺麗だったっけ。」


空港の敷地を囲む低山からは、数万匹、あるいは数億匹だろうか、セミたちの鳴き声が、もはや個別の音を失った轟鳴となって降り注いでいた。命を削り、鼓膜を震わせるその音圧。遮るもののない直射日光がじりじりと露出したうなじを焼き、湿った潮風がねっとりと、まとわりつく汗を重く変えていく。

自動ドアを抜け、ロータリーへと足を踏み出すと、風景の解像度が一段と上がった。


「あっつー……。帰ってきたんだな、地元に。」


尾軽は、高校の野球部時代からボロボロになるまで使い込んでいる、少し黄ばんだタオルで顔を拭った。日焼けした精悍な顔が、故郷の熱に当てられて自然と綻ぶ。東京で張り詰めていた肩の力が、一瞬だけ抜けるのを感じた。

重たいキャリーケースのハンドルを握り直し、迎えの車がひしめく列に視線を投げたその時、人混みを割って現れた巨大な岩のような影に、尾軽の目が止まった。


「透! 久しぶりやな。元気しちょったか!」


腹の底から響くような、太い声。振り返れば、そこに立っていたのは、潮風と赤銅色の太陽によって鍛え上げられた、尾軽の父・源太げんただった。


「親父、久しぶり。見ての通り元気にやってるよ。親父の方は?」


源太はニカッと、歯を見せて笑った。漁師として土佐の荒波と真っ向から渡り合ってきたその体躯は、年輪を重ねた古木のように頑強だ。半袖シャツの袖口から覗く前腕には、青い血管が浮き出し、はち切れんばかりの筋肉が躍動している。二十代の尾軽が束になっても敵わないと思わせるほどの、圧倒的な生命力。


「ガハハ!見りゃ分かるろ。まだまだ海には負けんき。さあ、母さんも首を長くして待っちゅうぞ。帰るぞ!」


父の大きな手が尾軽の肩を力強く叩く。その重みと熱に、尾軽は「帰宅」の実感を強く噛み締めた。


「いてぇよ親父。」

「透、お前すっかり土佐弁が抜けて都会の人になっちゅうやないか。」

「そりゃ10年近く東京で暮らしてたらそうなるよ。湊みなとは帰ってきてるの?」

「帰ってきちゅうけんど、部屋でずっとギター弾きゆうわ。せっかく帰ってきちゅうんやき少しは大学はどうとか話して欲しいもんやわ。」


母の怒った姿を思い浮かべて尾軽は苦笑いした。

しかし、軽トラックの助手席に乗り込もうとした瞬間、ふと、視界の端に映った自分の影が、東京の冷たい場所に残してきた「あいつ」の姿を連想させた。

灯二。

理屈っぽくて、群れるのが嫌いで、なのに子どもが好きなおせっかい焼き。もし彼が今ここにいたら、この容赦ない太陽を見上げて「紫外線の有害性と、熱中症による労働効率の低下について」延々と文句を垂れ流しているに違いない。あるいは、セミの声を聞いて「デシベル値が安眠を妨害するノイズだ」と耳を塞ぐだろうか。


「……灯二のやつ、元気かな。」


ぽつりと漏れた独り言は、エンジンの始動音にかき消された。

軽トラックは、陽炎の揺れるアスファルトを蹴って、一路、実家の吉良町へと走り出す。

原風景を切り裂くように走る、親父・源太の軽トラック。その助手席で、尾軽はガタガタと小刻みに震える車体に身を委ねていた。

アスファルトの照り返しがフロントガラス越しに視界を白く焼き、窓を全開にしても、流れ込んでくるのはぬるい潮風と、容赦ないセミの声ばかりだ。都会の洗練されたエアコンの冷気とは無縁の、むせ返るような夏の匂い。だが、その不自由さが、今はたまらなく心地よかった。

尾軽は、窓枠に肘をかけ、流れていく見慣れた景色を眺めた。

東京での日々は、常に何かに追われていた。それに、ここ数ヶ月は、灯二と再会してから色んな出来事に遭遇して毎日が大騒ぎだった。学生時代のように、一ヶ月以上も続く長い夏休みなんてものは、もう二度と訪れないだろう。社会という荒波に放り出された今、自分たちが手にできるのは、こうした細切れの、束の間の休息だけだ。


「……ふぅ」


ふと、自分の手のひらを見つめる。都会のコンクリートに馴染みかけていたその手は、故郷の強烈な太陽の下では、どこか頼りなく見えた。けれど、隣でハンドルを握る親父の、岩のようにゴツゴツとした横顔を見ていると、背負い込んでいた目に見えない重荷が、陽炎の中に溶けていくような気がした。

仕事、責任、そして留置所に残してきた灯二のこと。考えなければならないことは山積している。だが、今はそれらすべてに一時停止をかけてもいいのではないか。面会できるようになったら、必ず助けに行くからな。尾軽は小さく呟いた。


「この景色は最高だ。」


誰に聞かせるでもなく、尾軽の口からその言葉がこぼれ落ちた。

窓の外には、太陽に反射した水平線が鏡のように輝いている。「海の底」のような深い闇など微塵も感じさせない、眩しすぎる夏がどこまでも広がっていた。


—-


車に揺られること三十分。窓の外に広がる景色は、コンクリートの塊から、目に眩しいほどの鮮やかな緑へと塗り替えられていた。尾軽は父・元太の運転する車の助手席で、流れていく田園風景をぼんやりと眺めていた。やがて車が止まったのは、見渡す限りの田んぼに囲まれた、懐かしい木造の平屋だった。

車から降りた瞬間、むせ返るような緑の香りと、どこか甘く落ち着く木材の匂いが鼻をくすぐった。中学まで当たり前に暮らしていた頃は、気にも留めなかった匂いだ。今になってこれを「良い匂い」と感じるということは、それだけ故郷の空気が自分の中から剥がれ落ち、東京の無機質な日常に染まっていたということなのだろう。尾軽は小さく息を吐き、足元の土の感触を確かめるように玄関へと向かった。


「母さん、透が帰ってきたきね!」


元太が大きな声で家の中に呼びかける。尾軽はその背中に続くようにして、恐る恐る、しかし確かな懐かしさを抱きながら玄関の引き戸を開けた。


「ただいまー……」

「あら、おかえり透。元気にしよった? 全然連絡せんき心配しちょったわ。」


廊下の奥、キッチンの方からエプロン姿の女性が顔を出した。小柄で細身の母、なぎさだ。口調こそ小言めいているが、その瞳には息子を迎え入れる温かな光が宿っている。


「まあまあ、便りがないのは元気な証拠よ母さん」


元太がはつらつと笑いながら、尾軽の肩をポンと叩いた。その言葉に乗るように、尾軽も努めて明るい声を作り、自慢の胸を張ってみせた。


「そうだよ母さん、見てよこの体。元気じゃないと、こんなに筋肉はつかんよ」


Tシャツの上からでも分かる分厚い大胸筋を強調してみせると、渚は呆れたように、けれどどこか嬉しそうに鼻で笑った。


「あんたは相変わらずやねぇ……。私らが東京に遊びに行くのは良いけど、たまにはこっちに帰っておばあちゃんらに顔見せんと。いっつも『透とみなとは次いつ来るー?』って、うるさいきね」


渚は苦笑いしながら、手際よく麦茶の用意を始めた。

麦茶を飲みながら、両親に近況を話した。社会人の大変さ、灯二との再会や慌ただしい日々について、話題は事欠かない。心配させたくないから最近の物騒な話は省いたが。

扇風機が首を振るカタカタという音と、遠くで鳴り響く蝉時雨。そんな静寂を切り裂くように、二階から「ジャーン」と硬質な弦の音が響いてきた。アンプを通さないエレキギターの生音は、どこか頼りなく、けれど弾き手の熱量をそのまま伝えるように木造の床を伝って微かに震わせている。


「湊のやつ、高校からバンド始めたって言ったけど、今でも続けてるんだね。」


尾軽が天井を見上げながら呟くと、台所で麦茶を注いでいた渚が、少し困ったように眉を下げて笑った。


「もう五年もやりゆうよ。何かに夢中になれるのは良いことやけんど、たまに帰ってきた時くらい家族と会話して欲しいもんやね」

「まあまあ母さん、あいつももうハタチや。立派な大人なんやから、そろそろ子離れせんと」


元太が助け舟を出すように快活に笑う。しかし、渚は逃さなかった。


「そうやね。お父さんは透と湊がまだ小さい時も、さっさと子離れしてパチンコに明け暮れよったしね。私もその潔さを見習おうかしら」

「ご、ごめんて。明け暮れたわけやなくて、たまにやったろ。その話はもう……」


タジタジになる父と、してやったりという顔の母。そんな他愛のないやり取りを聞いていると、自分が本当に故郷に、あの頃の「尾軽透」に戻ってきたのだという実感が胸の奥にじわりと広がっていく。


「と、透。もうすぐお昼時やき、湊を呼んできてくれんか?」


絶妙なタイミングで話の舵を切った父の願いを聞き入れ、尾軽は居間の修羅場?から退散するように二階へと続く階段に足をかけた。一段踏みしめるごとに、木の階段がギィ、ギィと懐かしい悲鳴を上げる。


弟の部屋の前に立つのは、一体何年ぶりだろうか。最後にまともに会話をした記憶さえ曖昧だ。四歳下の弟・湊は、かつては兄の背中を追いかけてベッタリとくっついてくる可愛い奴だった。けれど、尾軽が都会の全寮制高校に進学し、野球に打ち込むために家を出てから、兄弟の距離は物理的にも精神的にも遠ざかってしまった。湊も中学まで野球を続けていたらしいが、その頃の彼の悩みや喜びを、兄である自分は何も知らない。


意を決して、厚みのある木のドアを三回ノックした。


「湊、お兄ちゃんだ。入っていいか?」


部屋の中で刻まれていたギターのリズムが、ピタリと止まった。数秒の空白。まるで時間の流れがそこだけ淀んだかのような沈黙の後、扉の向こうから低く、聞き慣れないほど大人びた声が返ってきた。


「……勝手に入れば。鍵、かかってないし」


ドアを開けると、そこにはかつての「野球少年」の面影など微塵もない、一人の青年が立っていた。


少し陰のある、端正だが無愛想な顔立ち。目にかかるほど長く伸びた黒髪が、彼の表情をより読みにくくさせている。ゆったりとしたグレーのパーカーを羽織り、膝の部分が大きく裂けた黒のスリムジーンズに片手を突っ込んだその姿は、スポーツマンというよりは、夜のライブハウスに沈んでいるアーティストのそれだった。


部屋の中も、尾軽が知っている弟の部屋とは完全に別物に変貌していた。壁には所狭しとインディーロックのポスターが貼られ、使い込まれたデスクの上には、音楽制作ソフトが立ち上がったノートパソコン、鍵盤、スピーカー、そして複雑なつまみが並ぶ機材が要塞のように鎮座している。かつてグローブやバットが置かれていた場所は、今や音楽という名の孤独な執着に完全に占拠されていた。


「湊、久しぶり。髪伸びたな」


尾軽は、かつての野球少年の見る影もない弟の姿と部屋の空気に圧倒されながらも、なんとか言葉を絞り出した。


「別に、前からこれくらい長かったし」


湊はヘッドホンを首にかけ、冷めた瞳で兄を一瞥した。その声は低く、どこか突き放すような響きを含んでいる。


「そうか、前会ったのは年末年始だったもんな」

「世間話なんていいよ。何の用?」


あまりにも事務的な物言いに、尾軽は胸の奥がチクリと痛むのを感じた。


「えー、寂しいこと言うなよ。お昼ご飯の時間になったから呼びに来たんだけど、湊のギター、聴きたいなと思ってさ」


部屋の隅に置かれたギターを見やりながら、尾軽は努めて明るく振る舞った。


「分かった、降りるよ」

「弾いてくれないの?」

「嫌だ。もう用が済んだならさっさと出てってよ」


取り付く島もない。湊はギターを手に取ることさえせず、ただ尾軽がドアから去るのを促すように視線を逸らした。


「部屋の雰囲気も、こんなに音楽一色なんてなあ。驚いたよ」

「あんま部屋ジロジロ見るなよ」

「野球は……もうやらないのか?」

「やってない」

「たまには運動しないと、体が鈍るぞ。」

「うるさいな、別にいいだろ。好きなことしてんだから」

「昼ごはん食べ終わったら、にいちゃんとキャッチボールしよう。」

「別に良いって、鬱陶しいな。こんな暑い中やるわけないだろ。」


心配のつもりでかけた言葉が、かえって湊の苛立ちを逆撫でしていくのが分かった。かつての湊は、こんな風ではなかった。


「昔はあんなに『にいちゃん、にいちゃん』って言って、どこへ行くにもついて来てたのに……」

「早く出てけよ! いつまでも兄貴ヅラするな!」


湊の口調が急激に荒くなった。その激しさに気圧され、尾軽は言葉を失う。拒絶するならなぜ最初にドアを開けさせてくれたのか。その矛盾した優しさが、今の彼には余計に痛かった。


「わ、分かった。ごめんな、出ていくよ。……にいちゃん、ご飯の準備してるからな」


逃げるように部屋を出てドアを閉めた後、尾軽は階段の手前で立ち尽くした。自分も結局、階下の両親と同じことしか言えていない。教師として他人の子供には向き合えても、実の弟との間にいつの間にか深く刻まれていたこの溝の埋め方を、彼は知らなかった。


「今日のお昼はお魚いっぱい焼いたきね」


渚が弾んだ声で言いながら、厚手のミトンをはめた手でグリルから鮭の切り身が並んだ大皿を取り出した。ふっくらと焼き上がった鮭から立ち上る香ばしい匂いが、狭いキッチンから居間へと広がり、尾軽の胃袋を猛烈に刺激する。


「鰹のタタキも食うやろ?」


元太が、その無骨な外見からは想像もつかないほど繊細な手つきで包丁を走らせる。一切れの厚みを寸分違わず揃え、鰹のタタキを美しく並べていく様は、さすがは現役の漁師だ。尾軽はネギや生姜、ニンニクといった薬味を小皿に用意しながら、地元・高知ならではの贅沢な味覚を堪能できる幸運に、心の中で小さく快哉を叫んだ。


そこへ、二階から湊が降りてきた。相変わらず不貞腐れたような、どこか世界を拒絶するような表情だ。食卓に着く際、尾軽と一瞬だけ視線がぶつかったが、二人とも火を吹いたばかりの導火線から逃げるように、即座に目を逸らした。


「二人とも、何日までおる予定なが?」


元太が焼きたての鮭を豪快に頬張りながら、何気なく問いかけた。


「俺は三日間くらいかな。十三日の飛行機で帰るよ」

「まあ、短いねぇ。もっと泊まっていきや」


渚が寂しそうに眉を下げて言う。母の情に胸が痛むが、尾軽は苦笑いで首を振った。


「社会人だから、そんなに長くは休めないよ。……湊はいつまでいるの?」

「……」


湊は答えず、黙々とタタキを口に運ぶ。


「湊、透が聞きゆうよ」


渚が促すと、湊は箸を止めずにボソリと呟いた。


「決めてない。大学は九月末からだから、飽きたら下宿先に戻る」

「かー、ええのう大学生は。自由で羨ましいわ。で、彼女はできたか?」

「ちょっとお父さん」


デリカシーのない質問に、渚が元太を鋭く睨みつける。


「別に」

「『別に』やないやろ。若いうちにしっかり楽しんどきよ」

「あら、お父さんが若い頃は随分と『楽しんで』いたんやっけ? 私と付き合ってた頃から?詳しく聞きたいわぁ、そのお話」


渚の背後から、目に見えるような黒い怒りのオーラが溢れ出した。食卓の温度が一気に数度下がった気がして、尾軽は生唾を飲み込む。


「え、いや、そんなことは……。あー母さん、今日もご飯美味しいわ! いつもありがとうな。やっぱ渚のご飯は最高や!」

「親父……」


露骨なまでの方向転換と媚びの売り方に、尾軽も湊も、そして渚本人さえも呆れ果てた。しかし、その必死な様子が可笑しくて、三人の口から同時に失笑が漏れた。冷え切っていた空気が、笑い声と共に少しだけ解けていく。


「湊の大学は、大阪だっけ?」

「うん」

「楽しい?」

「うん。まあ、それなりに」


無表情ではあったが、その「それなりに」という言葉には、彼なりの充実感が滲んでいるように聞こえた。自分の知らない場所で、弟は着実に自分の世界を築いているのだ。


「あ、二人とも、渚のばあちゃんのところに顔見せに行っときよ」


元太がパンパンに膨らんだ腹を満足げにさすりながら言った。


「俺の車、使っていいき」

「ええー!?」


満腹感と午後の気だるい熱気が、居間の空気をより一層重く沈ませていた。尾軽は冷えた麦茶の残りを飲み干すと、ふと思いついたように両親へ視線を向けた。


「親父と母さんは行かないのかよ、ばあちゃんのところ」


手持ち無沙汰なので食器を洗いはじめ、渚がありがとうとお礼を言い椅子に腰掛けた。


「行きたいがやけど、今日は忙しくて行けんがよ。午後から俺は漁師仲間の組合での話し合いがあるき。秋の漁に向けて大事な決め事があるがや」


元太が申し訳なさそうに答えた。続いて、渚が振り返る。


「私は町内会で祭りの準備があるきねぇ。婦人会で集まって、お供え物やら何やら作らんと。まあ、私は普段からばあちゃんに会いゆうき、今回は二人で行ってきて。」

「じゃあ俺も行かなくていいし。わざわざ暑い中、山の方まで行くの面倒だしさ」


湊が唇を尖らせた。その瞬間、居間の空気が凍りつく。


「湊! あんた、おととい帰ってきて、私が行く時について行かんかったやろ!? 久しぶりに透も帰ってきちゅうがやき、兄弟揃って顔見せぇ!つべこべ言わんと、一緒に行ってきなさい!」


渚の声が烈火のごとく響き渡った。普段は穏やかな母の、筋の通った怒り。それに抗う術を湊は持っていない。


「……ちぇ、分かったよ」


湊は小さく舌打ちをしたが、母の迫力に押されて渋々と立ち上がった。尾軽は苦笑いしながら、少し気になっていたことを口にする。


「けどさ母さん、あの村まで行くのは結構遠いよ。山道だし、行って帰ってくるだけでも夜遅くなるかもしれないよ。」

「そうやねぇ。それなら、せっかくやき一晩泊まって行ったら? 村でも明日の夜に『祭り』があるき、たまには田舎の行事も楽しんで来たらえい。おばあちゃん、足腰も弱っちゅうき、準備の手伝いもしてあげや」

「げ、結構な重労働な予感……」


湊が露骨に顔を顰めたが、渚は気に留める様子もなく続けた。


「ばあちゃんには今から電話しとくき。あんたたちが来るなら、美味しいもんいっぱい作って待ってくれるはずよ」

「そっか。まあどうせ今日は予定なかったし……じゃあ湊、着替え用意したら行くか」


尾軽は明後日の夜に地元の友達とご飯に行く予定だが、それ以外はフリーだ。せっかくの滅多にない帰省だから、ばあちゃんの顔も見ておこうと思っていたので都合が良い。


「分かったよ。」


渋々といった様子で湊は立ち上がり自分の部屋に向かった。

あの山の奥にある、時が止まったようなド田舎。基本的には嫌いな場所ではなかった。緑は深く、水は清らかで、ばあちゃんの作る料理はどれも温かかった。

10年前、湊とはしゃぎ過ぎて森の奥に入ってしまった日。故郷の記憶を切り離すきっかけとなった、あの忌まわしい出来事さえなければ。封印していた蓋が開いてしまったような気がした。慌てて頭をふり、思考を現在に戻す。


「明日の夜の祭りが終わってから帰ってくることになるかもしれないけど、いいの?」

「えいよ、気にせんと楽しんで来いや。湊、にいちゃんの言うことちゃんと聞くんよ!」

「あーわかったわかった。」


階段を登る湊の棒読みな返事が聞こえる。兄弟2人に任せたにも関わらず、いまだに子ども扱いしてくることにうんざりしているのだろう。尾軽は苦笑した。

父と母の快活な声に見送られ、尾軽は玄関先に置かれた車の鍵を手に取った。


「じゃあ行こうか、湊」

「ん」


短く素っ気ない返事をして、湊は助手席の窓から景色を眺めた。尾軽は手の中で、元太が仕事で使い込んでいる軽トラの鍵を指でくるりと回した。金属の冷たい感触が、しばらく手のひらに残っていた。


渚が部屋で出発の支度を進める背中を横目に、家の中にはどこか湿った、重たい沈黙が漂っていた。出発の直前、元太は周囲を気にするようにして二人のそばに寄り、誰かに聞かれるのを恐れて声を潜めた。


「なあ、2人とも。怪しいとか危ないと思ったら、泊まらんで良いからはよ帰って来いよ。」

「な、なんで?」


尾軽は顔を寄せた。


「母ちゃんには言えんけど、あの村はここ数年、なんかおかしい。宗教団体が村おこしを始めて、村の活気はめちゃくちゃよくなったがよ。」

「宗教団体?」


湊も助手席の窓から身を乗り出す。


「そうや、農作業とか高齢者の介護とか学校支援とか色々やって村は助かりゆう。ばあちゃんもその1人や。じいちゃんに先立たれたけど寂しくないって言いゆう。」

「じゃあ良いじゃん。」


退屈そうに湊が答えた。


「やけどな、部外者の俺が母ちゃんと村に行った時、なんか視線が気持ち悪いんよ。」

「何かされたの?」

「いや、何も。」

「じゃあ別に気にすることないでしょ。行こうよ、兄貴。」


心配そうな父を横目に、ガタゴトと無骨な音を出す軽トラに揺られて、尾軽は慎重に車を運転した。先日の事故のこともあるし、そもそも軽自動車に慣れていたからミッションの軽トラが怖い。エンストしたらどうしよう。というかこの車も遠隔操作とかされないよな。


「湊は普段運転するの?」

「車持ってない。まあ友達とレンタカー借りて移動することはあるけど」

「大阪だと車使わなくても十分便利だよね。」

「兄貴こそ、東京だと車要らないだろ。軽自動車要るの?」

「えっと、そうだなー。」


軽自動車は売って中古のホンダフリードを買い、先日破損したと言ったら弟はどんな顔をするだろう。

お盆期間が明けて警察や保険屋からどんな連絡が来るのか怖くて仕方ない。


「まあ俺の住んでる場所は東京とはいえ八王子市の田舎だし、車は必要かな。」


苦笑いをしながら頬を掻いた。


「ふーん、まあ車ないとデートとか不便か。」

「あー、まあそんな機会ないけどね。」

「なんで?兄貴モテてたじゃんか。」

「中学時代の話でしょ、それは。」

「兄貴は理想高すぎるんだよ、学校のアイドルだった美香ちゃんはさすがに手が届かないって。」

「なっ、なんでそれ知ってんだよ!湊は四つ下だろ!」

「兄貴は有名人だったから、友達の兄とかから話が勝手に集まるんだって。野球はホームラン打てるのに恋愛は空振りばっかだって。」

「ぐあぁ!誰だそんなこと言いふらしてるやつは!」


尾軽は運転しながら片手で頭を掻きむしった。

なんでだ、灯二も美香ちゃんのことたまにいじってくるし。


「ちょっと、運転に集中しろよ。」

「いや、だって集中をかき乱す存在がここにっ!」


車内には弾けるような笑い声が満ち、二人の間に流れる時間が、数年の空白を埋めるように色を取り戻していった。弟との止まっていた時が再び動き出したような、確かな温もりがそこにはあった。ひとしきり笑い終え、再びタイヤが砂利を噛む音だけが響くようになると、湊の表情から陽気さが消えた。彼はフロントガラスの向こう、徐々に深くなっていく山の稜線を見つめながら、ぽつりと呟いた。


「ねえさ、兄貴。親父が言ってた村のこと、どういう意味かな。」

「宗教団体のことだよな。」

「うん。」


山道特有の急カーブを曲がるたび、軽トラの古いサスペンションが悲鳴のような音を立てる。窓を開けていても、入り込んでくるのは熱を含んだ湿った風ばかりだ。


「ばあちゃんは、そんな奴らがいる村にいて本当に大丈夫なんだろうか。……親父、深刻そうに話してたけど。」


尾軽がハンドルを握り直すと、隣の湊は窓の外に流れる深い緑の壁を見つめたまま、力なく応じた。


「母さんは何も言わないし、ばあちゃんも大丈夫だから住み続けてるんじゃねーの? 」

「……けどさ、あの村って、もともとおかしかったじゃん」

「そりゃね。」


尾軽の言葉に、車内の空気が一瞬で氷点下まで下がった。真夏の昼下がりだというのに、首筋に薄寒い感触が走る。


「十年前、俺たちが森の奥で見たもの……。湊はまだ覚えてる?」


湊の視線が、わずかに揺れた。組んでいた腕に力が入り、爪がパーカーの袖に食い込む。


「覚えてる。忘れるわけねーじゃん、あんなもの……。だから正直、ばあちゃんの村にはあんまり行きたくねえんだよな。今日ばあちゃんに会うのも5年ぶりとか。村に行くのをできるだけ避けてたんだけどな。」

「……だよね」


尾軽は乾いた笑いを漏らすしかなかった。あの日、二人の子供が見てしまった「それ」は、今も記憶の奥底に澱のように沈んでいる。語れば引きずり込まれそうな闇を振り払うように、湊が吐き捨てるように言った。


「もうやめよーぜ、こんな話。思い出したくねーよ」


そこからは、唸りを上げるエンジンの音と、規則正しく流れていく杉林の景色だけが続いた。重苦しい沈黙を破ったのは、意外にも湊の方からだった。


「……俺さ、兄貴。本当は、野球があんまり好きじゃなかったんだ」

「え、……そーなの?」


唐突な告白に、尾軽は驚きでアクセルを踏む足を緩めそうになった。湊にとって、野球は兄の背中を追うための絶対的な共通言語だと思い込んでいたからだ。


「別に嫌いでもなかったんだけど、練習しんどかったし、尾軽透の弟だって期待されてたし。」

「野球から逃げるように音楽にハマって……。けど、今はもう消極的な理由じゃないんだ。心から今のバンドを楽しんでるよ」

「そっか。……それは良かったな。湊が決めた道なら、俺は応援するよ」

「実家戻ったらさ、兄貴の好きな曲、何か一曲弾いてやるよ」


不愛想だった数十分前が嘘のような、素直な言葉。兄への劣等感や意地、それらが故郷への恐怖を共有したことで少しだけ削ぎ落とされたのかもしれない。尾軽は熱いものが胸に込み上げてくるのを感じた。


「なあ、湊」

「兄貴。……そろそろ、村に着くみたいだ」

「え、ああ、うん。」


尾軽が何かを言いかけた瞬間、視界が開けた。約九十分のドライブの果てに現れたのは、吉良町。高知県の山奥にひっそりとへばりつく、人口二百人程度の限界集落だった。


山々の緑に飲み込まれそうな斜面に、時代に取り残されたような古い日本家屋が、肩を寄せ合うように密集している。灼熱の直射日光がアスファルトを焼き、陽炎の向こうで広がる田園風景は、どこか現実味を欠いた美しさを見せていた。


「うわあ、なつかしー……」


尾軽はハンドルの遊びを慎重に調整しながら、車一台半がやっと通れるほどの細い小道へと軽トラを滑り込ませた。窓の外には、記憶の中にあるのと変わらない、鮮やかな緑の絨毯のような田んぼが広がっている。だが、ふと目を落とした田んぼの縁には、真夏の陽光に焼かれた毒々しい朱色の塊がいくつもこびりついていた。まるで誰かが赤色の絵の具をぶちまけたような、異質な色彩だ。


「兄貴、あれタニシの卵だ。小学生の頃、帰り道に木の棒でつついて落としてたよな」


助手席で湊が懐かしそうに目を細めて笑った。その屈託のない笑顔に、尾軽もわずかに肩の力が抜ける。


「あれ、毒があるらしいから、もう触るなよ」

「えっ、そうなの? じゃあその時言ってくれよ。俺、素手で触ったことあるわ」


兄弟の他愛もない会話が車内に流れる。すると、前方の角から「わあーっ!」と元気な声を上げて、十歳くらいの男の子たちが三、四人、軽トラの脇を猛スピードで駆け抜けていった。その後ろを、二十代半ばほどの若い女性がにこやかに笑いながら追いかけてくる。


「先生、早くー!」


子供たちが振り返って声をかける。女性は軽トラとすれ違う瞬間、運転席の尾軽と湊に向けて、非の打ち所のないほど清々しく、慈愛に満ちた笑顔を向けた。透き通るような肌に、真夏の光を反射する白い装束。尾軽と湊は、その一瞬の光景に、吸い込まれるように見惚れてしまった。


「お、おい兄貴、前見ろよ! 田んぼに落ちるぞ!」

「あ、ああ、ごめん……」


湊の焦った声に我に返り、慌ててハンドルを切り直す。だが、尾軽の胸の奥には、美しさとは裏腹の一抹の不安が、冷たい澱のように沈み始めていた。


「なあ湊……さっきの人」

「うん。多分、親父が言ってた宗教の人だろうな」

「えっ、ああ、うん。そっちか。そうだよね。」

「なに、めっちゃ美人だったって言いたいの?」

湊は面食いな兄に対してため息をついた。


彼女が身に纏っていたのは、一様に白い、粗い麻布でできた装束だった。真夏の酷暑を考慮してか、薄手で通気性の良さそうな素材ではあったが、それでも強烈な日差しを浴び続け、大量の汗を吸って、信者たちの肌にじっとりと張り付いている。筒袖の上衣は紐で結ばれ、首元は少し開いているが、首筋は白い手拭いのような布で覆われ、直射日光を遮ると同時に、どこか個人の輪郭を隠すような役割を果たしている。下衣は袴のようにゆったりとした白いパンツで、裾は足首で絞られ、土埃で汚れた白い地下足袋を履いていた。


尾軽の祖母、潮うしおの家を目指して集落の深部へと進むにつれ、さらに十数人の白装束の姿が目に入ってきた。彼らは皆、一様に穏やかな笑顔を浮かべている。ある者は腰を屈めて畑仕事を手伝い、ある者は足元の覚束ない老人の手を取り、重い荷物を持って散歩に付き添っている。


数年前、ここを訪れた時の死にかけたような静寂はどこにもない。村は明らかに活気を取り戻し、健全なコミュニティとして機能しているように見えた。だが、なんだろう。この喉の奥に張り付くような違和感は。


ようやく潮の古い平屋の前に軽トラを停めた時だ。エンジンを切り、静寂が戻った瞬間、尾軽は背筋にゾクりとするような鋭い視線を感じた。思わず振り返り、村の通りを見渡す。


その瞬間だった。道端で作業をしていた白装束たちも、談笑していた村民たちも、まるで機械仕掛けの操り人形のように、全員が同時に、申し合わせたかのように別の方向へ顔を向けたのだ。


さっきまで、確実に自分たちを「見て」いたはずの視線が、霧が晴れるように一斉に消え去る。ただ、真夏の蝉時雨だけが、耳を劈くように響いていた。


蝉時雨を遮るように、尾軽は意を決して古びたインターホンを押した。ジリリ、という乾いた音が家の中に吸い込まれていく。


「ばあちゃん、入るよー」


返事を待たず、尾軽の母渚の旧姓である、山里と書いてある表札を横目に恐る恐る引き戸を開けた。玄関のひんやりとした空気と共に、線香と古い木の匂いが鼻をくすぐる。


「おお、透と湊やんか。よう来たねぇ」


奥の和室から、聞き慣れた声が返ってきた。テレビのワイドショーを小さな音で流しながら、ガラスコップの麦茶を手にしていた潮が、驚きに目を見開いている。今年で八十歳を迎えるはずだが、その姿は記憶にあるよりもずっと精力的だった。髪は染めているのかと思うほど若々しく黒く、目元には鋭い力が宿り、畳に座る背筋は一本の芯が通ったように真っ直ぐに伸びている。


「久しぶり。なかなか来れなくてごめんよ、ばあちゃん」

「全然気にせんでえいよ。それにしてもよう来てくれた。ばあちゃん、嬉しいわぁ」


潮はくしゃりと顔を綻ばせ、慈しむように目を細めた。しかし、その直後。ふっと視線を落とした彼女の唇から、吐息のような微かな呟きが漏れたのを、尾軽の耳は見逃さなかった。


「……ほんま、来てしもうたか」

「え、何か言った? ばあちゃん」

「ああ、いや。ほんま大きくなって。二人とも男前になってからに」


潮は慌てて顔を上げると、立ち上がって二人の近くに歩み寄った。十年前は同じくらいの目線だったはずなのに、今は尾軽たちが大きく見下ろす形になる。自分たちが伸びたのか、それとも潮の体が小さく縮んだのか。刻まれた時間の残酷さと愛おしさが、同時に胸を締め付ける。


「ばあちゃんは元気にしてた? 母さんから聞いたよ。俺たちの話ばっかりしてるって」


潮が出してくれた、表面に細かな水滴を湛えた麦茶を啜りながら、尾軽と湊は畳に腰を下ろした。


「ばあちゃんは元気にやりゆうよ。……それで、二人は何日くらい高知におるが?」

「お盆の間はいるつもり。今日は一泊させてもらって、明日の夜の祭りを楽しんでから帰ろうと思うんだけど、いいかな」


その言葉を聞いた瞬間、潮の顔に浮かんだのは、喜びと悲しみが複雑に混ざり合ったような、歪な笑顔だった。


「ええよ。……やけど、無理せんでも今日帰ってもえいきね」

「ばあちゃん、もしかして帰って欲しいの?」


湊が少し傷ついたような、探るような声を出す。


「んなわけないやろ。……ずっとここで暮らしてくれたってえいわ」

「はは、それは俺たちが困るよ」


尾軽が冗談めかして返し、三人の間に小さな笑い声が響いた。和やかな、どこにでもある祖母と孫の再会の風景。


けれど、尾軽の胸のざわつきは消えなかった。なぜ、ばあちゃんはあんなに悲しそうな顔をしたんだろう。歓迎しているはずなのに、まるで自分たちの来訪を後悔しているような、あの視線の正体は何だったのか。


尾軽はその思考を頭の隅に追いやり、冷えた麦茶を一気に飲み干した。喉を通る冷たさが、現実の重みを一瞬だけ忘れさせてくれた。


その時、ガラガラと乾いた音を立てて玄関の引き戸が開いた。


「潮ばあちゃーん、来たでー!表に車停まってるけど、誰か来たがかー?」


家の中に響き渡ったのは、底抜けに明るい子供の声だった。襖が勢いよく開け放たれ、そこに立っていたのは、日焼けした肌に白い歯を覗かせて笑う、10代前半とおぼしき男の子だった。


「功太、おまんは今日も元気やな」


潮が目を細めて迎えるが、功太と呼ばれた少年は、彼女への返事よりも目の前の「見慣れない大人」への好奇心を優先させた。身を乗り出すようにして、二人をまじまじと見つめる。


「その人らぁ、誰ー?」

「功太、くん?」

「そうやで、この村の小学6年生や。……功太、この二人は私の孫や。ほら、ちゃんと挨拶しなさい」


潮に促され、尾軽は苦笑いしながら手を挙げた。


「はじめまして。俺は尾軽透、んでこっちは弟の湊。ばあちゃんの孫だよ」

「へー!オカルト!筋肉ムキムキじゃん!」

「オカルトじゃなくて、尾軽ね。というか、湊も尾軽だから、俺のことは透でいいよ」

「オカルトはスポーツ得意そうやな!ねえさ、外で一緒に遊ぼうや!」


いきなりの誘いに、湊が心底うんざりしたような顔で溜息を吐く。


「この子、全然人の話聞かないな……」

「まあまあ、そう言うなよ。どうせ暇してたんだし。湊、せっかくだから功太君と遊んでやるか」

「えぇー……」

「ヒョロ長も、ついでに遊んでやってもいいで。」

「は?なんだこの生意気なガキ。」

「わー逃げろー!」


嫌がる湊とは対照的に、功太は両手を挙げて飛び跳ねた。その天真爛漫な姿を見て、尾軽は自分のクラスにいるアキラの顔を思い出した。どこにいても、こういうタイプは変わらないらしい。


田舎の山奥は、土地だけは腐るほど有り余っている。午後三時。じっとしているだけで肌が焼けるような酷暑の中、三人は空き地でサッカーボールを蹴り、キャッチボールを始めた。現在は尾軽が功太と湊にノックをしている。


キン、金属バットが野球ボールの芯を捉える音が響いた。


「やっぱオカルト、野球上手いね! ヒョロ長も意外と動けるやん!」

「誰がヒョロ長だ、クソガキ!」


湊が苛立ちをぶつけるように低めのボールを投げたが、功太は器用にショートバウンドを処理して見せた。


「おら、ヒョロ長とってみい!」


功太が挑発的に、思いっきり真上へと高いフライを投げ上げる。


「舐めんなよ、ガキがぁぁ!」


大汗をかき、肩で息を切りながら、湊はフライの落下地点へ全力で走り込んだ。必死な形相で白球を追いかけ、最後は見事にそのグラブに収める。


「あんなに叫ぶ湊、久しぶりに見たな……」


あれほど「真夏に外で運動なんてバカだ」と冷めていた湊が、今はなりふり構わず熱中している。功太の無遠慮なエネルギーが、湊の中にある何かを強引に引き出したのかもしれない。


三人は木陰に入り、タオルで顔を拭いながら荒い息を整えた。


「近所の駄菓子屋に冷えたジュースあるき買いに行こう!」


功太は疲れを知らない様子で、再び眩しい日差しの中へと駆け出していった。


「あ、功太にいにー!」


陽炎が揺れる田舎道の向こうから、三人の小学生が砂埃を上げて走ってきた。その後ろからは、行きがけに見かけたあの女性が、慈しむような微笑みを湛えて歩いてくる。小柄な体に被った麦わら帽子が夏の日差しを遮り、服装は白を基調とした動きやすそうなリネンのチュニックに、ゆったりとしたガウチョパンツという装いだ。その姿は、あまりにも周囲の田園風景に溶け込みすぎていて、まるでセピア色の古い写真を切り取ったかのような非現実的な美しさを放っていた。


「お、優斗か。早苗先生も一緒やん」


功太が親しげに手を振ると、彼女は「こんにちは」と鈴の鳴るような声で微笑み、小さく会釈した。


「その人ら、だれー?」


優斗と呼ばれた子をはじめ、子供たちは功太がしたのと全く同じ質問を投げかけてくる。


「ばあちゃんの孫やって。オカルトとヒョロ長。めっちゃ野球上手いで!」

「……こんにちは。オカルトです。こっちは弟の湊。」


尾軽は、もはや訂正する気力を失い、投げやりな自己紹介を口にした。湊は後ろでプッと吹き出している。


「オカルト? 変わった名前やねぇ」

「今日はねー、早苗先生と虫探ししよった! 見て、セミいっぱい獲った!」


子供たちが目をキラキラさせ、網の中で暴れるセミが詰まった虫かごを誇らしげに突き出してくる。


「えいやん。早苗先生、大変やなかった?」

「ふふ、楽しかったよ」

「早苗先生、高いところのセミを網でパシって獲ってくれたがやき!」


意外とお転婆な一面があるのだろうか。尾軽と湊は、清楚な見た目からは想像できない彼女の身体能力に、内心で驚きを隠せなかった。


「喉乾いたき駄菓子屋行くけど、優斗らは?」

「いくー! 喉乾いた!」


一行はさらに賑やかさを増し、座敷童のような風貌のおばあさんが店番をしている、古びた駄菓子屋へと向かった。


「でねー、この駄菓子屋、俺のじいちゃんが子供の頃からあるんやって」


「プハッ」とラムネの瓶から口を離した功太が、嚥下もそこそこに言葉を畳み掛ける。


「……ゆっくり飲んでから話していいよ」


尾軽は、その無邪気な仕草をどこか愛おしく感じていた。


「ふーん。けどさ、駄菓子屋と家しかないって不便じゃね?」

「湊、そんな言い方は……」


尾軽が宥めるが、確かに楽器屋や服屋の一つないこの環境は、音楽とファッションに没頭する湊にとっては退屈そのものだろう。


「不便やね。だから、どんどん人がおらんなる」


功太がラムネの瓶を見つめ、遠くを眺めるように寂しげに呟いた。


「功太の同年代の子って、この村にはいないの?」

「中学校はあるんですけど、全校生徒で十五人くらいなんです。それに、高校はもう無くなってしまって……」


早苗が緑茶のペットボトルを手に、湊の隣の畳に腰を下ろした。


「俺はこの村、好きながやけどな。……オカルトらも、この村から出た人らやろ?」

「俺たちの母さんが、ここの出身なんだ」

「やけどな、この村は最近明るくなったんや。早苗先生らが来てくれたおかげでな」

「そんな。私は大したことしてないよ」


早苗は恥ずかしそうに帽子の鍔を少し下げ、顔を隠した。


「……何年くらい前に、早苗先生はここに赴任したんですか?」

「私が来たのは、ほんの二年前です」


なら、一体何歳なんだろう。若く見えるけど、俺より上なのかな……。


「赴任というか……私はただ、巡り人として子供たちと遊んでいるだけなんです。だって私、教員免許を持っていないですから」

「メグリビト?」


聞き慣れない言葉に尾軽の思考は一瞬フリーズした


「えっ、けど、子供たちは先生って……」


その時だった。


「キーン、コーン……」


静寂を裂くように、夕方五時を告げる鐘の音が村中に鳴り響いた。


「あっ、祈りの時間や。」


優斗が呟いた。


尾軽と湊は、目の前の光景に息を呑んだ。早苗も、功太も、優斗も、他の子供たちまでもが、さらには遠くの畑で腰を丸めていた老人たちまでもが、一様にその場に座り込み、深く目を閉じて深呼吸を始めたのだ。脚を組んだり、正座したり、座り方に統一感は無い。


一分間、村から一切の雑音が消えた。ただ、風に揺れる木々の音と、静かな呼吸音だけが漂う異様な空間。一分が経過すると、皆は何事もなかったかのように目を開けた。


「すみません。毎日の『瞑想の時間』は、守らなきゃいけない決まりなので」


早苗が、先ほどと変わらぬ穏やかな笑顔で言った。


「……瞑想?」

「申し遅れました。私は宗教法人『滄溟の揺籠そうめいのゆりかご』の巡り人、門倉早苗と申します」


その屈託のない、眩しすぎるほどの笑顔。

先ほどとは全く別の、心臓を直接冷たい手で掴まれたような感覚に、二人は彼女を直視できなくなっていた。


「滄溟の、揺籠……!!」


早苗が口にしたその名前は、尾軽の耳にひんやりとした不協和音となって響いた。目の前の穏やかな女性が、あの不気味な瞑想を行う集団の一員だったという事実。もちろん、先入観で人を判断するのは良くない。村を救う素晴らしい活動なのかもしれない。しかし、父・元太が絞り出すように言った忠告や、感情を削ぎ落としたかのように従順な子供たちの様子が、尾軽の脳内でけたたましくアラートを鳴らしていた。


「オカルトは揺籠を知らんが? ほら、早苗先生のタオル見てみいや」


尾軽の困惑をよそに、功太が早苗の手元にある白地のタオルを無邪気に指差した。


「ちょっと功太君、私の汗がついているんだから、触らない方がいいよ」


早苗は困ったように微笑んで注意するが、本気で制止しようとする気配はない。差し出されたタオルの中心には、深みのある藍色で描かれた、どこか歪なロゴマークがプリントされていた。


それは、円の中に二本の曲線が内側へと鋭く伸びた、奇妙な意匠だった。一見すると胎児を優しく包む揺籠のようだが、よく見ればその曲線は、深海へと引きずり込む巨大な波のようにも、あるいは命を逆さに閉じ込める子宮のようにも見える。円の底に沈んでいく人間を海が抱きしめるその図像は、「人間は海から生まれ、汚れたまま死ぬ。再び揺籠に戻り、溶けて一つになることでしか浄化されない」という、救済を装った断罪の形を象徴しているかのようだった。


「……揺籠の人たちが村に住み始めて、どれくらいになるんですか?」

「最初にネズさんが来たのが五年前とか言ってたかしらね」

「合計三十人くらいの若い人らが移住してきて、みんな若いき村が明るくなりゆうがよ!」


功太が誇らしげに胸を張る。その屈託のない笑顔が、隣で固まっている湊や尾軽には、何重にも塗り固められた仮面のようにも見えて空恐ろしい。


彼らの引き攣った笑顔には気づかず、早苗は

「教育支援や畑仕事のお手伝い、介護を通して、自然と共に助け合うことをコンセプトに活動しているんです」


と、淀みない口調で続けた。

その時、ガラガラと駄菓子屋の床を擦るような、草履の音が二足分近づいてきた。


「おやおや、楽しそうな声が聞こえるね。」


入り口に現れたのは、二人組の男だった。一人は七十代とおぼしき、頭の禿げ上がった太り気味の老人。そしてもう一人は、三十代半ば、あの白装束を纏った小柄な男。その男は、出っ歯の覗く口元に薄ら笑いを貼り付け、細い目でじろりと店内を覗き込んでいる。その風貌は、どこか卑屈なネズミをそのまま擬人化したような不気味さを放っていた。


「あ、村長とネズさん!こんばんは!」


子供たちが一斉に声を弾ませる。


「こんばんは、村長の西村です。」


西村と名乗った老人が頭を下げた。


「こんばんは。……ところで君たちは、見かけない顔ですね」


ネズと呼ばれた男の視線が、尾軽と湊に止まった。値踏みするような、それでいてどこか獲物を探るような冷ややかな眼光。


「……潮の孫の、透と湊と言います」


尾軽の声が、わずかに上擦った。


「潮?ああ、山里さんのところの。帰省されたんですね。はじめまして。滄溟の揺籠、守り人をしている根津実ねずみのると言います。……ゆっくりしていってください」


根津は、そのネズミのような顔に不自然な笑顔を刻んだまま、低く粘りつくような声でそう告げた。


「守り人って?」


湊がボソっと早苗に質問した。


「各支部の代表です。根津さんは四国地方の吉良町支部を代表しています。」


早苗は完璧な笑顔で答えた。一切の淀みなく。

村長と根津が去った後も、尾軽と湊は店に残った面々と当たり障りのない雑談を続けた。


「揺籠には構成員の役割や階級に応じて呼び方があって、下っ端の人達は巡り人って言うんですよ。」


「他にはどんな役職の人がいるんですか?」

「上から順に教祖様、大幹部の伝道師、支部長の守り人ですね。その下に同じ階級で清掃担当の清め人や食べ物や人を育てる私達巡り人、他にも広報やセキュリティ関係等仕事内容に合わせて名前がありますよ。」


思ったよりも大きな組織ということを尾軽と湊は思い知らされた。


しかし、先ほど見た不気味なロゴや根津の冷ややかな視線が頭にこびりつき、会話の内容は上の空で、右から左へと通り抜けていくだけだった。


やがて、山影に隠れた太陽が最後の残光を放ち、空は鮮やかな橙色から深い紺色へと溶け込み始めた。


「そろそろ帰ろうか。お父さんやお母さんがご飯を作って待ってるよ。」


早苗が優しく子供たちを促すと、優斗たちは「はーい!」と両手を挙げて応じた。しかし、それまで賑やかだった功太だけは、どこか寂しげな色を瞳に宿して笑っていた。


「私はあちらの優斗君たちを送っていくので、功太君をお願いしてもいいですか? 家の方向が逆なんですよ」


早苗の頼みを断る理由もなく、尾軽と湊は功太を連れて、カエルと虫たちが一斉に鳴き始めた畦道を歩き出した。右手に抱えたグローブの革の匂い、左肩に乗せたバットの確かな重み。この感覚だけは、十年前の夏と何も変わっていないような気がした。


「俺の両親、村の外で仕事しゆうき、毎日帰ってくるのが遅いがよね」


ふと、功太が足元の小石を蹴りながら呟いた。


「そうなのか。それは寂しいね。兄弟はいないの?」

「おらん。けど、村のみんなが家族や兄弟みたいなもんやき。やきさ、潮ばあちゃんのところにもたまに遊びに行きゆうがよ。ばあちゃんも一人で暇しゆうからちょうどええって言いゆうし」


功太の言葉に、尾軽は胸の奥が少しだけ痛んだ。彼にとって、この閉鎖的で奇妙な村は、寂しさを埋めてくれる唯一の居場所なのだ。


「そうだったのか。それで今日も、ばあちゃんのところに来てたんだな」

「うん。……あ、それでさ、俺も晩御飯一緒に食べてえい?」


真っ直ぐに見つめてくる功太に、尾軽は笑顔を返した。


「もちろん、歓迎するよ。ばあちゃんだって、功太君が来れば喜ぶだろうしな」

「ほんま? ありがとう!」


功太は今日一番の輝かしい笑顔を見せた。


「俺さ、今日はめちゃくちゃ楽しかったわ。村には年齢の近い奴が少ないし、オカルトやヒョロ長みたいに野球が上手い奴は一人もおらんしな」

「タイミングが良かったよ。……あ、でも、さっき『先生』って呼ばれてた早苗さんも、野球はしないのか?」

「早苗先生は虫捕り専門やき! ……あ、もう一人おったわ」


功太はそう言うと、小走りで畦道から逸れて、薄暗くなりかけた芝生の方へと駆けていった。


「タク兄! 今日はどこにおったん? また星を見ゆうやんか」


功太が話しかけた先には、芝生の上に無造作に寝転がり、夕焼けと夜空の境界線を見つめている一人の青年がいた。彼は脱いだ白装束を丁寧に畳み、自らの腹の上に置いて、静かに呼吸を整えていた。


「おう、功太か。」

「おうやないて。今日はオカルトらが遊んでくれたき良かったけど、タク兄がおらんで午前中は暇やったがやき」

「オカルト……? 聞かない名前やんか。」


上半身をゆっくりと起こした青年は、短く刈り上げられた髪に、尾軽と同じか少し上の年齢を感じさせる整った顔立ちをしていた。何よりも印象的なのは、暗くなり始めた空の色を映したような、澄んだ綺麗な瞳だ。


「はじめまして。潮の孫の、尾軽透です。こっちは弟の湊」


本日何度目かわからない定型文を、尾軽は就職活動の面接のようにスラスラと口にした。


「はじめまして。小峠拓也ことうげ たくやって言います。……よろしく。」


小峠は人当たりの良さそうな笑みを浮かべて会釈した。早苗や根津よりも話し方が砕けている。口調は揺籠の中で統一はされていないようだ。


「タク兄、毎日星を見ていて飽きないの?」

「飽きないよ。こんなに綺麗なものが、毎日少しずつ形を変えて見えるんだから」


見上げる彼の横顔は、心底この場所を愛しているかのように活き活きとしていた。功太が「今日どこにおったん? はよ答えてや」と矢継ぎ早に質問をぶつける。その懐きようから、二人の信頼関係の深さが伝わってきた。


「明日の祭りに備えて、朝から駆り出されてたんだよ」

「あ、そうか。明日は『犬追い祭り』の日やったね」

「「……犬追い祭り?」」


尾軽と湊の声が重なった。昔、何度もこの村に遊びに来たはずだが、そんな名前の祭りは聞いたことがない。


「昔、四十年前くらいまでこの村でやっていた伝統らしくて……。僕ら揺籠のメンバーが来てから村に活気が戻って、二年前から再開したんだ。」


拓也を含めた四人で歩きながら、尾軽はその未知の祭りの話に耳を傾けた。


「山奥だから野犬が出て危ないんだよ。だから、集めて檻に入れて保健所に持って行く。せっかくだから、闘牛士のように気骨のある若者が、闘技場のような空間で牧羊犬が羊を追い込むような様を村人に見せる祭りさ」


拓也はこともなげに、しかしどこか酔いしれるような口調で祭りの全容を語った。「野犬対策」という実利的な響きとは裏腹に、逃げ場のない空間で獲物を追い詰めるという残酷な娯楽の側面。その説明に、尾軽の背筋にはざらりとした不快感が走る。


「なんか、面白そうだけど……野犬が可哀想な気もするなあ」

「それって戦う人はどうやって決めるの?怪我するかもしれないから俺ならやりたくないな。」


湊が複雑そうな表情で呟いた。


「立候補がいれば何人でも。いなければ推薦かな。」

「拒否権は?無かったら昔の人柱と同じじゃん。」


湊の質問を聞きながら、洪水とか飢饉や疫病の対策として人の命を捧げることが効果的だと本気で信じていた時代に生まれなくて良かったと思った。


「あるよ。だから毎年揺籠のメンバーがやってる。2年前も去年も、俺が戦士をやったよ。」


拓也が大したことではなかったかのように軽く言った。


「ええっ!怖くなかったんですか?」

「怖いよ、死ぬかと思った。」


拓也はヘラっと笑った。掴みどころがない人だ。

功太がその空気を弾き飛ばすように明るく割り込んだ。


「イカ焼きとか焼きそばとか、出店が来るのが俺ら子供の一番の楽しみながって!」

「まあ、犬追い祭りって行事は、村の息抜きの口実みたいなものだな」


拓也は屈託なく笑い、自分たちの役割を説明した。


「そんで、フェンスの補修とか野犬の場所調査とかで、最近はずっと忙しいってわけだ」


そう言って拓也は功太の頭をポンポンと撫でた。功太は遊べない理由を分かっているが、渋々と言った様子で唇を尖らせている。

なるほど、と尾軽と湊もようやく全容を掴み始めていた。村おこしと伝統の復活、そして村人との融和。理にかなっている。


「じゃあ、俺ら『揺籠』の寮はこっち側だから。おやすみ。透君と湊君も、また明日な」

「お、おやすみなさい」


拓也は軽やかに手を振り、暗い畦道を歩いていった。

その視線の先、深い山奥の、湿度を孕んだ重い闇を切り裂くように、あまりに不釣り合いな建築物が鎮座していた。


それは、真っ白な西洋のゴシック教会を思わせる建物だった。


月光さえ拒絶するような、不気味なほど純白に輝く白亜の巨体。その壁面は、まるで砂浜に打ち上げられた巨大なクジラの骨のように白く、冷たい。建物の正面には、尖頭アーチの巨大なステンドグラスが、内側から漏れる黄緑色の光を浴びて、深い紺色に脈動していた。


その中心に刻まれているのは、教団のロゴ。二本の曲線が、沈みゆく胎児を優しく抱きしめる、深淵の胎児の紋章だ。それは、慈愛の揺籠であると同時に、深海へと引きずり込む巨大な波、あるいは逆さまになった子宮そのもの。


夜の闇の中に浮かび上がるその異様な姿は、神聖な祈りの場などでは決してない。それは、口を大きく開けて村のすべて、いや、地球上のすべての命を飲み込もうとする、深海の怪物のようにも見える。建物の一角にそびえる塔の頂上には、十字架ではなく、暗黒の空へ向かって鋭く尖った、毒々しい青緑色の光を放つ三叉の矛が、不吉に突き刺さっていた。


「揺籠のメンバーはあそこで共同生活しゆうがよ」


功太が誇らしげに言った。潮ばあちゃんの家の目と鼻の先ではないか。昼間の到着時は動揺していて気づかなかったが、その異様な近さに尾軽は改めて冷や汗をかく。自分たちは、毒々しいまでに真っ白な聖域の、すぐ隣にいたのだ。


「あの人って何者なんだろ。」


湊が呟いた。


「早苗先生も、タク兄も元々は高知の人やないで。」

「そうなの!?たしかに訛りは全然なかったけど。じゃあどうしてこんな場所に。」

「仕事で疲れて、揺籠に入る人多いんやって。事前活動とか畑仕事とかやりがいがあるんやって。みんないい人やのに心が折れるって、俺大人になりとうないわ。」


功太がつまらなさそうに後頭部で腕を組んだ。


「潮ばあちゃん、ただいまー!」


功太が我が物顔で玄関の引き戸を勢いよく開けた。


「おかえり、三人とも。ご飯できちゅうよ」


奥の台所から、潮の穏やかな声が響く。和室へ上がると、そこには豪華な山の幸や、透き通るような身をした川魚の塩焼き、そして湯気を立てる大きな鍋が並んでいた。潮はその鍋を大きな木杓子で、ゆっくりと、丹念にかき混ぜている。


「ばあちゃん、遅くなってごめん。手伝うよ」


尾軽は慌てて荷物を置くと、祖母の隣へ駆け寄った。


「でさー、今日オカルトとヒョロ長と野球してさー。二人ともめっちゃ速い球投げるがよ!」

「そうかそうか。そりゃあ、功太もいい刺激になったねぇ」


功太は頬をパンパンに膨らませ、リスのようにモグモグと咀嚼しては、飲み込むや否や今日あった出来事を潮に喋り続けた。潮は時折目を細め、満足そうに頷きながら孫たちの様子を見守っている。普段から功太がこの家に上がり込んでいるのだろう。その光景は、血の繋がりを超えた本当の祖母と孫のようで、どこか心が温まるものがあった。

ふと、尾軽が箸を止めて潮を見た。


「……なあ、二人とも。ばあちゃん、俺さ、明日の朝は祭りの準備を手伝おうかなって思ってるんだ。せっかく村に来たんだし。」


尾軽のその言葉が座敷に落ちた瞬間、潮の柔和な笑顔が、まるで氷が張ったように凍りついた。


「行かんでいい。」

「え……?」


短く、拒絶の色の強い一言。尾軽が戸惑うと、潮はハッとしたように視線を揺らし、無理やり表情を和らげた。


「……あ、そうか。いや、暑いきね。明日も酷暑になるやろうし、無理して行かんでえいき。不慣れな者が手伝っても、かえって迷惑かもしれんしな」


潮は自分に言い聞かせるように、噛み締めるようにそう呟いた。


「そうそう、行かんでえいき! 明日も俺と遊ぶがやろ? 山の秘密基地、教えてやるがよ。」


功太が無邪気な笑顔を弾けさせる。


「えーと、じゃあ手伝いを申し出て、早く終わったら遊ぼうか。」


えぇー!朝から遊びたいー!そんな風に功太は駄々をこねる。すっかり懐かれたようだ。


その明るさに救われる思いをしながらも、湊が切り干し大根を咀嚼しながら問いを重ねた。


「ばあちゃん。その『犬追い祭り』って、そもそもなんなの? 四十年前にはあったらしいから、ばあちゃんが若い時には見てるよね?」


潮は一瞬、鍋から立ち昇る湯気を見つめ、静かに口を開いた。


「……ちょっと怖い話になるけど、えいか?」


潮のトーンが一段低くなり、男子三人は思わず生唾を飲み込んだ。窓の外の虫の音が、急に遠ざかったような錯覚に陥る。


「元々、この高知県には古くから『犬神』の伝説がある。……腹を空かせた犬の体を首まで土に埋めて、空腹が限界になったところで、その首を叩き落とすんや」

「なっ……なんでそんな酷いことを」


功太が真っ青になり、箸を震わせた。


「怒りと恨みを極限まで持った犬の首には、強力な呪いが宿ると言われちょったがよ。それを手に入れた者は、敵に呪いをかけたり、富を得たりできるという……。この村でも、昔はそういう祈祷を信じる者がおった」

「そんなの、ただの迷信だろ?」

「そうや。迷信や。やけど、昔はそれが当たり前やった。戦争が終わって国が豊かになるにつれて、そんな残酷な儀式は廃れていった。……それがいつしか、増えすぎた野犬を減らすための口実になり、呪いの儀式は『祭り』という形に変わっていったんよ」

「そんな歴史があったなんてな……」


尾軽は牛肉のすき焼きを頬張りながら応じた。あまりに凄惨な話だったが、腹を空かせた彼の食欲はそれくらいでは止まらないらしい。


「で、村の人口が減って、野犬を追いかける元気な若い人がいなくなったから、祭りは一度終わった……。けど最近、村おこしが始まって、移住してきた人たちの手で再開されたってこと?」


湊が話を整理するように補足する。


「……そういうことになるねぇ」


潮は短く答えると、再び鍋をかき混ぜ始めた。

何かが引っかかる。潮の今の説明は、筋が通っているようでいて、誰かが用意した正解を語っているような、お腹が減った時都合よく目の前に皿に盛られたリンゴを見つけたような、そんな違和感が尾軽にはあった。


「ばあちゃん、揺籠の人らぁって村ではどんな感じなの?」


湊の何気ない問いが、食卓の空気をわずかに震わせた。


「今日俺らが会った感じ、みんな優しくて明るくて、いい人たちに見えたんだけど……」


みんなと言いつつあの代表の根津って人はちょっと怖かったけど。


尾軽が言葉を添えると、潮の視線が一瞬だけ宙を泳いだ。何かを飲み込むような、ほんの数秒の言い淀みがあった。


「……若いもんが来てくれて、村が元気になったわ。わしも重いもんを持ってくれたり、話相手になってくれたりして、助かりゆうよ」


なにか、面接の模範解答を聞いているかのような。


「そうやで! いっつも俺と遊んでくれるがやき!」 


功太が元気よく割って入る。


「それもう何回も聞いたって」


湊が「もうお腹いっぱい」という風に耳を塞ぐジェスチャーを見せた。


「五年前からこの村に来始めたんでしょ? それってなんで? 他にも人の少ない村なんていっぱいあるのに」

「なんでやろうねぇ。……わしも詳しくは知らんがよ」


ばあちゃんも知らないのか、と尾軽は思う。


「……瞑想の時間って、なんなの? みんな一斉に目を瞑って、正直ちょっと怖か——」


バン!

乾いた、鋭い衝撃音が響いた。潮が、八十歳の老婆とは思えないほどの力で食卓を叩いたのだ。茶碗が跳ね、汁物の表面が激しく波打つ。


「透。怖くなんてないきね。みんな真面目でいい人らやき。そんなこと、二度と言っちゃいかんで」


その目は、冗談や勘違いを許さないほどに真剣だった。

ほんの十秒前まで穏やかに笑っていた、華奢で小さな祖母。その面影を塗り潰すような威圧感に、尾軽の背筋を冷たい汗が伝う。


「もぉ、いきなりでかい音出さんといてや、潮ばあちゃん」


功太が唇を尖らせて不満を漏らす。隣では、湊が驚いた猫のように肩を怒らせ、写真を切り取ったかのように静止していた。尾軽と湊の視線が、宙でぶつかり合う。


「……瞑想はね、日頃の家族とか、自然とか、食べ物とかに感謝する時間なんやって。朝と夕方に一分ずつ。子供たちが真似し始めて、それから年寄りも暇やきやり始めたがよ」


潮はそう言うと、何事もなかったかのように穏やかな顔に戻った。


「へ、へぇー……そんな経緯があったんだ」


先ほどの豹変を脳が処理しきれず、尾軽の口からは魂の抜けたような返事しか出てこない。


瞑想は精神の健康に良いって、灯二も言ってたよな……。あいつもたまに目を閉じて深呼吸してるし。……今のところ、滄溟の揺籠は本当にいい団体にしか聞こえない。だけど……。


「ほら、話はもう終わりや。そろそろ夜も遅いで」


潮の言葉に時計を見ると、夜の八時半を回っていた。都会ならまだ宵の口だが、ここは深い山の村だ。


「功太君、ご両親そろそろ帰って来るんじゃない? 家まで送るよ」

「……今日、親が帰って来るの、深夜だし」


功太は急に、消え入りそうな声で俯いた。


「功太が良いなら、今夜は泊まっていきや。部屋はあるんやし」


潮の提案に、功太の顔にパッと花が咲く。「やったー!」とはしゃぐ彼に、「ちゃんと親に連絡しときよ」と潮が釘を刺す。そのやり取りを横目に、尾軽と湊は慣れた手つきで食器を洗い始めた。


「オカルト、一緒に風呂入ろー!」


功太が尾軽の肩に抱きついてくる。十四歳の反抗期真っ只中なはずだが、彼にとって尾軽は、無条件に懐ける「デカい兄貴」なのだろう。


「分かった分かった、分かったから。……悪い、湊。先に入ってもいいか?」

「いいよ。どうぞごゆっくり」


あの筋肉ゴリラと狭い風呂に……よく一緒に入れるな

そんな顔をして湊は半笑いで手を振った。


ようやく騒がしさから解放された湊は、手持ち無沙汰になり、夜の祖父母の家を探索することにした。あのデカい図体の筋肉ゴリラと狭い浴槽に入るなんて拷問だろ。湊は先ほどの光景を思い出して鼻で笑った。ひんやりとした廊下、来客用の和室。そして、今は亡き祖父の部屋。


「じいちゃんが元気なうちに、もっと会っておくべきだったな……」


ギイ……

立て付けの悪い木のドアを押し開けると、そこには埃っぽい空気が充満していた。祖父の部屋兼、書斎。


「ケホッ、これ明日掃除するか。暇だし」


顔の前の埃を払いながら、壁のスイッチを入れる。白熱灯の黄色い光が、古びた本棚やデスクをぼんやりと照らし出した。


それにしても、さっきのばあちゃん様子がおかしかったな。兄貴も気づいてたみたいだし、後で聞いてみるか。


「……湊」

「うわぁぁぁ!!」


背後から突然かけられた声に、湊はヤモリのように壁に張り付いた。心臓が口から飛び出しそうだ。


「しぃー……」


そこに立っていたのは、人差し指を口に当てた祖母、潮だった。


彼女の手には、一冊の古い日記が開かれたまま握られている。潮は無言で、そのページを湊の目の前に突き出した。


そこに書かれていた内容を見た瞬間、湊の喉が、引き攣った音を立てた。


「え……」


蒸せ返るような湿気と石鹸の香りが、二畳半の狭い浴室に満ちていた。使い古されたタイルは所々が欠け、黄色い電球の光が、湿った空気を重く沈ませている。


「オカルト、筋肉すげー。」


そう言って尾軽の岩石のように発達した背中をペシペシと叩いた。


「功太君は成長期だから。心配しなくても、これからどんどん体が大きくなるよ」


二人は肩を並べるようにして、日中の汗と土埃を洗い流していた。唯一の鏡の前を功太に譲り、尾軽は浴室の真ん中に置いた小さな椅子に腰を下ろして、頭を洗い始めた。


「オカルト、さっきも言ったけど、明日は村のこと、もっと案内しちゃうきね!」

「ありがとう。最後にここに来たのは十年前だからね。今日久しぶりに帰ってきて、雰囲気が全然違ってて驚いたよ」

「十年前って、何歳やったが?」

「今俺は二十四だから、当時は今の功太君の少し上の十四歳だよ」

「え、そんなに歳離れちゅうが!? というか、十年前の村って、どんな感じだったが?」


尾軽はシャンプーの泡で目を閉じながら、記憶の底にある景色をたぐり寄せた。


「もっと静かだったよ。けど、それはあまり良い意味じゃなくて……。この村は、このまま寂れていくんだろうなってことを、大人も子供も全員がぼんやりと理解しているような……。そんな、諦めたみたいな空気が村全体を包んでいた気がする」


10年前、湊と森の中で見たおぞましい記憶が蘇る。

正直に言えば、今回到着する前はもっとゴーストタウンのようになっているだろうと予想していた。その言葉は、飲み込んだ。


「やろ? ここ最近、村が明るくなって、ほんまに良かったがやき」

「それは俺も思った。功太君はさ、将来の夢とか、この村をどうしたいとか、あるの?」


尾軽が頭を泡だらけにしながら問いかけると、それまで元気よく響いていた右側からの声が、ふっと途切れた。お湯を浴びる音だけが、虚しく浴室に響く。


「……あれ?」


シャンプーが目に沁みるのを承知で、尾軽は薄く瞼を開けた。鏡の前に座る功太は、シャワーを止めたまま、じっと自分の膝を見つめて俯いていた。


「……分からんがって。どうしたらいいか」


功太の口から漏れたのは、先ほどまでの快活さとは正反対の、湿り気を帯びた本音だった。


「村は、好きなが。だけど、両親は『ここには将来性が無いき、村から出ていく準備をしておけ』って言う。同級生の何人かも、中学に上がる前に引っ越していった。みんな、薄情や」


高校入学と同時に、野球を極めるために村の外、都会へと出て行った尾軽にとって、その言葉は鋭い針のように胸に突き刺さった。


「村に高校は無いき、あと3年半で俺もここを出ていかないかん。そうやって、この村は段々なくなっていくが? みんな『出ていくのが当たり前』『これがお前のためだ』って言う。けど、俺は納得してない。それは本当に、俺のためなが?」

「……功太君」

「せっかく、揺籠の人たちが来てくれたがやし。俺にも何かできることがあるんじゃないかって思うこともある。けど、そんなこと相談できる人はおらんし……。遊び相手だって、年々いなくなるし。」


功太の背中は、シャンプーが目に入らないよう丸まっているというよりは、大人たちの都合と抗えない運命を一身に背負っているかのように、ひどく小さく、脆く見えた。鏡の中の功太の瞳は、白熱灯の光を反射して、行き場のない孤独を映し出していた。


「絶対に夢って持たなきゃいかんが? 村から出んことは悪なが? ……変わることって、怖いんやけど」


誰にも言えずに、小さな胸の奥底に溜め込んできた少年の声が、決壊したダムのように溢れ出した。湿り気を帯びた浴室の空気が、その震える声に共鳴するように重く沈む。


「ねぇ、オカルトは先生ながやろ? どう思うが……?」


功太がゆっくりと振り向いた。湯気と涙で潤んだその瞳は、暗闇の中で縋るものを探す迷子のように、ひどく脆く、痛々しかった。


尾軽はシャンプーの泡を丁寧に洗い流すと、功太の目を真っ直ぐに見つめ返した。教師としての顔と、一人の大人としての顔。その両方で、彼は言葉を紡ぎ始める。


「俺は、人それぞれの考えがあっていいと思う。村に残りたいなら残ればいい。本人の意思以上に尊重されるべきものなんて、この世にはないんだから」

「……本当?」

「ああ。だけどね、功太君。この世に変わらないものなんて、一つもないんだ。体は成長して大きくなるし、いつか歳を重ねれば衰える。出会いがあれば別れがある。それは、君もこの村で見てきて、よく知ってるよね?」

「……うん」

「それに、もし君がこの資本主義の、お金が必要な世界で生きていこうとするなら、誰かの役に立たなきゃいけない。……厳しいことを言うようだけど、この村に残って、君がやりたいことを続けられる働き口は、今ここにあるかい?」

「それは……分からないけど。多分、そんなに無い」

「例えば、外の世界でたくさん勉強して、できることを増やしてからこの村に戻ってくる。そんな選択肢だってあるんだよ。揺籠の人たちが村を再興できたのも、介護や教育、農作業……どうすればこの場所の役に立てるかを必死に考え、知識を持っていたからだろう?」

「……オカルトも、俺が村から出た方がいいと思うの?」

「いや。それは君が決めることだ。どんな道を選んでも、その道を『正解』にするために頑張る。それが人生なんだから。ただ……」

「ただ?」

「俺の友達がよく言ってるんだけどね。『知識は、人生という真っ暗なトンネルを照らす灯りだ』って。今は昔と違って、たとえ村にいてもAIを先生にして、いくらでも学ぶことができる。教師の俺が言うのも変だけど、学歴の重要性はどんどん下がっている。たとえ学歴がなくても、本人の努力次第でいくらでも道は切り拓けるかもしれない」

「その友達って……良い人やね」

「そうだね。不器用で、とびきりいい奴だよ。少しひねくれてるけどさ」


尾軽の脳裏に、理屈っぽいが根は優しい友人の顔が浮かび、自然と口元が緩んだ。


「だけどね、その友人とは、同じ高校で出会ったんだ。もし俺が、あの時高校に行かずにずっとこの村にいたら、彼には一生会えなかった」

「……!!」


功太の目が大きく見開かれた。


「野球だってそうだろう? 中学生になったら、ちゃんとしたチームでプレーしたいと思わないか?」

「うん……やりたい」

「勉強は、その気になればどこでだってできる。だけど、『同じ目標を共にする仲間』。これだけは、人里離れた場所に一人でいたら、なかなか作ることができないんだ。だからこそ、仲間を作るために、一度知らない環境へ飛び込んでみるのもいいかもしれない。……村を元気にするのは、その後からでも十分間に合うと、俺は思うよ」


現代は選択肢が増えたからこそ、その重圧に押し潰されそうになることもある。それでも、目の前の少年に、一番可能性が広がる道を示してあげたかった。子供の持つ可能性は、いつだって、何処にいたって、無限大なのだから。


「そうやね、そうやな。ほんまにこの村が世界で一番最高やと思うなら、世界中見てから言った方が説得力あるわな……」


噛み締めるように呟いた功太の言葉は、狭い浴室の天井に反響して静かに消えていった。

次の瞬間、「ザバァ!」という激しい音と共に、功太は手桶で一気に体の泡を流すと、そのまま勢いよく湯船に飛び込んだ。


「どわぁ! 飛び込むなよ、危ないし行儀悪いぞ!」

「にっしっしー」


溢れ出したお湯が床を叩く。湯船から顔を出した功太は、悪戯が成功した子供のように白い歯を見せて笑った。


「ありがとう、オカルト。俺、なんかスッキリしたわ」

「そうか。……それは良かったよ」


尾軽も椅子から立ち上がり、湯船に浸かった。湯気の中で、功太は少し声を潜めて話を続けた。


「俺さ、揺籠の人らには感謝しちゅう。だけど……リーダーのネズって人とその取り巻きは、あんま好きやないがよ」

「えっ、そうなの? なんで?」


尾軽は聞き返しながら、先ほど会った根津の、あの近寄りがたい雰囲気を思い出した。常に周囲を値踏みし、誰一人として信用していないような、刺すような眼光。


「揺籠の人らはみんな優しいけど、ネズさんは怖い。村長といっつも一緒におってコソコソしゆうし、なんか隠しちゅう気がするが」

「何か……って、具体的に何のことかわかる?」

「それは俺もよう分からん。けど、早苗先生もタク兄も、たまに暗い顔しちゅうし……。なんか無理やりさせられゆうがかもしれん」


心の内を吐き出したことで、功太の口はさらに回るようになったのだろう。揺籠の末端メンバーには慕われていても、根津という男の不気味さは、少年の純粋な直感に鋭く突き刺さっていたのだ。


尾軽は湯船に肩まで浸かりながら、思考を巡らせた。


さっきのばあちゃんの話、四十年前に犬追い祭りが無くなったっていうのは、本当なのかな。人口減少が理由だと言っていたけど……四十年前といえば1988年、バブルの最盛期だ。


当時の日本は空前の好景気に沸き、地方もまだ活気に満ちていたはずだ。過疎化が深刻な問題になるのはもっと先の話。それなのに、なぜ祭りは途絶えたのか。


何か別の理由があるはずだ。表沙汰にできないような凄惨な事件や事故とか……。ばあちゃんは、それを隠しているのか? だとしたら、なぜ村長と根津さんは今になってそれを復活させたんだ?


尾軽の胸の中に、温かいお湯とは対照的な、冷ややかな不安が広がっていった。


同時刻、滄溟の揺籠の教会にて。

外観の美しさとは裏腹に、その内部には冷徹な空気が張り詰めていた。


代表の根津は、苛立った様子で唇を噛み締めながら、執務室を忙しなく歩き回っていた。その足音は、静まり返った館に不吉なリズムを刻んでいる。


「明日だ。明日も祭りがうまくいけば、莫大な大金が手に入るぞ。場合によっては、本部の大幹部、つまり伝道者の昇進もあり得る、絶対に失敗は許されないからな!」


根津は立ち止まり、居並ぶ信者たちを射抜くような目で見据えた。


「お前ら、準備と最終確認は入念にしておけよ。特に、撮影用ドローンの調整は抜かりなくな。」

「はっ!」


揺籠のメンバーたちの返声が、重なり合って冷たく響く。

その列の中には、先ほどまで尾軽たちと笑い合っていた拓也や早苗の姿もあった。しかし、彼らの顔からは生気が失われ、無表情、あるいは耐え難い苦しみを押し殺しているような、悲しげな影が落ちていた。


白亜の巨塔「滄溟の館」の大聖堂は、深夜になっても冷ややかな青緑色の光に満たされていた。儀式の準備を終えたメンバーたちが三々五々と散っていく中、拓也は意を決したように、祭壇の前で指示を出していた根津へと歩み寄った。


「根津さん、明日の犬追い祭りですが……やはり、ルールが危険ではありませんか? 撮影する必要も本当にあるのかどうか……」


その声は、広大なホールの高い天井に反響し、虚しく消えた。根津はゆっくりと振り返ると、まるで足元の不快な羽虫を見下ろすかのような、冷酷な視線を拓也に投げかけた。


「なんだ、小峠。お前、俺に口答えをするのか」

「それは……」

「それとも何か。明日の戦士としての御役目にビビっているのか?」


根津の薄い唇が歪み、嘲りの笑みが漏れる。その表情は、先ほどの「村の救済者」としての仮面をかなぐり捨てた、どす黒い本性を剥き出しにしていた。


「違います。今後この祭りを継続するためにも、あまりに過激過ぎると支援者がいなくなってしまうと言いたいんです」


拓也は必死に食い下がった。


「元々この村にあった祭りだ。村に活気が戻ったのは俺たちのおかげ。復活させた俺らがどうして文句を言われる筋合いがある?」


こっちは忙しいんだ。いい加減に失せろ。根津の濁った瞳がそう語っていた。


「拓也くん、やめましょう。」


拓也の肩を早苗が触れた。しかし、拓也は退かなかった。首を左右に振り、視線を早苗から根津に戻した。


「それは時代が違ったから容認されていたルールです。野犬に噛まれれば狂犬病の恐れもあります。こんな内容を放送していたら、いずれ警察にも目をつけられることになります!」

「……ふん。その警察たちの『上層部』が、この極上の娯楽を所望しているとしたらどうする?」

「!!」


拓也の顔から血の気が引いた。根津の口から漏れたのは、単なる村おこしを超えた、巨大な利権と闇の繋がりを示唆する言葉だった。


「お、俺達『滄溟の揺籠』は、人と自然と寄り添って、世界の調和と安全を育む組織でしょう!? こんなやり方、間違っています!」

「もういい、分かった分かった。」


根津の瞳から感情が消えた。対話の拒絶。それは「人間」として扱うことをやめた合図だった。


「明日はクマ追い祭りにするか?まあ追われるのはお前の方だがな。」

「そんな……」

「小峠、お前は何も分かっていない。この組織のことも、村も、祭りの真実もな」


大聖堂のただならぬ空気に、解散したはずのメンバーが数人、吸い寄せられるように集まってきた。その中から、早苗が震える足取りで進み出ると、拓也の肩にそっと手を置いた。


「拓也君、明日の準備があるでしょう。もう行きましょう。」

「…分かった。」

「おい、門倉。お前、小峠の肩を持つつもりか?」

「いいえ。あくまで明日の祭のために、戦士に万全の状態でいてもらおうと思っただけです。それでは、私達は失礼します。」


きっぱりと言い放った早苗の瞳は、真っ直ぐに根津を射抜いていた。その毅然とした態度に、根津はわなわなと頬を震わせる。


「そうだな。お前ら、明日は小峠の大仕事だ。特別な部屋で、じっくり『休ませて』やれ。何もする気力が起きないくらいな。」


周囲のメンバーたちが一瞬たじろぐ。「特別な部屋」が何を意味するか、誰もが理解していた。


「何をもたもたしている! 『守り人』の命令だ、早くしろ!」


抗う気力さえ削がれたのか、拓也はがっくりと肩を落とし、連行されていった。その痛々しい後ろ姿を、早苗は悲痛な面持ちで見送る。


「拓也君。」


気がつけば、広い大聖堂には根津と早苗の二人だけが取り残されていた。根津の視線は、白装束の上からでもわかる早苗の体の曲線を、ねっとりと舐め回すように這った。


「門倉、お前は小峠に入れ込んでいるようだな。……教育が必要だ。俺の部屋に来い」


根津の手が早苗の細い手首を掴む。


「丁重にお断りします!」


早苗はその手を激しく振り払った。拒絶の意志を込めたその一撃に、根津の顔が怒りで赤く染まる。


「貴様……自分が何をしているのか分かっているのか!」

「いくら『守り人』であっても、そのような権利はございません!」

「この村で、俺に逆らったらどうなるか分かってるよな。」

「根津さんこそ、私の家族がこの組織のどのポジションにいるか、ご存知ですよね。」


一歩も引かない早苗の視線。根津は目を逸らした。


「ちっ。」

「それでは、失礼します。」


早苗は根津の怒号を背に受けながら、一目散に女子寮へと駆け出した。静まり返った大聖堂に、彼女の乾いた足音だけが、悲鳴のように長く響き渡っていた。

根津は自室のドアを叩きつけるように閉めると、怒りに任せてベッドの枕を掴み、真っ白な壁に向かって力任せに投げつけた。

ボフッ。

静まり返った部屋に、情けないほど気の抜けた音が響く。収まりのつかない衝動をぶつけるように、彼は床に落ちた枕を拾い上げては殴り、壁に叩きつけ、また殴った。


「あいつら、どいつもこいつも舐めやがって……! 俺は『滄溟の揺籠』の守り人だぞ! 幹部候補だ! ここまで這い上がるのに、どれだけの泥をすすってきたと思っている!」


ボフッ、ボフッ、ボフッ。

枕を殴りつけるたびに、繊維の間から細かい埃が舞い上がり、青白い月光に照らされてキラキラと虚しく宙を舞う。ぜぇ、ぜぇ、と荒い呼吸音が、無機質な部屋に獣のように響き渡った。

その時、控えめだが硬質なノックの音が聞こえた。


「……根津様。入ります。」


入ってきたのは、三十代ほどの端正な顔立ちをした女性、汐見だった。彼女は、乱れた呼吸で立ち尽くす根津の姿を、まるで道端に転がる汚物を見るような冷ややかな目で見据えた。


「門倉の女狐め……真面目に仕事をしているかと思えば。俺の女にならないなら、もう不要だ。叩き出してやる……! 小峠も論外だ! 第一、あのイケメンなのが気に食わん! 門倉といい感じなのも、羨まし…間違えた反吐が出る!どいつもこいつも俺がチビで出っ歯で歯並びが悪いからってバカにしやがって!」


根津の毒づく声が部屋に充満する。


「……」

「……はっ! 汐見、いたなら早く言え!」


背後の気配に気づいた根津が肩を震わせて振り向く。


「失礼いたしました。入ります、と申し上げたのですが」


女性は感情の起伏を一切見せず、淡々と応じた。その瞳の奥には、上司に対する敬意など微塵も感じられない。


「……何の用だ」


根津は乱れた白装束を整え、無理やり威厳を取り繕った。


「『聞き耳』の情報によりますと、今日村へ帰省してきた兄弟……尾軽と名乗る者たちが、明日も村に滞在するとのことです」

「ああ、山里の婆さんのところに来た若造共か。……それがどうした」

「片方、あるいは両方を、明日の『犬追い祭り』の企画に利用してはいかがかと。部外者の、しかも若く血気盛んな兄弟が巻き込まれるとなれば、配信の視聴数と寄付金は、さらに跳ね上がるでしょう」


根津の動きが止まった。

その頭の中に、新たな悪意の回路が繋がっていく。


「……なるほど。それはいい考えだ」


根津の薄い唇が、三日月のように不気味な形に吊り上がった。


「小峠だけでは、いささか盛り上がりに欠けると思っていたところだ。……よそ者の若者が、村の『伝統』の犠牲になる。これほど素晴らしいエンターテインメントはないな」

「村に貢献する、の間違いでは?村人の前では先ほどのような言い方は控えてくださいね。」

「おお、そうだな。すまんすまん。」


埃の舞う部屋で、根津は自らの野望を研ぎ澄ませるように、暗い笑みを深く刻んだ。


8月11日、朝。


昨夜の重苦しい空気とは対照的に、山里家の食卓には、朝日に照らされた瑞々しい野菜の香りが漂っていた。採れたての夏野菜をふんだんに使った味噌汁からは白い湯気が立ち上り、香ばしい野菜炒めの匂いが食欲をそそる。功太は相変わらず元気よく箸を動かし、尾軽もまた、都会では味わえない贅沢な朝食を口に運んでいた。


「ばあちゃん、って訳で俺は功太君に村を案内してもらうよ。ついでに祭りの準備の様子も見てこようかなと思って」


尾軽がそう切り出すと、潮はゆっくりと頷いた。


「そうかそうか。山に行く時は気ぃつけよ。今の時期は蚊だけやなくてハチもおるきね」

「あと野犬もね!」


功太が笑顔で言う。全然笑えないんだけど。


「湊も一緒に行こうよ。夜まで特に予定ないんだろ?」


尾軽の誘いに、湊は一瞬だけ言葉を詰まらせた。その視線が、昨夜日記を見せてきた祖母の顔をかすめる。湊はすぐに、いつもの穏やかな笑顔を取り繕った。


「俺は……ばあちゃんと一緒に家の片付けでもするかな。さすがにこの暑さの中、力仕事をばあちゃん一人に任せられないし」

「優しいな、湊は。……じゃあ俺も、少し手伝ってから」

「いい、いいよ! 功太と楽しんで来なよ。俺一人で何とかなる量だし、慣れない兄貴がやるより効率いいからさ」

「慣れないって、湊もこの家来たの久々じゃん。」


湊は食い気味に、その提案を拒絶した。普段の彼からは考えられないほど強い語気に、尾軽は少しだけ面食らった。


「それに、みんなで協力して早く終わらせて、それから三人で祭りの準備を見に行った方が……」

「役割分担だよ! それに功太も、少しでも長く透兄ちゃんと遊びたいよな?」


湊から目配せをされた功太は、事情は察していないものの、嬉しそうに何度も頷いた。


「そうやで! オカルトと行きたいところ、いっぱいあるがやき!」

「……じゃあ、お言葉に甘えて、涼しい時間のうちに見に行こうか」


こうして尾軽と功太は、食器の片付けや歯磨き、そして水筒等の準備が終わった後、強い陽射しが降り注ぎ始めた外へと繰り出していった。玄関の引き戸が閉まる音が響くと、湊は小さく、しかし深く息を吐いた。


「ふぅー……。ばあちゃん、それじゃ俺、じいちゃんの部屋を掃除するね」

「湊、ありがとう。働き者やな。……悪いけど、屋根裏部屋と押し入れの方も頼むわ」


湊はガタつきのある襖を開け、祖父の部屋へと足を踏み入れた。


そこは、時間が止まったような空間だった。埃が舞う光景を白熱灯が寂しく照らしている。使い込まれた机の上には、「吉良町の歴史」や「犬追い祭り参加者リスト」と表紙に書かれた、手書きの古いノートや紙束が山積みになっていた。


湊はその束を一つ一つ、慎重に手に取っていく。そして、その山の一番上に置いてあった比較的新しいパンフレットが目に留まった。


『滄溟の揺籠について——海と命の循環』


その美しい装丁の冊子は、古い紙束の中でそこだけが浮き上がっているように見えた。湊はそれを握りしめ、開いた窓の外へと視線を向けた。


まだ実家には帰れない。……帰ってはいけないんだ、真実を知るまでは。いや、帰らせてくれないと言った方が良いか。


このままだと、取り返しのつかないことが起きてしまう。昨夜見た日記の内容が、湊の脳裏を激しく揺さぶる。自分たちが足を踏み入れたこの村の、この祭りの「裏側」に隠された正体。


兄貴……十分、引き付けておいてくれよ。


声に出さず、心の中で呟いた。


湊は先ほど見送った、何も知らずに歩いていく兄の逞しい背中を思い出した。自分の役割はここにある。この埃まみれの部屋の中に隠された、血塗られた過去を暴くことだ。


湊は古いノートを開き、そこに記された「四十年前のあの日」の記録を、食い入るように読み始めた。


—-


「あれ……、こんなところに、こんな大きなビニールハウス、あったかな?」


尾軽は足を止め、眩しそうに目を細めて首をかしげた。十年前、中学生の自分がこの道を歩いた時の記憶にあるのは、錆びついた耕運機が放置され、背丈の低い雑草がアスファルトの隙間から勝手気ままに伸びているような、どこか「終わりの予感」が漂う静かな景色だった。


しかし今、目の前に広がっているのは、陽光を跳ね返して銀色に輝く、最新鋭の素材で覆われた巨大な連棟ハウスだ。


「揺籠の人らがね、作ったがよ! 人がおらん時でも、センサーが太陽光とか水とかを自動的に調整してくれるらしいで! 育てた野菜は村の外にも出荷しよって、今じゃ村の大事な収入源になっちゅうがやき!」


功太は自慢げに胸を張り、目を輝かせて教えてくれた。その言葉を聞きながら、尾軽は大学の友人であり、合理的でデータ重視な灯二の顔を思い浮かべていた。彼なら間違いなく「スマート農業の理想的な導入例だ」と興味を示すだろう。


昨日、風呂の中で功太に「村に働き口はあるのか」と説いた自分の言葉が、少しだけ浮いているような気がした。これほどハイテクな設備があるのなら、この村には意外にも、若者が携わるべき「現代的な仕事」が芽吹いているのかもしれない。


ビニールハウスのすぐ隣には、かつての古びた公民館を大胆にリフォームした建物が建っていた。車椅子でも入れる緩やかなスロープが設置され、開けた入り口の先にはテラス席まで備わっている。


「ここはねー、公民館を改良して介護施設になったがよ!村人も使える食堂がついちゅうき、しょっちゅう食べに行きゆう。揺籠の人らと村人が協力して、毎日ご飯作りゆうが。ばあちゃんもたまに手伝いに行きゆうで」


獲れたての野菜をすぐ隣の食堂で調理する。輸送コストもかからず、村人の交流の場にもなる。知れば知るほど、滄溟の揺籠がこの村で行っていることは、無駄がなく、驚くほど理に適った「持続可能なビジネス」だった。


だが、その完成された美しさを眺める尾軽の背中には、拭いきれない微かな寒気が走っていた。

道が綺麗になり、腹が満たされ、仕事が生まれる。それは喜ばしいことのはずだ。しかし、逆に言えば、今のこの村は揺籠という組織が供給するシステムがなければ、一日たりとも立ち行かない状態にある。


村の隅々にまで、血管のように張り巡らされた揺籠の資本と技術。ずっしりと、そして深く土を掴むように食い込んだその根は、もはや村の本体と分かちがたく結びついている。もしその根を引き抜こうとすれば、この村そのものが崩壊してしまうのではないか。尾軽は、この「再生」の裏側に潜む、逃れられない依存の重みを感じずにはいられなかった。


「功太、おはようさん。今日も元気やねぇ」

「おばちゃん、おはよー! 今日も暑いけど、熱中症に気をつけんといかんよ!」


道行く村人と屈託のない笑顔で言葉を交わす功太の姿は、まるで小さなパトロール隊員のようで、後ろを歩く尾軽の心を自然と和ませた。


そのまま二人は、先ほど見た巨大なビニールハウスに隣接する、元公民館を改装した介護施設へと足を踏み入れた。そこは最新のスロープや手すりが完備され、外壁は「滄溟の揺籠」を象徴する清潔な白に塗り替えられている。


「早苗せんせ、おはよー!」

「あら、功太くん。おはよう。……透さんも、おはようございます」


布団を干していた早苗が振り返り、眩しいほどの笑顔を見せた。他の「送り人」や「実り人」の若者たちも、キビキビとした動作で掃除や洗濯に励んでいる。その光景はあまりに献身的で、宗教団体への偏見を忘れさせるほどに健康的だった。


「早苗せんせ、タク兄は今日どこおるが? 一緒に遊びたいがやけど」


功太が無邪気に尋ねた、その瞬間。

早苗の頬が微かに強張り、視線が泳いだ。彼女は干しかけていたシーツをぎゅっと握りしめると、すぐに気まずそうに目を逸らした。


「さあ……。今日はもう祭りの当日だから。どこかでお手伝いをしてるのかもね」


その声は上ずり、笑顔はどこか仮面のようにぎこちなかった。


「ふーん、分かった。ありがとう!」


功太は納得した様子で答えたが、その顔には「ちぇ、つまんねーの」と分かりやすく書いてある。尾軽は早苗の僅かな動揺を見逃さなかった。昨夜、拓也が「特別な部屋」に連れて行かれたことなど、功太が知る由もない。


介護施設を出て少し歩くと、広場には祭りの出店が姿を現していた。


使い込まれた鉄板の匂いや、甘いシロップの香りが鼻をくすぐる。イカ焼き、たこ焼き、焼きそば。色とりどりの景品が並ぶ射的に、水槽の中で光る金魚。数は多くないが、十年前には消えかけていた祭りの活気が、そこには確かにあった。


「わぁ! おじさん、お店は何時からやるが?」

「おお坊主。夕方から始めるき、その時また来いや」

「だってさ、オカルト! その間、タク兄探そう!」


功太はパッと顔を輝かせ、尾軽を振り返った。


「祭りに参加するのは賛成だけど、拓也さんは忙しいんじゃないかな。邪魔しちゃ悪いよ」

「大丈夫! 多分、犬追い祭りの準備で山におるがやき! 山に行こう、山に!」

「ちょっと、話を聞いてよ……」


尾軽は苦笑いを浮かべながらも、自分を引っ張る少年の、小さくて力強い手に抗うことはしなかった。


村の整備された「白い道」を抜け、二人は深い緑が広がる森の入り口へと向かう。結果的に祭りの準備を手伝うことになれば、拓也にも会えるだろう。


限界集落と森の境目は、あってないようなものだった。


人の手が入らなくなった境界線では、生い茂った広葉樹の枝葉が我が物顔で道を侵食し、いくつもの獣道が複雑に絡み合っている。だが、一歩その緑の天蓋の下に踏み込めば、刺すような真夏の陽光は遮られ、湿り気を帯びたひんやりとした空気が肌を撫でた。


「……あれか」


尾軽が視線を上げた先に、周囲の深い緑とはあまりに不釣り合いな、冷たい無機質さを放つ灰色のフェンスが姿を現した。それは山の斜面に沿うように、どこまでも長く、執拗に打ち込まれている。


「ほら、ここが犬追い祭りに使われる山やで。このフェンスで囲まれた中に、野犬が何匹かおるんやと思うがよ」

「アォーン……!」


功太の言葉を裏付けるように、フェンスの奥、深い藪の向こうから獣の遠吠えが響き渡った。空気を震わせるその鋭い咆哮は、飼い犬のそれとは明らかに違う、生存本能を剥き出しにした野生の響きだ。


「このフェンスの周りを歩きよったら、多分どっかでタク兄と会えるやろ」


「どっかでって、ずいぶん適当だなぁ。この山、一周するだけでも相当な距離があるだろ?」


尾軽が苦笑すると、功太は得意げに指を差した。


「大丈夫! フェンスの途中に、揺籠の人らや村の人らが休憩する場所があるき、まずはそこへ行こうや」

「なるほど。あてがあったんだね。助かるよ」


二人は立ち止まり、念のために虫除けスプレーを全身に掛け直した。シュッ、シュッ、という無機質な霧の音が静かな森に響き、独特の薬品臭が湿った土の匂いと混じり合う。活発な少年とはいえ、薮蚊やアブに悩まされるのは御免だった。


再び歩き始め、フェンスに沿って進むうちに、尾軽は奇妙な感覚に囚われた。


整然と並ぶ金属の網目、その向こう側に広がる手付かずの原生林。美しくて、けれど、どこか生理的な不気味さを孕んだこの景色。

……そうだ。十年前、湊とこの村で見た景色。それは、この山だった気がする

じわり、と項に汗が滲んだ。それは決して夏の暑さのせいだけではなく、記憶の底から這い上がってきた正体不明の違和感によるものだった。


「あれ? ……誰もおらんやんか」


辿り着いたのは、フェンスの一部が大きな扉になっている場所だった。


頑丈な鉄の扉には重々しい南京錠がかけられ、その傍らには、申し訳程度に並べられた数脚のパイプ椅子と、錆びの浮いた折り畳みテーブルが置かれている。


作業員が小休止を取るための場所なのだろうが、人の気配はまったくない。放置された人工物たちは、蝉時雨の中に埋もれ、不自然なほど静かに、そこにあるのが当たり前だという顔をして佇んでいた。

夏の盛りとは思えないほどに深い、濃緑の影が二人を包み込んでいた。


「祭りの準備で、一旦山から降りてるのかもね」

「いや、山の奥におるんやない? そうに決まっちゅう」


功太は無機質な灰色のフェンスを右手でさらさらとなぞりながら、鼻歌混じりに足を進める。家を出てからかれこれ三十分は経つが、その足取りに衰えは見えない。子供のエネルギーには、時折恐ろしさすら感じる。


「待って、功太君。あんまり森の奥に入るのは危険だよ」

「奥やなくて、村の反対側に回りゆうだけやき、大丈夫!」


どうやらこの山は、アポロチョコのような円錐形の山容に沿って、ドーナツ状にフェンスが張り巡らされているらしい。これだけの距離を、これほど頑丈な金属網で囲うには、相当な資金が必要なはずだ。この小さな限界集落の、一体どこからそれほどの金が湧いて出てきたのだろうか。


「ビビってないで早よ行こうや! それに、もし野犬がおっても、あいつらはフェンスの中やき安全やろ?」


功太はワハハと快活に笑い、傾斜のきつくなった山道を小走りに駆け出した。

見失ったらまずいな……!


「分かった、ついていくから! そんなに走っちゃだめだ、足場が不安定で転んだら危ないよ!」


つい教師らしい小言が出てしまうのは、日頃から学校現場で安全管理や保護者への対応に神経を尖らせている職業病のようなものだろう。


「オカルト、余裕でついて来るやんか!」

「そりゃね、これでも昔はよく山道で遊んだものさ。足腰には自信があるんだ」

「じゃあ、人のこと注意できる立場やないやん!」


小生意気な口を叩きながらも、功太はグングンと先へ進んでいく。気が済むまで歩かせて、昼食の時間までには連れて帰ろう。それにしても、森の深部へ進むごとに木々の隙間が埋まり、空気がしっとりと冷えていく。避暑には最適なはずなのに、肌にまとわりつく湿り気が、どうにも不気味に思えてならなかった。


—-


一方で、湊は薄暗い祖父の部屋で、わなわなと肩を震わせていた。

手元の、カビ臭い匂いを放つ色褪せた資料。そこには、目を疑うような記述が並んでいた。


「四十年前……村の祭りで、死亡事故……?」

それは、当時の新聞記者が残したと思われる乱雑なメモ帳だった。そしてその下には、吉良町の元村長が綴った手記も重なっている。

【記者メモより】

1992年8月〇日。

野犬を追いかけて捕まえる祭り。地域活性化と治安維持の一石二鳥。そう思っていたが実際足を運んでみると違和感がある。


狭いエリアに放たれた大量の野犬。参加者は2人。素人が対処するにはあまりに危険だ。


周囲の村人らは、ただ傍観し、ニヤニヤと楽しんでいる。襲われる若者と老人を見て、恍惚とした表情を浮かべている。


これは、現代の剣闘士のようなものか。村で嫌われている人間を処刑する口実のようなものじゃないか。


私1人ではこの状況をなんとかすることはできない。参加者が食い殺されるさまをただ黙って見ていることしかできなかった。


村に潜入して10ヶ月。これまでの証拠をまとめた。監視の目が厳しくなっているような気がする。なんとか村を出てこの真実を伝えねば。



そこで手記は終わっている。こんな話、ニュースや家族から聞いたことがないぞ。

湊の指先が、古い紙の感触に強張る。さらに、元村長の手記へと目を移した。彼の苗字は、潮と同じ山里だ。


【村長 山里堅二の手記・1995年】

村の中に紛れ込んだネズミを狩り続けていたが、それももはや意味はないか。


バブルの狂騒が終わりを告げ、人が去り始めた。村は急速に枯れていく。


この村が出来た頃は不作や洪水で何度も全滅の危機があったらしい。江戸時代よりも前の話だ。村を存続させるためには、足を引っ張るものを間引かなければならない。この村では、子殺しや姥捨山ではなく野犬を使っている。それだけの話だ。


湊は、震える手でページを捲った。


自らが祭りの戦士に選ばれないように、村人たちは自分の手柄を優先して相互監視させる仕組みが完成した。だが、そんなことをせずとも人が去り始めた。都会の方が刺激も、人も、金も多い。


野犬の群れはもはや手に負えず、あの祭りを再開する勇気も、もはや誰にもない。


皮肉なことに、野犬を使って村を支配していたはずなのに、野犬に支配されてワシらは怯えて暮らすようになった。


このままでは村が廃れる。伝統という名の口実で、何かを呼び戻さねば……。


湊の背筋に、冷たい氷の柱が突き刺さる。


かつてこの村で行われていた「犬追い祭り」は、単なる伝統行事などではなかった。それは、一人の若者を野犬の餌食にし、それを村中が黙殺することで成立していた、血塗られた「口封じの儀式」だったのではないか。


湊は、めくった頁ページを凝視したまま動けずにいた。


室内の空気は熱を孕んで重く、古い紙が放つ特有の酸っぱい臭いが鼻をつく。


……おかしい。廃れ始めたのが四十年前なら、普通ならとっくにこの村は消滅しているはずだ。なのに、なぜ今、こんな不気味なほどの活気が戻っている?


答えは、目の前の資料が残酷なまでに示していた。


五年前。この村に「彼ら」がやってきた時期と、村が息を吹き返した時期が、ぴたりと符合する。


「……やっぱり、五年前からこの村に来た、あいつらが」


湊は震える指で、二〇〇〇年頃のものと思われる先代村長の手記を掘り起こした。表紙には、見覚えのある苗字が記されていた。


山里やまざと 大地だいち

「山里……。ばあちゃんと同じ苗字……。親戚か? いや……」


湊は唾を飲み込み、狂ったように文字を追い始めた。そこには、良心の呵責に苛まれながらも、引き返せなくなった男の断末魔のような告白が綴られていた。


「もう手段を選んではいられない。村には一銭の金もない。みんなを生かすためには、これしか道はなかったのだ。野犬と、この忌まわしい山を活かした『仕事』……。この村の呪われた風習があるからこそ成立する、闇の仕事がある。父の仕事を引き継ぐことには抵抗があった。こんなことをして家族や村を養っていただなんて。だが、全員が飢えるよりましだ。


すまん、我が妻よ。そして、娘の潮よ。村長の務めとして、こんな汚れたことに手を染めていたなど、生きている間は口が裂けても言えん。文字として残すことしかできぬワシの卑怯さを許しておくれ」


「潮の父……。ってことは、俺や兄貴のひいじいちゃんか!?」


湊の喉が、ヒュッと鳴った。


ひいひいじいちゃんとひいじいちゃんが村長だったなんて、一度も聞いたことがない。ただの農家だとばかり思っていた。というか、だったらなぜうちの家系ではなく今は西村という人が村長をしているんだ?


ひいじいちゃんが村長をしてたから、村の禁忌にまつわる極秘資料が、この家の、この部屋に隠されていたのか。


ひいじいちゃんは、一体何をした? 何を見たんだ? 『野犬と山を活かした仕事』って……まさか、あの犬追い祭りは、ただの神事なんかじゃない……。


湊の呼吸は、いつの間にか浅く、速くなっていた。


パズルのピースが、血に濡れた絵を形作っていく。四十年前の事故、隠蔽、そして五年前の「揺籠」の参入。すべては、この村を延命させるための「生贄」のシステムだったのではないか。


ばあちゃんは、どうして今日、部屋の掃除をしろと言ったんだ?


ふと、今朝の祖母・潮の穏やかな顔が脳裏をよぎる。


偶然じゃない。ばあちゃんは、俺にこれを見せるつもりだったのか? 兄貴には言えず、自分でも抱えきれなくなった「家系の罪」を、俺に託したというのか。


ボタッ、と大きな汗の雫が、湊の頬を伝って古い畳に落ち、黒い染みを作った。


外からは、遠くの森で鳴く蝉の声が、まるで警告のサイレンのように激しく響き続けている。


—-


「功太君、ちょっと待って……。さすがに速すぎるよ」


尾軽は肩で息をしながら、二名分の水筒が揺れる重いリュックを背負い直した。


「へへー! 野球じゃ負けても、この森のかけっこなら負けんきね!」


前方を走る功太は、振り返りもせずに笑い声を上げた。迷いのない足取り。この森の起伏も、隠れた根っこも、彼は身体で覚えているのだろう。尾軽が追いつこうとペースを上げるほど、功太は面白がってさらに加速していく。


尾軽が懸念していたのは、単なる迷子ではなかった。薄れゆく十年前の記憶の断片が、目の前の景色と重なり始めていた。この森の、この先に、あるはずなのだ。見てはいけない「アレ」が。


「ふぃー……。ちょっと休憩。オカルト、水筒ちょうだい」


ようやく立ち止まった功太が、手近な木に背を預けて手を差し出した。


「二人分の水筒を持ってる俺に、少しはペースを合わせてくれよ……」


尾軽は苦笑いを浮かべ、リュックから冷えた水筒を取り出して渡した。功太はグビグビと喉を鳴らし、冷たい麦茶を流し込む。滴る汗と、木漏れ日に光る水筒。それだけを見れば、まるで清涼飲料水のCMの一場面のような、爽やかな夏の昼下がりだった。


だが、功太が口を開いた瞬間に、その空気は一変した。


「……こんな奥まで来たの、初めてや」

「迷子になったら大変だ。そろそろ戻ろう。幸い、このフェンスを伝って行けば村に帰れるはずだから」

「タク兄、どこにおるがやろう……。ん? あれ何?」


功太が目を凝らした先。フェンスの内側、わずか五メートルほど奥にそれは鎮座していた。野犬が解き放たれているはずの、禁じられた領域。


防空壕か、あるいは古びた祠か。いや、違う。それは天然の洞窟を人の手で加工し、入り口を頑丈な鉄格子で塞いだ「檻」のような場所だった。


その瞬間、尾軽の全身に激しい鳥肌が立った。


記憶は幻ではなかった。十年前、まだこの場所にフェンスがなかった頃。探検ごっこに興じていた自分たちは、興味本位でそこを覗き込んでしまったのだ。


「あれは……ダメだ。帰ろう、功太君」

「何あれ。オカルト、知っちゅうが? 気になるき、ちょっと見てみようや」

「ダメだ!!」


尾軽の放った唐突な怒声に、功太は目を丸くして硬直した。どんなにからかっても、生意気な口を叩いても、一度として声を荒らげなかった尾軽の豹変。功太は不満げに、ジトッとした視線を尾軽に向けた。


「いいやんか。近くで見て、すぐ戻ってくるき!」


功太は水筒を地面に置くと、高さ二メートルはあるフェンスに足をかけ、猿のような身軽さで内側へと飛び越えてしまった。


「野犬が来たらどうするんだ! 戻りなさい!」

「うっさいわ! 分かっちゅうき!」


野犬の危険など、単なる方便に過ぎなかった。それよりも、アレを子供の目に見せてはいけない。尾軽はなりふり構わず、自分もフェンスにしがみつき、必死に内側へと這い上がった。


「待て、功太!」


だが、遅かった。

鉄格子のすぐ目の前で、功太は足を震わせ、地面にへたり込んでいた。


「お、オカルト……」


腰が抜けたまま、功太は縋り付くように尾軽の足にしがみついた。尾軽は震える少年の後頭部にそっと手を添え、その視界を遮るように強く胸の中へ抱きしめた。


「……やはり、あの記憶は幻じゃなかったんだな」


尾軽もまた、息を呑んでその光景を見つめた。


そこには、犬と思われる夥しい数の頭蓋骨と、バラバラになった骨が山となって積み上げられていた。


遠目には、まるで美しい純白の大理石を敷き詰めたかのように見えた洞窟の床は、そのすべてが死の残骸で埋め尽くされていたのだ。


「これは、ダメだ。帰ろう。な?」


尾軽は、肺を圧迫するような恐怖を無理やり喉の奥へ押し込み、平静を装って腕の中の功太に語りかけた。先ほどまでの生意気な元気さは見る影もなく、功太はただ、力なく小さく頷くだけだった。尾軽の全身に、少年の絶え間ない震えがダイレクトに伝わってくる。


功太を「お姫様抱っこ」のように抱え上げ、フェンスの方へと足を向ける。だが、その脳裏では、目を逸らしたくても逸らせない「最悪の計算」が始まっていた。


……おかしい。犬の頭蓋骨の数に比べて、明らかに四肢の骨が多すぎる。それに、あの骨はなんだ。あんな犬がいたら、体長は優に180cm……人間と同じサイズはあるぞ


十年前、湊と一緒に見てしまった景色。あまりの衝撃に、二人でただひたすらに逃げ帰ったあの日。それ以来、一度も話題に上らなかったのは、それが「見間違いであってほしい」という共通の防衛本能だったからだ。だが、今の尾軽には確信があった。


犬以外の骨が、ここにはある。


この村の再生は、積み上げられた死骸の上に成り立っている。


一刻も早く功太を連れて村に戻り、湊と合流しなければならない。警察を呼ぶ? だが、誰が味方だ? 祖母は? 祭りは? 頭をフル回転させながら、尾軽は立ちはだかるフェンスを睨みつけた。


「……誰か、いるのか?」


背後から届いたのは、掠れた、だが聞き覚えのある男性の声だった。昨日の快活な響きは消え失せ、死線を彷徨っているかのような、ひどく衰弱した響き。


「タク兄……?」


腕の中の功太が、震える声で呟いた。尾軽が振り向いた先、別の鉄格子の中に、彼はいた。


「功太、透君……なんで、お前らがここにいる。早く、逃げろ……!」

「オカルト、下ろして!」


功太は尾軽の太い腕から逃れるように飛び降りると、半ば四つん這いの状態で、拓也が閉じ込められている鉄格子に縋り付いた。拓也の足元にも、無数の骨が敷き詰められている。それは寝床代わりにするには、あまりに冒涜的な冷たさだった。


「タク兄、どうしてこんなところに!? なんで閉じ込められてるの? 早く助けなきゃ……!」

「俺はいい……。どうせ夕方には、鍵が開けられる。それより、ここは野犬の通り道だ。お前らは、早くフェンスの外へ……」

「拓也さん、あなたを置いていくなんてできません」


尾軽は拓也の目を見据え、力強く言った。だが、拓也は力なく首を振る。


「バカ……見つかったらお前らも……この骨と同じになるぞ」


比喩ではない。淡々と、事実を告げるようなその口ぶり。昨日の飄々とした「タク兄」とは別人のような冷徹な言葉が、現場の惨状を何よりも雄弁に物語っていた。


「……大きな声を出すな。見張りに見つかる。いいか、お前らはここで何も見なかった。俺は、野犬と戦う。それだけだ」


拓也は激しく咳き込んだ。喉は枯れ果て、唇は乾ききっている。真夏の山中、この不衛生な環境で、彼は一体どれほどの時間を耐えてきたのか。


「誰が……誰があなたをこんな目に」


尾軽は問いながら、答えを確信していた。そして、その確信は最悪の形で現実となる。


「おや、まだまだ元気な声が聞こえますねぇ……」


粘りつくような、老人の声が森の奥から響いた。


「やばい、早く隠れろ!」


拓也の短い警告。幸い、周囲には洞窟の岩陰や、生い茂った草木がいくらでもある。


尾軽は功太を抱き寄せ、近くの巨木の幹へと身を隠した。


くそっ……こんな時、筋トレで体をデカくしたことが恨めしい!


自身の逞しい体が、今は隠れるのに不向きな大きな標的に思えてならない。尾軽は功太の口を優しく手で覆い、自分の心臓の音さえ殺そうと息を止めた。


数十秒後。


ガチャリ、という硬質な金属音が、静まり返った山に響き渡る。

視界の端に現れたのは、村長の西村、そして「守り人」の根津。


「なんで、西村村長と根津さんがここに……!」


尾軽はその言葉を必死に飲み込み、心臓の鼓動を抑えつけるように功太を抱き寄せた。茂みの隙間から見える光景は、あまりに醜悪だった。


「小峠ぇ……お前、この暑さでいよいよ頭がやられたか? 何をさっきから一人で騒いでやがる。それとも、誰か隠れてるのか?」


根津が粘りつくような半笑いを浮かべ、獲物を探すように辺りを見渡す。そして、威嚇するようにガシャンと鉄格子を蹴りつけた。その乾いた音が、静かな山中に重々しく響き渡る。


「根津さん、村長……こんな祭りは、もうやめましょう。子どもたちにこんな忌まわしいものを引き継がせてはいけません……!」


檻の中から拓也が声を振り絞る。だが、それに答えたのは村長の西村だった。


「小峠君、それは違うわ。あんたも分かっとるやろう」


西村は事もなげに、諭すような口調で話し始めた。


「根津さんらが村を盛り立てて、外から金を稼いでくれるき、できることが増えるがよ。老人の補助も、学校の維持も……この祭りを取り仕切ってくれる人がおるき、この村は存続できゆう。祭りをやめたら村は滅びる。それは、四十年前の歴史が証明しちゅうがやき」

「違うだろ! バブルが弾けて、みんな正気に戻っただけだ! もっと健全な祭りで人を集めればいい! なのに、こんな……こんな狂ったこと!」

「はっ、動物虐待は現在のコンプライアンスに引っかかるとでも言いたいのか?」


根津が冷酷な目で、上から拓也を見下ろした。


「ブラック企業でこき使われて、死にかけていたお前を拾ってやったのは誰だったかなぁ?」


根津は意地悪そうに、くっくっと腹の底から低く笑う。


「そもそもお前、二年前から『犬追い祭り』の戦士として参加してただろ。今さら何を、聖人君子ぶってやがる」


その言葉に、尾軽は息を呑んだ。拓也は被害者だと思っていた。だが、彼はこの地獄を内側から知る当事者だったのだ。拓也は悔しさに顔を歪め、言葉を失って根津を睨みつけた。


「前から目障りだったんだよ、お前。しぶとく二年も生き残りやがって。今年は特別に、海外から最高に獰猛な奴らを仕入れてきたからな。流石にお前の命運も、今日で尽きるだろうよ」


尾軽は、今にも叫び出しそうになった功太の口を力一杯塞いだ。野犬を集めるどころか、わざわざ殺し合いのために闘犬を調達している。


「人間と獣の殺し合いを配信して金を稼ぐなんて……いい趣味してますね、根津さん」


拓也の皮肉に、根津は平然と応じた。


「趣味じゃない。村と『揺籠』を発展させるための、真っ当なビジネスだ。意外と、暇を持て余した富裕層に人気があるんだよ。時代はいつだって、隠された残虐なものを求めている」

「根津さん、ところで例のビジネスの話は……」


西村が揉み手をして、根津に擦り寄った。根津は心底不快そうに顔を背けながら、吐き捨てるように言った。


「あーあー、分かってますよ。心配しなくても、この山の『需要』は高い。小峠の下に敷いてあるクッションは、じきに増えますよ。死体を処分してほしいという依頼は、この世に腐るほど溢れかえっている。お金も稼げて一石二鳥、まさに循環型社会だな」

「お願いしますね、ぐへへ……」


尾軽は、功太の耳を覆い隠した。なんて汚らわしい会話だ。功太は何も分からぬまま、心配そうに尾軽を見上げている。


「西村村長。小峠はもうじき死ぬからいいですが、そんな話は迂闊に外でしないでください。誰が聞いているか分かりませんから」

「ああ、失礼しました」

「小峠、お前もその骨山の仲間入りだ。喜べ」

「……犬の骨を処分しないのは、人間の死体を隠すためですね。そんなこと、教祖様が知ったらどう思うとお考えですか?」

「はっ、馬鹿かお前。揺籠は、人が大いなる海に戻るための組織だ。人の死体を山に捨て、雨に流れて海に戻る……俺のやってることは、何一つ教義に反していない」

「そんなの、ただの詭弁だ!」

「あっそ。お前はそう思っておけ」


根津は鼻で笑うと、西村に目配せをした。


「根津さん、そろそろ……」

「そうですね、村長。行きますか。……あ、それとな小峠」


根津は思い出したように付け加えた。


「犬神村の伝承……犬を首以外地面に埋めて首を刎ねるっていう風習から、この祭りが生まれたって聞いてただろ? あれ、嘘だ」

「ど、どういうことですか……?」


西村がその言葉を引き継ぎ、醜い笑みを浮かべた。功太はそっと尾軽の手を自分の耳から外した。尾軽は功太の目を見て頷き、覚悟を決めた功太の意思を尊重することにした。


「人間の首だけ出して胴体を地面に埋めて、首を刎ねる……そんな『口減らし』が、かつてこの村にはあったがよ。だが、法律ができて取り締まられるのを避けるために、高知県全域に伝わる犬神の伝承を利用して、犬の首を刎ねる祭りにすり替えたがやき」


尾軽は、身体の芯が凍りつくような衝撃を覚えた。犬を供物にする祭りではない。人間を殺し、処分することを隠すために、膨大な数の犬を殺し続けてきたのか。


「人の頭蓋骨だけは別に運び、胴体の骨はこの山に埋めて時間をかけて風化させる。全身を埋めるより遥かに多くの『死体』を捌ける……ここはな、血塗られた人喰い集落なんだよ」


根津が、勝ち誇ったように笑う。


「先代と先々代の村長……山里さんのところのな」


西村が、尾軽の祖母と同じ苗字を口にした。


「先先代は根っからの悪人やったが、先代は小峠君のように頑固な偽善者やったわ。理想論だけで村は食っていけん。ワシがな、無茶な仕事を振り続けて、過労死に追い込んでやったがよ」


尾軽は、全身の血が逆流するような怒りを感じた。ひいじいちゃんたちの死すら、こいつらが仕組んだものだったのか。


「後はワシが村を乗っ取るのは簡単やったわ。そんでこれまで通り、村の風習を好む『村の外のお友達』らあと手を組んでるっちゅうだけやき」

「ふ、ふざけるな! あんたらはただの犯罪者だ!」


拓也が絶叫する。


「証拠は無い。好きなだけ叫べ。消耗した分だけ、祭りでお前が死ぬ確率が上がるだけだ」


そう言い捨てると、根津と西村はフェンスの扉の方へと踵を返した。


功太は、肺を焼くような熱い吐息を吐き出しながら、ひたすら森を駆け抜けていた。


泥にまみれ、木の枝で頬を切りながらも、目指すのは尾軽の家、湊のところだ。だが、集落の入り口が見えた瞬間、彼は身を隠さざるを得なかった。


……なんだよ、あれ


見慣れた尾軽の家の周りには、「滄溟の揺籠」の白い法被を着た男たちが不自然なほど多めに配置され、鋭い視線を周囲に走らせていた。それは守護などではない。村の異変を嗅ぎつけようとする「内通者」を逃がさないための、冷徹な監視の網だ。


「俺が、二人を助けなきゃ……!」


幼い頃から大好きだった、温かくて静かな村。それが今、化けの皮が剥がれた「偽物の楽園」として功太の目に映っていた。


とりあえず、一度自分の家に帰ろう。両親が仕事から戻っているはずだ。大人たちにすべてを話せば、きっと。

その瞬間、背後から伸びてきた細く白い腕が、功太の手首を強引に掴んだ。


「ダメよ。あなたの家に行っては」

「うわっ……離せよっ!」


反射的に振り向くと、そこに立っていたのは「揺籠」のメンバーであるはずの、早苗だった。その瞳には、いつもの穏やかさではなく、氷のような冷たさと、切羽詰まった焦燥が混じり合っている。


「待って、功太君。……私も、あなたと目的は同じなの」

「え……それって、どういう……」


早苗は唇に人差し指を当て、声を押し殺した。


「ついてきて。すべて話すから」


—-


湊は、書類を一心不乱に読んでいたら昼になったことに気づいた。潮と食事を終え、食器の片付けと歯磨きを速攻で済ませて書斎に戻る。


「あれ、兄貴と功太まだ帰ってきてないの?

「功太んちでご飯食べゆうかもしれんねぇ。」

「なんだよ、だったら一言連絡でもしろよ、バカ兄貴。」


窓の外を眺めたら、やけに白装束がうろちょろしているのが目に入る。なんか俺んち見てないか?


「今日は祭りだからなのかな。」


早く帰って来てくれよ。この村早く出ようぜ。

ピンポーン、インターホンが鳴った。外には、昨日駄菓子屋で出会った小学校低学年の男の子達、優斗だったか?が居た。


「どうした?」


ぶっきらぼうに湊は聞いた。


「ねえさー、昨日のムキムキ、今日の犬追い祭りに出るがぁ?」

「はぁ?そんなわけ無いだろ。祭りの手伝いに行くとは言ってたけど。」

「けどさ、広場のモニターにムキムキが出ちゅうで。」

「はぁ!?」


何やってんだ兄貴。あの祭りはめっちゃ危険なんだってば。

ガタンッ!家の中で大きな音がした。潮がお盆を落として震えている。


「ばあちゃん、どうした!?」

「う、嘘やろ。透が、祭りに参加しちゅうがかえ。」


潮は顔を上げた。玄関の視線の先には、白装束の男が居た。湊を見て潮は作り笑いを浮かべた。


「素晴らしいことやねぇ!応援しに行かんと!」

「な、何言ってんだよばあちゃん。」

「これ、透のお気に入りの野球のバット。お守りに持って行き。後でばあちゃんも行くき、先に湊は家出えや。ほら、優斗らも野球ボールとグローブ持っていき。」

「わーい、ムキムキの祭りが始まるまで公園で遊ぼー。」


そう言って優斗らは駆けた。


「ばあちゃん、そんなこと言ってる場合じゃないだろ。マジで何を言ってるんだよ。」


湊が潮に振り返ったが、潮の目には強い意志の光が灯っていた。


「ほら、早く持って行き。」


その瞬間、湊の全身に電流が走った。昨日の夜潮が湊に見せたノートにはこう書かれていた。


この家は盗聴されている。


誰に、何の目的でなのかその時は分からなかった。けど今なら分かる。ばあちゃんは、この村で一人でずっと戦っていた。敵を欺き、村の真実を守りぬき、俺たちに託すために。


「ばあちゃん、俺あの子達と野球してくるわ!」


湊はバットを肩に担いで家から飛び出した。くそ、心臓が痛い。すぐ息が上がる。兄貴の言う通り、普段から運動しておくべきだった。帰ったらさ、キャッチボールしようぜ、兄貴。


—-


一方、尾軽はスタンガンの電撃による強烈な吐き気と、喉を焼くような渇きの中で、ぼんやりと空を眺めていた。


視界の端を、複数の黒い影が横切る。それは鳥ではなく、数機のドローンだった。不気味なハチの羽音のような駆動音を響かせ、獲物である自分たちを最適なアングルで捉えようと旋回している。


こいつらが……あの残虐な『祭り』のカメラマンか……


配信は、もう始まっているのだ。


ドローンに取り付けられた高性能スピーカーから、ノイズ混じりの根津の声が山中に鳴り響いた。


『——さぁ、全世界の選ばれし観客の皆様、大変長らくお待たせいたしました! 今年の「犬追い祭り」、いよいよ開幕です! 今回の挑戦者は二人! 若く、鍛え上げられた、最高の運動能力を持つ男たちだぁ!!』


鉄格子の隙間から見える、夏の終わりの残酷なまでに青い空。


湊も、今頃はこんな絶望的な気持ちで兄を待っているのだろうか。


「……おい、透君。お前、もう諦めてるのか?」


隣の檻から、拓也の鋭い声が飛んできた。


「そんなつもりはないけど……現実に、頭が追いついていないんですよ。」

「だったら、死ぬ気で俺の話を聞け。いいか、放たれる野犬は狂犬病や感染症の塊だ。一回でも本気で噛まれたら、その時点で死ぬと思え。……だが、俺たちには『勝利条件』がある」

「勝利条件?」

「当たり前だ。これは金を取って放送してるエンターテインメントなんだよ。ただの一方的な虐殺じゃあ、ギャラリーがしらける。……何より、俺はこの二年間、この『ゲーム』を攻略して生き残ってきた」


拓也は、乾いた唇を吊り上げて鼻で笑った。


「犬を追い詰め、この檻の中に全員ぶち込めば俺たちの勝ちだ。その辺に落ちてる太い枝でも骨でもいい、とにかく振り回して、自分の間合いを死守しろ」

「けど、そんなことをしても……根津って男が、僕たちを生かして帰すとは思えない」

「……功太と、お前の弟がいるだろ。信じようぜ、外にいる『仲間』をよ」


尾軽は、拓也の言葉に目を見開いた。

数日前、車で襲撃されたあの夜。弟の灯二は、死の淵に立たされながらも最後まで諦めなかった。あの執念があったから、自分たちは今ここにいる。

灯二……。俺も、戦うぞ。お前と一緒に明日を迎えるために


『それでは、第三回・犬追い祭り……開催です!!』


ガチャリ。

根津の合図と共に、冷徹な機械音が響き、二人の牢獄の錠が一斉に解かれた。

重い鉄の扉が、ゆっくりと、死の舞台へと開き始める。


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