第六章
第六章
学校をフケて、イカれた世界を見て回った。
笑えるわけでも、心が浮くわけでもない。自分と重ねてるわけでもない。
何でもいいから目に収めておきたかった。
目をつぶって闇に浸っていても、逆流した胃酸が喉や舌や歯をドロドロに溶かしていくような、悶絶する余裕も与えられないような理由もわからない苦しみが僕を支配していくだけだった。
町は僕の記憶よりもさらに荒れていた。右も左もデモで溢れている。プラカード、鈍器、拡声器、持っている物は様々だった。
壊された家屋も増えている。パン屋の残骸が目に残る。
僕は立ち止まった。
壊されたパン屋の前に、僕と同じような面持ちで立っている奴がいたからだ。しばらく前より、少しやつれた印象を受ける。
僕は話しかけた。
「間仁田。久しぶりだな」
間仁田はゆっくり僕の方を見た。
「やあ、桂木。久しぶり。君、酷い顔をしているじゃないか」
「お前に言われたくはない」
笑顔を無理矢理作ったような顔で間仁田は言った。
「ちょっと話さないかい?」
僕は首肯した。
「お前、なんでこんなとこにいるんだ」
「僕は最近、町を見て回っているんだよ。うん、たまたま今日はこの辺だったのさ」
僕はまた、公園のベンチに腰掛けている。どうして最近になってこんなにこのベンチ座るようになったのかわからないが、なんだか今日は居心地が悪い。ここにいると、胸が痛くなる。
僕は間仁田にこれまで僕が経験したことを話した。くぬぎという人物に会ったことや、僕が宿す能力についてや、間仁田や行方の能力について既に知っていて、止めようとしていることなどを。最後にランドルト環を手で作って説明のダメ押しもした。
だが、僕がこの世界の異常をなくすために、どうしてここまで奔走しているのか、その動機だけがわからなかった。すっかり、記憶から抜け落ちてしまったような、そんな歯がゆさを感じる。
「間仁田、お前の悩み事を教えてくれないか。一緒に解決してやる」
「僕は君のプロブレムの方が知りたいよ。何があったんだい」
「さあ…………、わからないんだ」
「そうかい」
間仁田は深く追求してこなかった。これ以上質問されても、僕はわからない以外の答えを持ち合わせていないから、ありがたかった。
「お前の悩み事は刈米さんだろ?」
僕の問いに間仁田はあっさりうなずいた。
「ご明察の通りだよ。刈米さんのためを思ったこのサイキックな力も、空振りに終わってしまった。それだけだったらまだよかったんだけどね。……うん、本当にそれだけだったらね。まさか、こんなことになるなんて思わなかったんだよ。この力、自分だけの力じゃストップできないんだ。世間の米への信仰心は日に日に増すばかり。始末に負えないよ……」
「お前だけのせいじゃない。行方が人口を増やしたのも、この騒動に少なからずとも影響している」
「まあ、それは否定しないよ」
間仁田は過去を振り返るように視線を遠くにやった。
「桂木、僕はあの日、パニックになっていたんだよ」
「ああ、見ればわかる」
あの日とは、刈米さんに告白した日のことだろう。
「なんとなくだけどね、刈米さんに対する気持ちにちゃんとした区切りがつけば、このサイキックな力もフェードアウトしていくように思えたんだ。だから、僕のせいでこれ以上世界がカオスになる前に、僕なりに行動したんだよ」
「そういうことだったのか」
「僕はね、やけくそでプロポーズはしたくなかったんだ。でも、そう思えば思うほど、僕はわからなくなっていったんだ。僕のような、恣意的に世界をカオスにするような奴が、はたして刈米さんにプロポーズしていいのか、とか、結果がサクセスだったとして、刈米さんと肩を並べて歩いていいのか、とかね。うん、いろいろと考えたよ」
「考えた結果、あれだったのか」
間仁田は苦笑して、
「一人ではコンクルージョンを出せなかったんだ。到底、出せそうになかった。だから、僕は刈米さんに全権を委ねたんだ。僕の全てをさらけ出して、僕のもっとも気持ちの悪い部分を知っても、それでも好きって言ってくれたら、僕は今までの考えを全部捨てて、開き直るつもりだったんだよ。卑怯だよね」
だからあのとき、自分が不利になるようなことを口走っていたのか。
「自分の全てを知ってもらわないと、相手からの愛情を信じることができなかったんだ。とんだ臆病者だよ」
その気持ちは、わかるかもしれない。
「僕は卑怯だとも臆病だとも思わない。相手に自分の嫌なことを知ってもらうことほど、怖いことはないだろ。お前は勇敢だったよ」
間仁田はやつれた笑顔を僕に向け、
「ありがとう、桂木。でも、結果は見ての通りだったよ。刈米さんに全て委ねたくせに、僕は惨めたらしく追いすがってしまった。アイディールを捨てられなかったんだ。うん、情けないよ」
顔を伏せた間仁田は、両手で顔を覆った。僕はここまで本気で後悔している間仁田を未だかつて見たことがない。
「逃げると、心が冷えるんだ。布団に入っても、お風呂につかっても、体の震えが収まらない。そうだね。僕だけ冬を味わっている気分だった。暗くて、乾いた、ロンリネスな冬だよ」
間仁田の言葉が僕に刺さった。
逃げる。
僕の心も真冬の深夜の寂れた町のように凍てついている。
「もう、逃げることにも限界が来たんだ。だから、町を歩いてた。このワールドを見て回ってたんだ」
間仁田は立ち上がり、大きく伸びをした。そして僕に何かを決断したような顔を向けた。
「桂木に話したおかげで、気持ちが整理できたよ。決めた。うん、決めたよ。僕は刈米さんに謝りに行く。そして、もう一度プロポーズする。思えばあのとき、ちゃんとストレートに好きと言えてなかった。結果がどうなろうと、この言葉が言えれば、僕は気持ちに踏ん切りがつくと思う。うん、きっと、そう思うんだ」
間仁田は僕に手を振って歩き出したかと思うと、立ち止まって振り返った。
「桂木!」
いつものような溌剌としたアホ面が僕を真っ直ぐ見据えている。間仁田の舞台俳優のような身振り手振りが蘇った。
「僕の気持ちは今、極寒のウィンターだ! 正直、痛くて辛くて泣きそうだ。だけどね、冬にはイルミネーションがある。冬限定のあの煌めきが、僕はとても好きなんだ。心に灯しに行くよ、僕なりのイルミネーションをね! だから、桂木、君の心はまだ灯らないだろうけど、電飾だけは用意しておいてほしい。僕の問題が片付いたら、次は君だ! この間仁田が君の心をライトアップしてあげるよ!」
間仁田は恥ずかしいことをこの上なく晴れ晴れとした声色で口走った。
僕は間仁田を手を振って追い払った。
「ふっ」
本当にアホだな、お前は。
一人になって曇天を見上げた。さっきよりは気持ちが軽い。
いつまでもこうしてウジウジはしていられないのかもしれない。だが、この悲しみの原因がわからないのだからどうしようもない。
僕が思いにふけっていると、
「こんなところで何をやっている」
学校がある日は毎日聞いていて、今は耳を削いででも聞きたくない声だった。
どうしてそう思うのかはわからない。なんだかものすごく憎くて、ぶっ飛ばしてやりたく思う人物だ。
「時實こそ、学校はどうしたんだよ」
時實仰翠。僕はこの友人の顔を直視できない。
「貴様を探しに来たのだ」
「よく居場所がわかったな」
「たまたまだ」
「悪いけど、帰ってくれ」
「それはできない相談だな」
「帰れよ。頼むから」
「拒否権を発動する。拙僧にも、役目というものがあるからな」
「お前を見てると、ムカつくんだよ」
「そうか。それは気の毒だな」
咄嗟に時實を睨んだ。時實は悠然とした態度でそれを受け止めた。
「察するに、相当意地の悪いものをくぬぎに見せられたようだな」
「どうして今、くぬぎの名前が出るんだ」
どっか行ってくれないかな。
「桂木、家子彩琶という名前に聞き覚えはないか?」
……家子彩琶? 知らない名前だ。だが、なんというか、その名前を口に出して言いたくない。
「聞いたこともない名前だ」
「貴様が消した女の名前だ」
「僕が……消した?」
「そして、貴様の思い人でもある」
何を言ってるんだこいつは。
「お前、なにか変なものでも食べたのか? 僕が消した? 僕の思い人? 微塵も心当たりがないんだが」
「当たり前だ」
なんなんだよこいつ。
「さっきからお前が何を言っているのかがわからん。もっと要領よくしゃべってくれないか」
「ならば、拙僧の身の上話をしてやろう」
「ますます意味がわからない。そんなもんを聞く余裕は今の僕にはない。また今度聞いてやるからもう帰ってくれないか」
「家子彩琶は、拙僧の初恋相手だ」
「――――え?」
瞬刻、思考が止まった。
時實の恋愛談を今まで聞いたことがなかったから驚いたのではない。もっと、違う何かだ。僕は、家子彩琶という名前に過敏に反応したのか?
胸がざわつく。
「貴様が好きになる前から、拙僧は家子彩琶に好意を寄せていた」
「……そうか」
頭が回らない。僕は今、なぜかとてつもないショックを受けている。
「拙僧は家子と中学が同じだった。拙僧にとって、彼女は特殊だったのだ」
「そりゃ……、初恋だからだろ」
自分の言葉にトゲがあることに気づいた。さっきとは別の種類の、もっと陰湿な種類のトゲだ。
「ああ、らしくないが、運命を感じたよ」
「別に、いいんじゃないか? 運命を感じたって」
「家子のことを深く知りたくなった」
「そっか、へえ……」
僕は自分自身を黙らせたくなった。どうしてさっきから勝手に言葉が口から出ていくのだ。黙って聞くのが、そんなに納得がいかないのか? なんで。
「だがな、彼女について知れることはあまりにも少なかった。なにせ、情報が液体のように流動的で、気体のように透明だったのだからな。いつまで経っても確定しないのだ」
「どういうことかわからないんだが。伝えたいなら、もっとハッキリわかりやすく言ってくれ」
「しばらくして、拙僧はその原因を突き止めたのだ。その原因とは、なんだったと思う?」
「知らん。そんな説明じゃわかるわけないだろ」
「それは貴様だ。桂木文士」
「は――?」
僕が、原因?
時實はさらに眉間にしわを寄せて、
「彼女が歩むルートには、必ず貴様が深く関与していた。拙僧はな、気になって貴様の情報を集めたのだ。そしたら、驚いたよ。貴様は常人の数百倍ものルートを所持していた。つまりだな、貴様が深く関わる人間のルートは、貴様のせいで確定しないということなのだ。悔しいが、拙僧は貴様にも興味を持ってしまった」
「待て待て待て、本当にわからない。説明を端折らないでくれ。何が言いたいんだ」
「間仁田や行方のルートも家子同様に、確定していなかった。拙僧は拙僧自身のルートを見ることはできないが、おそらく拙僧のルートも確定していないんだろうな」
「ルート? ノベルゲームとかの話か? それともただの電波話か?」
「拙僧が観測出来る範囲にも限度がある。せいぜい二年が限界だ。そして一昨年の今頃、家子と貴様に関する重大な分岐点を観測した。外してはならない選択肢の連なりだ。外せば、貴様らの未来は俗に言うバッドエンドに突入することになる。そしてその重大な分岐点とは、ここ一ヶ月に集中している」
「もういい。話すな。わけがわからん」
「拙僧はこのことを観測したとき、悟ったのだ」
このとき、今日初めて時實の目に感情が灯ったような気がした。
「家子の運命の相手は拙僧ではなく、貴様だということをな」
言の葉がせつなさを乗せて僕に耳に届いた。
「彼女は貴様と結ばれなければ不幸になる。拙僧は彼女の人生の単なる賑やかしだ」
「ウソだ」
僕は今自分が何に対してウソだと言ったのだろう。時實の言葉と、自分の中の直感的なものの間にある大きな隔たり。答えの記載されていない難解な間違い探しをしている気分だ。
「ほう、何がウソなのか話を聞かせてもらおうか」
答えに窮する。答えなんて、あるかどうかすらわからない。
「知るかよ」
「不貞腐れおって。貴様はいつまでそうしているのだ。貴様を失意にさせているその感情を究明したいとは思わんのか。やり方はいくらでもあるというのに、それを可能にする能力も授けられたというのに、貴様はそれら全てに目をつぶり、見ないふりか。ヘタレ極まれりだな、桂木」
「……なんだと?」
「精神的な高貴さを主張していた貴様はどこに行ったのだ」
「それは……、僕は、知的民族は…………」
口ごもることしかできない。僕にとって、知的民族という言葉は、もう……。
「寄る辺もなくしたか」
「…………」
「ふん、所詮知的民族など、ヘタレを隠すための方便にすぎん。そもそも、貴様は知的民族という言葉の詳細な定義など考えたこともないのだろう。語呂の良さから雰囲気で使っていたにすぎん」
悔しいが、言い返せない。
「貴様という人間には確固とした軸がないのだ。知的民族を自称していた頃からな」
時實は僕の胸ぐらを掴み、顔を引き寄せた。そして、僕の眼をしかと見つめ、
「だから貴様という人間はすぐ人の言葉に踊らされる。それが味方だろうと敵方だろうとだ。貴様の場合それは素直さではない。貴様の本質はただ自分がわかっていないだけ、いや、見て見ぬふりをしているだけだ。ゆえに崇高さにかこつけてきた信条を失い、窮地に立たされた貴様は弱い。自分を気高く見せようとしたのが仇になったのだ」
僕の学ランを掴む時實の手に、さらに力がこもったような気がした。
「自分の本質から目を背けてきた貴様は同様に、他人に対しても同じ行動を取る。自分から逃げる者は、他人からも逃げる。貴様にその能力を授けた天田ヶ谷くぬぎの皮肉がこれでもかというくらい効いているな。自己理解から逃げ続ける貴様は最終的に自分を信じきることはできない。畢竟、他人を信じきることもできない。思い人だろうと、無二の友人だろうとな」
何を言い返せばいいかわからない。わからないが、好き勝手言われ続けるのも納得できない。
僕は時實の学ランを掴み返し、
「お前は、僕のことを何もわかってない。お前にはわからないかもしれないけど、僕は、僕には、幼少の頃に壮絶なトラウマがある。その心の傷がまだ癒えてないんだ。こればっかりは経験したことある奴にしかわからないことだ。だから、だから……」
「だからなんだというのだ。見切り発車でしゃべりおって。ふん、だが拙僧には理解できるぞ。貴様はこう言いたいのだ。だから、逃げてもしょうがない。他人を信じきれなくてもしょうがない。だって、それは全部トラウマのせいで、僕のせいじゃない。僕は悪くない。とな」
「違う」
「違わない。プライドが邪魔して言葉が紡げなかったのだろう。拙僧から言われたことを意地でも認めたくなかったのだろう。そして、すでに癒えているトラウマのせいにして逃げる自分に、情けなさを感じた。だから、何も言えなかった」
「的外れだ。僕が言いたいのは、そんなことじゃない」
「じゃあ、何が言いたかったのか、その口で語ってみろ」
「それは…………」
「ふん、逃げ腰なくせにプライドだけが高くなっていくから貴様自身、自分のことが手に負えなくなるのだ。何かあればすぐ自己弁護に走る。どうせ心の中で知的民族知的民族と自分に都合のいいように口走っていたのだろう。知的民族などという響きだけ綺麗な言葉で自分の本質を言い表したと思うなよ。とどのつまり、貴様はヘタレなだけだ」
「……見透かしたようなこと言って満足かよ。上から物言って悦に浸るなよ。バカにしやがって。そうやってずっと僕を見下してきたんだな。お前の考えを僕に押しつけるな」
「言葉に覇気がないな。図星だったわけだ」
「お前の煽りには品がない。下品だ。相手の気を逆なですることしか考えてない」
「それは貴様もだろう。拙僧にはわからない事象を使って拙僧を困らせようとする。まるで手のかかる子どものようだな」
「いい加減にしろよ。何が言いたいんだよお前は!」
「甘えるなくそったれということだ」
僕の左頬に視界を揺さぶるほどの強烈な痛みが走った。僕は姿勢を崩し、地面に突っ伏した。
僕は見上げる。理解するのに三秒かかった。時實が、僕を殴ったのだ。
「お前……!」
怒りに駆られて反撃。
僕の右フックを時實は避けずに受け止めた。
時實は不動のまま僕の前に立ち塞がる。
「それでいい。やられたらやり返せ。気力を振り絞れ。泣き寝入りなど言語道断!」
もう一度殴る。時實は避けない。
さらに追撃。時實は微動だにしない。
壁のようだ。僕の攻撃がまるで効いていない。
「最初貴様を見たとき、拙僧はどうしようもなくムカついた」
やけくそで僕は蹴りを入れる。
「こんな奴がどうして家子の運命なのかと、思わない日はなかった」
時實の頭突きが僕の頭蓋骨に響いた。
視界が突然フラッシュしたかと思うと、僕は仰向けに倒れていた。
「貴様のことを憎く思ったよ。だがな」
時實は僕の胸ぐらを掴んて起こした。
「憎らしい奴め。いつの間にか、貴様の友人になっていたではないか!」
「知るかよ!」
「拙僧がただのヘタレと友人になると思うか。貴様はヘタレだが、どうしようもないヘタレだが、ただのヘタレではない」
「ヘタレヘタレうるさいんだよ!」
「貴様はやられたらそのまま泣き寝入りするようなヘタレじゃない。十年一日で進歩しない貴様ではない。だというのに、そうやっていつまで現状に甘えているつもりだ」
「……甘えて何が悪いんだよ!」
僕は時實の手を振り払った。
「お前みたいに達観した精神なんて持ってないんだよ。お前みたいに大人じゃないんだよ。ガキだよ! 未熟だよ! 変われるかよ! だって僕はまだ高校生だ、大人じゃないんだ! そうだよ、ヘタレだよ。甘ったれヘタレ野郎だよ! 文句あんのかボケ!」
そうだ、僕はヘタレ野郎だ。わけわからん何かしらになぜかウジウジするようなヘタレだ。
時實の客観的で達観した視点が羨ましくて仕方がないただのクソガキだ。
家子彩琶とかいう正体不明の女の名前を聞く度に尻尾巻いて逃げ出したくなるようなチキンだ。
家子彩琶とは何者かは知らないが、この抜け落ちたような記憶の空白を埋めるのはその家子彩琶という女かもしれない。世界がしっちゃかめっちゃかになっているんだ。僕の海馬が操作されて、記憶が隠蔽されていたって考えて見れば疑問はない。くぬぎならやってのけるだろう。
「桂木、それでいいのだ。変わる必要などない」
「言ってることが矛盾してる!」
「していない!」
時實は僕の顔をわしづかみにし、
「拙僧は甘えるなと言ったんだ。それすなわち、自分を認めろということ。嬉しいぞ桂木。年相応の拙い叫びじゃないか。気づいているか? 貴様は今成長したのだ」
「成長? っざけんな! 僕は後退した。僕は幼稚になった!」
「その認識が貴様を前進させているんだ。さあ、桂木。次のステップだ。貴様がすることは決まっている」
「前進なんかしているわけないだろ! 見ただろ、この未熟な僕を!」
「見る前から知っている。貴様の心はずっと未熟なままだ。だがな、その心は捨てなくていい。今、貴様が認めた半端な心を抱き込んで、次へと向かうんだ」
時實はさらに強く僕を見据え、
「成長するためには生まれ変わらなければならないと思っているのなら、即刻そんな考えは捨てろ。これまでの自分を捨てる必要などない! 成長とは積み重ねだ。今までの自分を捨てて一からやり直すなど、現実逃避となんら変わらん。自分を背負い続けるのだ。重みのない前進など、足踏みしていることと同義だ!」
時實の高説が体に染みていく。本気で僕のことを考えてくれていることが伝わってくる。僕は、これまでの人生で、こんなにも僕のことに真剣になってくれた人に出会ったことがあるだろうか。
そう思うだけで、涙が溢れてくる。
「……じゃ、じゃあ、僕はどうすればいい。僕は……、どうすればいいんだ!」
時實はしかつめらしい顔を晴朗な笑顔に変えた。
「使命を思い出せ。失ったものを取り戻すのだ。これまでの貴様と一緒にな」
そう言うと、時實は僕から手を離した。僕はベンチに座り、最初にやるべきことを考える。考えつくのは、一つだけ。
「時實、家子彩琶についてもっと教えてくれないか」
僕と、時實のキーパーソン。僕が消したという女子。家子彩琶。
そして、僕の運命の人らしい。
予感がする。
きっと、この一連の事象の原点なのだ。
この物語は、家子彩琶から始まったに違いない。
時實は家子彩琶について立ちっぱのまま洗いざらい教えてくれた。中には、情景的に僕と家子彩琶以外知らないようなことまで含まれていたが、ここまで来たら時實も普通の人間ではないだろうし、不思議と疑問には思わなかったが、僕のプライベートをどこまで知っているのか後で問いたださなければならないようだ。
時實の話を聞けば聞くほど、僕の心が早鐘を打ち始めた。的確な言葉を当てはめるとするならば、初恋……の気持ち? なのだろうか。
僕が不在の間、家子彩琶は自分の足で時實の家に向かったのだという。
「家子は勘づいていたようだ。拙僧が普通ではないことをな」
その真相を突き止めるためにこっそりと時實の家に向かったらしい。僕同伴じゃダメだったのか?
「最初にその話を持ちかけられたのは部室でのことだった。タイミング悪く貴様が帰ってこなかったら、その場で全て話していたのだがな。貴様には聞かれてはまずいことだったのだ。サシで話し合おうと持ちかけたのは拙僧だ」
「なんで、お前の家だったんだ」
「来てしまったのだ。仕方がないだろう」
時實はうん、うん、と二回うなずき、
「そして、拙僧たちが会合している間、貴様はくぬぎとやらに意地悪をされていたのだな」
「……どんな、意地悪だったかも思い出せないな」
「ふん、おおかた家子が拙僧に好きと言ったと勘違いさせたのだろう。あれは、貴様に対して言っていたことだ。なにせ、あのとき拙僧は貴様の恥ずかしい話で家子をもてなしていたのでな」
「僕の人生の汚点のような話を勝手にされて、しかもそのもてなしが成功していただなんてこれまで聞いた話以上の驚きだよ」
「拙僧も、たまには茶目っ気を見せつけていくのだ」
「お前に萌えキャラはムリだ。お前には破戒僧が似合ってる」
「心外だな。拙僧は修行僧だ」
「まさか、いきなり殴ってくるとは思わなかった」
「困ったらパワープレーだ。覚えておけ」
「その考えが武闘派すぎるんだよなぁ」
奥歯がジンジンするぅ。いつかの間仁田みたいだ。痛い……。
ささやかな笑いのあと、時實は僕が今ここに至るまでの経緯を説明した。
軽くなっていた胸の痛みが戻ってきた。それと同時に、前向きな感情が強く心に芽生えた。
「ところで桂木。貴様は拙僧の異常性を知っていながら、深くは追求してこないのだな。貴様の能力を使えば、いくらでも知れるというのに」
時實にも何か超常的な力が宿っているのはもはや自明の理だ。能力の概要についてもなんとなく想像できている。だが、時實が進んでそれ以上を言わないということは、聞かない方がいいと言うことだ。それに、能力を使って言葉から類推したり、問いただしたりするより、自発的に話してくれる方が嬉しいしな。
「お前が自分から話すのを待つよ」
「そうか。おそらくこの騒動が終わるまでは話せないだろう。拙僧もくぬぎ同様、先を読んで読んで読みまくっているのだからな」
言うまでもなく、くぬぎが言っていたお邪魔虫とは時實のことだったのだ。僕の知らないところで高度な心理戦が行なわれていたらしい。
時實からの説明が全て終わり、なんとなく話すこともなくなって、さて次の行動に移すかと考えたとき、僕の頭をよぎったものがニューロンに強権を発動させた。
「なあ、時實。お前のこと仰翠って呼んでもいいか?」
言いながら自分が恥ずかしいことを言っていることに気づいた。発言を取り消そうかと思った矢先、
「ならば、貴様のことは文士と呼ばせてもらおう」
なんの恥ずかしげもなく時實があっさりと言い切った。
僕がたじろいでいると、時實は貴様から言いだしたのではないかという笑みを見せ、
「改めてよろしく頼むぞ、文士」
と、握手を求めてきた。
まあ、ちょっと恥ずかしいが、たまにはこういうのもいいかもしれない。
「こちらこそ、仰翠」
僕は立ち上がって手を握り返した。
こういう展開のあと、どれくらいのタイミングで手を離せばいいんだろう。
間がよく、電子音が鳴った。僕のスマホから鳴っている。
画面に目を落とすと、間仁田と書かれていた。
「もしもし」
『もしもし! 刈米さんが、刈米さんが……! パン屋狩りに追われているんだ!』
間仁田の声からして、相当切羽詰まった状況なのだろう。
「文士」
……慣れないうちは恥ずかしいな。
仰翠は魔王城へ突入する前の僧侶のような面持ちで言った。
「さあ、正念場だ」