第三章
第三章
翌日から、家子の奇行が始まった。
今まで押さえ込んでいた欲動を解放するかのようなはしゃぎぶり。僕の反応とスリルを楽しみだしたのだ。
本人曰く、
「遊ぶ。これまでしてこなかった。一人じゃないから」
らしい。
一人じゃないとは言うが、やっていることは一人遊びに等しい。なぜなら、僕は家子が遊んでいるのをただ見ているだけだからである。正直、関わるほうがバカバカしい類いの遊びだ。いや、遊びというよりイタズラだ。僕に対しての。
家子の遊びを簡単に四つほど紹介しよう。
一、授業中、僕の机の近くまで来て、マジックペンで僕の机に魔法陣を描く。
しかも油性。ちなみに、怒られたのは僕だ。
二、僕とすれ違った女子生徒のスカートをめくる。
悪辣すぎる。ちなみに、ビンタされたのは僕だ。
三、数学の時間に僕が黒板に書いたπの前に『オッ』と書き足す。
中学生男子すぎる。ちなみに、スベった感じになったのは僕だ。
四、授業中、突然何かに憑かれたかのようにしゃべり出す。
一行以上しゃべりたくなかったんじゃないのか。ちなみに、それに返答してしまってクラスメートに白眼視されたのは僕だ。
他、大小様々なイタズラに、僕はここ一週間近く悩まされている。彼女にとっては僕との二人遊びかもしれないが、僕にとっては、ただの嫌がらせのようにしか思えず、大変迷惑している。
僕はこれまでの人生で人を叱ったことなど片手で数えられるほどだったが、この一週間で両手両足の指じゃ数え切れないほど家子を叱っている。
対する家子はどこ吹く風。油性インクを必死こいて消している姿を見せつけても、
「がんばれ」
としか言わない。僕はこの女のどこに惚れていたのだろうか。知れば知るほどヤバいヤツなんじゃないか?
たまに買ってきてくれる購買部のおにぎりだって正当な手段で手に入れた物なのか実に怪しいところだ。誰からも見られていないことを悪用して、盗みを働いているのかもしれない。まあ、さすがに犯罪まがいのことはしていないと信じたい。
もはや日課のように誰も来ない校舎裏で家子を叱りつけた僕は、文芸部室に向かうことにした。
人を叱ると喉が渇く。部室に行く前に水分を補給しておこう。
自販機で水を買い、僕はそれを喉に流し込んだ。冷たい水が喉を潤していく感触がとても気持ちいい。それと同時に流れ込んでくる噛み応えのある米も、僕の顎関節を癒やしていく。
僕が食べたり飲んだりしているとき、家子は必ず奇っ怪な者を見る目を向けてくる。これがなんの意思表示かわからないが、とりあえず、
「あげないぞ」
とだけは言っておく。別に欲しそうにしているわけでもないが、とりあえず言うだけ言っておく。
「いらない」
家子は毎度同じセリフをはいた。
僕はペットボトルの蓋を閉め、家子を連れ立って文芸部室に向かった。連れてったところで支障はない。なぜなら、あいつらには見えていないのだから。もっとも、僕がどれだけついてくるなと言ってもついてくるのが家子彩琶なのだが。
文芸部室の扉を開けると、すでに全員集合していた。
時實は数学の課題に取り組んでいた。勉強熱心なことはいいことだな。対する文芸部不真面目組の片割れの行方は、スマホでゲームをしていて、もう片割れの間仁田は珍しいことに新聞を読んでいた。
いつものようにパイプ椅子に腰を下ろす。家子は書架から適当に本を見繕い、立ち読みを始めた。
今更だが、家子が手にしている物も見えなくなるようだ。だが、家子にベタベタくっつかれる僕の姿は周りからガッツリ見えているようで、傍目からすれば独りでにパントマイムをしているように見えているみたいだった。不本意だ。
そんなことを考えていると、時實が慇懃な声色で、
「それで桂木。魔法陣でサキュバスは召喚できたのか?」
とすっとぼけたことを聞いてきやがった。
「何度も言っているがなんで僕がサキュバスを呼び出そうと苦心している感じになっているんだ」
今度が間仁田がうざったい長髪を揺らしながら、
「桂木はスケベだからね。うん。とってもスケベさんだよ。スカートめくりにオッπ。まるで中学生のようじゃないか。フラれておかしくなっちゃったのかい?」
「僕はフラれてもなければ告ってもない」
どうやらこいつらの中では、僕がフラれたことになっているらしい。それに、家子の奇行と奇行が悪魔合体されているようだ。
「ふっふっふ、おいおいそれなんてエロゲ?」
「エロゲじゃないし、僕がしたことでもないからな」
「などと供述しており――」
「駄目だこいつ……。早くなんとかしないと……」
ラブレターを出した翌日と、家子が奇行を開始した日付が被ったことによる弊害がすべて僕に回ってきているのだ。これはまったく侮辱罪だ。何度言ってもこいつらは聞く耳を持たない。さてどうしてやろうか。
「桂木、貴様の奇行は我がP組にまで伝わってきているぞ。そして貴様はA組。つまり、貴様の悪評はこの学年中にすでに膾炙してしまっているようだな」
「最悪だ……」
まだあと一年半も高校生活が残っているっていうのに。
元凶になった半透明女に目線を送ると、家子は書架にもたれかかり、立ちながらひなたぼっこする猫のようにうたた寝していた。僕が勝手に背負わされた十字架の大きさに押しつぶされそうになっているというのに、暢気でいいなまったく。
「それよりも」
時實は僕の暗い未来を今の関心事よりも下位に位置づけ、
「間仁田、貴様が新聞を読むとはな」
たしかにさっきからずっと気になっていたことだ。間仁田のくせに新聞を読むなんて、オスの三毛猫並に珍しい。
「知らなかったのかい? 僕は政治はからっきしだけど、社会問題に関しては一家言あるんだよ」
「そうだったのか、知らなかった。じゃあ、せっかくだからお前の意見を是非是非ご教授願いたいな」
「いいだろう! 桂木にもわかるくらいライトな話題を提供してあげるよ」
僕の挑発におそらく挑発とは気づかずに間仁田は乗ってきた。
間仁田は新聞をパラパラとめくり、
「世間の関心をもっとも集めているのはやっぱり米騒動じゃないかな。人口爆発による米不足、そして流通量が減り、米の買い占めまで起こって、米の値段が高騰。これはまさに食生活に突如として猛威を振るったディザスター。米という料理を作る上で欠かせない食料を全人類は今、失いかけているのさ……!」
感慨を込めて演説しだした間仁田。
「ふっふ、そんなこた誰だってしてることだろがい。情弱だなあ。ふっ、今、ネットのスレで最もホットな話題は米信者による『パン屋の陰謀論』だぞい。米騒動はすべてパン屋が仕組んだ、白米根絶計画の一端って言われてんだぞ。ふっふ、いやいやまったくソースはわかんねえけどスレの伸びが異常なんだなあ。ふっふっふ、こりゃ本当に白米がログアウトしました状態になる日が来るかもなあ」
楽しそうにマシンガントークを炸裂させた行方。
「少子高齢化などと言われていた時代がもう遠い昔のようだな。今や世界人口九十億人。米など関係なしに食糧危機に陥ってもおかしくない数字だ。拙僧らが成人する頃には食糧をかけた第三次世界大戦が開戦されるかもしれんな」
意味深長な口調で言う時實。
この平和ボケした世界で第三次世界大戦が起きるだなんて考えられないな。だが、戦争というのはそういうものなのかもしれない。一夜にして、ガラッと自分の世界が、そして人生が変わってしまう。できれば戦争なんて起こらないでほしいな。
「おっと」
唐突に行方が素っ頓狂な声を上げて、
「すまそすまそ、巫女たんと奏たんに呼び出されてしまったンゴ。ふっふ、そんじゃまあ、おつかれいっ!」
と言って、足早に部室を去って行った。
なぜあんなのがモテるんだ。
「女性の方が二十億人も多いというのに、どうして僕はこの男女比率の恩恵を受けられないんだろうな」
心の底から嘆いた僕の袖を掴む者がいた。
「恩恵、恩恵」
いつの間にか起きていた家子が、知らぬ間に僕の隣に来て、自分のことを恩恵だとかほざいていた。君は良くて悪弊だ。
そんな僕の嘆きに時實が反応した。
「聞いたか間仁田、桂木は女子からの恩恵を所望しているようだぞ」
「新しいラブロマンスに向かうということだね」
「お前ら、勝手な解釈をするんじゃない」
「違う、拙僧が言っているのはそういうことではない。桂木を救ってやれるのは間仁田、貴様しかいないということだ」
「どういうことだい?」
「そこに行方の私物があるだろう。半分貴様の私物のような例のアレが」
「それは禁句だ!」
「僕だって間仁田は願い下げだ」
「まったく、どうして行方はアレを持ち帰らないんだ!」
「忘れているんじゃないか? 実際時實が言うまで僕もまったく忘れてたわけだし」
時實が間仁田のアレをイジるなんて珍しいな。
それを時實に言おうとしたら、扉から三回ノックの音が聞こえた。
「入ってどうぞ!」
間仁田が余勢を駆るようにやっつけ口調で入室を促した。
「失礼します」
上品そうで綺麗な声が扉の向こうから聞こえた。男乕の声に似ていたが、この上品さは音海に似ているような気がした。
入ってきたのはその二人のどちらでもなかった。
「こんにちは」
恭しく挨拶する女子生徒はどこかで見たような、見たことないようなそんな顔立ちをしていた。猫目や柔らかそうな唇、それこそ、男乕と音海を足して二で割ったような顔だ。
「やあ、血脇さん」
「知り合いなのか? 間仁田」
「うん。同じクラスだからね」
ということは同級生か。雰囲気的に上級生かと思ったが。
「こんにちは。二年H組の血脇涼子です」
そういってまたお辞儀する血脇さん。その礼儀正しさにつられてか、
「こんにちは。二年P組の時實仰翠です」
時實も丁寧に挨拶した。同じクラスの間仁田はともかく、僕も挨拶しておくべきか。
「こんにちは。二年A組の桂木文士です」
「存じ上げております」
「え……?」
イヤな予感がする。もしかして、それは、僕の冤罪まがいの悪評のことじゃないだろうな。
ステレオタイプと言っていいくらい遊び心のない地味なセーラー服を着こなした血脇さんはアサガオの成長過程を見守るような微笑を崩さずに、
「康太君からよくお話を聞きますから」
康太君? ああ、行方のことか。
「行方と知り合いなんですか?」
「はい。幼なじみです」
「へえ」
この人が行方の幼なじみだったのか。あいつが日頃から負けヒロインがどうのこうの言ってる、あの幼なじみだったのか。
「アンラッキーなことに血脇さん、行方なら今しがたどこかへ行ってしまったよ。すれ違わなかったかい?」
「そうですね。見ませんでした。ですが、今日私がここに来たのは康太君にようがあったからというわけではないんです。私が会いに来たのは」
血脇さんは僕の方に顔を向け、
「貴方です。桂木君」
「僕ですか?」
ちょっと面食らった。僕にいったいなんの用だろうか。
とりあえず、行方が座っていたパイプ椅子に腰掛けてもらった。
血脇さんは浅く深呼吸してから、
「別に私は康太君のことなんてどうでもいいんですけど、最近ちょこっとだけ、康太君関連で看過できない事態が起こりまして」
「といいますと?」
「私って、結構我慢強いタイプじゃないですか。自由奔放な妹のおかげかはわかりませんが、とにかく我慢強いんです」
「わかります。妹がいると、どうしても我慢しなければならないことが増えますよね。親からもそれを求められているというか」
僕には中学二年生の妹が一人いる。もっとも、今は思春期真っ盛りでまったく口をきいてくれないが。
「知らない間に損な役回りになっているというか」
「激しく同意です」
「そんな性格のせいで、別に康太君のことなんてどうでもいいんですが、康太君がよく言うヒロインレースから自ら退いてしまったというか。勘違いしないでほしいんですけど、本当に康太君のことなんてどうでもいいんですけど」
……なんだろう。この違和感。どこかで聞いたことある定型文――男乕が使っていたツンデレ構文をなんでこんなに盛り込んでくるのだろうか。キャラに合っていないように思える。
「私って、好きな人の幸せをとても考えてしまうタイプじゃないですか」
知らない。
「ついつい、康太君の幸せを考えてしまって、自分の幸せは二の次にしてしまうというか、気づいたら一歩引いてしまって、アプローチができないというか。勘違いしないでくださいね、別に康太君のことなんてどうでもいいんですからね?」
この人が行方に好意を寄せているのはもうわかりきってしまっている。だが、好意を隠す気が感じられないのに、どうしてわざわざとってつけたかのようにツンデレ構文を口にするのだろうか。
ツンデレ構文というのは、照れ隠ししながら攻撃的に言うのが本来の使用法なわけであって、ここまで堂々と、そして淡々と儀礼的に言うものではない。それに遠回しに好きということを匂わせてくれたり、言葉とは裏腹な主人公への深い愛情を感じ取ることができるのが醍醐味なわけであって、ここまでストレートに愛情表現をしているなら、使う必要などないではないか。なにより、血脇さんにはツンの要素もデレの要素も感じられない。乗り込んだバスが目的地を通り過ぎてしまったことに気づく三秒前のような違和感だ。キャラ的にお清楚キャラの方がお似合いだろう。って、僕はなんでこんなに熱く語っているのだろうか。いかんな、行方に毒されすぎたか。
「私って、諦めが悪くて、いつまでもウジウジ考えちゃうタイプじゃないですか」
それも知らない。というか、初対面だ。知るわけがないだろう。さっきから、当然の認知として話すのはやめてもらいたい。
「諦めたつもりだったんです。あの女の子たちに囲まれている康太君が幸せそうにしていたから、私はこれでいいと思っていたんです。でも、どうしても諦めきれなかったというか、いつまで経っても思考が前に進んでいかないんです。別に、以下略」
略すな。
「そんな時、青天の霹靂とも言うべきことが起こったんです。本当に驚きました。それでも私は理解しようとしたんです。康太君を尊重しようとしたんです。でも、今までそんな素振りをまったく私に見せていなかったし、女の子たちと楽しくしていたから、とても混乱して、よくわからなくなってしまったんです。脳の処理が追いつかないというか、とにかく混乱しているんです。以下略」
たった三文字だけでツンデレ構文が浮かんでくる。
「ここ一週間くらい、そのことばかり考えていました。それこそ勉強に手がつかなくなってしまうほど……。そして決めたんです行動に移そうって」
行方のご両親以外に行方のことでこんなにも悩む人がいるだなんてな。もし僕が女子だったら、あんな男と付き合いたいだなんて蟻の足跡ほども思わないだろう。きっっと勉強のお供のラジオ感覚で聞いているだろう時實もアホ面でムダに相づちを打ちまくって聞いている間仁田も同意見だろう。
「人間って凄いですよね。やろうと決めた瞬間にこんなにも力が湧いてくるんですから」
「そうなんですか。で、実際に何をするんですか?」
「私の今までの混乱がすべてエネルギーに変わったんです」
「そのエネルギーをどんな風に使うんですか?」
「この漲る力に思わず酔いしれてしまいそうです」
全然僕の話聞かないなこの人。
「この、殺意という名の力に」
「ん?」
今きな臭いこと言わなかったか? 殺意とか言わなかった?
さっきと同じ感じに笑っているし、……冗談だろう。でもなんだろう。冗談にしては不穏な雰囲気をこの人から感じる。
血脇さんがおもむろに立ち上がったから、思わず身構えてしまった。
「一度、失礼しますね」
「ああ、はい」
部屋を出る前にもう一度礼儀正しくお辞儀した。
あえて理由は聞かなかった。トイレにでも行くんだろう。きっとそうだ。
だがすぐに扉がノックされた。入ってきたのは血脇さんだった。
穏やかな雰囲気もご令嬢のような上品な微笑もそのままだ。しかし、間違い探しにしては簡単を通り越して問題にすらなっていない血脇さんの違いを僕は見つけた。
「なんですかそれ」
「知らないんですか」
「知ってますよ。金属バットですよね」
「正解です」
「どうしてそんなもの持っているんですかという意味です」
殺意という言葉を聞いたばかりということもあり、僕は自然と警戒態勢に入っていた。どうも血脇さんからはやばいヤツのオーラがビシビシと感じられる。どういうわけか金属バットを持っている姿が様になっているし。
「金属バットの用途はご存じですか?」
血脇さんの質問に、僕はビルから飛び降りようとしている女子高生を宥めるような口調で答えた。
「投げられたボールをかっ飛ばすためのものですよね」
「違います」
違くなくない?
「ムカつく奴のドタマをかっ飛ばすためのものですよ」
違くない?
と、言い返すヒマもなかった。
まさに瞬間移動のようなスピード。
気づいたときには、血脇さんは僕の目の前で跳躍していた。そして、振り上げた金属バットを僕の頭頂部めがけて振り下ろした。
「ぐっ――!?」
引力。
首元を掴まれた僕は後ろに引っ張られ、かろうじて金属バットを回避。苦しい悲鳴を上げるパイプ椅子。
「無事か!? 桂木!」
「お、おう」
引っ張ってくれたのは時實だった。僕の反射神経では今ごろあのキラキラ光る金属バットに赤色の水玉模様が付着していた頃だろう。
「あ――っぶねっ!」
遅ればせながらな感想。
というか、マジでなんなんだコイツ。ガチで殺す気で振ってきやがった!
「な、な、ななななにやっているんだ血脇さん!?」
僕以上に動揺している間仁田。僕同様、膝をガクガク言わせている。
血脇さん――いや、血脇は相も変わらずの微笑と雰囲気で、
「決まってるじゃないですか。消すんですよ、桂木君を」
「まったくさっぱりこれっぽちも意味がわからない!」
「とぼけないでください。本当はわかっているんでしょう? 知らないふりをして私をからかうなんていただけません。もしかして、康太君のこともからかっているんじゃないでしょうね? 別に私は以下略ですけど」
「だからワケがわからない!」
言った瞬間逆効果だということを悟った。ウソでも話を合わせておくべきだったかもしれない。血脇からしたら僕がすっとぼけているようにしか見えないだろう。
「私に、言わせるんですか? 酷なことをするんですね桂木君」
つい数分前と同じテンションで話してくるからめちゃくちゃ怖い。どうしてそんなにも通常会話のような雰囲気で話せるのだ。
そして僕はこの局面で言い知れぬ既視感を抱いていた。それの回答は血脇から発せられた。
「私、見たんです」
いつかのリフレインのようだ。
「康太君が貴方の下駄箱にラブレターを入れているところを」
行方ァッ! 存在感を見せつけてんじゃねえよ!
何人目だお前。厄介女子限定の動画配信でもしてたのか? ああ!?
「大いなる誤解だ!」
「他の女の子たちは別にいいんです。でも、桂木君だけは許せないんです」
「だから誤解だって!」
「アプローチもせずに康太君の心を奪うだなんて、まるで私たちがバカみたいじゃないですか。だから貴方を亡き者にします。これは私だけではなく、あの二人の女の子たちの総意でもあるんですよ」
「僕の話を聞いてくれ!」
「たまたま行動に移したのが私。行動に移さなかったのがあの子たち。だから私にだけ怯えちゃダメですよ。ちゃーんと、あの子たちにも怯えないと。まあ、感情なんて死体になればおのずと捨てられてしまいますけどね」
「さっきから僕を殺す前提で話さないでくれ! いいから、そのバットを置くんだ。物騒すぎる。怖すぎる!」
「安心してください。このバットは軟式用です」
「せめてもの譲歩にすらなってないんだよ!」
「わかりませんか? 少しでも長く生かしてあげると言ってるんですよ。途中で死にたくなるかもしれませんけど、最初に喉を潰すつもりなので私の耳には届きませんね」
確定だ。コイツはサイコキラーの才能がある。
「桂木、窓から逃げろ」
時實が耳元で囁く。
「ここは二階。ボックスウッドに飛び込めば軽い怪我ですむはずだ。貴様が生き延びるにはこれしかない。あとは拙僧と間仁田でなんとかしておく」
「僕に二階から飛び降りる勇気があるとでも?」
「血脇とダイブ。どっちが怖いかを今一度深く考えてみろ。いや、考えるまでもないはずだ。怖いのは血脇。血脇だ。血脇は怖い」
「血脇は怖い」
「そうだ。血脇は怖い。奴は始めから貴様を狩る気でこの部室を訪れたのだ」
「怖い」
「そうだ。血脇は怖い。奴に拙僧たちの言葉は通じない。おそらく奴は自分に都合のいい世界しか見えていないのだ。牽強付会とはまさにこのことだな。虚構と現実の境がついている行方と違って、この女はそれらを自分好みにブレンドしているのだろう。おそらく精神的に相当追い込まれた結果だと思うが、こういうタイプが将来犯罪を犯すのだ。擁護する気には一切なれんな」
それほど行方が好きだというのか。わからん。さっぱりわからん。
「もういいですか? じゃあ、康太君のために死んでください」
環境の頂点に君臨する者特有の微笑みで、
「以下略です」
僕に特攻しようとする血脇の目の前に大きな物体が現れた。
間仁田だ。
「か、桂木、フライアウェェェイ!」
咄嗟に走る僕。
「なんか好きなもん買ってやるからな間仁田!」
「刈米さんが好きだああ!」
死ぬ前の雄叫びのような声を出す間仁田。
「飛べ! 飛ぶのだ桂木!」
僕は窓を開け、窓枠に足をかけた。
たっけえ!
けど迷ってるヒマなんてない!
行け! 知的民族! 飛ぶんだ! 知的民族!
「僕は、知的民族だああ――――!」
窓枠を強く蹴っ飛ばした。
こんなに勇気が湧いたのは初めてだ。知的民族。やはり素晴らしい言葉だ。
「ぐううううわっ――!」
当然、地球様には逆らえず、僕は落下し、上手いこと背中側からボックスウッドに収まることができた。
「いってえ」
枝であちこち切ってしまった。仕方のない犠牲だ。この傷は癒えてからもしばらく痕として残るだろうな。
ボックスウッドは今、椅子のようになっている。後で用務員さんに謝りに行こう。一番下の方まで折れてしまったのはケツの感触でわかる。ジンジンするが、これも耐えれる痛みだ。部室棟の建物自体がそんなに大きくなくて助かったな。
ああ、綺麗な青空。
今ごろあの二人はどうなっているだろうか。そんなことを考えていたら、空から何かが降ってくるのが見えた。
もしかしなくても、血脇涼子だ。
「ウソだろ!?」
血脇は僕の右横のボックスウッドにスーパーヒーローのような姿勢で降り立った。そして微笑んだ。化け物め。
「ゆっくりしてたんですね」
「ひっ――」
僕は慌てて立ち上がろうとした。そしたらまた、何かが降ってくるのが見えた。
もしかしなくても、時實仰翠だ。
「お前もかよ!」
時實はうつ伏せの姿勢で左横のボックスウッドに飛び降り、衝撃をものともせずに起き上がった。痛そう。
顔には無数の切り傷ができてしまっていたが、それが逆に時實の顔立ちとも相まって、戦場を駆ける猛虎のように勇ましかった。
「ここは拙僧に任せておけ」
「いいのか?」
「貴様など足手まといだ」
「死ぬなよ! 後でなんか奢るからな!」
僕は走った。
時實も血脇もどうしてあんなにもバトル適性が高いのだろうか。行方が知ったら喜ぶかもな。
校庭を駆け抜け、息も切れ切れ校舎に入った。
放課後にも関わらず廊下にはまだ人がたくさん残っていた。この学校の規模からしたら仕方のないことだ。校舎は狭いくせにやたらと生徒数が多い。進学実績を稼ぐためのこしゃくな手段だと僕は考えている。廊下で誰かと肩がぶつからない日なんて高校三年間で迎えることができる二月二十九日並に少ない。次のうるう年はいつだったかな。
僕は比較的人が少ないであろう最上階――三階にたどり着いた。ここの男子トイレにでも隠れよう。
「こんにちは。また会いましたね」
走って上昇した体温が引いていく。
振り返るとそこには血脇がいた。
「……先回りしたのか」
「ええ。時實君は後回しです」
「君、もう人間やめてるだろ」
「ひどいですね」
特に気分を害していないようだった。それどころかクスリと笑いやがった。
よく見ればこの女、息が上がっていない。僕はもうずっと前から肩で息をしているというのに。
もはや怪異の類いだろ。
「あ、行方」
僕は血脇の奥を指さした。
「え?」
血脇が振り向いたその隙に全力ダッシュ。今度はとにかく人の多いところに。できれば職員室に。最初から職員室に行けばよかった。
「ブラフですか。騙されちゃいました」
近づく足音。それだけでわかる。僕より足が速い。
飛ばし飛ばしで階段を降りていく。折り返し、また降りる。
血脇は子どもを追う山姥の速度で僕に追いすがってくる。
まずい。追いつかれる。
「来るなあああ――――!」
チマチマしていたら追いつかれる。僕は階段を全段飛ばしすることを決心し、飛んだ。
息が引っ込んだ。
目の前に女子生徒。
ぶつかる。
正面衝突した女子生徒と二人で落ちていく。せめて僕が下敷きになろう。そう思ったが時既に遅し、もう間もなく僕らは階段の踊り場に激突する。それも、名も知らない白ブレザーの女子生徒を下にして。
ちくしょう。
頭が真っ白になる。
視界が真っ赤に染まる。
風船が割れたかのような破裂音がしたかと思ったら、僕の体が少し浮き上がった。押されるかのように。そう、エアバッグが作動したかのように。
僕は横回転で踊り場を転がった。壁にぶつかり、動きが止まった。
次第に回復する思考。
踊り場はどこを見ても毒々しい赤色で彩られていた。それこそ、人間一人分の血液が飛び散ったかのように。
「え――?」
僕か? 僕の血? いや、違う?
痛くない。血も出てない。でも、全身赤い。でも、僕の血じゃない。じゃあ、誰の血なんだ?
「か、桂木君」
血脇が降りてくる。
さすがの血脇も血の気の引いた顔をしていた。
「だ、大丈夫ですか?」
「君がそれを言うのか?」
「す、すみません。つい、ハイになってしまって」
血脇への怒りは後にして、なんだこの状況は。
「文士」
騒然とする人波をかき分けて降りてくる半透明な女子生徒。家子彩琶だ。
「いつの間に……」
こっそり僕たちのことを追いかけていたのだろうか。
家子は顔に心配という言葉を浮かび上がらせていたが、僕が無事であることを知ると、安堵の表情を作った。だが、その表情もすぐに終わり、今度は怪訝そうな顔を向けてきた。その気持ちはわかる。
「なんでかは知らないが、毒々しい液体が飛び散ってしまっているようだ。これは僕が掃除した方がいいいのだろうか……」
僕がぼやくと、家子は、
「本気?」
「……掃除のことか?」
「違う」
家子の顔が突然真っ青になった。暖を取るかのように僕の腕に頼りない体を絡ませ、
「本気で言ってるの?」
と、これまでに聞いたことのないか細い声で問いかけてきた。
僕が頭の上にハテナマークを浮かべていると、
「消えた」
家子は怯えていた。
「人が……破裂して、消えた」