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第四章

第四章



 家子は考えたいことがあると言って姿を消した。

 家子が僕に言った言葉には一体、どんな意味が込められていたのだろうか。

 人が破裂して消えた?

 信じられないな。そんなことあり得るはずがない。なんなら、血脇がどれだけ勢いよくバットを振って、それがジャストミートしたとしても人が破裂することなんてないだろう。プッツンと綺麗に真っ二つには割れてしまいそうだが。


「おう。お前ら、アメリカアニメのネズミと猫みたいに学校中で追いかけっこして回ってたみたいじゃねえか」

「そんなコメディ調で片付けられるのは不服ですね。なにしろ僕は命の危機だったんですから」

「ごめんなさい」

「血脇、ごめんなさいで済む問題じゃないぞ」

「怒ってるくせに掃除は手伝ってやるんだな桂木。お前の人柄がよおく知れて先生嬉しいよ」

「からかうならどっか行っててください」


 この半鐘泥棒は僕のクラスの担任であり、文芸部の顧問でもある。

 あだ名は長老(ちょうろう)

 由来は知らない。僕が入学した頃にはすでに長老と呼ばれていた。


 僕たちは今、雑巾でせっせと床や壁に付着した赤い液体を拭き取っている真っ最中だ。

 責任を感じたのか、一人で掃除すると言い出した血脇に僕は待ったをかけ、二人で掃除することにした。

 その方が血脇も責任を感じると思ったからだ。別に優しさとかではない。


「しっかし、派手に遊んだな。どうしたらこんなことになるんだ? もしかしてお前ら、防犯カラーボール使って遊んでた?」

「この液体については僕もわかりません。でも以外と簡単に拭き取れますよコレ」

 僕の体についた液体も、水ですぐに流せた。服はさすがにこの場で洗うわけにもいかないから、僕は学校指定の全身ジャージに着替えた。


「私、一度我を忘れると、中々抜け出せないタイプじゃないですか。それに、一度やると決めたら猪突猛進していくタイプでもあるじゃないですか」

「どっちも知らん」

「だから、つい暴走してしまったんです」

「言い訳なんて聞きたくないぞ」

「もしかしたら、私の心にはもう一人の私がいるのかもしれません。たまに、今日のように暴走してしまうことがあるんです」

「二重人格とでも言いたいのか? 君の場合、それは単なる責任逃れだ。しっかり反省しろ」

 僕も叱り慣れたものだな。

「昔もこんな風に暴走してしまって、康太君を怖がらせてしまいましたっけ。ふふっ。いい思い出です」

「反省しろって言ったよね?」


 承服しかねるが、コイツに比べたら家子は優等生なのかもしれない。まだ家子のほうが話を聞いてくれる。こんなこと本人には口が裂けても言わないが。たぶん調子乗るし。

 ちなみに、すでに血脇の誤解は解いてある。意外にも、あんなに追いかけ回してきたくせに、人の話なんて聞かなかったくせに、殺そうとしてきたくせに、すんなりと聞き入れてくれた。


 そうこうしているうちに九割方キレイに吹き終わった。

「こんなもんだろ。残りは自然に風化してくんじゃねえかな」

 長老は適当なことを言って、

「うし、終わり終わり。そんじゃ、お前らとりあえずメルアド交換しとけ」

「何がとりあえずなのかまったく意味がわからないんですが」

「いいか、桂木。大人になって友達がいないのってすげえ悲しいことなんだぞ。先生にはわかるんだ、その気持ちが特にな。なんでかわかるか」

「……わかりません」

「優しいなお前は。つまり、先生はぼっちちゃんなんだ。友達がいないんだ。だから先生は教師なんていうブラックな仕事をしているんだぜ? 桂木みたいな若者と話すためにな」


 僕のことを若者というが、長老もどちらかと言えば若者と言えなくもない見た目をしている。何歳くらいなんだこの人は。三十手前であることは間違いないだろうが、百八十センチは超えているだろうスラッとした長身に爽やかな短髪、よく街で見かけるようなイケメンでもなければブサイクでもない顔立ち、これらが上手い具合に調和して、年齢より若く見えている可能性だってある。一つ言えるのは、ワイシャツとスラックスを異様なまでに着こなしているという事実だ。長身は羨ましいな。


「だからな、桂木。若いうちは無節操にメルアドを交換しとくもんだ。お前の主義に反するかもしれんが、いつか役に立つかもしれない。時實だって俺と同じこと言うと思うぜ」

「言わないと思いますが」

「先生の言うこと聞いてくれねえかな。先生な、これからいろんな人のところに謝りに行くんだ。お前ら二人の代わりにな。ただでさえ軽い頭を赤べこみたいにペコペコすんだぜ。先生、赤べこと違って可愛くないから、きっといろんな人にイラッとされたり、笑われたりすんだろうな。お前らの代わりにな」

「…………」

「おし、じゃあこうするか? 先生のメルアドを交換するか、血脇のメルアドを交換するか、この二択だ。ちなみに、血脇のメルアドは交換してもノーリスクだが、先生とメルアドを交換すると、何やらうるさい連中がピーチクパーチク喚き始めるかもしれない。先生は責任問題というリスクを背負うかもしれない」

「わかりましたよ。交換します」

「先生とか? 鬼だな桂木」

「血脇とです」

「そう言うと思ったぜ。うし、血脇。お前は別に構わないよな」

「ええ」


 血脇は困惑気味だったが、スマホを取り出したかと思うと、瞠目必定な手さばきで操作し始めた。たぶん、コイツはパソコンに強いタイプだ。


 僕たちはスムーズに連絡先を交換した。すると、血脇が、

「先生、メルアドという言葉は古いですよ。ふふ」

 と、にっこりしながら言った。この笑顔は血脇の初期設定のようなものだから、今更何も思わないが、知らない人が見たら煽っているようにしか見えないだろう。実際、煽っているのかもしれない。


「そっか。先生、ガラケーだからさあ」

 ははは、と笑う長老。

 乾いた笑いだった。




 あの後すぐに解散となり、僕たちは帰宅の途についた。


 あれこれしていたらもう六時を過ぎている。さっさと夕飯の支度をしなければ。

 僕の両親は共に海外で仕事をしているため、家のことは僕に一任されている。だから、知らぬ間に僕の家事スキルは磨かれていった。ちなみに妹はまったく協力的ではない。僕のことを召使いかなんかだと思っているのだろうか。


「む?」

 家の鍵が開いていた。

 妹め。家に帰ったら必ず鍵を閉めなさいと日頃口うるさく言っているのに。まったく、防犯意識の低さをなんとかしてやらないとな。空き巣とか、異常な性癖をもったおじさんが侵入してきたらどうするんだ。


「ただいま」

 はなから返事は期待していなかった。妹は絶賛反抗期真っ盛りだからな。

 だが、なんだろう。静かすぎるな。いつもなら、玄関まで妹が見ているテレビの音が漏れてくるはずなんだが。

 僕は鍵を閉め、靴を脱ぎ、廊下を歩いてリビングの扉を開けた。

 誰もいない。部屋にいるのか?

 階段を上がり、二階についてすぐ手前の部屋をノックした。妹の部屋だ。

 返事がない。そして人の気配もない。開けて覗いても誰もいなかった。

 あいつ、普通に鍵を閉め忘れたな。不用心がすぎるぞ妹よ。兄として悲しい限りだ。

 溜息混じりに僕はその隣にある自分の部屋をの扉を開けた。


 溜息が海老反りして勢いよく僕の肺に緊急待避してきた。

 愕然として立ち尽くす僕に、

「おかえり」

 家子がさも家主であるかのような態度で僕を出迎えた。


「お、おかえりください」

 と言いながらも、僕は扉をそっと閉じて廊下に出た。

 目頭もみもみ。

 今日はいろいろあったから疲れてんのかな。

 もう一度扉を開ける。

 いる。普通にいる。


「何でここにいるんだ」

「泊まる」

「どこに」

「ここに」

「ここは君の家じゃないし、民泊もやってない」

「知ってる」

「じゃあ、帰ってくれ」

「泊まる」

「というか、なんで僕の家を知ってるんだ」

「尾行した」

「誰を」

「妹」

 僕は思わず下唇を噛んだ。妹……。

「どうやって妹のことを知った」

「街で見かけたことがある。文士と二人でいるところを。雰囲気似てるから。妹」

 なんて勘の鋭い女なんだ。僕と妹は顔がまったく似ていない。僕の妹にしては愛らしい顔立ちをしているからな。

 雰囲気が似ている……か。初めて言われた。

「それで、妹が家に入ったのと同時に入ったわけか」

「違う」

「違うのか」

「電話してた。帰り道に。一回家に入ってからすぐに出てった。友達の家に行った。鍵開いてた。入れた」

 ええと、つまり、妹が一度家に入るのを見届けた家子は、すぐに飛び出していった妹を見送った後、鍵が開いていたから家に入ったと。

 ほら見ろ我が妹よ。お前の不用心のせいで不審者が一人家に入っちゃったじゃないか。


「家に帰りなさい。そして、僕のベッドから降りなさい」

「私のベッドでもある」

「そんな超理論通用しないぞ。あと匂いを嗅ぐな」

「ふうううう」

「キマるな」

「次はゴミ箱」

「絶対嗅ぐな!」

 埒があかない。

「……家に帰りたくない理由でもあるのか?」

「親の無関心」

 急に重ためのワードが出てきたな。


 家子は寝返りを打ちながら、

「感情読んで知ったこと。愛情はある。関心はない。アンバランス。よくわからない。気味悪い」

 だからここに来たのか。にしても、なんで今更。昔からそれがわかっていたなら、なんで今日行動に移したんだ。血脇に触発されたからか? いや…………。

「本当にそれが理由なのか? 今日の君は、特に放課後の君は様子がおかしかったぞ。それに考え事があると言っていたな。それが本当の理由なんじゃないか?」

 家子は顔を上げ、ゴミ箱の前に立つ僕を、暗い部屋で雷に怯える孤独な少女のような眼で見つめた。


「おかしくない」

 涙で濡らしたハンカチのような声だった。

「私はおかしくない」

 そう言うと僕の布団にくるまって、大きな繭のようになってしまった。


 踊り場での青ざめた顔を思い出す。

 僕が知らないうちに何かあったのだ。人が破裂して死んだと言っていたが、本当にその場面を見てしまったのだろうか。いや、これは勘でしかないが、もっと他のことに怯えているようにも思える。もしかして、透明化現象について危機感を抱き始めたとか。そうなのか? しっくりこないな。でもな……。

「それは僕に言えないことなのか?」

「言っても信じない」

「そうか……」

 なら、もう、聞かない。だけど、ほっとくわけにもいかない。仕方ない。


 僕は溜息をついて、

「わかった。特例として泊まることを許可しよう。ただし、ここは僕の家だ。ここに住む限り、僕のルールには従ってもらう。君にも知的民族な生活を送ってもらうからな」

 そう言ってやると、家子は割れた卵からゆっくり出てくる白身みたいに、布団から這い出てきた。


「ありがとう」


 すっかり慣れた気でいた。なんとも思わなくなっていたはずだった。

 家子のはにかみ笑顔が、あの夜の、初めて見た笑顔と重なった。


 僕の弱点だ。




 緊急事態発生。


 まあ、当然と言えば当然なことなのだ。夜になれば、誰だってその行動を取りたくなるものである。それに関しては別にお好きにどうぞと言ってやれるが、問題はそのアフターケアとも言うべき、例のアレだ。良識人なら必ずするアレだ。


「お風呂」

 家子が風呂に入りたがっている。それは別にいい。勝手に入ってくれ。問題なのは、

「下着持ってない」


 これだ。

 寝間着に関しては僕の普段着を貸すことで合意したが、下着に関してはさすがに貸すことはできない。

 家子は絶賛家出中であるため、意地でも家に帰りたがらない。どうせバレないんだから取りに行ってきなさい。と言っても、

「いや」

 の一点張り。病床に伏せっているかのように僕のベッドから降りようとしない。


「ノーパン」


 それは僕が許可しない。

「じゃあ、妹」

「それもなあ……」

 必死に頼めば、兄のお願いを聞き入れてくれるだろうが。んん。

 仕方がない。

「僕の母親のパンツを貸してあげよう。どこかに置いてあるはずだ」

「抵抗ある」

 聞いたか母さん。半透明不法侵入女子高生さんがあなたの下着に抵抗を示しましたよ。僕は怒った方がいいでしょうか? それとも同意を示した方がいいでしょうか?


「妹」

「じゃあ、君が盗ってきなさい」

「いやだ」

「どうして」

「だるい」

「バレないんだからいいじゃないか」

「犯罪」

「家の中での貸し借りは犯罪じゃない」

「私はノーパンでも構わない」

 こんな感じの水掛け論が続くこと十分弱。僕は折れた。

「わかったよ。ああ、わかったよ。僕が行けばいいんだろ? やってやるよ」

 なかばやけくそになっていたのかもしれない。知的民族として反省しなければ。


 僕は部屋を飛び出し、妹の部屋をノックした。

「なに?」

 つっけんどんな返事だったが、入っていいよということだろう。

 部屋に入ると、妹は僕に一瞥もくれずにベッドに寝転んでスマホをいじっていた。

「頼みがある」

 返事がない。まあ、悲しいがいつものことだ。

「突然のことですまないが」


 僕は一回深呼吸をして、

「パンツを貸してくれないか」

「はあ!?」


 妹の不機嫌以外の顔を久しぶりに見ることができた。

「パンツを貸してくれないか」

「な、何言ってんの!?」

「聞こえなかったか? パンツを貸してくれないか」

「聞こえてるし! だから驚いてんじゃん!」

「驚くのもムリはないと思うが、兄のために一肌脱いでほしい」

「ぬっ――!?」

「頼む」


 妹は布団で下半身を隠すようにし、

「い、妹のパンツ欲しがるとか何考えてんの? 変態!」

「ないと困るんだ! 今すぐ欲しいんだ!」

「お母さんの使ってないヤツがあるじゃん! それにすればいいじゃん!」

「抵抗がある!」

「ナニに使うつもりだこの変態!」

「言えない! だが、必ず返す! 使い古しのヤツとか、サイズがあわなくなったやつでもいいから!」

「出てけ! ケダモノ! 死ね!」


 内容はともかく、久しぶりにこんなにも長く妹との会話が続いている。内容はともかく、もう少し話していたい。


「パンツ!」

「ダメ!」

「パンツ!」

「ヤダ!」

「パンツ!」

「シネ!」


 仕方がない。切り札を出すか。

「妹よ、お前のパンツを毎日洗ってあげているのは誰だかわかっているのか?」

「そ、それは」

「それは僕だ。僕は毎日のようにお前のパンツを触っているのだぞ。それなのになぜ、貸すのを嫌がるんだ!」

「それとこれとは話が違うじゃん!」

「洗って返すと言っても?」

「ナニに使う気なんだ!」

「ならば、力尽くで」

「え………? え!?」


 僕は妹に接近した。

「いや、ちょっ」

 パジャマ姿の妹の肩を掴み、前後に揺さぶった。

「うわわわわ」

 身構えてはいるが、兄とのじゃれ合いに妹は受入体勢を示していた。楽しいな。

「冗談だ。知的民族が力技に出るわけないじゃないか」

「知らないし!」

 僕は妹の肩を離してやった。妹は恨みがましそうな目を僕に向けてくる。

「……がっかりしてるのか? どれ、もっとじゃれ合って――」

「ほんとに出てけ!」

 そろそろガチで怒り出しそうだな。


「わかった。じゃあ、この話し合いに終止符を打とうか」

「出てけって言ってんじゃん! なんでまだ話し合う気でいるの!」

「僕が今、お前が履いているパンツを当てたら貸してくれないか?」

「バカなの!?」

「大マジだ」


 妹は少し考える素振りを見せ、伏し目がちに、

「……いいよ。当てれるもんなら当ててみなさいよ」

 おそらく僕が当てれないと思っているんだろう。甘いな。

「さっきも言ったとおり、僕はお前のパンツを毎日洗っている。何年間も洗っている。だからわかっているんだ」

 僕は、真犯人を指さす探偵のように妹に人差し指を突きつけた。


「お前のお気に入りのパンツ、パンツのローテーション、パンツの趣味、パンツの枚数、パンツの大きさは、すべてまるっとお見通しだ!」


「キ、キモッ――!」

「数々の情報から、帰納的に導き出せる解はたった一つ! お前が今履いているパンツは――――」


 僕は高らかに妹が履いているであろうパンツの特徴をそらんじた。妹の顔はキラウエア火山のマグマのような色になり、頭を抱えながら、

「もう、持ってけばいいじゃん! どうなっても知らないから!」

 どうやら僕は正解したらしい。

「ありがとう。妹よ。では、遠慮なく」

 僕は妹の部屋のハイチェストをまさぐり、家子に似合いそうなパンツを選定した。

 ……似合いそうって、何キモいことを考えているんだ、僕は。

 立ち上がって妹に礼を言った。


「ありがとう。このパンツは大切に使うからな」

 妹は呆然としていたが、やがて口を開き、

「そっち?」

「そっちとは?」

「な、なんでもない! 早く出てけ!」

 本当にありがとう妹よ。


 部屋に帰って僕は戦利品を振りかざした。家子はパチパチと拍手し、

「仲良し」

 と、羨ましそうに言った。


「これで、一件落着だ。さ、風呂に入ってきなさい」

「ブラジャー」

「へ?」

「ブラジャー」

「――――っ!」

 僕は頭を抱えた。またかよ。

「母親の――」

「抵抗ある」

 聞いたか母さん。かなり食い気味に言われたぞ。


「妹」

「不可能だ」

「頑張って」

「違う。そういうことじゃないんだ。意味がないんだ。君と妹じゃ、サイズが合わない」

「なるほど」

 勝ち誇った顔の家子に僕は残酷な真実を突きつけた。


「妹の胸はデカいんだ」


 氷河に埋まったシュメール人の礼拝者像のようにフリーズする家子。

 ブラジャーは諦めよう。家子の胸の大きさなら、まあ、ブラジャーは必要ないだろう。

 家子は失業したサラリーマンのような足取りで風呂場へ向かっていった。


 僕は明日からの家子の下着について考えた。きっと、あいつは明日もこの家に泊まると言うだろう。そして、家に下着を取りにも行かないだろう。また妹から借りるか? いや、毎日借りるのも申し訳ない。

 ……買いに行くか。家子と一緒に。いや、待て、家子は誰からも見えていないじゃないか。するとつまり、傍目から見たら、僕が一人で女性ものの下着を買いに来た感じになるじゃないか。

 いかんな。どうしよう。…………そうだ。

 妹を連れて行こう。




 自室に家子がいるため、僕は中々寝付けず、こっそりリビングでニュース番組を見ていた。


 家子は僕のベッドを使って爆睡中だ。対する僕は部屋のゲーミングチェアで寝ることになったが、部屋に女子がいて安眠なんてできるわけがないだろう。本当は今座っているソファーで寝たかったが、一緒の部屋で寝ないと妹に悪夢を見せると凄んできた家子に僕は屈してしまった。


 ニュースの内容はいつも通り米騒動についてだった。

 ニュースキャスターがいつも以上に眉間にしわを寄せながら原稿を読んでいた。ニュースキャスター曰く、パン屋が襲撃されたらしい。

 一見、ただの強盗に見えるこの報道は、もっと深刻なものであるらしかった。


 この事件の発端は、前に行方が言っていた『パン屋の陰謀論』だったようだ。

 ご存じの通り、パンは米の入っていない世界で唯一の食べ物だ。諸説あるが、パンは元々米の対抗馬として作られた食べ物だったらしい。しかし、あまり人気が出ず、現代社会では下火も下火。

 そんなパンを誰かが社会問題に絡めて揶揄したのが『パン屋の陰謀論』の始まりだという。これに賛同したのが、米を崇拝してやまない『米信者』と呼ばれる連中だ。米信者は、勢力だけで言えばキリスト教を凌ぐと言われている。どこかの秘密結社とつながっているという噂もあるが、真偽はわからん。


 そんな米信者たちは、

「この深刻な米不足は、米がなくなれば人々はパンを食べればいいじゃないという浅はかな思い違いをしたパン屋たちが、自らの社会的地位と利益を上げるために仕組んだ悪辣な陰謀である」

 と、触れ回っているらしい。


 しかも、これを唱えている米信者の幹部たちは、軒並みかつてのフランスのサロンに出入りしていてもおかしくないレベルの、高名な思想家や芸術家や富豪たちだったようで、そいつらがパトロンになって信者を啓蒙し、信者はシンパを募り、シンパは親にカンパしてもらってアルバイトを雇い、アルバイトは闇バイトでうんぬんかんぬんで、タカ派がどうのこうのでちんぷんかんぷんで、盛り上がりに盛り上がり、全国的に大規模な示威運動が起こった。


 これが、今回の事件の真相らしい。うん、よくわからん。

「物騒だな」

 僕は呆れて独りごちた。そんな荒唐無稽な陰謀論を本気で信じるような輩がいるとは、まったく信じられんな。まあ、おそらく半分以上は何も考えずに履歴書を送った考えの浅い若者とアッパー系のドラッグを服用した頓知気野郎と火遊びが好きなチーマーだろうな。


 眠たくなって伸びをすると、視界に半透明なものがうっすらと映った。後ろに家子が立っていた。ちょっとビビった。


「未来」

 家子は眠たそうな暗い眼で、

「どうなるかな」

 僕は再びテレビを見た。内容はもう天気予報に切り替わっていた。リモコンでテレビを消して立ち上がった。

「さあ。もしかしたら、第三次世界大戦みたいなとんでもないことになってしまうかもな」

「怖い」

 そう言って家子は、僕の手を掴んで僕の部屋まで連れてった。

 眠たいせいかわからないが、家子の体が普段よりも薄く見えた。

 それに、僕は家子に何か違和感を覚えた。

 ゲーミングチェアに腰を下ろした頃にはもう何も考えられなくなっていた。

 家子の寝息が僕を夢に誘ったのだ。




 次の日。特に何事もなくお泊まり一日目の夜は終わり、妹がいつにも増して目を合わせてくれないのと、家子が家にいること以外、いつも通りの朝が過ぎ去って、学校に出向いて眠気と闘い、敗北を喫した頃には放課後になっていた。


 今日の家子はやけに大人しかった。僕の隣に腰掛けてはいるが、昔みたいにボーッと窓の外をずっと眺めているだけだった。僕としては好都合だが、このわびしい気持ちは何だろう。ふと思ったが、家子は学校の成績は大丈夫なのだろうか。ここ最近、コイツが真面目に授業を聞いているシーンを見たことがない。今度勉強でも教えてやろうかな。


 教室を出て、部室に向かう途中に偶然にも時實と合流した。

「お前、もう怪我治ったのか?」

「あの程度の切り傷、たいしたことはない」

「すげえ」

「ところでニュースを見たか? 桂木」

「ああ、米騒動のことか?」

「そうだ。どうやらこの学校の近くでもパン屋が襲撃されたらしい」

「それは知らなかった」

「この一連のデモ活動は『パン屋狩り』と呼ばれているそうだ」

「警察は何をしているんだ」

「警察内部にも米信者がいると噂されているな。それに、末端にも多数米信者はいるだろう」

「いよいよ世紀末っぽくなってきたな」

 そんな日常会話を繰り返しながら、僕たちは部室にたどり着いた。


 部室にいたのは間仁田だけだった。意気揚々に振り向いた間仁田の顔は中二病が喜びそうなほど包帯が巻かれていた。どうやら血脇にボッコボコにされたみたいだ。


「時は来た!」


 と、アホ全開で右目の眼帯を押さえながら叫んだ。

 僕たちはそれを無視してパイプ椅子に腰掛けた。まあ、スルーし続けるのも可哀想だし、助けてもらった礼もあるしで、僕は聞き返した。

「なんの?」

 間仁田は釣り竿に大物がかかったことを確信した釣り人のような顔で、額に巻かれた包帯を押さえながら、

「聞いてほしいんだ。実は僕は、世界を変える力を持っている! 桂木たちが常識と思い込んでいるフェノメノンは、僕が生み出したものなんだよ!」

「へえ、例えば?」

「米に関することさ」

 間仁田は右頬の湿布を押さえながら、

「この世のパンを除く全ての飲食物に米が入っているだろう? あれをやったのは僕だ!」

「ほうほう」

 軽い相づちを打つ僕の横で時實が、

「まさか、貴様が米信者だったとはな」

 と、頭を抱えながら言った。アゴのガーゼを押さえている間仁田は憤然として、

「違う! 僕が好きなのは米じゃない。刈米さんだ!」

「……そうか」

 間仁田の勢いにさすがの時實も気圧されてしまったようだった。

「そして、彼女が愛してやまないのが米なんだ! 名前からして米が好きに違いないよね!」

「待て、間仁田」

 僕はすかさずツッコミを入れる。

「好きに違いないって、つまり、お前の決めつけか?」

「決めつけではなく確信だよ!」

 奥歯が痛むような顔をしながら、

「うん。そうさ、僕のイントゥイションがそう告げている!」

「間仁田、お前、休んだ方がいいんじゃないか?」

「全然オールライトさ!」

 お前の怪我が気になって話が入ってこないんだよ。

「僕の精神的アプローチが功を奏してるんだよ。きっとそうだよ! 僕と刈米さんはディープレベルでコネクトされているんだ!」

 尾骨をさすりながら、高らかに言い切った。


 僕は家子を見た。僕の精神的アプローチをエシュロンのように傍受していた家子は懐古するような顔つきをしていた。まあ、宛先は家子だったんだから別に傍受もくそもないが。


 間仁田がどこまで本気で言ってるのかわからないが、なんだか危ない兆候を感じる。アドレナリンがたくさん出てハイになっているのだろうか。今日の間仁田は不気味に高揚している。見た目も怖いし。


「機は熟したんだ。今日、僕は刈米さんにカミングアウトすることにしたよ。僕が世界中の飲食物に米を入れたってね。そしてプロポーズする! 成功率は疑いようもなく百二十パーセントだ!」


「やめておけ」

 あばら骨を押さえながら宣誓した間仁田に時實は厳しい顔を向けながら、

「初対面の男に唐変木な妄想を語られる刈米を少しは思いやってやるんだな」

「大丈夫さ!」

 間仁田はふくらはぎをもみながら自信満々な面持ちで言った。

「根拠のない自己認識で彩られた独りよがりも度が過ぎれば白昼夢に等しい。地に足がついていないとはまさにこのことだ」

「時實、もう少し僕を信じてほしいな」

 足首を押さえながら間仁田が言った。

「仮に想像してみるがいい。拙僧が初対面である貴様に、拙僧は未来が見える修行僧である。拙僧と貴様は無二の友人となる。これからどうぞよろしく。と、突然言ってきたら貴様はどう思う」

「僕のことを案じてくれているのは、衷心より感謝するけどね、うん、まったく話が通じていないな。君と僕をパラレルで考えちゃダメさ。そして、刈米さんと僕もまた然り。僕たちはそれぞれインディペンデンスしている上に、うん、たとえ話なんてものはいくら論じたって砂上の楼閣なんだよ。そうだよ。僕が君の理論を崩す前にもう崩れてしまっているんだ。そう、そしてね、僕はね、そこにね、確固たる未来という名の新しいジェンガをアセンブルするんだ! それこそが! 刈米さんアンド僕・オブ・フューチャー! ニュー・ワールド!」


 間仁田はうなじを押さえながら間断なくしゃべりきった。さすがと言うほかにないが、この間仁田からはなぜか焦りを感じる。


「そうかそうか。貴様の耳は馬の耳で、拙僧の言葉は貴様にとって東の風ということだな。ふん、好きにするがいい」

 これ以上の舌戦は時間のムダだと思ったのか、時實は引き下がった。そして、僕だけに聞こえるくらいの音量で、

「よおく見ておくんだ桂木。射幸心だけで描かれた青写真が如何なるカタストロフを迎えるのか、傷だらけの体で教えてくれるというのだ。殊勝な奴だ」

「それは……というか、なんか間仁田変じゃないか?」

「平常運転だろう」

「飲酒運転に近い気がするんだが」

「煽り運転は上手いようだな」

「蛇行運転してないか? 道に迷っているというかなんというか」

「脇見運転というのだ。目的地など本人には見えていない」


 時實は完全に見放す方向で行くみたいだ。

 忠言耳に逆らうとは言うが、今日の間仁田はその気質が強すぎる。いつもは、もうちょっと利口なはずだ。……だよな?

「そういうわけだから。桂木、時實、この部室に刈米さんを連れてきてほしいんだ」

 股間を押さえながら間仁田はおかしなことを言った。

「は?」

「僕はこの部屋で、二人の前でプロポーズする! 行方がいないのは残念だが、致し方なしだね!」

「間仁田、本当にどうしてしまったんだお前。ちょっと勢いが怖いぞ」

「勢いが大事なんだ。僕はもう止まれないんだよっ」

 間仁田にしては真剣な声色だった。


「だからさ!」

 間仁田は気を取り直すように、

「頼むよ!」


「桂木、これが奴の覚悟だ」

 本当にいいのか、これで。


「連れてくる」


 今まで無言を貫いていた家子が言った。

「なんで」

 僕は小声で問いかけた。

 家子はやつれたシスターのような慈愛のこもった笑みを僕に向けるだけだった。




「か、体が勝手に……! 押され、ちょっ、えっ……?」


 家子がそのまま部室を出て行ってしまったため、時實と間仁田相手に僕は僕が動き出さない言い訳をすることになった。四苦八苦すること数分、廊下から奇妙な声が聞こえてきた。

 扉を開けると、そこには初めて見る女子が身を縮めて立っていた。おそらくこの人が刈米さんなんだろう。その後ろには家子がいる。どうして家子が刈米さんのことを知っていたのかは知らないが、別にそこは悩むところじゃないだろう。学校なんて誰が誰を知っているか一番あやふやな場所だ。


 不安そうな眼に困り眉、割と綺麗な鼻筋に、意志の弱そうな唇。守ってあげたくなるような、意地悪もしたくなるような、庇護心と加虐心を同時に刺激されるような顔立ちだった。


「え、えと……」

 明らかに困惑しているようだった。ここは先輩として、

「あー、どうしてここに?」

 刈米さんは辺りをキョロキョロした後、おっかなびっくりといった口調で、

「か、体が勝手に動いてしまったというか……、あ、い、一年R組の刈米(ひめ)です。と、図書委員です」

「二年A組の桂木文士です。美化委員です」

「二年P組の時實仰翠です。保健委員です」

「二年A組の家子彩琶です。文士の妻です」

 流れるようにウソをつくな。まあ、どうせ僕以外聞こえていないから別にいいが。ちなみに君は選挙管理委員だろう。


「よ、よろしくお願いします……?」

 刈米姫。凄い名前だな。親からめちゃくちゃ愛情を注がれていそうな名前だ。

 刈米さんは小柄な少女だった。ぱっと見た感じギリ百五十センチはないだろう。目線の違いに既視感があると思ったら、この子の身長は家子とあんまり変わらないらしい。家子の方が少し大きいかな。胸は家子の方が小さいが。まあ、ドンマイ。


 補足として、僕の身長は百七十三センチで、時實が僕より五センチくらい大きくて、間仁田が僕とほぼ変わらないくらいで、行方が僕より五センチくらい小さい。血脇は僕より十センチ小さいくらいだったかな。男乕、音海もそんくらいだ。長老は百八十センチは優に超えているだろう。僕の妹は百四十六センチだ。


「あ、あの、私はなんでここにいるんでしょう」

「ええっと…………」

 僕が返答に困っていると、

「ようこそ! 刈米さん。まさか君の方から訪ねに来てくれるなんて思いもしなかったよ。ああ、デスティニーを感じてしまうね!」

 鳩時計の突然飛び出してくる鳩のように間仁田が動き出した。

「…………はぁ」


 刈米さんは当然だが、よく理解していないご様子だ。

「ここに自分で来たということはもう要件は言わなくてもいいね?」

「……いえ。わ、わからないことだらけなんですけど……」

「そう、この僕こそが、世界中の飲食物に米を入れた男なのさ!」

 アクセルかかりすぎだ間仁田。まずい。刈米さんが完全にドン引きしてる。自分が包帯まみれで自己紹介もせず、何を口走っているのか早々に気づいた方がいいぞ。

「なんでこんなワンダフルなことをしたかわかるかい? うん、それはね、君に喜んでほしかったからなんだよ、刈米さん!」

「…………」


 刈米さんが焼きたてのパンのようにふっくらとしたショートヘアを揺らしながら無言で僕の方をチラチラ見てくる。そんな目で見られても困る。僕だってどうしたらいいかわからないんだ。


「君が米好きなのはすでに知っているよ。なんせ、僕は精神的アプローチで君にずっと脳内電波を送ってきたんだ。君も無意識のうちに帰していたよね」

 やめとけ間仁田。それは言わない方がいい。精神的アプローチは友達同士で言うから許される言葉であって、本来は心の中でのみ使うものなんだ。

「君は知らぬ間に僕のことを目で追っていたんだよ。ほら、思い返してごらん? おや、わかってないのかな? 廊下を歩いているとき、やたらとビッグサイズな声とダイナミックな身振り手振りをしている男がいただろ? 駅に着いたとき、いつも目の前に立っている男がいただろ? 瞬間的にやたらと眼が合う男がいただろ? ザッツライト! それこそが、そう! この僕だったのさ!」


 マジックのタネの代わりにどうでもいい自分の性癖を明かし始めたマジシャンのように、間仁田はいらんことを次々と口走って部室の温度を冬本番の北海道並みに下げやがった。

 間仁田がストーカーまがいなことをしていたのには驚いたが、一番理解できないのは、どうして自分が不利になることを自ら暴露しているのかだ。愚行であることに気づいていないのか?


「君はエブリデイ米を食べていたよね。米が好きなんだね。可愛いね」

 今度は陰キャが思い描くホストみたいな雰囲気を醸し出してきた。もしかしたら、ここから勝負を決めに行く気なのかもしれない。

「いい名前だよね、うん、日本神話とかに出てきそうだよ。カタカナでカリゴメヒメって感じかな。いいね。豊穣の神様みたいじゃないか! 米好きの刈米さんからしたらこんなにもハピネスなことは他にないよね」


 間仁田はパチンと指を鳴らし、刈米さんに手を差し伸べた。キザったらしいその動作はどれだけ顔の整ったイケメンがやったとしても、好印象を与えないだろう。

「君が望むなら、もっともっと米を増やしてあげられるよ。そうだよ。どんな食べ物も米で埋まっちゃうくらい、米でオーバーフローウィングさ!」

 間仁田はツカツカと刈米さんに近づいていった。そして、またしても弁舌爽やかに口説き始めた。

「どうせなら、パンにも米をインしちゃおうか。ほら、最近狩られてるパンだよ。うん、いいね。米以外のものが食べたくて、あえて米を入れてこなかったけど、今のこのワールドじゃ米を入れてあげた方がパン屋の皆々様も喜ぶだろうしね! うん! そうしよう! パンに米を入れればルナティックな人々も正気を取り戻すだろうし、世界平和までストレイトラインだよね! さあ、どうしたい刈米さん!」


 間仁田は刈米さんに再び手を差し出した。

 刈米さんの右手がゆっくりと動いたかと思うと、大回りな軌道を瞬間的に描いて、間仁田の頬に吸い込まれていった。


 パチン。


 これ以外表現のしようがないくらいキレイな音だった。

 刈米さんが間仁田をビンタしたのだ。容赦なく。

 間仁田はもちろん、全員が石化した空間の中で、刈米さんはくゆりと動き、

「ふ、ふざけたことばかり言わないでください!」

 と、その体からは想像がつかないくらいの大きな声で間仁田を非難した。


「あ…………れ?」

 間仁田は瞠目した顔で、顔を引きつらせている。

「さっきから一体なんのつもりですか!」

 刈米さんの目には信じられないほどの敵愾心がこもっていた。

「ひ、ひどいです。鬼畜です。どうしてそんなことが言えるんですか」

「え……? ど、え…………?」

「あなたは、私がパン屋の娘って知ってますよね」

「…………え?」

「知ってますよね。と、とぼけないでください!」

 刈米さんに凄まれた間仁田は、

「し、知りません。本当です」

 と、大きく首を左右に振った。

「いいえ。あ、あなたは知っているハズなんです。なぜなら、私はあなたをお店でよく見かけていたから。よく通ってくれてましたよね。それこそ常連のお客さんと呼んでもいいくらいに」

「あ、あそこは君の家だったのか……」

「だから! と、とぼけないでくださいって言ってるでしょ!」

「は、はい。いや、とぼけてません」

「私、嬉しかったんですよ。パンが米に勝てないこの世の中で、足繁く通ってくれるあなたを含めた常連客の皆さんには本当に感謝していたんです。で、でも、あたは、そんな酷いことを考えていたんですね。善人面して! 私たちをバカにしていたんですね!」

「そ、そんなことは――」

「私たちがどんな思いをして生きているか知っていますか? お父さんたちがどんな思いでパン屋を続けてきたかわかりますか? 下火とはいえ、少ないとはいえ、ちゃんと需要はあるんです! 少数でもパンを求めてくれる方々がいるんです! そ、その人たちが支えてくれるから、私たちはパン屋を辞めないんです! 世間からなんと言われようとも、バカにされようとも、小さなコミュニティーで、慎ましく身の丈に合った幸せを享受してきたんです……!」


 刈米さんの目から小さな水滴がこぼれだした。涙だ。

「そ、それなのに、あなたは……! 自分が世界中の飲食物に米を入れただの、パンにも米を入れたらいいだの、好き勝手言わないでください! 私のためとか言ってましたけど、全部あなたの自己満足じゃないですか!」

「ち、ちが――」


「私は米なんて好きじゃありません! この名字は嫌いです! あなたのことは大嫌いです!」


 間仁田はたじろぎ、机にぶつかって力なく座り込んでしまった。時實は腕を組んだまましかめっ面で目をつぶっている。家子は僕の後ろに隠れて暗い顔で僕の袖を引いている。


 間仁田はゆっくりと立ち上がり、

「そ、そんな冗談よしてよ。だって、米好きでしょ? ねえ、そうでしょ? いつもお昼の時間に食べてたじゃないか!」

「ま、周りに合せないと、嫌われちゃうでしょ。好きで食べてたんじゃありません」

「ウソだ! そんなのウソに決まってる! 僕をからかっているんでしょ? 僕の知ってる君はそんな人じゃない!」

「そ、そういうの本当に不快です」

「不快なんかじゃない!」


 間仁田は勢いよく刈米さんに近づき、肩を掴み、

「ウソって言って! ウソって言ってよお願いだから!」

「や、やめて…………!」

 刈米さんは間仁田に押され、部室の扉に背中を打ち付けた。

「うっ――!」

 まずい――――!


「おい、間仁田!」

 僕はすかさず飛び出し、間仁田を羽交い締めにした。間仁田はこう見えて僕より力がある。それに、身体能力も高い。だから、中々刈米さんから引き剥がせない。

「全部君のためなんだ。君のために僕はこの世界を創ったんだよ! 喜んでよ、頼むから笑ってよ!」

「やめて――――!」

「おい時實、お前も手伝え!」

 苦しげな顔でうつむいたまま時實は動かない。

「なんでだよ時實!」

「そんな顔を僕に向けないで刈米さん! 違うよ。そんなの全然君じゃない! ウソでもいいから、ウソでもいいから笑ってほしいよ……!」

「…………気持ちが悪い」

「あ――、あぁ……」


 間仁田の体から力がするすると抜けていく。間仁田は僕にもたれかかり、首に力が入らないのか、がっくりとうつむいた。

 刈米さんの顔は具合の悪そうに青ざめていて、汗と涙が入り交じっていた。時實がパイプ椅子を差し出すと小さく礼を言って、身を震わせながら着席した。

 時實、お前はこの攻防がすぐに終わることを見抜いていたのか? だからと言って、傍観しているだけなんて、冷たいじゃないか。……僕も特にできることはなかったけれど、それでも、…………いや、どうしようもなかったのかもしれない。こればっかりは。


「うぅ……」

 間仁田が小さな呻き声を出した。その声は震えていた。おそらく泣いているのだ。僕は背中をさすってやった。

「……じゃあ、僕はなんのために、この世界を…………。刈米さんが、喜んでくれなきゃ、僕は、僕は、自分勝手に、いろんな人の幸せを………………う、うう、うあああああ」

「落ち着け、間仁田。落ち着くんだ」


「う、うああ、うあああああああああああ――――――――!」


「間仁田――うっ!」

 間仁田は僕を突き飛ばし、走ってどこかへ行ってしまった。

「待て、間仁田!」

 時實も飛び出す。その行動力をどうしてさっき見せてくれなかったんだ。

 僕も間仁田を追おうとしたが、その前にやらなければいけないことがあると思って立ち止まった。やることは一つしかない。


「刈米さん」

 確かに間仁田はどうしようもなくアホなヤツでウザいときもあるが、それでも、誰かの頭の中に嫌なヤツとして登録されたままになるのは、僕は戦争並みに嫌だ。薄っぺらいことを滔々と述べるような恥ずかしいヤツだけど、真っ直ぐなヤツなんだ。それをわかってほしい。


「まずは、ごめんなさい。嫌な思いをさせるつもりはなかったんだ。間仁田の行動は、正直褒められたものじゃない。だけど、あいつはそれだけ君のことが好きだったんだ。あいつは本当に君がパン屋の娘であることを知らなかったんだと思う。だから誤解しないでほしいと言っても、多分ムリだろうから、今度、ちゃんと間仁田を連れて君に謝りに行くよ。そしたら、間仁田のことをそんなに嫌いにならないでやってくれないか」


 刈米さんはしばし考え事をしているかのような顔を作り、僕に頭を下げた。

「ごめんなさい。そ、それはできそうにありません。今日の、あの人の言動を聞いて、悪寒が走ったんです。あの人の中の私は一体どんな人だったんだろうか。あの人の中の私はあの人に、どんなことをさせられてたんだろうか。これらを想像するだけで、もう、ダメなんです。トラウマになりそうです」


 刈米さんの心情を考えると耐えきれず、僕は頭を下げた。

「本当にすいませんでした」

「か、桂木さんが謝ることじゃないです。悪いのはあの人です。一方的に思いを押しつけてきて、有無を言わせず、理想の人格を私に演じるように要求してきて、怖かったのは、大声で泣きたかったのは、私なのに、それを私よりも先にやって、挙げ句の果てに謝らずに逃げ出した、あの人が悪いんです」

「だけど……」

「いいんです。も、もう気にしないでください。あの人のことが気になっているんじゃないですか? なら、追いかけに行っていいですよ。わ、私はしばらくしたら消えますから」

「…………じゃあ」

 僕が動き出そうとすると、

「あっ」刈米さんが慌てて、「私がパン屋の娘だということ、内緒にしてもらえませんか? これからも、誰にもバレたくないので…………。今日は、感情的になって自分から言いだしてしまいましたけど」

「……了解です」

 そう言って僕は走り出した。




 間仁田のことを他人事のように思えないのは、友達だからという理由だけではない。僕と間仁田は似ているのだ。性格とかではなく、根本的な考え方というか、気質というか、とにかく似ている。

 間仁田が刈米さんに精神的アプローチをしていたように、僕も家子に精神的アプローチをしていた。二人とも同じことをしていたはずなのに、結果は大きく逸れてしまった。

 家子は、僕のそういった精神的アプローチに対して嫌な顔をしなかった。それどころか、僕から流れ出ていた感情に感謝の意を示した。

 僕から家子に流れていった感情と、間仁田から刈米さんに流れていった感情に、大きな違いはなかっただろうと僕は思う。


 じゃあ、何が明暗を分けたのか。ハッキリとした理由を一つ考えるとしたら、それはタイミングだと思う。

 間仁田はなぜか焦っていた。僕みたいに一年半泳がせても良かったんだ。なのに、突然告白すると言い出した。入念な下準備もなしに。

 早すぎたのだ。

 もっと、刈米さんのことを考えて、情報収集して、そうやって知っていけば、今日のような結果にはなっていなかっただろう。間仁田が刈米さんがいるとも知らずに、根気強く刈米さん家のパン屋さんに通い続けていれば、いずれ刈米さんの方から話しかけてきてくれたのかもしれない。そうなったら間仁田、お前は運命を強く感じてしまうんだろうな。わかるよ。僕だってそう思うだろうし。


 まあ、こんなこと、僕が言える立場にないのはわかっている。僕だって、あの夜まで家子のことを何も知らなかった。

 僕の場合は奇跡だったのだ。僕の感情が漏れ出して、家子に伝わって、たまたまそれが家子の救いになった。もし、家子に感情を読み取る能力なんてものがなかったら、今ごろどうなっていたかわからない。


 最初から家子に能力がなかったら、彼女は僕に興味を持つのだろうか。そう考えると悲しくなってくる。僕らの関係が、能力があるという前提条件がなければ成立しないもののように思えてくる。

 この平凡な世界に超常的な能力があるのは普通である。という認識ができないから僕は、この仮定を考えると悲しくなるのだ。……悲しいのか。

 そういった認識が最初から僕にあれば、また違う考えが浮かんでくるんだろう。でも、世界がこの世界であって、僕がこの僕である以上、それが浮かんでくることはないだろう。人の考えは世界とそこに生きる自分に縛られてしまうものだからだ。世界という不文律のような尺度からは逸れることはできないのだ。


 じゃあ、この世界で絶望に陥った者はどうしたらいい? 違う考えがどうあっても浮かんでこなかったらどうすればいい? 一生そのままなのか?


 そうならないために、僕たちは群れるのだ。似たもの同士が集まるのはそういうことだ。痛みをわかり合うことができるのは、結局は自分と似ているヤツなのだ。

 間仁田にとって、それは僕だろう。


 そうだろ? 間仁田。




 校門まで走ると、時實が立っていた。

「はあ、はあ、間仁田は?」

「……見失った。ムダに足の速い奴だ」

「ちくしょう……」

「きっと奴は明日から学校に来ないだろう」

「……たぶんな」

 時實は大きく息を吐き、

「今日は解散にしよう。一人になりたい気分だ」

 と言って、来た道を引き返していく。

 僕は息が整うまでその場を動かなかった。

 速く太陽が沈まないかな。そんなことを思った。




 文芸部室に戻ると、家子がパイプ椅子に腰を下ろしながら机に突っ伏していた。

 夕闇が眠気を誘ったのだろうか。声をかけようと思ったら、

「文士」

 と、突っ伏したまま僕の名を呼んだ。

「帰るぞ」

 そう言った僕の手を掴んだかと思うと、ゆるやかな速度で、腕、腰、の順に座ったまま絡みついてきた。もう慣れてしまったな、僕も。

「私は、そう思わない」

 僕の腹に顔をうずめたまま家子が言った。

「刈米とは違う」

「……そっか」

 僕はさっきの問いを反芻してすぐに打ち消した。考えても悲しくなるだけだ。それに、思考がまとまらないから、埒が明かない。いいことなしだ。


「なあ」

「ん?」

「どうして、刈米さんを率先して連れてきたんだ?」

 家子はナマケモノの速度で僕から離れていき、暗いオレンジ色の空に思いを馳せるように外を見つめた。

「間仁田が」

 家子は振り向いて僕を見つめた。思わず胸が締め付けられた。こんな切ない顔は、生まれてから一度も見たことがない。

「変えようとしてた」

 歩き出した家子は身を任せるように僕の体に向かって倒れてきた。そして、正面から僕をきゅっと優しく抱きしめた。

「今を」


 家子にはそう見えたのか。きっと、間違ってはいない。けど、やっぱり焦りすぎだ間仁田。

 手持ち無沙汰な両手で家子を抱き返そうとして、できなかった。

 日が落ちる前に目をつぶった。

 夕闇は闇に変わった。




 間仁田が学校に来なくなってから一週間が経った。


 あれから間仁田とは連絡が取れない。メールも電話も全て無視してくる。あいつの家がどこにあるかわからないから、押しかけることもできない。

 不完全燃焼な思いを抱えたまま、今日も下校時間になった。

 行方もあまり部活に顔を出さなくなった。理由は不明だ。どこで何をいているのやら。


 そして、家子も部活に来なくなった。正式な部員ではないから来なくて当然ではあるが、終業のチャイムが鳴るや否や、そそくさと僕の家に帰ってしまう。僕が帰宅するといつも僕のベッドで眠りについている。

 家子はよく眠るようになった。時間も場所も選ばず、僕が目を向けるときにはほぼ必ず隣で眠っている。本当に寝ているのかどうかはわからないが。

 これが何を意味しているのかわからないが、家子は以前よりも元気がなく、弱っている。なのに、その理由を僕にまったく話そうとしない。今日辺り問い詰めてみようか。


 僕以外で部活に来ているのは時實だけだ。だから、自然と下校も一緒になる。徒歩通学の時實は別に駅まで行く必要はないが、毎回僕について駅まで来てくれる。


「ここ一週間で、世の中もずいぶん指数関数的にきな臭くなったものだな」

 時實が物騒な物を見る目を町中に向けながら言った。

「たしかにな。市役所前でのデモ活動見たか? クー・クラックス・クランみたいな被り物した連中がスコップ持って練り歩いていたぞ」

「それは主流派から分派した連中だな。奴らの思想も一枚岩ではないということだ。ふん、たった数日のうちに派閥争いが起きるまで組織的に成長してしまうとはな」

「仕方がないんじゃないか? なんせ、今や世界人口が百億人を超えてしまったからな」

「米に限らず、地球全体の食糧が枯渇してきたようだな。教室に弁当がベーコン一枚の奴がいたが、それと関係がありそうだな」

「いや、そこまではさすがに。それはたぶん、そいつの家庭的事情だろ。でも、食糧危機とか言われてもいまいち実感がわかないな」

「それはおそらく米信者も一緒だろう。奴らはこの危機を正しく理解していない」

「と、言うと?」


「人口爆発もパン屋のせいだと主張している」


「……マジかよ」

「パン屋がせっせと子作りに励んだ結果だとか、奴等はパンから人を作る黒魔術的な力を持っているとか、頓知気なことばかり言っているな」

「……中世の魔女狩りじゃないんだからさ。米信者はノータリンばかりなのか?」

「米信者はさらに信徒を増やしているようだぞ。奴らの『パン屋狩り』はもはやとどまるところを知らない。この高校に通うパン屋の子息子女たちももうすでにほぼ全員狩られてしまった」

「……刈米さんは?」

「まだ無事だ。拙僧の調べによれば、この学校で狩られていないパン屋は刈米だけのようだ」

「意外とやり手だな」

「時間の問題かもしれんな」


 駅が見えてきた。この辺で時實ともお別れだな。

「この先、どうなってしまうんだろうな」

 別れる前に聞いてみた。聞いたところでなんにもならないが、時實の意見が聞いてみたくなったのだ。


「それは」

 時實は取引先のエージェントを値踏みするような目を僕に据えて、

「貴様次第だ」

 と、言い残して去って行った。


 深いメッセージのように思えた。




 夜、日中寝すぎてしまったのか、家子は僕の部屋のベランダにいた。手すりに両腕を組んでそこに顔をうずめている。

 僕もベランダに出た。そして、家子がこの家に来たときからおそらく積もりに積もっているだろう悩みを聞くことにした。


「そろそろ話してくれないか? 君が抱えている悩みの内容を僕が信じられるかどうかは別として、話だけでもしてくれないか。いつまでも様子がおかしい君を見ていても、正直楽しくない」

「きっと信じない」

 家子はそのままの態勢で、

「話さない」

 僕は溜息をついた。いつもベタベタくっついているくせに、どうしてこういう大事なところで距離を取るのだろう。


「別の話」

「……別の話って?」

 家子は顔を上げて、僕を真っ直ぐ見た。

「気づいてる?」

「……何に」


「私、どう見えてる?」


「どうって……」

 僕は目を凝らして家子を見た。

 そして、気づいた。

 どうして今まで気づかなかったのか不思議で仕方がないくらいに、いとも簡単に、あっさりと。


「前より……、薄くなってないか?」

「…………うん」


 伏し目になる家子。僕は慄いた。なんで、なんで、気づかなかったんだ。

「消える」

 家子の体が小刻みに震えだした。

「あの子みたいに消える」

 毎日こんなに近くにいたのに、どうして気づけなかったんだ。

「消えたことにも気づかれない」

 家子は僕の体に寄りかかってきた。


「抱いて。文士から、触れて」

 体を寄せられても、ドキリともしなかった。


 肉体的接触にも二種類あるのだ。

 肉欲を解消するためのものと、不安を紛らわすためのもの。

 そして、家子がしてきたのは後者だ。

 もしかしたら、今までずっと家子はそれをしてきたのかもしれない。

 初対面のあの日、ムリをしていたのではないか? あのこわばった体の感触を今でも覚えている。なぜなら、あれはあの時限定のものだったからだ。思い切った行動だったのかもしれない。

 それはなぜ? おそらく、僕とつながりを持つためだろう。それか、僕を試したのかもしれない。感情が読み取れなくなって、そのときの僕が今まで知ってきた僕と変わっているかいないか試したのかもしれない。


 なら、今、僕はどうする。


 家子の不安を紛らわせてあげるために、自分からハグをしたり頭をなでたりするべきなのか? 家子はそれを求めている。だが、相手から来るのならまだしも、自分から行くのは知的民族としてあるまじき行動じゃないか?

 僕は普段から家子が持ちかけてくる肉体的接触に、肉体的接触で返さないことで知的民族としての尊厳を守ってきた。相手からのそういったアプローチを強い精神力でスルーしていく、それこそが知的民族の真骨頂なのだ。


 じゃあ、今は? 今はスルーしていいのか?


 僕は気づいていたはずだろう。家子の心情の変化に。

 いつからか? と、問われれば始まりは家子が僕の家に泊まりに来た日から。家子の言葉を一つ一つ思い返してみれば、あの刹那主義者だった家子が、未来に対して憂慮していたことに違和感を持つべきだったのだ。

 何かがあって、家子は今のこの現状、自分が半透明であるという現状に、不安を抱き始めた。そして、その決定打は……。


 僕だ。


 僕が家子が薄くなっていることに気づかなかったことが、家子をさらに不安にしてしまった。一番近くにいる者ですら気づかなかった。その事実が家子を怯えさせてしまった。

 なぜ、気づかなかったのだろう。半透明問題について解決策は必要ないと家子が言ったからか? それで僕の意識から透明という事象に対する関心が薄れていた? それとも毎日ちょっとずつ消えていて気づきにくかったとか?

 考え出したらきりがない。今考えたって仕方がない。


 今は、現状をどうするべきかを考えるのだ。家子の不安を一時的でいいからどう和らげるかを考えるべきなのだ。

 考える必要なんてあるのか? 答えはすでに提示されている。それをやればいいだけだ。

 なのに、どうして僕はできないのだろう。どうして目の前の少女を安心させることが、僕にはすんなりできないのだろう。

 それは、相手が求めていることに対して僕が尻込みしてしまっているからか? こういうとき、肉体民族だったらどうするだろうか。相手の体に触れながら軽い気持ちで慰めるのだろうか。ときにはそれが効果的なのかもしれない。


 わだかまる気持ちの心奥に、苛立ちが根を張りだしたような気がした。どうしてこんな気持ちになるのか。それが育ったら何になるのかどうしてわかってしまうのか。


 今まで縋ってきた心の掟が僕を強く締め付けている。

 そのことに気づいてはいけなかった。いや、本当はずっと気づいていた。だが、見ないふりをし続けるべきだったのだ。

 僕が動けない理由。


 それは、僕が知的民族だからだ。


 崇高な信条が僕をちっぽけにしている。一度それを理解してしまったら、もうこれまでのようにはこの言葉は使えない。けど、捨てることもできない。僕は、この言葉に拘っている。この言葉を抱いているからこその僕であって、僕というブランドは、これなしでは語れない。僕はこの言葉通りの人間じゃないと、自分をどう守ればいいのかわからない。


 でも、この言葉からはみ出さないと、いつか瓦解してしまうかもしれない家子の心を守れない。

 孤独の旅にこぎ出す家子を助けられるのは僕だけなのに。


「私のこと、嫌い?」

 重くなった頭に、家子の沈んだ声が反響した。

 家子が僕に体を寄せてから、僕はしゃべりもせず動きもせずにいた。それがさらに家子を不安にさせてしまったようだ。

「嫌いじゃない」

「じゃあ、好き?」

「そっ…………」

 言葉が出てこない。

 言葉すら出てこない。

 知的民族は、精神的、つまり愛を伝える手段を言葉しか持たないというのに。僕は、言葉を紡げない。

 家子のことが好きか否か。ここまで家子に入れ込んでいる僕は、疑いようもなく家子のことが、好きなんだろう。

 たった二文字。たった二文字なのに。

「昔の文士なら…………」

 家子は途中で言うのをやめた。そして、

「文士が、わからない」


 家子が体の重心をさらに僕に預けてきた。

 きっと、ラストチャンスだ。

 僕はもう、百点満点の解答は出せない。ここで家子を抱きしめたとしても、良くて及第点だ。僕はタイミングを逃してしまった。

 時間が僕に牙を剥く。僕の気持ちをはやらせる。

「僕は」

 砂嵐のような思考にまだ結論を出せていないのに、僕は声を出してしまった。沈黙に耐えられなかったのだ。

「絶対に、君を、助けるから……」

 言葉が空虚に馴染んでいく。その後の言葉も思いつかなければ、体も動かない。

 もう、苛立ちを通り越して情けない。

 僕はこんなヤツだったのか?


「……ありがとう」


 家子が離れていく。体温も鼓動も、共有していた情報が散っていく。

「おやすみ」

 顔を上げずに部屋に戻っていく。どんな顔をしていたのだろうか。

 僕は手すりに寄りかかって空を見上げた。

 月が冷たくて、星が見えなかった。

 家子は、僕に失望したのだろうか。

「………………はぁ」

 僕はこの夜、どれだけ家子のことを考えた?

 僕はずっと、自分のことばかりを考えている。


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