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思い出の残骸

作者: 皐月裕

 小さい頃、家族で行った海でコワイ思いをしたことがある。

 私は当時そこまで泳ぎが上手だったわけではなかったけど、なぜか波に揺られるのが好きだった。それも浮き輪に捕まってではなく、足のつかない場所まで行って空を見上げながら、ぼんやりと手足をぱたぱたと体が沈まない程度に動かしながら波に揺られるのが好きだった。

 大人からしたらおぼれているのか判別ができなくて迷惑この上ない行動なので、親も海の監視員の人にも何度も怒られたが、私はそれをやっていておぼれたことがなかったせいか、この遊びをやめることが出来なかった。

 そうして数年経ったある夏の海で、私は去年と同じようにこの遊びをやっていた。親はあきれ顔でパラソルの下で弟をあやしている。海には毎年連れて行ってもらう。普段の週末を家族で出かけて過ごすことはほとんどなく、父は仕事で忙しく、母は家事と育児に追われている。長女の私は自然と一人遊びが達者になっていくので、家を飛び出して休日の日中を過ごすこともざらだった。

 だから毎年海開きすると連れてってと強請った。いつも子供の私が楽しめるようなところには連れて行ってもらえなかったから、友達の家を引き合いに出してごねるぐらいにはしつこく強請って、毎年勝ち取っている私の楽しみだった。

 だからこの楽しみが傷つけられることがあるなんて想像もしていなかった。連れて行ってもらえないのは想定するが、海についてしまえば全てが楽しいことだったから、その海でコワイと思うことが起こるなんて思っていなかった。


 いつも通り足のつかない場所まで出て、手足をばたつかせて海底のわかめのように波に揺られていた。毎年海水浴客でにぎわっている遊泳エリアだが、不思議とあたりに人はいなかった。いつもはおぼれているんじゃないかと大人に話しかけられたり、少し年上の子供にからからわれたりしていたのだが、この時は違った。

 ざぁー、ざぁーん、と波の音とぱしゃぱしゃ海面の波立ちの音だけに包まれ、私は何か今までいたところとは別の世界にいるような気持になった。顔を上げて前を見つめても、海の端は見えず、空を見上げても空の果ては見えない。まるで世界に一人きりになったかのような感覚に、どこか心地よさを覚えた。

 顔が沈んでしまわないようにばたつかせていた足に、さわりと何かが触れた。

 ぞっとして声が出なかったのを、よく覚えている。それからすぐに勘違いだろうと思ったことも、それを裏切られた時の恐怖も鮮明に覚えている。

 ぺったりと足首に人の肌の感触がして、私は短い悲鳴のようなものを上げたと思う。他の記憶が鮮明すぎて、自分が上げた声がどんなものだったのかはわからない。

 ずん、と下に引かれる衝撃で私は完全にパニックになった。掴まれていない片足と両手をがむしゃらに振り回してもがいた。顔は既に海に浸かっていて、呼吸ができない。

 どんどんと青い海面が遠ざかっていく。私は目が痛むのにも構っていられず、下を見た。私の足を掴んで、引っ張り続けている何かを見ようとした。深くて薄暗い海底に足に絡みそうなわかめは生えていない。

 苦しい息でもがきながら、相手を探した。暗い海の中で、かろうじて見えたのは、ぶっくりとふやけた人の手だった。その先には人影のようなもの。

 顔の形はわからない。髪がいくつもの束になって揺れ広がっている。私がそれを見られたのはそこまでだった。


 気が付いた時、私は海面に浮かんでいた。いつものように両手足をばたつかせて海面から顔を出していたが、息は今まで体験したことがないほど激しく乱れていて、心臓が痛かった。

 私は自分の足にさっき見たものがくっついていないことを確認してから、海岸に向かって全力で泳いだ。頭の中はまださっき見た何かがちらついていて、とても勘違いだったとは思えなかった。

 息を切らして帰ってきた私を母は怪訝そうに見た。

「どうしたのよ、そんな顔して」

 まだ海には入れない弟を抱きながら、母がそう言ったのを私はきっと忘れないだろう。

 いくら毎年のこととはいえ、仕事の疲れで隣で寝ている父と抱っこしている弟以外に注意を向けることができないとは思えなかった。母はちゃんと私を見ていたはずだ。いつもとは違う様子で海に沈んだ私を。

「お母さん、人がいた」

 私は信じられないという気持ちでいっぱいだったが、それだけはなんとか言った。喉が張り付いているみたいにぴりぴりした痛みがして、話すのが辛かったが、私は自分が体験したことを一生懸命母に伝えた。そのうちに自然と涙がこぼれた。

 だが、海に入る私をずっと見ていたという母は私が突然沈んでおぼれかけたのを見ていないと言うし、海藻か何かと見間違えたんだろうと言ってあの遊びをやめなさいと呆れ顔で説教をする始末で、私は涙がますます止まらなくなった。

 泣き続けて人がいたんだ、足を引っ張られたんだと主張する私に見かねて、母は父を起こして弟を任せてから、近くの監視員の人に私が不自然に沈んだ瞬間があったか尋ねてくれたが、私が海面から深く沈んだ瞬間はなかったと言われた。

 それから他の監視員の人にも事情を話して、誰か見ていないかを母は尋ねてくれたが誰もあの時の私を見ていなかった。

 これで満足したでしょう、と母はいよいよ不機嫌そうに私を見てから、父と弟のいるパラソルに私の手を掴んで連れて行った。


 それからはあまりいい思い出がなく、何かあるたびに私がわがままで嘘を言うようになったと思った母とはよくケンカになった。まだ目の離せない歳の弟がいて疲れているのも関係していたのかもしれないが、母が私にやさしくしてくれることは明らかに少なくなった。

 そうして私の一人遊びはますます激しくなって、海にこそ近寄らないものの、あらゆる若者の集うところへ出かけていくのをやめなかった。母への当てつけでもあったのかもしれないと、今なら思う。

 あの頃は自由だった、なんてよく言うけれど、私は今本当にそう思っている。

 目の前の海が静かに波打っていて、誰もいない浜辺が汚れを知らないように純白であるせいかも知れない。あの日から一度も足を運ばなかった海へ、私は今来ている。

 あの日、私の足を引っ張ったあの人に私は会いたくなった。柔らかな皮膚の感触と、強引な引き込みのアンバランスさのように今の私は揺れていた。

 もう一度、あの手に引っ張られたら、私はもがかないだろう。海底の世界を観光で見に行くくらいの気持ちで体を預けただろう。

 浜辺に降りて、まだ冷たそうな海に向かっていくと、波打ち際に何かが落ちていた。なんとなしに近寄ってみると、それはびしょぬれで砂のついた赤いスカーフだった。それほど古びていないのがなんだか妙に物悲しく感じた。

 くたびれたスカーフを拾って、私は海へ入った。冷たい水が足を刺すようだった。視界の端で古びて使われなくなった灯台のひび割れが笑っているように見えた。あの日とは違う海で、私は誰の物かもわからないスカーフを大事でもないのに握りしめて、海に入っていった。

 とても気分が良かった。痛みや苦しみはもうそこにはなかった。


 目が覚めた時、海に入っていった時とはまるで違う苦痛に襲われた。体の不快感と、子供の泣きわめく声には思わずため息をついたが、それに目ざとく気づいた夫に頭を小突かれた。

「なんで海になんて入ったんだ」

 私の海嫌いを知っている夫は子供をあやしながら怒った様子で言った。私はガサガサで痛む喉に鞭打ってまで答えるのが億劫だったが、病院のベッドに横たわっている身分で口を割らないのは雰囲気的に許されなさそうだった。

「人に、会いに行ったのよ」

「誰に?」

 夫は怪訝な顔をしている。誰も海の底に人がいるなんて思わないだろうし、ましてやそんな人に会いに行くなんて言う人間を信じるわけもない。

 あの日の母のように、夫も私の言うことを信じられないだろう。それをわかっていて、私は海に行った。

 海に入れる歳になった弟を連れて、私がおぼれた海とは違う海に行った母が、おぼれて死んだあの海に、私は会いに行った。

 その時の弟と同じ歳になった子供たちを見て、母の気持ちを初めて知りたいと思ったから。

 結局母のことは何もわからなかったが、海のしょっぱい思い出がまた増えた。

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