第五章
第五章
家子は昨日のことなんて忘却の彼方にやってしまったかのように、いつも通り僕にベタついている。
正直言って僕はまだ昨日のことを引きずっている。というか、家子の顔を見る度に、僕は昨日のことを思い出して、忸怩たる思いにむせび泣くだろう。だから家子のテンションについていけない。これが空元気じゃなければいいのだが。
そんな入り組んだ思いを抱えた授業の一コマである。
僕が得意でもなければ不得意でもないし、好きでもなければ嫌いでもない数学の授業をあくびを奏でながら聞いていると、家子が授業なんてお構いなしの声量で話しかけてきた。
「有力な情報」
当然、僕は答えることができない。だから僕は筆談をすることにした。
『大声出すな』
いくら誰からも見えていないからといって、授業中に大声を出すのは、マナー違反な気がする。義務教育を終えた者なら、当然の帰結だろう。
「協力者」
『説明求む』
「何某の」
……何某?
「あっ」
記憶をまさぐり、ある解答に行き着いた。
何某とは、かつて家子と家子の能力についてあれこれ語ったとき、家子と契約をしたという謎の人物に対して僕が便宜的に使った不定称の指示代名詞だ。
僕は急いで黒板の方を見た。家子の指が指し示す人物は…………、
「マジで?」
「マジ」
「ウソだろ?」
「マジ」
「なんで今まで言わなかったんだ!」
「言う必要なかった」
確かに透明化についてなんとかしようとし始めたのは昨日のことだが、だからといって、こんな間近にあった手がかりくらい教えてくれたってよかっただろ。
「君さあ…………あっ」
しまった。
クラス全員が僕を駅員に捉えられる泥酔したサラリーマンに向けるような目で見ている。それに、いつの間にか僕は立ち上がっていた。
すかさず緊急着席。クラスメイトの目が痛くて伏せた視線の先に、過去の自分からのメッセージが記されていた。
『大声出すな』
……すんまそん。
「なあ、桂木。先生にとっての一年半と学生にとっての一年半って、実は同じ価値なんだぜ? 世間じゃ若者の限りある時間とか言われてチヤホヤされてるけどな、お前たちのとりあえずのゴールは大人になることだろ? 先生たちのゴールはもう年老いて死ぬことなんだよ。第二章は始まんねえんだわ。先生な、お前と出会って、もう一年と十ヶ月近く年老いちまったよ。先生の残りの寿命を数学的に計算しようか」
「……文句なら彼女に言ってください」
「わかった。じゃあ先生今から三百六十度頭グリングリンしながら文句たれるわ。なんたって先生には家子が見えてないんだからな。どの座席に座ってんのかもわかんねえ。桂木は虚空に向かってひたすら喚く俺をその目で焼き付けとけよ。反面教師としてな」
「ちゃんと前見て運転してください」
後部座席をガッツリ見ながら運転する長老に僕は忠言した。
僕と家子は今、長老の軽自動車の後部座席に座っている。家子は僕の右隣で代わり映えのしない高速道路の景色を黙って眺めている。
家子が授業中に指さした相手、それは長老だったのだ。
僕たちは授業後すぐに長老のところへ行った。すると、
「うし、放課後ドライブすんぞ」
と言われて今に至るだ。
夕日に対抗してサングラスを着用している長老に僕は言った。
「どうして今まで教えてくれなかったんですか」
「大人には大人の事情ってもんがあるんだ。これからお前らが会う奴に、協力を求められるまで何もすんなって言われたんだよ。おかげで先生、すっかり教職が板についちまった。どうしてくれんだ。まったく天職とはこのことだぜ」
「……その、僕たちがこれから会う何某とは、どんな人なんですか」
「そうだなあ」
長老はそう言いながらカーステレオを操作して音楽をかけた。後生に多大な影響を与えた福岡のロックバンドの曲だ。題名的に今の家子にピッタリの曲かもな。
「アイツのことを知る前に、お前らは俺のことを知った方がいいんじゃねえかな。よって桂木、質問だ。桂木、俺の本名言ってみ?」
「それは…………あれ?」
なんだっけ。全然思い出せない。担任の先生なのに。部活の顧問なのに。
「すみません。わからないです」
「じゃあ、俺は何歳かわかるか?」
「それは……、普通にわかりません」
「なんでもいいから言ってみ」
「…………二十八くらいですか?」
「ありがとな。先生、もっと歳いってるんだわ」
長老はカーステレオの音量を下げて、ルームミラー越しの僕に向かってキメ顔のような顔を作った。いや、まあ、うん、前向いて運転してくださいよ。
「先生、今から凄いこと言うぜ。ゴールドバッハの予想の真実よりも凄いこと言うけど、信じて受けとめてくれる?」
長老は唐突に某漫画の名台詞を口走りながら、僕の方に振り向いた。だから前見て運転してくださいよ。
「先生な、もう二千年以上生きてんだ」
「は?」
「若く見えるかもしれねえけど。あだ名の通り、長老なんだわ」
「あの……」
「名前もな、必要ないとか言われてアイツが消しちまった。戸籍とかないから調べようがねえんだわ。うし、桂木、俺の名付け親になってみるか?」
「ちょ、ちょっと」
この人はさっきから何を言ってるんだ。頭おかしくなったのか?
「先生のこと、頭おかしい奴だと思った? ごめんな、先生なのに頭おかしくて。でもお前はそんな奴から一年半も数学を教わって、今だって命を委ねてんだぜ。俺のドライブテクによ。突然だが、トばすぜ」
「うあっ――――!」
振り切れていくスピードメーター。周りの景色がミキサーにかけられてスムージー完成一歩手前みたいになっていく。
「安全運転お願いしますっ!」
僕の狼狽える声を、
「さっきから早く来い早く来いって、脳内電波がうるせえんだよ。すまんが、耐えててくれ」
別に高ぶっているわけでもなく、いつも通りの声色で長老はそう言った。
車の間を縫って二つの斜線を高速で行き交う。負けじと競ってくる普通自動車の前に割り込む我らが軽自動車。
「軽自動車のくせにとばしすぎですよ!」
「え? 軽自動車バカにした?」
「こんな運転してたら、捕まりますよ!」
「安心しろ。警察もオービスも俺を止めることはできねえ」
フル加速。まだ力を残してやがったかこの軽自動車。
「きゃー、遠心力ー」
まったく遠心力関係ないところで、横に揺れて僕にくっついてくる家子。この状況を全力で楽しんでやがる。
「覚えとけ桂木。ここ、愛知じゃマトモな運転してる方が危ねえんだ。つまり、俺の走りは愛知県クオリティ」
「愛知県を免罪符に使わないでください!」
「これが尾張小牧の走り!」
「うわあああ!」
「これが三河の走り!」
「うわあああ!」
「これが名古屋の走りだ!」
「うわあああ!」
車体をジェットコースター以上に揺らしながら長老はコロコロと走り方を変える。家子はついにシートベルトを外して僕に飛びかかる。
「豊橋、豊田、岡崎、一宮、春日井!」
「いい加減にしろおおお!」
「真面目な話するからよく聞け桂木」
「真面目な運転してください!」
長老はカーステレオの音量を上げた。気分が乗ってきやがったな。曲は次の曲に移り、曲名は僕たちが事故って葬式が開かれたときに、参列者たちが聞くことになりそうなものだった。
「今からお前たちが会うのは、俺を二千年以上生かし、名前を消し、世界を玩具のように扱う化け物みたいな女だ。常識も洒落も通じるからなおのこと末恐ろしい。人間のフリした元人間だ。気張ってけよ!」
「話が入って来ないんですよおおお!」
長老はまた音量とスピードを上げた。
命からがら息も絶え絶え、ようやくどこかの田舎町に停車した。不思議と酔わなかったが、僕はすぐさま車から降りて、外気を堪能した。生きているって素晴らしい。
家子も僕と同じ方のドアから降りて、大きく蹴伸びをした。まったく気疲れしていないご様子だ。
僕は夕間暮れの住宅街を見渡しながら、車の鍵を指でくるくる回す長老に尋ねた。
「ここ、どこなんですか」
「標識見なかったのか?」
「見る余裕があったとでも?」
「しょうがねえだろ。愛知県クオリティなんだから」
「今すぐ愛知県民に謝ってください」
おそらく今いる場所は愛知県ではない。なんとなく、関西方面に向かっていた気がしたが、どの辺なんだ?
僕がスマホで現在地を確認しようとすると、
「ちょっと歩くぞ。こっちだ」
そう言って長老が歩き出した。まあ、現在地なんてあとでいいか。
長老について行きながら、僕は僕に寄りかかりながら歩く家子に質問した。
「君はここに来たことがあるのか?」
「ない」
「じゃあ、能力はどこで消してもらったんだ」
「私の家」
「…………」
わざわざ命の危機にさらされながらここまで出張らなくとも、呼び出そうと思えば呼び出せたのか……。
悲嘆に暮れながら歩くこと数分、長老は古ぼけたアパートの前で立ち止まった。
「ここだ」
そう言って敷地の中に入っていく。
相当年季が入った二階建ての木製アパートだった。破損箇所が目立ち、建物の半分以上が、元気な植物に覆われていた。
カラスの断末魔のような声を上げる階段を踏みしめ、二階に上がった。そして、長老が奥から二番目の部屋の鍵を開け、
「度肝抜かれんなよ」
と言って、入室を促した。
「なっ……!」
一歩入ったところで、僕は度肝を抜かれた。
昭和初期の売れない小説家が住んでいた部屋がこの時代でも使われているような、そんな四畳半の小汚い部屋を想像していた。
けど、けど、だ。アパート全体の敷地よりも俄然広いんじゃないか?
まさに目の前の広大な光景は、僕の想像とはまったく対義語になりそうな光景だった。
まず、シャンデリアがある。光ってたからそれが最初に目についた。そして、ステンドグラスもある。これも差し込む光がキレイだったから眼に入った。明るい室内とは相反して、使われている木材が真っ黒だから暗い印象も受ける。
「上行くぞ」
長老は中央に鎮座した階段を上がっていく。僕は穹窿天井をアホみたいに見上げながらそれについていく。
長老が化け物と言ったからそれなりの覚悟をしていた。が、こんなにも非現実なことが起こるだなんて想像すらできなかった。突拍子もなさすぎて逆にすんなり今の状況を受け入れてしまったではないか。家子に初めて迫られたあの夜よりも冷静だ。
階段を上りながら真正面に備え付けられたステンドグラスから光が差し込んで来ることに対する違和感を覚えた。なぜならステンドグラスからはまるで真昼のような光量が漏れ出しているからだ。今はもう日が暮れてしまっている。なら、ここは、ボロアパートの中でも、なんなら日本でもないのかもしれない。……日本ではないなんて、僕は今しれっと凄いことを言ったな。
階段を上がると、長老は右の廊下を進んでいき、サーキュラー階段を上りきったところで立ち止まった。
「この部屋にお目当ての奴はいるぞ」
目の前の扉を開き、また入室を促した。
部屋は真っ暗だった。電気もつけていなければ、外から光が漏れてもいなかった。
心霊スポットになった近所の山のトンネルよりも不吉な暗闇に纏われた部屋の前で僕は立ち止まった。このまま入っていいのだろうか?
僕が訝しんでいると、
「いらっしゃぁい」
中から声がした。聞いたことのある声だ。というより、聞きたくもない声だ。
全身が硬直した。駆け抜けていく悪夢。
暗黒色な部屋の中から、ひときわ目立つ白い手がぬっと飛び出し、それが腕を伴い、僕の首にまとわりついた。
僕は一瞬で家子のベタつきが恋しくなった。僕の目の前にいる人物は、僕にとってトラウマそのものだ。
「久しぶりぃ。文士くん、大人になりましたねぇ」
神様にだって明かしたくない苦い記憶。
「さあ、遊びましょ」
長いストレートの黒髪に、とろけ顔の端正な顔立ち。十年前とまったく同じセーラー服を身に纏った女子高生。
「天田ヶ谷……くぬぎ」
「そう、くぬぎちゃんでぇす」
僕の悪寒を刺激した。
くぬぎは僕から離れると、指を鳴らした。すると、景色が一瞬で様変わりし、その眩しさに僕は少しだけ目をつぶった。
見渡しても何もない草原だった。遠くに山もなければ、雲もない。おまけに太陽すらない。不吉なまでに青々とした空が僕らを見下ろし、どこからともなく爽やかな風が吹いている。地元よりもだいぶ寒い。
驚愕したか否かと問われれば驚愕したが、やはりすんなりと受け入れてしまう。なぜなら、目の前にいる仇敵が十年前とまったく変わらない姿で、僕のことをニヤニヤしながら見ているからだ。あの顔を見るだけで、僕はすくみ上がってしまいそうだったが、今は領有権を主張するかのように僕にまとわりつく家子になんとか支えられていた。
「文士くん、顔怖いよぉ。ほぉら、笑ぁってぇ。すまぁいる」
僕はさらに目力を強めた。コイツとの会話は危険だ。ちょっと気を許すと、あのけだるけな雰囲気に飲み込まれてしまう。
「とりあえず、座りましょ」
天田ヶ谷くぬぎが向けた顔の先には、場違いにも程があるほど悪目立ちをしている、一台のこたつがあった。ご丁寧にカーペットまで敷かれている。なんなら座布団まで完備してある。意味がわからない。
僕がこたつにどんなトラップが仕掛けてあるのだろうかと考えていると、家子がこたつの快楽に逆らえなくなった猫のように歩き出した。家子が歩くということはくっつかれている僕も当然歩くことになる。
「待て待て」
僕は踏ん張る。
「危険だ」
「大丈夫」
「さすがは彩琶ちゃん。疑うことを知らないのは美徳ですねぇ」
当然と言えば当然だが、くぬぎには家子が見えているようだ。
天田ヶ谷くぬぎの茶々を無視し、
「そうやって後先考えず行動するからあの異常者につけ込まれるんだ。自分の行動をいっぺん省みなさい」
「大丈夫」
「強情だな」
「文士くん、文士くぅん、そんなに疑われるとやぁですよ。傷ついちゃうです」
「黙れ。かつてお前が僕にしたことを思い返してみろ。訴えれば勝つのは僕だ」
「まぁまぁ、落ち着いてぇ落ち着いてぇ」
またくぬぎは指を鳴らした。
「は――!?」
気づけばこたつに座らされていた。温かい。電気なんて通ってなさそうなのに温まっている。
なんなんだコイツは。なんなんだこの天田ヶ谷くぬぎという女は。
「文士くぅん」
僕の対面に座った天田ヶ谷くぬぎは肘をついて両手で頬を支えながら、
「天田ヶ谷くぬぎだなんて他人行儀な呼び方はやめてほしいなぁ。くぬぎって呼んで」
精神を握られたかのような感覚。当然のように僕の心を読みやがった。
「くぬぎって呼んでくれないとぉ、このおっさんみたいに名前消しちゃうかもよぉ」
おっさんと呼ばれた長老は不服そうな顔を天田……くぬぎに向けた。
「さぁ。さぁ」
僕は苦虫を噛みまくって大便器に吐き捨てるかのように、
「……くぬぎ」
「はぁい」
不服だ。まったく不服だ。
やめろ、家子。そんな目で見ないでくれ。確かにまだ君を名前で呼んだことはないが、これは仕方のなかったことなんだ。僕の名前がなくなるなんて、君も嫌だろ?
「それじゃぁ文士くん。何から話す?」
くぬぎが仕切りだしたことで、僕は家子の視線から逃れることができた。
こたつを囲んだ鳩首凝議が始まった。
こたつは正方形で、僕の真ん前にはくぬぎ、斜め右に家子、斜め左に長老という配置だ。そして、いつの間にかこたつの上にみかんが置かれていて、これまたいつの間にか四人全員がわた入りはんてんを着ていた。絶対にくぬぎの仕業だ。いつ指を鳴らしやがった。
みかんの皮を剥いているくぬぎに僕は話しかけた。
「まずは、透明化現象について話してもらおうか」
みかんを剥き終えたくぬぎは、
「んじゃ、ちゃぁんと聞いててねぇ」
「そのためにここまで来たんだ」
「話すよぉ。あたしが彩琶ちゃんと契約して元あった感情を読み取る能力を消してあげたのはぁ、もう知ってるよね?」
「ああ。そしたら、能力だけじゃなく、姿まで消え始めた。これはどういうことなんだ。姿が消える、誰からも見えなくなる、というのが能力を消す条件だったのか?」
くぬぎはみかんを左右に振りながら、
「ちっちっちぃ、ふせいかぁい。あたしはぁ、能力を消してあげる代わりにぃまた新しい能力をあげたんですよぉ」
「新しい能力?」
「見えなくなる能力」
そう言うとくぬぎは長老の方をチラリと見た。長老は溜息をつきながらこたつの上のみかんを取ってくぬぎに投げつける。
「それでねぇ」
くぬぎはまたみかんを剥きながら話し始める。
「その能力がどんなものかというとぉ」
剥いたみかんをくぬぎは家子に渡した。家子は一房取り、くぬぎに果汁を飛ばし始めた。飛び散った果汁は空中で滞留したかと思うと、とんでもないスピードで長老の目に吸い込まれていった。
「くそがっ」
目を押さえ、長老は悪態をもらしながら机に突っ伏した。
「先生な、思うんだ。人が真面目な話をしているときに必要以上におふざけを入れてくる奴は友達を大切にしない奴だってな。桂木、くぬぎみたいな大人になるなよ。見ろ、あいつ友達いねえんだ。そして、俺は善良なはずなのに友達いねえんだ。なんでかな、ちくしょう」
果汁の涙を流しながら長老は言った。
「ゆるしてちょんまげ」
長老の言論を軽く受け流すくぬぎ。僕はなんとなくだが、くぬぎに家子と近しい何かを感じて、長老に僕と近しい何かを感じた。
僕は長老を見て、暗澹たる溜息をついた。
「話を続けてくれ」
僕が先を促すと、
「はいはぁい」
と、軽く答えて、
「見えなくなる能力。姿はあるけど、人から気にされなくなる。まぁ、盲点みたいなものだねぇ」
「盲点?」
「そう、彩琶ちゃんのことをみぃんな見落としちゃう。そこにいるのにぃ、見えないわからない。まるで透明人間のように」
くぬぎの説明を聞きながら僕は家子を見た。家子は特に何も思っていなさそうな素振りで聞いていた。
「でも、彩琶ちゃんという存在が完全に消えたわけじゃなぁいからぁ、みんなはふとした瞬間に思い出して、忘れちゃう。忘れたことにすら気づかずに。悲しいよぉん」
「待て。誰からも見えていない理由はわかった。だが、それが能力を消すこととどうつながるんだ」
「盲点になるならないは彩琶ちゃんの認識次第だよぉ。彩琶ちゃんが対象に見られたくないと思えば見えなくなるしぃ、見られたぁいと思えば見えたまぁんま。彩琶ちゃんはこう思ったんだよ、能力なんて消えちゃえぇって。そしたら彩琶ちゃんからは能力が見えなくなった。実質、消えたのと一緒だよねぇ」
「なるほどな……」
すると、家子は学校の連中や家族からも見られたくないと思ったことになる。だから誰からも見えていない。が、そこにいるものとして扱われている。
そして、家子のことが半透明に見えている僕は、家子からどう思われているのだろうか。半分見られたくて、半分見られたくない。そう思われているのだろうか。
家子が徐々に薄れていっていることに気づけなかったのは、僕の中で家子が盲点になりつつあったからなのだろうか。そして、薄くなったまま濃くならない家子は、僕のことを……。
僕のことを以前よりも好きではなくなってしまったのだろうか。いつものように、ベタついてくるくせに。
「彩琶ちゃん自身がうすぅくなってる理由はぁ、文士くんの考えているとぉりかもしれないしぃ、違うかもしれないよぉ」
また心を読みやがった。恥ずかしいな。
家子が僕に好奇な目を寄せてくる。見るな見るな。
「彩琶ちゃんが自分のことなんて見たくなぁいって思ってる可能性があったりしちゃうんですねぇ」
「どういうことだ」
「にぃんしきにぃんしきぃ。自分のことを見たくないって思えばぁ、自分のことが見えなくなぁっていく。他人に対してできることなら、自分に対してもできちゃうんだねぇ。そして世界の盲点になっていく彩琶ちゃんの体は消えていく。完全に消えて、もう誰も思い出せなくなる」
こたつの中で家子の手が僕のズボンの裾を引っ張った。
「たまに、あった」
家子がそう言うと、くぬぎがすかさず、
「そうだねぇ。時々不安定になってたねぇ。文士くん、たまに彩琶ちゃん消えてたんだよ。忽然と、跡形もなく。ひやひやしたよぉ。消える度に気力を持ち直して姿現してたけど、文士くんは気づいてたかなぁ?」
消えてた? これまでも? それも何回も?
思わず身震いした。そんな、そんなことがあっていいのか。
「まあ、ムリもないことです。あたしくらいしか気づけませんからねぇ。きっと、この世界を神様視点で読んでくれちゃってる人も、彩琶ちゃんが盲点になっちゃってることがあったんじゃないかなぁ。遡って読んでみれば、あれぇ? 彩琶ちゃんはいずこへぇ? ってなちゃうかもよぉん」
どこにともなく語りかけたくぬぎは僕に向き直り、
「そんな感じだからぁ、文士くんは彩琶ちゃんのことを大事にした方がいいかもよぉん?」
恐ろしくて、理不尽な能力だ。そして、本当に性格が悪い。
「能力を消してくれ」
「ム・リ」
「なぜだ!」
僕は拳で思いっきり机を殴った。体が勝手に動いてしまったんだ。
「落ち着け、桂木」
長老が僕の肩を軽く揉んだ。
「くぬぎはムリなんて言ったが、あいつに不可能なことはない。まだ話には続きがあるんだ。それと、くぬぎ。お前は意地悪な言い方で桂木を揺さぶるな。年長者として恥と思え」
くぬぎは長老の譴責など素知らぬ風でみかんを手に取った。
「……お金か?」
僕は怒りをかみ殺しながら問いかけた。
「そんなちゃっちぃものいりやせんよぉ。あたしの契約は基本ロハでやってるんで」
そうか、契約か。
「なら、その契約を破棄に――」
「それもダメぇ。一度した契約は白紙には戻さない契約です」
「……一体どんな契約をしたんだ」
「知っての通りそのまんまだよぉ。能力を消せる能力をあげるねって。しっかり懇切丁寧にさっき話した見えなくなる能力の説明も彩琶ちゃんにはしたんだけどなぁ。あんまし、親身になって聞いてなかったよねぇ」
思わず家子を見た。家子は僕を真っ直ぐ見ながら、
「疲れてたから。つい」
軽く舌を出して、テヘペロみたいな顔を作りやがった。
過去一デカい溜息が僕の口からはき出されていく。つい、じゃなくてさあ。
僕は反論できなくなった。なぜなら、これは完全に家子のミスだからだ。本人もそれを認めてしまった。この上、契約にいちゃもんをつけるのはお門違いだろう。
くそ、どうすれば。
「そこでお二人に提案があるよぉん」
「……言ってみろ」
「あたしと、もう一度契約しましょ」
みかんを一房ずつに分解しながら、
「といっても、文士くんとあたしはもう十年前に契約しちゃったですけどねぇ」
「は?」
「あのときぃ、一方的に契約しちゃいましたぁ」
僕はくるみ割り人形のように口を開けて固まった。もう契約しただと?
「押し売りだ! 今すぐ破棄する!」
「まぁまぁ、話聞いて聞いて」
「こいつ……!」
いつだ! どのタイミングだ! くそ、思い出したくない!
「契約しただけでぇ、まだぁお互いの利益については固めてないんでぇ、今から詰めていきましょ。妙案があるんで落ちついてくださぁい」
「……言ってみろ」
「簡単にまとめるとぉ、文士くんたちがあたしを楽しませることができたらぁ彩琶ちゃんの能力を消してあげます。お互い得する話でしょぉ?」
「楽しませるってどうやって」
「今のこの世界にはあたしが仕組んだ異常が二つある。それを文士くんたちに解決してもらう。あたしはそれをここから見てる。こんなかぁんじ」
「異常を……解決」
「その異常の発生源は文士くんの間近の人たちなんでぇ、探そうと思えばすぐ見つかるよぉ」
「異常なんて、この世界にあるのか?」
「ある。けど、文士くんは気づいていない。それが常識だと思ってる。あたしのせいでねっ」
「…………」
「けど、彩琶ちゃんは異常に気づいてる。これまたあたしのせいで。だからぁ、彩琶ちゃんはぁ、お口チャックでお願いねぇ」
そう言われた家子は酸素を取り込もうとするメダカのように口をパクパクし始めた。
「ざんねぇん。言えないよぉん。禁則事項ぉ」
どうやら、くぬぎが変な術をかけたらしい。
「待てよ、僕が異常に気づけないんじゃ、どうしようもないじゃないか」
僕のごもっともな意見を、
「安心していいよぉ。文士くんが気づけるような仕掛けはぁ、もう十年前に仕込んでありますからねぇ」
また十年前か。くそ女め。
「文士くんにもあるんだよぉ。能力が。あたし印のね」
「僕に、能力?」
にわかには信じがたい。僕の体にも家子のような超常的な力が宿っているというのか。男子なら一度は夢見るシチュエーションだが、それを授けたのがくぬぎとなると、心の底から喜ぶことはできない。
「文士くんには、フィルターを外す能力が備わっているんだよ」
「……フィルター?」
「そう、この世のあらゆる事象にかけられたフィルターを外すことができる能力。あたしが教えてあげたことによってぇ、意識できるようになったと思うから、見てみてごらぁん」
見てみろと言われても、具体的にどうすればいいのかわからない。とりあえず、目をつぶって、よく漫画やアニメの超能力者がするように力んでみるか。
「お……!?」
僕は今、まぶたの裏を見ているはずだ。
なのに、空間が見える。
真っ黒な空間に不透明な板が立ち並んでいる。これがフィルターと言うやつだろう。そして僕は、それが何を覆い隠しているものなのかなぜかわかってしまっている。
「文士くんがそのフィルターを外すとぉ、フィルターが覆い隠している事象をよぉく知ることができるよぉ。ただ、これは一の知識を百にするだけ。元々知らないものは知ることができない」
「それは……つまり?」
「たとえば、このこたつ。温かいよねぇ。文士くんは、こたつの形やどうして温かいのか、多少の知識はあるよね。それをもっと鮮明に理解することができるってことなんだぁ。正確な長さとか、どれくらいの熱が発せられてるのか、とぉかね」
「……そんなこと知ってもな」
「人の気持ちもわかるんだよぉ。その人が今まで話した言葉の節々、ニュアンス、表情、動作。これらのちょぉっとした情報から文士くんはその人の内面を知ることができる」
……もっとふわっとした能力を想像していたが、なんか複雑になってきたな。
「つまり、文士くんはフィルターを外すことによってぇ、必ず的を射る超直感を働かせることができる」
そこまで言うと、くぬぎは人差し指を立てて、
「ただし、ひとつ外すだけでとぉっても疲れるんだぁ。人間が無意識のうちにシャットアウトしている情報を意識的に取り入れるんだからねぇ。文士くんは今、本能的にたくさんのフィルターをかけている。じゃないと、頭がパンクして吹っ飛んじゃうからね」
もし、何かの弾みで僕が本能的にかけているというフィルターが外れていったりでもしたら、その時点で僕の人生は終了していまうということなんだろう。おそろしい。こんな能力気づかない方が幸せだったかもしれない。
「異常のあるフィルターを文士くんは探してみてねぇ。外し方は簡単だよ。ただ、外れろと念じるだけ」
探してみてと言われても、むやみやたらに片っ端からフィルターを外していくわけにはいかないし、そもそもその異常とやらをどうやって知るかが問題だ。外す前からわかるようになっているのだろうか。
「あ、気づいた異常を誰かと共有したいときはある手順を踏めばいいんだよぉ。それをすれば文士くんが見ている世界――どのフィルターを外していて、外していないかを共有することができるんだぁ」
「……その手順というのは?」
「さぁ。それは文士くんが自分で気づいてくださぁい。ヒントは十年前にあたしがしたことです」
思い出したくない記憶を思い出せというのか。なんてむごいことを考えるんだ。
「文士くん。これから大人の遊びを楽しみましょうねぇ」
そうだ。なら、さっそく能力を試してみよう。
くぬぎの説明通りなら、今日僕がくぬぎから聞いた言葉の節々。そこから、共有するための手順とやらを導き出せるんじゃないか? くぬぎの言葉を一として、そこから僕は隠された百を知る。それに、使ったことによってどれくらい疲れるか知っておきたいしな。
目を閉じる。
くぬぎの前にあるフィルターを見据え、僕は強く念じた。
フィルターが外されていく。
僕の中に情報が流れてk――――――――――――――――――
――――――――――ん?
「おう、気づいたか」
視界に飛び込んできたのはしゃがんだ長老の眠そうな顔だった。
「あれ?」
さっきまで真っ青だった空は、月もあれば星もあって雲もある、そんな普通の夜空に変わっていた。というか、ここは……。
「公園?」
僕と家子が出会った公園だ。しかも、ここから見える遊具の位置的に僕が今いるのはあのベンチだ。なんで?
「足しびれた」
空の方から降ってくる声。頭を支える温かくて柔らかい枕。
「うお――!?」
僕は飛び起きて元いた場所に目を走らせる。そこには、かつてのお返しのように僕に膝枕をしていた家子がベンチに座っていた。家子は飛び起きた僕に無礼な奴とでも言いたげな視線を送ってくる。
「桂木、お前あれから三時間くらい寝てたんだぞ」
僕の心の乱れなどお構いなしに長老が話し始めた。
三時間……。あれからというのは、なんだ?
「お前、あいつのフィルター外そうとしたんだろ」
「……フィルター」
そうだ。僕はくぬぎから情報を引き出そうとしたんだった。そうしたら、いきなり目の前がブラックアウトして……。
「あいつのフィルターにだけは手え出しちゃダメだ。それこそマジで死んじまうぜ。今回はくぬぎが抑えたから気絶ですんだが…………、あいつは規格外だ。他の奴のフィルターなら外したって構わないんだけどな。せいぜい二日酔いと偏頭痛が同時に襲ってくる程度の痛みに抑えられる。まあ、この痛みは大人にならないとわからなけどな。そういうことだ桂木、その力は慎重に使ってけ」
「……正直、もう使いたくないんですか」
長老は僕がそう言うのを予期していたかのような笑みを見せ、
「安心しろ。この世の異常は二つ。よって桂木が外すフィルターもたった二つだ」
「その二つをどうやって見つければいいんですか」
「悪いな。それは言えねえんだ」
おそらく、というか十中八九くぬぎから口止めされているんだろう。
「くぬぎとは何者なんですか?」
長老は少し考える素振りを見せ、
「さあな。俺にもあの女の全貌はわかりっこねえ。あいつのフィルターを外す以外あいつを知るすべはないだろうよ。外すと死ぬけどな。ちなみに」
長老はやにさがった顔つきになり、
「先生のフィルターも外しちゃダメだぜ。どちらかと言えば、俺も化け物だからな」
煙に巻かれた気分で見つめる僕に長老は背を向けて帰って行った。
疲労感で頭がクラクラし始めた。今日は色々ありすぎた。早く帰りたい。
帰るぞと呼びかけるより早く家子は僕の腕を掴んでいた。そして、
「いる」
「誰が」
「もう一人」
「もっと要領よくしゃべってくれないか」
「学校で、見えている人」
思わず立ち止まる。
「私のことが」
耳を疑った。
翌日の放課後、部室には僕と家子を含めて三人の人間が集まっていた。僕は家子のことが見えているという人物を部室に呼び寄せたのだ。実際にはそんな必要はなかったが。なぜなら、そいつはまごうことなき文芸部員だったからだ。
「どういうことだ、時實」
長テーブル二つ分を挟んだ向こう側に座る時實に僕は詰問した。
「そう不機嫌になるな桂木」
「お前は家子のことが見えてるんだな」
「うっすらとな」
「どうして黙ってたんだ」
家子のことが見えている人物、それは、時實仰翠だった。
「君もだ、どうして君はいつも大事なことを話してくれないんだ」
僕の隣に腰掛ける家子に僕は糾問した。
「言う必要なかった」
「なぜ」
「長老のときと一緒」
成金一ヶ月目で価値観がガラッと変わってしまった七光りの娘のような不遜さで僕の問いをやり過ごしやがった。なるほど、そういうスタンスか。
「お前ら、僕が知らないところでつるんでたんじゃないだろうな。僕だけハミゴにされてたなんて死んでも許さないぞ」
いつもは温厚な僕だがこればかりは苛立ちを隠しきれない。家子も時實も、お互いの視線に気づいていたのなら、どうしてすぐに報告しない。僕だけしか見えてないと思っていた僕がバカみたいじゃないか。ショックだ。
「嫉妬しているのか?」
「…………は?」
僕はギリギリのところで自制心を働かせた。自分が思った以上に僕は血の気が多いらしい。長テーブルがなければ胸ぐらを掴んでいたところだ。
「冗談だ。ときに桂木、貴様に質問だ」
「なんだよ」
「貴様は、半透明の女が学校を歩き回っていたらどう思う。そして、誰からも気づかれていなかったとしたら、貴様はどう思う」
「どうって……」
「幽霊とは思わないのか?」
「…………」
「少なくとも拙僧はそう思っていた。そしてなぜか貴様に取り憑いてしまったとな。これでも心配していたのだぞ」
……そう、見えたりするのか。まあ、確かに……いや、そうなのか?
「貴様も貴様だ。見えているならどうして言わなかったのだ。貴様は部室で家子のことをフルシカトしていただろう。てっきり拙僧だけにしか見えていないと思ってしまうではないか」
「言わなかったのは……その……」
「わかるぞ。安易に人に話せないとでも思ったのだろう」
「……そうだ」
「拙僧もだ。だからこれは貴様も悪ければ拙僧も悪い。拙僧だけを責めるのはおかしくないか? 自分を棚に上げるのはよすんだな桂木」
「……すまん」
さっきまでの勢いが驚くほど減衰してしまった。なんだか言いくるめられた気分だ。
そもそも、この二人にはどんなつながりがあるのだろうか。家子のことが見えているということは、家子は時實から見られたいと思っているということだ。
時實はどれくらい家子のことがハッキリと見えているのだろう。僕より、ハッキリと見えているんじゃないか。
いや、それはないと信じたい。僕の方が家子と親密な時間を過ごしているのは疑いようのない事実だ。他の女子からしたら、断然頼りにしたくなるのは時實だろう。顔立ち、性格、体つき、どれを取っても僕より優れている。だが、家子は違う。違うはずだ。
僕が、家子から失望されていない限り、違うはずだ。
たぶん、大丈夫だ。今日だって家子は僕にベタベタとくっついてきたし。
……僕の知らないところで、時實にもくっついているのだろうか。
それは、面白くないな……。
いや、ないない。想像してしまったではないか。ないないないない。消えろ消えろ消えろ。
「どうした桂木」
時實の声で我に返った。知らぬ間に頭を振っていたらしい。
「何でもない」
「そうか。ところで桂木、貴様にはいろいろと教えてもらわねばならん。貴様が家子と交友を持ってから、今ここに至るまでの経緯を端的に語ってもらおうか」
「ああ、そうだな。驚くことの連続だと思うが、心して聞いてくれ」
僕は要望通り、これまでの経緯を洗いざらい端的に時實に伝えた。もちろん、僕の繊細な心の動きについては一切教えなかったが。そして、十年前の苦い思い出のことも語った。これも説明しなければならないような気がしたからだ。
時實は、ジッと僕の話を聞いていた。僕が話し終えると、
「なるほど」
とだけ言った。
「ちなみに全部本当にあった話だからな。フィクションなんて混じってないからな」
「わかっている。透明人間がいる時点でもうなんでもありだろう。それより、桂木はどこまでいっても桂木なのだな」
「どういうことだ」
時實は、一切口をつけられずに下がってきたチャーハンを見る料理人のような目で僕を見た。
「据え膳食わぬは男の恥という言葉があってだな」
「お、おい!」
家子の前であまりしたくない話題が始まりそうだ。止めなければ!
「さて、本題に入るか」
「お…………おう」
時實の切り替えの速さに置いてけぼりを食らった僕。最初から話す気がないならむやみに据え膳とか言うなよ。
「家子が見えている以上、拙僧も貴様らに協力しよう」
「いいのか?」
「なんだ、不服か? 拙僧がいては不都合でもあるのか?」
「……いや、そういうわけじゃ」
「ありがとう」
家子が晴れやかな声でそう言った。そんな家子をただ黙って見ていた僕を、家子が見つめ返して来たかと思うと、ばつが悪そうな顔をして、すぐに目をそらしてしまった。
嫌だな。
「それで、桂木。フィルターとやらで異常は見つけられたのか?」
僕は気を取り直して時實の質問に答えた。
「それが、まだなんだ」
今日、ちょくちょく目についたもののフィルターを外してみたが、効果はなかった。ただただ僕の脳が悲鳴を上げるだけで、全然生産的じゃない。
「無駄打ちもできないしな」
僕が言い訳がましく言うと、
「ならば、探し方を変えるのだ。ヒントは既に十分受け取っている」
「ヒント……それは、十年前のことか。だが、それは僕の見た世界を共有するためのものであって、異常を探す手がかりにはならないんじゃないか?」
時實はむっつり顔を崩さず、
「共有云々は後回しだ。拙僧は、フィルターをむやみやたらに外さなくとも異常の根源を見つけることができる、と言っているのだ。くぬぎとやらはしっかりとそのヒントを与えてくれたようだな」
僕は脳みそをフル回転させて、くぬぎの言動を思い出そうとした。
「十年前、くぬぎは貴様にたくさんの友達を巻き込んだ遊びをしようと言ったのだろう? そして、昨日、その遊びの続きをふっかけられた。違うか?」
「違わない」
「それに、くぬぎとやらはハッキリと桂木の周りの人物が異常の主だと言ったのだろう? 確定ではないか。これくらいのこと、頭を使わずともわかるだろう。これに貴様が気づかなかったとは考えにくいな」
「いやあ……」
気づいていたさ。だがな、人のフィルターを外すのはしんどいんだ。人の心に土足で踏み入ろうとした代償なんだろうな。くぬぎ以外の人物のフィルターを外したことはないが、アレを一度経験してしまうと、どうしても怖じ気づいてしまう。
「――とでも貴様なら考えるんだろうな」
「…………! お前も心が読めるのか!?」
「心のなど読めん。だが貴様の表情なら目をつぶってでも読めるわ」
それは不可能だろうというマジレスはしないでおく。
「人物のフィルターなど外す必要はない。拙僧らの身近の人間で、怪しい人間をピックアップするのだ。そして、その者の言動、行動から、この世界の常識とされている範疇から抜け出しているような不審点をあぶり出し、それに関する事象のフィルターを外す。これですべて片がつくはずだ。違うか?」
「お前天才だろ」
「ノーベル賞」
僕が褒めたら家子も褒めた。時實は満更でもない顔で鼻を鳴らした。
ちょうどいいタイミングで、下校のチャイムが鳴り、僕たちは部室を後にした。
僕は時實が電車に乗る姿を初めて見たかもしれない。話し足りないということで、時實は僕と家子についてきてくれたのだ。そして最近、高頻度で足を運んでいる公園で屯している。もちろん、あのベンチでだ。
家子は異常の発信源は誰だ談議には参加せず、ブランコに揺れながら雲にかかった月を見上げているだけだった。くぬぎから口止めされている上に、話そうとしてもパクパク口パクするだけだから、参加する意味はないと思ったのだろう。
僕と時實はベンチに座ってそれを見ていた。
時實は家子のことをどう思っているんだろうか。そんなことが脳裏をよぎったが、今考えるべきはそれじゃないと、すぐにかき消した。
僕は自販機で買った水のペットボトルのキャップを閉めながら言った。
「時實、実は僕、一人いるんだ。コイツじゃないかっていうヤツが」
「奇遇だな。拙僧も見当をつけている者が一人いる」
「同じかな」
「同じ奴だろう」
「せーので言うか?」
「せーので言おうか」
「じゃあ、いくぞ? せーの」
「「間仁田」」
僕らの声がシンクロした。
そう、間仁田だ。
僕が最後に間仁田を見た日。間仁田が刈米さんに木っ端微塵に心を砕かれた日、明らかにあいつの様子はおかしかった。間仁田という人間がどういう人間だったかわからなくなってしまうほどのおかしさだった。やっぱり、時實もそれに気づいていたんじゃないか。
「間仁田の言葉を反芻してみようじゃないか」
時實がキャリアの浅い探偵のような口調で言った。
「あいつ、世界の常識を変える力を持ってるとか言ってたよな」
「世界中の飲食物に米を混入させたとも言ってたな」
「……これが答えなのか?」
「推測した限りではこれしかないだろう。試しに桂木、その水のフィルターを外してみたらどうだ」
僕はペットボトルの水を見た。何の変哲もないただの水だ。ちゃんと米も入っている。
間仁田曰く、この米を入れたのはあいつらしい。そして、ここに米が入っているということを常識にしたのはくぬぎ。
半信半疑で僕は目をつぶり、ペットボトルの水のフィルターに当たりをつけた。
そして、強く念じる。ゆっくりと外れていくフィルター。やがて、上がりきったところでフィルターは消滅し、露わになったペットボトルの水から、情報が流れ込んでくる。
「ッ――――――!?」
頭が揺れる。思考が揺らぐ。激烈な速さでパラダイムシフトが行なわれていく。
僕は思わず叫んだ。
「なんで水に米が入ってんだよっ!」
あれ、おかしいよな。うん、おかしい。
米が入ってるなんておかしいんだよな?
何かもっと確証が欲しい。もう、信じるしかないような何かが。
そうだ!
「ちょっと家帰るわ!」
僕は走った。お腹の中の米が逆流しそうなくらい全力で走った。
家に飛び込み、廊下を走る。妹め、また鍵かけてないじゃないか。
リビングに飛び込み、キッチンの横のパントリーの引き戸を引いた。
言葉を失うとはまさにこのことだろう。
僕はついさっきまでの僕が恥ずかしくて仕方がなくなった。ぶん殴ってやりたい。
大きな音を立てすぎたんだろう。二階から妹が降りてきて、僕に家族なのに他人を見るような目を向ける。
「ど、どうしたの……そんなに焦って」
「妹よ、兄は卸売りでも始める気だったのか?」
「え、な、何を言ってるの?」
……僕はこれを妹プラス家子の三人で消費しなければならないのか? 無茶言いやがって……。
義経の八艘飛びのように目が躍った。どこを見ても米。四方八方米。米米米米米。米米米ラッシュ。米米ウォー。
やばい、頭おかしくなりそうだ。
たまらず走り出す。
「うわ、え、え?」
驚く妹に構ってられる余裕はない。
自室の扉を乱暴に開け、部屋にある漫画やゲーム、小説やアニメのブルーレイを貪婪に見て回る。
「米だ。ああ、米だ。こっちも米だ。うわあ、米だ」
どの作品の料理にも必ず米が入っている。
「ね、ねえ、おかしいよ。病院行こ?」
「僕じゃない! 世界がおかしいんだ!」
「ひっ!」
悪い妹。ちょっと黙っててくれ。
「うわ、スポドリにも米が入ってる! フリスクにも、うわ、蕎麦にも入ってる! カレーにも……いや、これは普通だ」
僕は一番の謎を見つけた。許せない……!
「おかしいだろ!」
「え、な、何が」
「どうして餅にうるち米が入っているんだ! 餅はもち米からできているんだからわざわざ入れる必要はないだろ!」
「え、え?」
「まるで粒あんのようではないか!」
漫画の該当ページを妹に指し示しながら言う僕。怯える妹。
突然、勢いよく玄関のドアが開く音が聞こえた。
「ひぇっ……!?」
驚いて三センチ飛び上がる妹。
足音が段々近づいてくる。足音は二つ。すくみ上がった妹は兄に寄りつこうとして、でも兄も危ねえなみたいな素振りでちょっと離れたりして、最上部を掴まれて離されたラバポールのように揺れている。
やがて足音の主たちが姿を現した。やっぱり時實と家子だった。
「桂木ィッ! どうしたのだ!」
「時實! 異常だ!」
「あ、仰翠!」
妹は安心したような声を出しながら時實に救いを求めるように抱きついた。そういえば、前から時實に懐いてたな。
「助けて! お兄ちゃん頭おかしくなっちゃった!」
「お兄ちゃん…………!」
久しぶりにお兄ちゃんと呼ばれた気がする! 嬉しさのあまり復唱してしまった!
「結構前から、頭おかしいの!」
「落ち着け、桂木の妹」
妹は深呼吸し、
「なんか、深夜独り言が酷かったり、ご飯一人分多く作ったり、短いスパンで二回お風呂入ったり、突然私のパンツ欲しがったり、女性ものの下着買うのに付き合わされたり!」
「か、桂木ィッ!?」
「全身全霊で驚くんじゃない! お前は事情わかってるだろ!」
「知らないパンツがいつの間にか私の衣装ケースに入ってたり!」
「それは知らない!」
「サイズの合わないブラジャーも…………!」
「それも知らない!」
「プレゼント」
家子が何やらほざきやがった。
「妹への感謝の気持ち」
「なんでパンツとブラジャーなんだ!」
流れ的に僕が買ってきてこっそり入れたみたいじゃないか!
「とにかく、頭おかしくなったの!」
今や半べその妹。泣きたいのは僕の方だ。
「たぶん、幽霊のせい! 幽霊に取り憑かれたんだと思うの!」
ビクッとする家子。
「何か感じるの。悪霊がお兄ちゃんの部屋に巣くってる気がするの!」
勘の鋭い妹だ。
「だから、おぶうっ――!」
瞬く間に家子のリバーブローが妹に炸裂した。
「きゅぅん」
妹、気絶。
「話が進まない」
と、家子さん。
「やり方は他にあったと思うが、…………同感だ」
賛同する時實。
「慈悲はないのか……」
僕は二人を見てそう言った。
「慈悲は後回しだ」
敬虔な修行僧はそう言いながら妹を床に寝かし、
「今は米だ。異常だったのだろう?」
「あ! そうだ、……どうにかして共有しないと」
くぬぎ曰く、やり方は十年前を思い出せと。
僕は苦渋の決断で、十年前の記憶をまさぐった。
やっぱり、十年前と言えば、あれだ。強く、鮮烈に覚えていること。
「マジか…………。クソッ! これしかないのか……!」
思えば、あのとき感じた情動は能力の覚醒によるものだったのかもしれない。そう思うと、やり方はますますこれしか無くなってしまう。
ちくしょう。ウソだろ? 本当にこれしかないのか?
だが、これこそまさに享楽主義者のくぬぎが仕込みそうなことだ。
業腹だ。本当にまったく業腹だ……!
家子を見る。続いて時實を見る。両頬を叩き、気合いを入れる。
「よし!」
家子のためだ。仕方がない。やるか。
僕は時實の両肩を強く掴んだ。
「時實、目をつぶれ」
「な、何をする気だ貴様」
「いいから!」
僕に凄まれた時實は不承不承という速度で目をつぶった。
「用件を言え、これじゃまるで――」
「口閉じてろ」
自分でもビックリするくらいのイケメンボイスで、僕は時實の抗議を遮り、ちょっとかかとを上げて、時實の柔らかい唇にキッスした。
一瞬ビクッとなった後、身を任せるように固まる時實。
この接吻はいつまで続ければいいのだろうか。そういえば、あのとき舌を入れられたような…………。クソッ!
僕はそっと時實から離れ、人間離れしたイケボで、
「舌、入れるぞ」
「え?」
乙女のような声を出した時實にベロチュウしようとしたそのとき、僕と時實の間に、家子の手が割って入った。
「文士、私にも」
僕が何か言うより先に、離陸直前の飛行機のエンジンのような音量の悲鳴がこだました。
「いやああああああ――――――――!」
いつの間にか起きていた妹が絶叫していたのだ。
「ち、違うんだ!」
僕はなぜか浮気現場を見られた結婚したての夫のような口調で言った。
「お兄ちゃんのバカ! 仰翠のクソ!」
そう言って駆け出していく妹。
「死んじゃえ!」
捨て台詞を吐いて階段を下り、玄関から外へ出て行った。
「幽霊でごまかせる」
と、余裕そうに言う家子。
「妹のトラウマにならないかが気がかりだ」
「…………離せ、桂木」
「あっ」
時實の肩を掴んだままだった。僕は急いで肩を離す。
恥ずかしそうに体をモジモジさせている時實。まるで憧れの先輩に告白寸前の女子中学生のようだ。
「ご、ごめん……」
僕の口調もいつの間にか乙女のようになっていた。
「ファーストキスだ……。覚えておけ」
と、重めの爆弾を投下していく時實。
「僕は、二回目だ。いや、十年前、くぬぎが無理矢理……。それで、これが伝達手段なのかと。だって、あいつ、こういうこと仕込んできそうだしさ……」
しどろもどろの説明しかできない。
「熱意以外、伝わってこなかったぞ……」
時實の言葉を聞いて、僕は落胆気味に、
「間違ったか……」
と呟いた。時實はそれに反応した。
「……ああ、一夜の間違いだ」
僕たちの間にいやらしい雰囲気が流れ出した。どうにかなってしまいそうだ。
そんな僕らを正気に戻したのは、家子のか細い囁きだった。
「……私、ヒロイン」
そうだな、ヒロインは時實じゃないよな。
たぶん……。
「他に思い出せることはないのか」
時實の問いかけに僕は頭を悩ませた。
十年前、くぬぎがしていたこと……。遊具からふわりと飛び降りたり、キスしたり、何か変なポーズを取っていたり…………変なポーズ?
確か、ランドルト環のようなものを手で形作っていた気がする。そして、指と指の僅かな隙間から僕を覗いていたような……。
「時實、ちょっと試したことがある。いいか?」
「ダメと言ってもやるのだろう? 無理矢理、力尽くで」
「さっきは悪かったって。そんなことより僕の目を見てくれ」
言われたとおり時實は僕の目を見た。僕は右手でランドルト環を作り、右目でその指の隙間から時實を見つめた。
「む――――!」
時實の目が見開かれていく。成功か?
「なぜ、水に米が入っているのだ…………」
成功だ。家子も手でグッチョブのサインを作っている。
「これだったかぁ」
僕の中でやりきれぬ思いが生まれた。それは時實も同じだったようで、
「すんなりと共有できたな」
「そうだな。さっきのは何だったんだろうな」
「言うな」
呆気なさに文句を言いたい気分だった。
とりあえず、今日は解散することになった。間仁田が第一の犯人であることは確定として、明日は第二の犯人を見つけることになった。
さて、いったい誰が何をしたんだろうか。
翌日、僕と家子が部室で待つこと数分、時實が姿を現した。
「もう一人について、何か心当たりはあるか?」
挨拶抜きに本題に入る時實。
「残念ながら」
と、僕は答える。
「そうか。拙僧にはあるぞ」
時實の心当たりについて尋ねようとしたところで、またもや部室の扉が開いた。
「おつかれい!」
「おお、久しぶりだな」
そう僕が言ってしまうのも無理はない。入ってきたのは行方だった。
「お前、部活サボって何してたんだ?」
「ふっふ、いやいや些末な用事に従事していただけだお、ふっふっふ」
久々に聞く行方の早口と引き笑いは相変わらず気持ち悪いが、妙に安心する。
「そうそう、今日は重大発表をするために来たんだ、ふっふ、おいおいそんな身構えるこたないだろ! おいおい、ふっふっふ」
別に身構えてはないけどな。お前にとっての重大発表は僕らにとっての些末事だ。
「ふっ、実は俺、ふっふ、新しい部活を作ることにしますた!」
「へえ」
「いやいや反応薄くねえぃ!? ふっふ、一旦もちつけ一旦もちつけぇい!」
お前がもちつけ。
行方はどんな部活を作るのか聞いて欲しそうな顔をしていた。仕方がない。
「どんな部活を作るんだ?」
「えぇ? 部活ぅ? kwskってかあ? ふっふ」
相手に聞いたことを後悔させるような受け答えのあと、
「そりゃもちろんアニメあるあるヘンテコ部活に決まってんだろがい! ふっ、巫女たんと奏たんと立ち上げるからよろしくぞなもし」
「具体的には何をするんだ」
「ふっふ、この世の不思議を探訪するんだお」
どっかで聞いたことあるな。
「ふっふ、まあまあ安心召され、ふっふ、俺氏兼部する所存であるからして、この文芸部は死んでも辞めねぇからぁっ!」
卒業する頃にはみんな引退してんだよ。
僕は時實に目配せした。これではまともに異常についての話ができない。時實は目を伏せた。座して待つつもりらしい。
すると、またもや部室の扉が軽快に開いた。
「ちょっと! 遅いわよ!」
「康太君がいつまで経っても来ないので、迎えに来ちゃいました」
部室に闖入してきたのは男乕と音海だった。
「いやいや、すまんすまん。思いのほか話が盛り上がっちゃって、ふっふっふ、長くなっちゃったかぁ?」
盛り上がってもなければ、お前が来たのはついさっきだ。
男乕と音海は行方に近づき、見る見るうちに僕たちの視線お構いなしにすったもんだのイチャイチャを始めた。行方を挟んで、男乕と音海が行方を取り合っているというポーズだ。それをマネするかのように家子が僕にひっついてくる。
吐き気を催しながら三人のスラップスティックを見ていると、時實が、
「異常だ。行方がモテている」
いや、そんな真剣な顔で言ってやらんでも。確かに、行方のような男がモテるのは有史以来の謎だが、人生三回あると言われているモテ期のうちの一回が今来ているだけだろう。それに、世界的に女性のほうが三十億人近く人口が多いんだし、男が独り身になるほうが困難なんじゃないか?
「…………」
僕と時實は独り身じゃないか。僕たちはなんの困難もなく困難な道を突き進んでいるのか?
「拙僧の言う心当たりはこれだ。あのような男がモテるのならば、拙僧の経験人数は青天井だ」
「暴論の匂いがするが……」
フィルターを外してみるだけ外してみるか。
「この場合、僕はどのフィルターを外せばいいんだ。あまり人間にかかっているフィルターを外したくはないんだが」
「だが、人間以外に外すところなどあるまい。ふん、男乕だな。男乕のフィルターを外してみろ」
「どうして?」
「行方の内面など知りたくないだろう。それに、音海の内面は知らない方が得な気がするからな。残るは男乕だけだ。実際、男乕にしておけば貴様にかかる負担が軽減されるだろうしな」
とんでもない悪口じゃないか。
でもまあ、あの三人の中で誰のフィルターを外すかと問われれば、男乕以外に選択肢がないような気もしてきた。
僕は気を強く引き締め、目を閉じ、念じた。フィルターを外すことで来る、頭の痛みに備えたのだ。
フィルターが完全に外れ、情報が流れ込んできた。
そして、僕は斜め上の事実を知った。
「はあ――――?」
ウソだろ? マジか、マジなのか?
だが、これですべての説明に納得がいく。
しかし、これにも確証が欲しい。
「ちょっとトイレ行ってくる!」
僕は一言断りを入れて部屋を出た。
廊下を歩く人々を見ていく。
あいつだ。あ、あいつもそうだ。うわ、あいつも。あいつもだったのか。
「……気味が悪いな」
米のおかげでこういう事実にも耐性がついている自分を褒めたいが、これはこれで別の驚きがある。というか、米よりもゾッとする。
僕は人気のない廊下の隅で頭を抱えた。自分が思っていた以上に、この世界は混沌と化していたのだ。
後ろから肩を叩かれた。時實だ。家子もいる。
「何が見えたのだ、桂木」
言うよりこっちのほうが早い。僕はランドルト環を作って時實に情報を共有した。時實は、過去一驚いた様子で、
「そうか……。男乕と音海が……」
と、呟いた。それに僕は途切れ途切れに答える。
「ああ、彼女たちは、この世に、存在しない」
気づかなかった自分が本当に恥ずかしい。
「つまり、男乕と音海は行方が生み出した虚構の産物だということだな」
時實が端的にまとめた。
「しかも、それだけじゃない。人口爆発の原因となった二十億以上――今はもう三十億か……。その女性たちも全員、行方が生み出したものだ」
「奴は気でも触れているのか」
まったく同感だ。正気の沙汰じゃない。
一人の人間が三十億人――しかも全員女性――を作り上げるなんて、完全にB級ホラーだ。何がしたいんだあいつは。それに……、
「なんでみんなエロゲみたいな制服を着ているんだ?」
行方によって生み出された女子と、普通の女子を見分ける方法はそこだけである。
便宜上、行方によって生み出された女子たちを行方ガールズと呼称することにしよう。行方ガールズは軒並み全員、エロゲやラノベでしか着ないような制服を身につけていた。
背丈の短い胸元までの白ブレザーに、黄色いラインが入った赤いクソデカリボン。当然のように鎮座する乳袋にコルセット型の黒ベスト。白と黒の配色がいい感じの短いフリルのついたスカートには、腰の辺りにまたもや垂れ気味の赤いクソデカリボン。これが行方印のエロゲ制服である。
家子の制服を見る。標準的で地味すぎる紺色のセーラー服だ。遊び心をまったく感じない。
「常識とは、怖いな」
時實が、行なっていた施術が実は体に悪かったことを知ったマッサージ師のような口調で言った。
普通に考えてみれば、この学校の規模もおかしいじゃないか。こんなにも狭い校舎に、これほどの生徒数。原因は行方だったのか……。
「消えた、あの子」
家子が僕の袖を掴んで言った。僕の記憶が家子が言いたいのであろう場面まで遡り、そこを再生した。
血脇に追われ逃げる最中、僕は一人の女子生徒と正面衝突し、きりもみするように階段を落ちていった。気づいたときには辺りが真っ赤に染まっていたあの事件。
消えていたのだ。人が。
記憶が蘇ってくる。僕がぶつかったのはエロゲ制服だったのだ。地面に着こうというまさにそのとき、下敷きになった彼女が突然破裂して、奇しくも簡易エアバッグになったのだ。あの赤い液体は、彼女の体の構成要素だったのだろう。
鳥肌が立ち、瞬間的なシバリング。
僕は人を殺したのか? だが、何度考えてみてもそんな実感が湧かない。おそらく僕の中の認識では、エロゲ制服たちはこの世の人間ではなく、ましてや生物ではない虚構の人物たちとして位置づけてしまっているのだろう。消しゴムでノートに描いたキャラクターを消していくような感覚だ。何も間違ってはいないのだが、自分が冷血漢になったような気がしてあまり喜ばしいことではなかった。
家子の不安の原因も解明することができた。
あのとき、家子は自分と僕が消してしまった女の子を重ね合わせてしまったんだろう。消えたあと、誰にも気づかれないという事実を、自分の透明化と重ね合わせ、怖くなってしまったのだ。だから、僕の家に来た。
「行方は何がしたいのだろうな。どれだけ考えても浅はかな目的しか浮かばないのは、行方の人間性の仕業か、それとも、拙僧の修行が足りないということなのか」
時實が思案げに言った。
「全員煩悩まみれってことだろう」
もちろん、僕も含めての全員だ。
「こうなってしまった以上、直接行方を問いただす他あるまい」
僕たちは文芸部室に戻ることにした。
開いた部室の扉の先に、行方たちはいなかった。
電話もメールもつながらない。完全に音信不通になってしまった行方。
「拙僧たちの会話を盗み聞きしていたのかもな」
「逃げたってことか?」
「後ろめたい理由と見た」
「どうすんだよ……」
原因となった二人を突き止めたはいいものの、その二人とコンタクトが取れないとなっては為す術がない。こんなことなら、間仁田と行方の家に遊びに行っておくべきだった。市外ということしか知らない。
「長老に聞いてみるのはどうだ」
時實が良案を出した。
「彼はくぬぎとやらの手先とはいえ、拙僧たちの教師であり、文芸部の顧問でもある。この異常の解決策は教えてくれなくとも、間仁田、行方の自宅の所在は教えてくれるのではないか?」
「それだ……!」
そうと決まれば、僕はさっそく長老を探しに職員室まで出向いた。自分の机でいびきを立てながら爆睡していた長老を叩き起こし、部室まで引っ立てた。
時實と家子は何やら話していたようで、僕と長老の姿を確認すると話すのをやめた。何の話をしていたんだろう……。
僕が手短に長老に頼み事をすると、
「あいつらの家? 知らねえよ?」
「へ? なんでですか?」
「本当の教師じゃねえからな」
「だとしても、わかるでしょう。とんでもパワーとかで」
「俺にはねえよ。そんな力」
「ええ……」
この人あんまり頼りにならないな。生きている年数と名前とドライブテクニックを差し引けばどこにでもいる普通の人間じゃないか。
「では、長老」
時實が口を開いた。
「桂木をくぬぎとやらのところに連れて行ってもらいたい」
時實の提案に長老は興味深そうな目を向ける。
「ほう、時實。理由を聞こうか」
「特に深い理由などありません。ただ、拙僧が思うに間仁田と行方は自分の能力の止め方を知らないのではないかと」
「なぜそう思った?」
試すような口調の長老に時實は、
「奴らを見くびっていない。ただそれだけです」
「なるほどな。間仁田と行方が、めちゃくちゃにした世界を座してほっとくわけがないってことか。先生、そういう信頼関係憧れちゃうんだよな」
「あなたが同い年であれば、いい友人になれていたでしょうな」
「先生実は見た目は二十八歳から変わってねえんだ。十一年後か。俺にとっちゃあっという間の時間だな。楽しみにしてるぜ」
「十一年経っても、友人には慣れないでしょう。拙僧が言っているのは精神の話ですから」
「そうかい。じゃあ、お前とはますますいい友達になれそうだぜ」
妙に緊張感のある会話だな。僕が知らないだけで、この二人には何か因縁に近いものがあるのだろうか。
「ま、そういうことだ桂木。ドライブすんぞ」
長老が身を翻して言った。
「行ってこい桂木。貴様はくぬぎとやらから異常に対する解決策を聞いてくるのだ」
「聞いたとしても、あいつが素直に教えてくれるとは思えないんだが」
「教えてくれると思うぞ」
長老があっけらかんとした口調で、
「この場合なら、教えるだろうからな」
「この場合とはなんですか?」
「さあ、なんだろうな。時實、お前わかるか?」
「拙僧にはわかりかねますな」
……だからなんなんだよ、この二人に流れる絶妙な雰囲気は。
僕はその空気感を破るように、
「時實、お前は行かないのか?」
「すまんな。拙僧にはこれから用事があるのだ」
「私も」
家子が食い気味で賛同した。
「君に用事なんてあるのか?」
「ある」
「どんな」
「用事」
「内容は」
「用事」
こうなってしまった以上、意地でも教えてくれないだろうな。
時實、家子、両名に用事があるということに対して疑いを持ってしまうのはなぜだろうか。ほっといてはいけないような胸騒ぎがする。
「そんじゃ、行くか」
立ち尽くした僕の肩を掴んで、長老が強引に僕を連れて行った。
僕はなんとなくだが、直感的に、この二人からは目を離してはいけない気がした。
…………まさかな。ただの考えすぎだ。
かつての焼き直しのようなドライブと空間移動。疲れ果てた僕の体をぬくもりで癒してくるこたつに無性に腹が立つ。家主がくぬぎでなければこんなことも思わないだろう。
実家のこたつを恋しく思っている僕に、くぬぎは言った。
「セーブポイントってとこだねぇ」
僕たちは前回と同じようにはんてんを来ていて、前回と同じ配置で座っている。違うところがあるとするならば、家子がここにいないということだけだ。
「単刀直入に言う。能力の消し方を教えろ」
「雑談しましょ」
「断る。フィルターを外しても解決策までは見えなかった。それに加えて間仁田と行方は音信不通。仕方がないからくぬぎに直接聞きに来たんだ。早く教えてくれ」
「こたつとみかんの親和性について話しましょうかぁ」
「興味ないね」
「思うに形状の類似にあると思うんだぁ。みかんって皮を剥くと身が出てくるよねぇ。しかもそれって暖色系なんだよね。こたつは布団をめくれば中身はすっからかんだけど、温かいっていうイメージが湧いてくるよね。それってぇ、つまり暖色なんじゃないかなぁ。あと、みかんもこたつも中身を求めるっていうところが似てるよねぇ」
頭の悪そうなことをつらつらと述べるくぬぎ。僕はこんなことを聞きにここに来たんじゃない。もっと実のある話をしに来たのだ。そう、みかんのように。
「百点中十点」
くぬぎは僕の心を勝手に読んで、勝手に辛口採点してきやがった。
「そんなことはどうでもいいから、能力の消し方を教えてくれ」
くぬぎはみかんをボーリングの球のようにこたつの上で転がして、
「間仁田くんと行方くんの心を悩ませてしかたがなぁい問題を解決してあげればいいですよ」
僕は転がってきたみかんを受け止め、長老の方に転がした。
「そぉれこそみかんやこたつみたいに中身が丸裸になるまで心を剥いちゃえばいいんだよぉ」
長老がみかんをくぬぎの方に転がすのを見届けながら、
「つまり、どういうことだ」
くぬぎは受け取ったみかんを剥きながら、
「元々ね、微力だけど超常的な力を扱うためのエネルギーって誰にでもあるものなんだ。体の内側にね。でもぉ、それが表層に現れてくることなんてほとんどなぁい。平安時代まではみんな平然と能力を行使していたんだけどねぇ。次第に人間の内に宿る力は減衰していって、室町時代が終わる頃にはもうほとんど扱うことができる人はいなくなっちゃった。でも、ほぉんとにまれに、今の時代でも、生まれながらにして力を使うことができる子がいるんだぁ。先祖返りみたいなものなんだろうねぇ」
衝撃の事実のオンパレードだった。話がこんがらがるから半分以上はスルーしよう。 くぬぎが今話した中で一番関心を引かれたのが、生まれながらにして力を使える者がいるということだ。かつて感情を読み取る能力を持っていた家子がそれに該当するのかもしれない。
「あたしは遠隔で間仁田くんと行方くんの内に眠る超常的なエネルギーを目覚めさせてあげたんだぁ。そして、めぇちゃくちゃ増幅させてあげた。あたしがしたのは、ほぉんとにただそれだけ。あとは、彼らが生み出す異常を当たり前のこととしてあげただけだよぉん」
「……本当にそうなのか? じゃあ、なんであいつらはあんなにも尖った能力を扱っているんだ。それもお前の仕業じゃなかったのか?」
「元々能力の方向性が決まっていた文士くんと彩琶ちゃんとは違ってぇ、あの二人は何色にも染まってない無色透明なただのエネルギーが宿っていた状態だったんすよぉ。そんで、超常的な力っていうのは脳みそで扱うもの。あの二人がそれぞれ持つ悩み事がエネルギーを触発して指向性を持ってしまったんだねぁ」
だから、米とエロゲ制服だったのか。
間仁田の悩み事とは刈米さんに関することだろう。刈米さんが米好きという情報を固く信じているうちに、世界中の飲食物に米を混入させるという能力に行き着いてしまったのかもしれない。
行方の悩み事は、……わからんが、あいつの趣味嗜好があいつの抱く悩み事と混ざり合ってエロゲ制服女子、つまり三十億人もの行方ガールズを生んだんだろう。
「ということはつまり」
くぬぎはみかんをもぐもぐ食べながら、
「あの二人の悩み事を解消してあげればぁ二人の能力はただのエネルギーに戻るっていうことだねぇ」
……待てよ。その理論でいけば家子の悩みを解消してやればくぬぎなんか頼らなくても彼女の透明化現象をどうにかしてあげられるんじゃないか?
「そぉれはムリ」
くぬぎが新しいみかんに手を伸ばしながら言った。
「さっきも言ったけどぉ、文士くんと彩琶ちゃんの能力は最初から方向性が決まっていたんだよ。個人の悩み事、関心事とは関係なしに、最初からね。彩琶ちゃんの場合は生まれつき能力を持っていた質だからぁ、生まれたときからエネルギーが有色なんだぁ。だから二人の内にあるエネルギーは最初から無色じゃぁない。どんな色をしているかはわからないけど暖色系かなぁ」
「元から能力があった家子はともかく、どうして僕のエネルギーまで元々有色と言えるんだ。僕は生まれつき能力を持っていたわけじゃないだろう。目覚めさせたのはそれこそくぬぎ、お前のはずだ」
「あのときぃ、書き換えちゃいました」
「は?」
「あたかも生まれつき持っていた風にぃ、彩色しちゃいましたぁん」
「僕本当にお前のこと嫌い……」
「えぇ、しょぉっくぅ」
「ウソつけ」
くぬぎは新しく剥いたみかんを口いっぱいに頬張り、
「普通生まれつき能力に目覚めていた人は自分の能力を自覚できるんすけどぉ、文士くんが自覚できなかったのはそういう訳だったんだよねぇ」
みかんを噛み、舌なんて動かすスペースなんてなさそうなのに流暢に話すという離れ業で僕を煽った。
「というわけでぇ、文士くんはあの二人のカウンセリング頑張ってくださぁい」
低音付きの溜息が僕の口から漏れていった。とりあえず、今話されたことについてはまたあとでじっくり考えるとして、今、もっとも気になるのは、
「どうしてそこまで親身に話してくれるんだ。僕は、なんとなくだが、お前は僕たちが四苦八苦する姿を見て愉悦を感じるタイプだと思っていたんだが」
僕から聞きに来てなんだが、くぬぎが僕になんの交渉もなしに普通に有益な情報を開示してくれることが不思議でならなかった。何か裏があるのか。
くぬぎは長老に色の悪いみかんを差し出しながら、
「そぉんなに性格悪くないよぉ。あたしにも色々と考えがあるだぁけ。特に今回はお邪魔虫くんがいるからねぇ」
「お邪魔虫?」
僕は長老が渋々色の悪いみかんを受け取るのを横目で見ながら聞いた。
「そう、お邪魔虫くんに対抗してかなきゃいけないからねぇ」
くぬぎのお邪魔虫ということは僕の味方なんじゃないか。どこのどいつだ。
ん? ならなんでくぬぎは僕の手助けをしているんだ?
「複雑に事情が絡み合ってるんでぇす。将棋みたいに先を読んで読んで読みまくってるんだよぉ」
「で、そのお邪魔虫とは誰だ。僕の知ってる奴なのか?」
「そぉれは内緒。言っちゃうと、あたしが不利になっちゃうからねぇ」
くぬぎが不利……か。
「長老、本当ですか?」
「くぬぎが不利になることなんてありえねえな。なんたってこいつは有利とか不利とかそんなことに拘ってねえからだ。さっきのは口から出任せ。一番楽しく且つ長く遊べる方法を状況に合わせて考えてるだけのただの享楽主義者だ」
「うるさぁい」
くぬぎは長老の目にみかんの果汁を飛ばした。
「だからそれやめろって!」
怒る長老が見られるのはくぬぎの前でだけだ。僕は珍しいものを見る目を長老に注ぐ。長老はまたもや果汁の涙を流している。
「桂木、食べ物は粗末に扱っちゃダメだ。たとえ米が入っていようとな」
「……わかりました」
依然としてニヤけづらのくぬぎが、
「まぁ、でもぉ、これだけの情報を無償で提供するほど、あたしも人間できてないんだよねぇ」
「……お金か?」
「いやいやぁ、だからロハでいいですよぉ。その代わり……」
くぬぎは僕を真っ直ぐ見据える。手元に置かれたみかんの皮はいつの間にか猫の形をしていた。
「文士くんにとってぇ、いやぁなものを見てもらいまぁす」
ゴクリ、と、僕のつばを飲み込む音が響き渡った。今まで感じたことのないくらいの不穏当なオーラがくぬぎから発せられていたのだ。やはり、こいつは人間じゃない。
目がいたくなるほどの青色だった空が、真っ黒に染まっていた。
寒い。いや、実際にはそんなに寒くないのかもしれない。僕の体が得体の知れない恐ろしさに震えているだけかもしれない。
こたつの熱じゃ追いつかないくらい、急激に体温が下がっていった。この身震いはくぬぎに対するものなのか、それとも寒さに対するものなのか。おそらく両方だ。
くぬぎも、長老も、この異常なまでの気温の低さになんの反応も示していない。これまでと何も変わらず座っているだけだ。それは当然のことだが、その超然とした振る舞い方から、この二人はやっぱり人間をやめているんだなと改めて知ることができる。
僕は本能的に生物としての格の違いをまざまざと思い知らされた。
そんな緊迫した僕の心情とは正反対な声色でくぬぎが、
「文士くぅん。捨てられちゃったね」
と、言い放った。
捨てられた? 僕が? 誰に…………。
これまでとは別の寒さが僕の背筋を駆け抜けた。
今度は、心が冷えていくような、そんな感覚。
――――捨てられた捨てられた捨てられた。
どうして、心当たりなんてものが出てくるんだろうか。そんなこと、ありえないのに。
――――捨てられた捨てられた捨てられた。
僕は、くぬぎの言葉を信じているっていうのか? 正しく言えば、くぬぎの言葉の方を信じているっていうのか? そんなバカな。親密度が、違うじゃないか。
――――捨てられた捨てられた捨てられた。
気が弱くなってるだけだ。周りの圧倒的な負のオーラにあてられて弱々しくなっているだけだ。気をしっかり持つんだ。心につけ込まれるなよ、僕。
――――捨てられた捨てられた捨てられた。
うるさい。何度も何度も繰り返すんじゃない。止まれよ。やめろよ。聞きたくない。鬱陶しいんだよ。
「バカなことを言うな!」
僕が自分を鼓舞する意味も込めて放った言葉は、まるで怒号だった。
くぬぎは意にも介さない素振りで、
「その言い方はぁ、文士くんの中で答えが出ちゃってる感じだねぇ。あたしが言った言葉に主語を自分で補完しちゃったんだね」
「そんなことは……ない」
「いったい誰を想像しちゃったのかなぁ」
くぬぎはみかんの皮で作った猫をちぎって、ちぎって、またちぎった。
「僕は帰る」
僕は立ち上がった。出口なんてわかりっこないのに。
くぬぎに背を向けると、くぬぎが目の前にいた。
「だぁめ」
こたつに座っていたくぬぎはもういない。瞬間移動しやがった。
「見せたいものがあるんで、ジッとしててねぇ」
くぬぎの伸ばした手が、僕の体に食い込んでいく。痛みはまるで感じない。
僕の体が溶け始めたかと思うと、くぬぎの体も溶け始めた。空中に浮かぶドロドロのアイスのようになった僕らは一つに混ざり合っていく。
「共有しましょ」
冷えた体にくぬぎの体の温かさが染みていく。いやだ、こいつから温かさなんて感じたくない。いやだ、いやだ。
視界が、暗くなっていく。
僕が、くぬぎになっていく。
くぬぎが、僕になっていく。
ああ。
温かい…………。
浮かんでいる。見下ろしている。この部屋を知っている。
時實の部屋。質素な部屋。片付いた部屋。
時實がいる。誰かいる。女がいる。
家子彩琶という女の子。可愛い女の子。好きな女の子。
座っている。動いている。話している。
楽しそうな顔。笑い顔。見たことない顔。
知りたい。知りたい。知りたい。
鮮明になる。音が回復する。声が聞こえる。
耳を澄ます。目をこらす。感覚を研ぎ澄ます。
家子の声。微かな声。キレイな声。
「好き」
――――。――――。――――。
反響する。こだまする。繰り返される。
――聞こえた?
聞きたくなかった。
――何て言ってたのかな?
言いたくない。
――好きって言ってたね。
言ってない。
――時實仰翠に言ってたよ。
ウソだ。
――ウソじゃないよ。
信じない。
――捨てられたね。
捨てられてない。
――正直に話してほしいなぁ。
僕はいつだって正直だ。
――今、あたしは君で、君はあたしなんだよ?
だからなんだ。
――自分には素直になろ?
…………。
――辛い?
…………辛い。
――捨てられた?
捨てられた。
――誰に?
家子に。
――現実に戻ろっか。
夢を見ていたい。
――だめ。
いやだ。
――さようなら。
いやだ。外は寒い。
――さようなら。
どこにも行きたくない。
――さようなら。
起こさないで。
――甘えんぼだね。
許して。
――じゃあ、あっためてあげる。
ありがとう。
匂い。誰かの匂い。くぬぎの匂い。
温かい。温かい。温かい。
温かい…………。
目を開けると視界が滲んでいた。青い空が揺れ動いている。
体が生温かい。こたつのぬくさと、はんてんの防寒性が不要になるほど生温かかった。
悪い夢を見ていたような感覚が消え失せ、それを現実として脳が捉え始めていた。
僕は腕で目を覆った。嗚咽を気力で噛み殺す。
なんで? どうして?
家子は、時實を選ぶのか?
嫌だ。嫌だ。嫌だ。
僕との日々はなんだったんだよ。
こんなの、あんまりだ。
頭が浮き上がっていく。温かくて、柔らかい感触。
「文士くん」
くぬぎが僕の頭を膝に乗せたのだ。家子よりも心地がよかった。
「ごめんね。あたしと文士くんの感覚を共有したんだぁ。今、文士くんが見たのは事実だよ。リアルタイムで起こってたこと。彩琶ちゃんは文士くんがいない合間にこっそりと、時實仰翠の家に行っていたんだよ」
わざわざそんなこと口にするな。うるさいんだよ。そんなこと、わかってる。
「二人はいつからああやって一緒にいたんだろうね」
知るか。うるさい。
「彩琶ちゃん、文士くん以外にも好きって言っちゃう子なんだね」
黙れ。うるさい。
「利用されちゃったね。二人に、はめられたんだよ。笑われてたんだよ」
うるさい。
「あたしは文士くんのこと大好きっすよ」
…………。
「文士くんだけに好きって言ってあげるよ」
…………。
「ねえ、彩琶ちゃんなんて捨てちゃいましょ」
そっと腕が上げられていく。くぬぎが見た者の思考を溶かすような優しい笑顔で僕を見ている。
「私と、幸せになっちゃいましょ」
それはそれでいいかもしれないと考える自分がいた。
もう、僕が関わらなくても家子は幸せになるだろう。相手は時實だ。あいつなら、家子の抱える問題を解決していくだろう。まさに、快刀乱麻を断つように。
残された僕はここでくぬぎと幸せになればいい。家子のことなんか忘れて、ここで悠久の時を刻んでいけばいい。
だが、本当にそれでいいのだろうか?
なぜ、こう考えてしまうのかは、考えたくない。
自分が惨めったらしくて仕方がなく思えてしまうからだ。
「さあ、おいで」
くぬぎが甘い声で僕に囁いた。
僕は、どうしたらいい…………?
「はい、そこまで」
長老が視界に入ってきたかと思うと、長老はシームレスな動きでくぬぎの額に人差し指を当て、とん、と押した。
たいして力が入っていないように見えたが、くぬぎは僕の視界から後退していき、柔らかそうな音を立てて地面に倒れた。
「桂木、大丈夫か?」
長老が僕に手を差し伸べる。僕はくぬぎの膝から頭を起こし、長老の手を掴んでこたつから這い出た。
立ち上がって、ふらついてしまった。長老が僕の体を支える。
「俺みたいな傍観者からしたら、急に二人の世界に入られちゃ困るんだよな。気づいてたか? さっきから俺が所在なさげに好きでも嫌いでもないみかんをパクパク食べてたのを。先生な、寂しくてな、フレンチカンカンでも踊ってみんなの気を引こうかなって思ってたとこなんだぞ」
長老の気遣うような声色が僕の心に温かさとなって染みていく。
「桂木、知ってるか? 先生な、体育の菊池先生からガガンボって呼ばれてんだ。そんなに親しくないのにな。なんでかわかるか? ムダに手足が長くて運動してるとこ見ると気持ち悪くなるからだってさ。気持ち悪いじゃなくて、気持ち悪くなるってのが心に刺さるんだよ。菊池先生俺見ると体調悪くなっちゃうんだって思うと、やるせないよな」
「…………そうですね」
「先生な、友達もいなければ職場のみんなからも敬遠されているんだぜ。悲しいよな。桂木、ここで質問だ。先生は、なぜこんな人生を送っているのか」
「少なくとも、長老自身のせいではないと思います」
「やっぱりお前は優しいな。だが正解じゃないな」
長老は嬉しそうな顔を僕に向けたあと、くぬぎを指さした。
「正解はあいつがそうなるように操作したからだ。おかげで俺は過酷な人生を強いられている。いいか、あいつはそういう奴だ。簡単に身を任せちゃ後悔するぜ」
そう言うと長老はくぬぎに咎めるような目を向けた。
「くぬぎ。お前はやり過ぎだ。桂木にハニトラを仕掛けるんじゃねえ。とりあえず謝れ。うん、どうせ謝んねえよな。すまんな、桂木。代わりに俺が謝るよ。ごめん」
「……ああ、いや」
どういう反応したらいいかわからない。ただ、疲労困憊な声が出るだけだった。
くぬぎはニヤけづらのまま黙って長老を見ている。
「おお、おお、不機嫌そうな顔してんな。なんだ、俺が嫌いか? じゃあ、さっさと解雇するんだな。そろそろ一般社会に復帰したい気分だぜ」
長老からしたらこれは不機嫌な顔らしい。
長老の軽快なしゃべりのおかげで、少し心が軽くなった気がする。
「帰るぞ。桂木」
長老はそう言って車の鍵をポケットから取り出した。
帰りのドライブは、僕は気遣ってか驚くほどの安全運転だった。カーステレオからは下北系ギターロックを代表するロックバンドの曲が流れている。繊細なアルペジオや、少し拗れたような、やるせないような、そんな文学的な歌詞に思わず惹かれてしまう。CDは全部持っている。ジャケットがオシャレだから何回も眺めてしまう。
好きな音楽は、僕の沈んだ心を救ってくれる。
「落ち着いたみたいだな」
長老が助手席に座る僕に声をかけた。
「ありがとうございます」
「ちゃんと三人で話し合えよ」
「それは…………どうでしょう。あの二人を前にしたとき、僕は、どんな行動に出てしまうかわかりません」
「どんな結果になったっていいんだ。行くなら関係を壊すつもりで行け。気持ちだけは絶対に抑えるなよ」
「本当にいいんですか、それで」
「ああ。いいんだよ」
それっきり長老は何も言わなくなった。
僕は窓の外の流れていく景色に思いを馳せた。前から後ろへ、猛スピードで流れていく景色。
僕は長老に話しかけた。
「未来が見えれば、先のことなんて何も怖くはないんでしょうね」
長老は何かを考えるような顔つきになりながら、
「未来が見える奴だって、そいつにしかわからない悩みを抱えてるもんさ」
長老の顔にはいつの間にか悲しげな影が落ちていた。誰かを憂慮しているような顔だ。
「もうちょいドライブしたい気分だな。付き合え、桂木」
「……安全運転してくれるなら」
「なあ、桂木。車ってのは不思議な空間だよな。周りの景色は流れてってるのに、車内には相も変わらず停滞したような空気が流れてる。自分以外は過ぎ去っていくのに、自分だけはそこに留まり続ける感覚。どうしても親近感が湧いちまうんだよ。俺は二千年以上姿形が変わってないのに、二千年もすれば人も町も自然も何もかもが変わっちまう。一緒に進んでるはずなのに、俺だけがずっと車の中から出れないままなんだよ。だからな、こうやって誰かと運転するのが楽しいんだ。この空間なら、誰かと同じ時間を過ごせる。同じ景色を見ていられる。そう思えるんだよ」
「くぬぎは、一緒に乗ってくれないんですか?」
長老は苦笑しながら、
「あいつはセンチメンタルの欠片もないからな。一緒に乗ってくれることはないな。だがまあ、一人のドライブってのもいいもんなんだぜ? 走ってるとな、らしくないことをたくさん考えちまうんだよ。自分も知らないような自分が運転してるときだけはひょこっと現れてきやがるんだ。長く生きてると、そういう瞬間が嬉しくてたまらねえんだ。俺はまだ生きてるって思えるよ。一人きりの喜びってのは悲しいもんだが、それでも、俺の停滞した時間の中に幸せが散らばってるって思うだけで、明日が見えてくるんだ。この先何度見たらいいのかわからないが、ずっと先まで見ていたいって思うよ。だからお前も早く免許取れ」
長老は僕の頭をわしゃわしゃした。
「お前が免許持ってればな、そんな辛気くせえ顔一瞬で消し飛ぶのにな」
「僕にも、運転の良さがわかるときが来るんですかね」
「来るさ。みんな嫌でも大人になっちまうんだからな」
「……未熟なままでも大人になれるんですか?」
「大人だって未熟だよ。この俺だって未熟なんだからな」
「ははっ、そうなんですか?」
「ああ、未熟だよ。そういう部分は捨ててはいけないと思ってる」
「どうしてですか?」
「道徳的じゃないからだな」
「どういう意味なんですか?」
「大人になったらわかることだ。今は知らなくていい」
「そんなの何年も先じゃないですか。今教えてくださいよ」
「大人ってのは精神の話な。もしかしたらすぐに知っちまうかもな。ちょっと悲しいぜ」
「わかるときが本当に来るんですかね」
「この世を全力で生きてれば、死ぬまでにはわかると思うぜ。だから、生きてるうちは頑張っとけ。そしたらお前が死んだとき、先生が天国に進学できるように推薦してやるよ」
「僕は長老よりも早く死ぬんですか」
「たぶんな。くぬぎのアホが人生に飽きるまであとどんくらいかわかんねえからな。安心しろあいつの進学先はどうせ地獄だ。そんで俺も道連れにされるんだろうな。ああ、やだやだ。…………今思ったんだが、地獄に落ちたらどこに進学すればいいんだろうな」
「難しい問いですね」
そんな会話が続いて、夜が深まっていった。
帰る頃には朝になっていた。
早朝、まだ太陽が半円を描いている時間帯。僕は家の扉を開けた。
靴を脱いでいると、
「おかえり」
と、家子が二階から降りてきた。
僕は家子の顔が直視できず、『ただいま』とも言えなかった。その代わりに、
「話がある。とりあえず僕の部屋に来てくれ」
と、平静を装って言った。
「おかえり」
家子は食い下がってきた。是が非でも『ただいま』と僕に言わせる気らしい。だが、僕は言う気になれない。逆に、『おかえり』と言ってやったらどんな反応をするだろうかという、意地の悪い復讐心が胸の内を闊歩していた。
黙って家子の横を通り過ぎる。家子は、
「朝帰り」
と、咎める口調で僕に言った。
一瞬、足が止まってしまった。だめだ。僕は再び気を落ち着けて歩き出した。
「朝帰り」
まるで僕が悪いことをしたと言わんばかりの問い詰めるような口調で同じことを言った。
お前こそ、実はさっき帰ってきたばかりなんじゃないか? ついさっきまで時實の家にいたんじゃないのか?
「体から、くぬぎの匂い」
僕は無視するつもりだったが、
「あいつの家に行ったんだから当然だろ」
と、言い返してしまった。なぜ、僕が責められているのか。そう思うだけで、怒濤のように感情が乱れ狂う。
「ふーん」
「なんだよ」
「隠し事してる」
それはお前の方だろ。
「匂う。隠し事してる」
家子に対するフラストレーションを僕は指の爪を手のひらに食い込ませることでなんとか耐えようとした。
僕は感情的になってはいけない。ちゃんと話し合うまでなんとか情動を押し殺すんだ。
「黙るな」
しつこい。お願いだから黙ってくれ。
「一旦静かにしてくれないか」
「嫌だ」
「頼むから」
「嫌だ」
「なんでだよ……」
「逃げてる」
頭の中で、何かが一本切れた音がした。
逃げてるだと? 僕が今、どれだけお前に真摯に向き合っているのか全然理解していないみたいだな。
「頼むから、黙ってくれ」
「嫌だ」
「いいから黙れって」
「嫌だ」
「……しつこい。静かにしろよ」
「嫌だ。ウソつき」
「………………は?」
ウソつき? 僕が?
お前、どの口が言ってんだよ。
「お前は、僕がいない間、何してたんだよ」
「……お前?」
「何してた!」
家子は僕の突然の大声に少し動揺しながら、
「い、家で、待ってた」
その言葉が、冷静を保とうとしていた心を一瞬にして沸騰させた。
僕は廊下の壁を思いっきりぶん殴った。家子の反応なんて知ったことか。
「ふざけるな!」
もう一発、壁を殴りつける。
「お前、時實の家にいただろ、知ってんだよ。楽しそうにしてたよな、ふざけやがって。最初から二人で僕を笑いものにしてたんだろ!」
僕の言っていることが当っていようが外れていようがどうだっていい。ただただ怒りをぶつけたくて仕方がない。
「楽しかったかよ、ああ!? 無能だとかなんだとか言ってバカにしてたんだろ!」
頭に血が上って何も見えない。都合がいい。家子の顔を見たくない。
「少しでもお前を心配した僕がバカだった。自分以外見えてないと思って助けようとしていた僕がアホだった。どうせ、それすらも笑いのネタにしていたんだろ。僕の一挙手一投足、全部をあざ笑っていたんだろ!」
言葉が止まらない。
「ふざけんなよちくしょう。僕としたことがこんなビッチに騙されるなんて不甲斐ない。どんな男にでもフリフリケツ振るような肉体民族ド腐れビッチにつけ込まれるなんて恥だ! 人生の汚点だ!」
止まらない。
「お前はくぬぎ以下だ! くぬぎ以下の痴女だ!」
言いたいことを言ってるのに、心が痛くなってくるのはなぜだろう。
「もう勝手にしろよ。どこにでも行っちまえばいいんだ。時實のところにでも泣きついてこい! ヘタレじゃなくて頼りがいがあって、なんでもわかってくれる時實によしよししてもらえよクソビッチが!」
でも、止められない。
「消えろ! 消えろ! 僕の前から消えちまえ!」
そこまで言って僕はむせた。肩で息をしながら家子の方を見る。
ただただ、呆然と口を半開きにさせて僕を見ていた。そして腰が抜けたのか、その場にへたり込んでいた。
「文士……、文士……」
か細い声で僕の名前を呼び始めた。
やってしまった。
後悔が僕の心を殺し始めた。
「文士……、文士…………」
家子の目から大粒の涙がたくさん、たくさん、止めどなく流れ始めた。
「…………、文士……」
どす黒い渦巻きが僕の頭の中でとぐろを巻いて僕の脳をかき混ぜていく。
「文士……あ、文士」
家子が僕に何かを伝えようとしている気配を僕は察知した。けど、聞けそうにない。というより、聞きたくない。嫌だ。聞くのが怖い。
本当に、これは、ダメだ。
「文士、ご――――」
気づけば僕は必死になって逃げ出していた。耳を塞いでいた。
だが、家子が何を言おうとしていたかちゃんとわかってしまった。
その言葉と、それをちゃんと最後まで聞いてあげなかったという事実が、僕の心を縛り上げていく。
外に出ると、日はもう昇っていた。
まだ十月なのに冬を感じた。
日陰はどこだ。温かい世界にはいられない。
僕は今、なんでこんなに悲しんだっけ。何から逃げているんだっけ。
わからない。何も思い出せない。
この後悔は何に対してのものなんだ。
なんで泣いているんだっけ。
わからない。わからないのに、ただひたすらに悲しい。
ブラックアウトしそうな視界に白い息が躍り出た。白い息はやがて四肢をもがれ、闇が体を蝕み、何もかも失って見えなくなってしまった。
僕もそれにあやかりたかった。