第八章
第八章
高校生なんて焼き肉かラーメンを食わしておけば、三日は文句も言わず命令に従ってくれる。
これが誰かの名言じゃなかったら、たった今僕の名言になったということにしておこう。こんなどうでもいいことを考えるくらい、僕の気持ちは浮かれていた。
なぜなら、
「ふっふ、今日は俺と間仁田がお金を出す。ふっふっふ、いやいやお前らには迷惑かけっぱなしだったからなあ? いいよお……来いよお……」
行方と間仁田が焼き肉を奢ってくれるからだ。肉が焼けていく匂いが僕の鼻腔を刺激し、食欲を煽る。本当に頑張ってよかった。
あれからかれこれ一週間は経った。
不思議なことに、荒れ放題だった校舎は一夜のうちにキレイさっぱり修復されていたし、全国のパン屋さんも襲撃される以前の形に戻っていた。
僕と、僕がランドルト環を使った人たち以外は、果敢に世の中なり何なりと戦った記憶は残っているが、世界の超不自然治癒には違和感を抱いていないという、ご都合主義的な脳内処理が行なわれていた。
あれもこれもくぬぎがやったことだろう。遊び終わった玩具を元の場所に戻すのと一緒だ。散らかしっぱなしだと怒られるのは常識だ。まあ、あいつを怒るのは長老だけで、どうせあいつは聞く耳を持たないだろうが。
長老がくぬぎを叱ってる映像を思い浮かべてほくそ笑んでいると、
「ふん、正確には、行方のお金と間仁田のお友達が間仁田に貢いだお金だ」
と、せっかくのパーティー気分に水を差すようなことを言う仰翠。
「確かにそのマネーは僕のお友達が僕にくれたお金だけど、僕だってプライドを持って彼らと接しているんだ。僕と彼らの間には強い絆と、強固なギブアンドテイクな関係が結ばれているんだよ」
あの騒動以来、間仁田は吹っ切れたようで、そっち方面の話をしても怒らなくなった。なんなら、余裕まで見せ始めた。ちょっとつまらないが、まあ、成長したようで何よりだ。
「僕の話はいいよ、行方、君は血脇さんと上手くいってるのかい?」
軽めの電気ショックを食らったかのように間仁田の横で行方はギクリと体を震わせた。
「ふっふ…………」
吐息百パーセントの沈んだ笑い声。
そうか、夢から覚めてしまったんだな。
「諦めろ行方。貴様は血脇に束縛され続けるのだ。死ぬまでな」
仰翠が行方のお皿にたくさんお肉を盛りながら言った。
「……ふっふ、結婚チラつかせてくるんだ、あいつ。ふっ、これ、アイツからもらったポケットティッシュなんだが、中身婚姻届なんだぜえ…………、参っちまうよ」
「ウェディングには呼んでおくれよ」
間仁田が肉を頬張りながら言った。
「拙僧も」
仰翠が間仁田の皿の肉を横取りしながら言った。
「じゃあ、僕も」
僕は焼けた肉を自分の皿にたくさん放り込みながら言った。
「ふっ、歓迎するよ…………。んん俺の話はここらでおしまいにして、ふっふっふ、桂木、最近彼女とどうなんですかっ?」
聞かれると思った。
「僕は、まあ、いい感じだ」
なるべく普通に言ったつもりだったが、
「ふっふ、ニヤけやがって」
「浮かれポンチだね」
行方、間仁田の二人が僕の皿の肉を取っていく。
やれやれ、仕方がねえからのろけ話でも聞かせてやるかな。
僕が口を開こうとすると、
「ふっふ、なにも言わなくていいぞ桂木。ふっふっふ、ラブコメっつうのはなあ、付き合うまでがすべてなんだ。ふっふっふっふ、そのあとは全部蛇足。付き合ったら、そのあとのイチャコラは匂わせ程度で作品を終わらせるのが作者の義務なんだよなあ。あまり多く語らないことがコツだ。ふっふ、そうすれば、その作品の二次創作が栄えるンゴねえ」
「お前が僕の近況を聞いてきたんだろうが」
「そんなことより」
「おい間仁田、お前僕の近況をそんなことっつったか?」
「時實は最近どうなんだい? 何か変わったこととかあったかい?」
仰翠は台割りを考える編集長のような思考を巡らした顔をした後、
「電車通学になったくらいだ」
三秒遅れで仰翠の言いたいことを理解した。網に焦げ残った牛肉のような黒い罪悪感が僕の心沈んだ。間仁田と行方の顔から察するに、二人も僕と同じ気持ちなんだろう。
「ほ、ほら、食いなよ」
「ふっふ、肉はいいゾオ」
「仰翠、僕の肉やるよ」
僕たちは取り繕うように仰翠のご機嫌を伺った。
今の今まで忘れていたのだ。仰翠に魔法少女のコスプレをさせていたことを。そして、それを着ることになった理由の一つが徒歩通学だ。仰翠の迂遠な抗議に冷や汗が出てきた。僕が思ってる以上に怒ってるのかも?
「ふん、別に怒っているわけじゃない。この修行にケリをつけるときが来た。ただそれだけのことだ。これからは軽妙洒脱に生きていこうと思う」
「いいじゃないか! そうだ。時實もラブロマンスをしたらどうだい?」
「ふっふ、ちょうどいいところに人材がおりますぞ! ふっふっふ、桂木の妹とのラブコメをキボンヌ」
「た、たしかに仰翠になら妹を任せられるが…………」
「ふっふ、もし二人が上手いこといって、ふっ、チュッチュしてセッセしてズッコンバッ婚したら、ふっふっふ、桂木がっ、っふっ、義兄でっ、っふ、家子さんがっ、義姉になるのか、ふっふっふ、想像しただけでバロスッ! ふっふっふっ!」
「はっはっは!」
劇画タッチのバトル漫画の因縁のラスボスのような顔で笑う仰翠。
「それは愉快だな。なあ、義兄よ! はっはっは、愉快愉快。さあ、食え!」
仰翠は僕のお皿に丸焦げになったお肉を置いていく。勘弁してくれ。
ちょうどいいところで追加の肉を店員さんが運んで来てくれて、話題が逸れていく。行方と間仁田のできの悪い漫才のような会話をつまみにジュースを飲んでいると、
「文士」
仰翠が小声で、
「明日、くぬぎとやらに会いに行くのだろう?」
「ああ」
「そうか。拙僧についておそらくいろいろと知ることになると思うが、あまり気にしすぎるなよ」
「わかってるよ。今更お前の何を知ろうが、どうということはないさ」
仰翠は軽く笑い、
「ふん、生きて帰ってこい」
そういって網に肉をのせていった。
僕はジュースを一気飲みして気合いを入れた。
「ありゃりゃぁ、手なんか繋いじゃってぇ。初々しいですねぇ」
くぬぎがこたつから立ち上がってこっちに近寄ろうとする。
「来るな。あっち行け」
家子がすかさず牽制。
「近づいちゃうよぉん」
「来るな。あっち行け」
目の前で、家子とくぬぎのすったもんだの格闘が始まった。見方によっちゃじゃれ合ってるようにしか見えないな。
僕と家子は毎度おなじみのあの殺風景なメイド・イン・クヌギ空間にいた。言わずもがな長老に送ってもらったのだ。
元気溌剌としてくぬぎと乳繰り合っている家子の姿は、入学式の時点での家子のようにハッキリとしていた。あの騒動が終わって以降、クラスのメンツからも視認されるようになった。嬉しいことだが、理由がよくわからない。てっきり、僕がもう一度見えるようになるだけで、他の人たちには依然として見えないままの状態が続くと思っていたが、まあ、終わりよければすべてよしだな。これ以上考える必要はない。
「おう、桂木。彼女すっかり元気じゃねえか」
「元気すぎるところが玉に瑕ですけどね」
「黙れば美人って感じだな」
「黙れよ美人…………いや、もっと普通にしゃべれよ美人ですかね」
「違いねえ」
長老は小気味よく笑いながら、僕の背中を押した。止めてこいってことだろう。
「戻ってきなさい」
僕がそう言うと、家子はぶすっとした顔になって、ツッタカタッタと戻ってきて僕の腕にまとわりついた。
「ペットみたいでかわゆいねぇ」
「彼女」
くぬぎの茶々に家子が強い主張で返答すると、くぬぎは指をパチンと鳴らした。
これにももう慣れてしまった。僕たちはあの日とまったく同じ配置ではんてんを着て、こたつに腰掛けていた。
話し始める前に、僕はくぬぎに言わなければならないことがある。
「くぬぎ」
僕は深く頭を下げた。
「ありがとう。おかげで命拾いした」
「あたしはぁ、デッドエンドが嫌いなだけだから、礼なんていらないよぉ。礼なら、時實仰翠にでも言ってあげればいいんじゃないかなぁ?」
くぬぎは仰翠のことをお邪魔虫と呼んで目の敵にしていた。当然のこととして、くぬぎは仰翠の能力について知っているはずだ。それに、僕にもなんとなく見当がついている。
そして昨日の仰翠の発言的に、仰翠の能力についてはここで知れ、つまり、くぬぎから聞けということなんだろう。
僕は仰翠の能力に関する推測をくぬぎにぶつけてみた。
「あいつは、未来が見えるのか?」
くぬぎはみかんを机に置いて、
「正確に言えばぁ、自分以外の人間のルートが見えてるぅって感じかなぁ。文士くんはまぁんまと時實仰翠が選ぶルートに乗せられてたってわけだねぇ」
なるほど。世界から家子が消えたときあいつが家子のことを覚えていたのは、僕か、それかまた違う誰かのルートを見て家子彩琶という人物がいることに気づいていたからか。
くぬぎはみかんの上にみかんを置き、
「そぉれを妨害してたのがぁ、あたしなんすけどねぇ。文士くんのルートを常人の何百倍もぉ増やしたりしたのにぃ、悔しいぃなぁ」
そんなに悔しがってるようには見えないけどな。
「さ、終わったことをいちいちグチグチ言っててもぉしょうがないんでぇ、本題に入りましょ」
僕たちがくぬぎを楽しませることができたら、家子の能力を消してくれるという約束のことだろう。
さて、はたして僕はくぬぎを楽しませることができたのだろうか。まあ、なんとなくこれからどんな結末になるのかはだいたい想像がつく。
みかんのタワーを積み上げたくぬぎは、それを指で押して崩してから、
「とぉってもつまらなかったよぉ。あたし、ハッピーエンドもデッドエンド並に嫌いなんでぇ。だから、彩琶ちゃんの能力はぁ消してあげないよぉん。でも、行方くんはバッドエンドだから、消してあげるよぉん」
ドンマイ行方。お前の未来はバッドエンド愛好家公認のバッドエンドらしいぞ。
みかんたちがこたつの上を転がっていく。僕はそのうちの一つがこたつから転げ落ちるのを手で制止して、皮を剥いた。
「あれれぇ? あんましショック受けてないかぁんじ?」
「ふん」
家子が勝ち誇った顔をして、剥いたばかりのみかんをくれと僕の前に手を置いた。家子の手にみかんを一房置いてやりながら、
「なんとなく、最初からわかってたんだ。お前がそう言うだろうなってことが」
「へぇ」
くぬぎはからかうような目を向けながら、僕の前に手を置いた。仕方がないから一房おいてやったところで長老と目が合った。手を出してきた。一房あげた。
これはただの勘でしかないが、家子はもう消えないと思う。根拠はないが、きっと大丈夫だ。
「そうっすねそうっすねぇ。大丈夫だと思うよぉ」
また僕の心を読みやがったな。
「彩琶ちゃんは今ぁ、いろぉんな人に自分達のラブラブっぷりを見せつけたい時期だからねぇ。見えるのは当然だよねぇ」
「…………そうだったのか」
そんな理由だったのか。まあ、悪くないな。
僕は気を取り直して、
「僕たちは僕たちだけでなんとかする。だから、くぬぎの力は借りない」
「言うようになったね、文士くん」
くぬぎのだらけた笑顔が、少し意地悪な笑顔に変わった。
「それはつまり、ずぅっと死ぬまで愛し合うってこと?」
「そう」
家子、即答。
「ふぅん? 文士くんたちには悪いけどぉ、永遠なんてないんだよ。どんなものにも終わりは来る。愛なんていう不定形なものなんて、特に腐りやすいんだよ」
真面目な雰囲気を出して僕の心を揺さぶろうとしているようだった。だが、僕の心はまったく別のベクトルで揺らされていた。
おかしな気持ちがこみ上げてきたのだ。おもわず、爆笑してしまいそうな。
チラリと長老の方を見てみた。長老は笑いを堪える僕を怪訝な顔で見ている。そして、僕は対面に座るくぬぎの顔を見て言った。
「お前に言われても、説得力がないな」
くぬぎのニヤけづらがほんの一瞬真顔になった。僕はそのレアな表情を忘れないようにこの目に焼き付けた。一矢報いてやったのかもしれない。
やにわに長老が笑い出した。
「っはは、くぬぎ、お前の負けだな」
長老に笑われたくぬぎは蹴伸びをして寝転がり、僕の視界から消えた。
「もういいでぇす。もう用は終わったんだしぃ、文士くんと彩琶ちゃんは帰っちゃってくださぁい」
「だとさ、桂木。送ってくぜ」
僕は少し考えた。
「いえ、自力で帰らしてください」
「お? なんだ、俺のドライブテクが嫌になっちゃったのか? 悲しいぜ」
「そういうわけじゃなく……自分たちの力で帰ってみたい気分なんです」
僕がそう言うと、長老が嬉しそうに僕の頭をわしゃわしゃとなで回した。
「長老……また、会えますよね?」
「さあな。だがまあ、俺は今、お前たちがどんな大人になるか見届けたい気分でな。だから、暇ができたらいつかこっそり会いに行ってやるよ。まあ、あいつのせいでヒマなんてねえだろうがな」
「待ってます。その頃には免許取って、僕のドライブテクを見せてやりますよ」
「お、いいな。一緒に峠を攻めようか」
「それは嫌です」
長老はまた笑った。前から思っていたが、長老は本当に嬉しそうに笑うな。くぬぎとは違った意味でこの人の笑顔も危険かもしれない。
「ほら、玄関までは見送りしてやるからさっさと帰れ。これ以上しゃべってると、泣きっ面になっちまいそうだ。別れってのは何千年生きようが、慣れるもんじゃねえんだよ」
僕と家子は立ち上がった。
長老とはまた会えるかもしれないが、ここでくぬぎと別れたら、もう二度と会うことはないような気がする。
いけ好かない奴だったとはいえ、それは、まあ、なんというか、ちょっと寂しいな。
「くぬぎ。たまには、長老のドライブに付き合ってやれよ」
くぬぎの返事はない。
「それと、遊んでくれて、ありがとう。いろいろあったが、なんやかんや楽しかったよ。お前がまた遊びたくなったとき、こんな大騒ぎなんて起こさずに俺の家に訪問してこい。家子と、文芸部総出でもてなしてやるからさ」
返事を待ったが、帰ってきそうになさそうだったから歩こうとしたそのとき、
「二人の関係が微妙になる頃に、また遊びましょ」
くぬぎの憎たらしい声が耳朶を打った。
「バイバイ」
家子の言葉にくぬぎはけだるげに手を振って返事をした。
次の瞬間にはボロアパートの玄関にいた。
僕と家子は長老に見送られながら最寄り駅まで歩いた。
また、会えるといいな。
太陽が地平線に溶けていくのを、僕は電車の中から見守っていた。また、一日が終わる。
「家に着く頃には夜だな」
「どうする?」
「そうだな、晩飯は――」
「致す?」
「…………それか」
まったく、せっかくのムードが台無しの一言だ。
「それは、…………まだ早いんじゃないか?」
家子はクスクスと笑い、
「彩琶」
ずいぶん久しぶりの名前呼べムーブ。あの頃とは違って、僕はそれに対して微笑む余裕ができたようだ。そして、その名を呼ぶ勇気も。
「わかったよ。ところで彩琶、夕飯何が食いたい?」
「文士」
彩琶が僕の体に寄りかかってきた。
いくつもの駅が過ぎていき、空も次第に暗くなっていった。
僕の肩を枕にした彩琶は、太陽と一緒に眠ってしまった。
電車に揺られながら、僕は星を見つめた。
人口爆発に米騒動、いろいろあったが、今はもう遠い昔のことのように思える。たった数日前の出来事なのにな。
だいぶ濃い一ヶ月だった。疲れたし、いろいろと悩んだ。でも、楽しかった。普通に生きてたら絶対にできない体験をたくさん経験した。それだけでも果報者なのに、彼女もできた。
一ヶ月前の僕が見たらどう思うかな。信じないだろうな。
まあ、ムリに信じ込ませてやる必要はないだろう。だって、いずれ歩む道だからな。
ちょっと前の自分が別人に思える。案外、成長なんてこのくらいあっけないものなのかもしれない。
成長はしたし別人のようにも思えるが、一ヶ月前のヘタレな僕が完全に消えてしまったわけではない。今も僕の胸の中で生きている。確かにこの胸の中で生きている。今も僕と一緒に成長している。
ただ、見えていないだけだ。
そう、見えていないだけ。
僕の目に映っていないだけ。
こんなとき、そういうことを言い表すおあつらえ向きの言葉があることを僕は知っている。
口にするだけで、いろんなことを思い出させてくれる大事な言葉だ。
一ヶ月前のヘタレな僕が、僕の中でどうなったか。簡単なことだ。
透明人間になったのだ。