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第二章

第二章



 遡ること十年前、僕は知的民族になった。


 まだランドセル歴半年だった当時の僕は、井戸端会議ではエンジェルラダーの化身、町内会議では彩雲の擬人化と言われてもおかしくないくらいの神秘的な純粋さと、行き先を知らないまま両親と乗った海外行きの飛行機の中で、客室乗務員のお姉さんに世界地図を見せながら、

「これは天国行き? 天国はどこにあるの?」

 と教えを請い、図らずも他の乗客たちに死を連想させるくらいの愚かさを秘めていた。


 さらにもっとピュアで愚かな一例を挙げるとするならば、僕は異性に対して興味を抱いていなかった。


 ウサ耳がピンと立っているウサギより、たれているウサギの方が心なしか可愛く見える程度の認識で女子を見ていたし、もっと言えばカブトムシのメスに角がないように、女の子に角がないことを知っても別に興奮しなかった。なんなら、おざなりとなおざりの意味の違い並に理解する気にもならなかった。


 僕がこれほどまでの無知と超然とした精神を身につけられたのも、一人遊びが三度の飯より好きだったおかげである。他人と関わるのが苦手だったわけでも、引っ込み思案だったわけでもない。単純に一人で遊ぶのが好きだっただけなのだ。


 そのおかげで僕は同級生たちとは一線を画した成長を遂げることができたのだ。

 今にして思えば、ちゃんとみんなと遊んでおけばよかった。みんなと同じように成長を遂げて、みんなと同じくらい異性に興味を持って、放課後なんかも友達と一緒に出かけたりするような、ごく一般的でどこにでもいるまさにフリー素材のような小学生として生きていくべきだった。


 そうすれば、あの女に出会うこともなかっただろう。

 その女との出会いは突然だった。


 夕暮れが町を染めるころ、いつものように町外れの公園に向かっていた。あまり人が寄りつかないその公園は、一人遊びをするにはうってつけの場所だった。寄りつくのは僕とカラスと黒猫くらいのもので、やたらと不吉な動物が集まっていたのが今でも印象に残っている。ちなみに僕は不吉な動物じゃない。


 通い慣れた公園の異変にはすぐに気づいた。


 いつも通りカラスたちが、公園の中央に位置するさびれたジャングルジムにうるさくわめき散らしながらたむろしているかと思いきや、仲間の一人が死んでお通夜でも開いているのかと思ってしまうくらい静かで動きがなかった。


 その原因はすぐわかった。

 ジャングルジムの最上部に、見慣れないデカくて黒い影が鎮座していたのだ。


 僕はしばらくの間、暢気に突っ立ってその影を見ていた。すると、影は海底に群生するワカメのように揺れながらやおら立ち上がり、やがて人型になって僕を見下ろした。


 影の正体は女子高生だった。


 光をまったく反射していない腰あたりまである綺麗な黒髪に、悪魔城が似合いそうな漆黒のセーラー服を身に纏っていた。


 女子高生は綿毛のような身軽さで跳躍し、成人男性でも飛び降りたら涙目になるであろう高さをゆっくりと降下していって、音もなく着地した。


 唖然としてアホみたいに口をあんぐりさせている僕に女子高生は、

「こんにちはぁボク。ひとりぃ?」

 と、人好きのする綺麗な顔立ちを柔和なニヤけづらでとろけさせながら、予想の三倍けだるげな声で話しかけてきた。

「あたしもひとりなんだぁ。もうヒマでヒマで。よかったらかまってほしいなぁ」

 温々のこたつが突然話し出したのを見ているような気分を味わいながら、僕は返事に困った。この人は本当に人間なのだろうか? よくお母さんが僕に言う、アヤしい人なのだろうか?


 そんな僕の心情を見越したかのように、

「そんなにじろじろ見られちゃ照れちゃうです。あたしは別に変なお注射をぷすぅっとしちゃうようないけないお医者さんでもぉ、鼻から吸い込む白い粉を売ってる商人さんでもぉ、しゅわしゅわするアメちゃんで黒いバンに誘い込んだりする子ども好きの悪い人でもないよぉ」

 小学一年生の僕からしたらチンプンカンプンなことをマイペースで言い聞かせてきた。


 まだ一言も発していないことに遅ればせながらも気づいた僕は、何を言うべきか迷った。そんなことすらも見越してきたかのように、

「あたしぃ、天田ヶ谷(やたがや)くぬぎって言います。変な名前でしょぉ? ボクの名前を教えてよ」


桂木文士(かつらぎぶんし)


 僕は反射的に答えていた。

「文士くん。かっくいいねぇ。死ぬまで忘れないよぉん」

「ふっ」

 思わず吹き出してしまった僕。くぬぎの醸し出すゴム紐がだるんだるんになった実家の体操ジャージのような雰囲気にいつの間にか懐柔されてしまった。名前を教えたのが良い証拠である。

「文士くん、いいねぇ。なかなかいいよぉ、うん」

 くぬぎがランドルト環のような形を手で作って、その指と指の間にできた僅かな隙間から僕を見ていた。


「あたしの妙案、聞いてほしいなぁ」

 くぬぎは悪だくみをするイタズラ少女のような顔で、

「大人の遊びをしましょ」

 と言って、僕の肩を掴んだ。

 大人の遊びとはなんなのか、まったくわからなかった当時の僕は、くぬぎがその遊びの内容を教えてくれるのを健気に待っていた。


 そのときカラスが飛び立ち、瞬きの隙にキスされた。


 脳がその事実に追いつくまで、半瞬もかからなかった。

 理解したその瞬間、心という捉えどころのない概念の形をハッキリと思い描けるくらいの激しい揺らぎを感じた。

 心臓と心は異なる方法で異常を訴えた。膨らむ度に肋骨を強打しているんじゃないかと思えるくらいの心臓の痛みと、内臓を溶かして内側から皮膚を焼こうとする心の燃えるような痛みが、乗算しながら僕を襲った。


 くぬぎの舌が僕の舌と絡まれば絡まるほど、僕の神聖さはリロードされて体外に発射されていく。まさにそんな感覚に本能的に苛まれ、大人の階段をナイトホークで駆け上がってしまった気分に陥った。

 どれくらいの時間が経過したかわからない。一分? 十分? それ以上? わかるわけがない。


 スッと体が軽くなり、僕は尻餅をついて、思わず見上げた。

「遊びはこれから。たくさん友達巻き込んじゃいましょ」

 そう言い残してくぬぎは消えた。どうやって消えたのか思い出せない。

 僕はしばらく動けなかった。


 あとからこの行為が、よく上級生たちが口にするエッチなことなのだと知った。

 自分が酷く汚れてしまったかのように感じた。そして、あの強い情動は、そういった行為に対する拒絶だと思い至った。


 その日から僕は知的民族になった。


 僕は女性と付き合うなら、肉体よりも精神を優先させることを固く決意したのだ。

 そう、燃えるようなアバンチュールよりもプラトニックな語らいを神聖視することを自分自身に宣誓したのである。

 今のこの考えに至れたことは、本当に僥倖だった。だが、その原因たる天田ヶ谷くぬぎだけは絶対に許さない。


 僕はあのような大人になんて死んでもならない。


 肉体的な衝動に突き動かされた軽佻浮薄な男女交際などするものか。


 一目惚れがその典型例だ。あれは生殖本能そのものではないか。まったく相手のことを知らないくせに、その心と体が欲しくてたまらなくなる。もはや一目惚れなんてものはエッチをするための方便にすぎない。僕は絶対に認めないぞ。


 そんな思いを胸に僕は高校生になった。

 そしてその入学式、一目惚れしてしまった。




 そんな精神的ポールシフトから一年半が経った。


 高校生活も折り返し地点を過ぎそろそろ大学入試のことを考えなければならないが、今は部活に熱中したいからとそれほど忙しくもない、なんならすることなんてほとんどない部活にかこつけて勉強から敬遠し始めた十月上旬。今日も今日とて僕は部室に通う。

 僕が所属するのは文芸部で、部室棟の二階の端っこの部屋に陣取る男子四人からなる零細組織だ。ちなみに、部長は僕、桂木文士だ。

 僕はこの部室が好きだ。窓からは運動場が見渡せ、壁に沿って並ぶ書架には下鴨納涼古本まつりのように本たちが窮屈そうに整列している。部屋の中央には長机が二脚寄り添うように並び、その四隅には味気ないパイプ椅子が置かれている。

 地味で、本を心地良く読むための環境。まさに僕好みである。


 そんなまったりとした部室の雰囲気を今まさに剣呑にしている輩がいる。しかも僕はその三人組によって、パイプ椅子に座らされ、周りを取り囲まれている。握りしめたシャーペンに汗が滲む。


「さあ、思う存分書くがいい。あとで拙僧たちが添削してやるからな、桂木」


 僕の真後ろ、つまり三人組のセンターに位置する時實(ときざね)がむっつりとした顔で言った。

 この男は一人称が拙僧の自称修行僧だ。修行と称して、毎日五駅分の距離を徒歩通学する変わり者である。戦場にいたらつい心強くなってしまうような強面な顔立ちをしていて、いつも眉間にしわを寄せているが、別に怒っているわけではない。これがデフォルトだ。


「ふっふっふっふ、いつまでも静止画じゃ三話切りされる前に視聴者は違うアニメに移っちゃうんだぞ、ふっふっふ、桂木」


 今度は僕の右隣で頬杖ついて座っている行方(なめかた)がオタク特有の引き笑いと早口でまくしたてた。

 急いでいるときにほどけた靴紐のように、イラッとくるけれどほっとくこともできないような顔立ちをしたこの男は、重度のアニメオタクであり、ねらーでもある。去年夏休みに宿題として出された読書感想文を、アニメの感想を語り合うスレを読んだ感想を書いて提出した猛者である。もとい、生粋のバカである。


「人生百年時代とは言うけど、僕たちの時間は、特に青春の時間はリミテッドであり、そして、すぎていくのも一瞬なんだよ。うん、僕たちはフレンドだからいくらでも君に付き合ってあげるけど、やっぱり、うん、やっぱりだよ。ちょっと飽きてきたかもしれないよ。桂木」


 次は僕の左側に立っている間仁田(まにた)がアメリカの舞台俳優のような身振り手振りでそう言った。

 中の中の上澄みレベルのイケメンさのこの男はただのアホである。横文字が大好きで、薄っぺらいことをそれっぽく滔々と語っているだけだ。


「……本当に書かないといけないのか?」

 僕は反対の意思を滲ませて言い放った。

「そうだ。書くのだ。想いを文章にして伝える。実に文芸部らしいではないか」

 それは、そうだけどさあ。

 僕が今書こうとしているのは正真正銘ラブレターだ。正確に言えば、書かされそうになっているのは、だ。

 部室の扉を慣れた手つきで開けた瞬間、この三人があれよあれよという間に僕をパイプ椅子に座らせ、ペンと紙を差し出してきた。そして今に至るだ。


「貴様はそろそろ行動を起こすべきなのだ。いや、遅すぎたくらいだ。一年半も貴様は何をしていた」

「いろいろしていたさ。知的民族として精神的アプローチとか」

「ただ傍観していた。貴様の言う精神的アプローチはこのたった一言で言い表すことができる。いいか、桂木。一言だ。貴様の一年半にも及ぶ思い人へのアプローチは一行すら十分には満たしてくれないのだ」

「傍目から見たらそう見えるかもしれないが、僕は……」

「ラッコの求愛行動を知っているか? オスがメスの鼻下に噛みつくのだ。痛々しいとは思わないか。ゴリラの求愛行動を知っているか? いろいろあるが、自分の糞を投げるそうだぞ。で、だ。桂木、傍目から見て何もしていない貴様はラッコやゴリラに顔向けできるかな?」


「待て待て時實。ふっふ、桂木だってただロムってたわけじゃないと思うぞ」

 劣勢気味の僕に行方が助け船を出してくれた。

「ふっ、その上位互換! 凝視はしてたんじゃないか。いやいや冗談冗談! ふっふっふ」

 訂正、泥船だった。


「凝視はそれだけで通報案件になり得るからね。ああ、トラジェティだよ。うん。相手も凝視してくれていたら気持ちがコネクトされるのにね」

 それはただのガンの飛ばしあいだ。間仁田のアホ。


「百歩譲って、貴様の精神的アプローチを認めてやるとしよう。確かに、人の内界にはあらゆる可能性が詰まっている。でなければ、科学技術は発展しなかったし、傑作とも呼べる小説、漫画、アニメは百出しなかっただろう。だがな、ここで大事なのはそれらが形になっているという点だ。人後に落ちない発想をいくら頭の中で思い描いたからと言って、目に見える形で残さなければ誰の元にも届かない。当たり前の話だ。それは人の思いも同じだ。貴様の中でどれだけの可能性がうごめいていようとも、迸る思いが漲っていようとも、貴様がそれを胸の内に秘めているうちは何も起こらんぞ。貴様は自分の首を絞めているのだ。可能性を体の中で飼い殺しにしていることにさっさと気づくべきだ」


「桂木」

 行方は音階を上げるようにして僕の名を呼び、

「お前のラブコメは始まってすらないんだよなあ。ふっふ、常識的に考えてみ! どんな主人公だって絶対に行動起こすもんだゾ。ふっ、ちゃんと自分から行動して、リスク冒して、ヒロインたちの好感度を掴むんだぞい。ふっふっふ、冗談抜きに俺はいつまでも成長しない主人公が出てくるアニメは萎えるんだよなあ」


「人間はいつまでも現状維持してはいけないと僕は思うんだ。うん。そうだよ。それはかなりギルティだよ。人間が老いさらばえていくように、心もまた、年老いていかなければいけないんだ。きっとそうだ。君は精神を重要視する知的民族を自称しているくせに、恬然とその場で足踏みしているだけなんて実にコントラディクション。見てられないよ」


 この三人の言っていることを簡単にまとめると、つまり、さっさと行動に移せということだ。

 ……わかっているさ。そんなこと。誰に言われるまでもなく僕が一番理解している。

 漫画やアニメのように偶然が重なり合い、棚ぼたラッキー的にヒロインと接点ができるほど、現実はそうたやすくない。


 だが、僕は決して動いてはいけなかったのだ。知的民族として、軽い気持ちで話しかけてはいけなかったのだ。向こうから話しかけてくる分には全然構わないが、自ら話しかけに行くのは、知的民族としてありえない。タブーだ。あってはならない。だが、友達にここまで言われて引き下がるのは単純に情けない。それに、

「ラブレターか……」

 この令和の時代にラブレターを書くという行為は、案外、軽佻浮薄なアプローチとはほど遠いのかもしれない。SNSでいつでもどこでも誰とでもつながれてしまう現在において、わざわざ文に想いをしたためて、相手に届けに行くという古風なやり方は、人とのつながりを重んじた求愛行動と言えるんじゃないか?


 僕は座り直し、紙を睨めつけた。

 文芸部部長という肩書きに加えて、自他共に認める読書好きな僕としては、一笑に付されるような駄文は書きたくない。ひとかどの文章を書かなければ、僕のプライドが許さない。よし。

 僕は立ち上がりながら、

「集中して書きたいから、もう帰ることにする。帰ってプロットから練ろうと思う。じゃあな。戸締まりよろしくな」

 三人に軽快に別れを告げて去ろうとしたとき、時實が僕の両肩を掴んでパイプ椅子に押し戻した。


「帰ってしまったらせっかくちょっぴり目覚めた貴様のやる気が蜘蛛の子を散らすように逃げていくだろう。今、ここで書き上げてしまえ」

「中途半端な文章を書くわけにはいかないだろ」

「ラブレターを上手く書く必要はない。あくまで本番は呼び出したあとだからな。下手くそでもいいから、相手が呼び出しに応じたくなる文章が書ければそれでいいのだ。貴様のうちに秘めた想いを青臭くてもいいから、勢いで書いてしまえばいいのだ」

「そもそもお前らに見られてたんじゃ、書けるもんも書けなくなる」

「見てなかったらなおさら書かないだろう」


 二の句が告げなかった。実際、さっき一度立ち上がった時点で、決意は風にそよがれたスギ花粉のように僕の体から放出されていった。それと同時に、僕だけが責められている状況に異議申し立てしたくなった。


 なぜなら、

「行方、お前はどうなんだ。いつも侍らせているあの二人の女子。いい加減どっちかに絞った方がいいだろ」

 行方は行方のくせにどういうわけかモテるのだ。まったく遺憾の意を表するところだが、似たような趣味を持つ者からしたら意外にも良きしゃべり相手なのかもしれない。いや、そんなことない。ああいうのは、※ただしイケメンに限る、だ。


「三人」

 自慢するかのような早口のあと、

「幼なじみ入れると三人。ふっふ、もっとも、幼なじみとは最近話してないけど。やっぱり幼なじみは負けヒロインになるべきかと思う所存! ふっふっふ、いやいや、ふっふっふ、いやいやいや、んなこたどうでもいいんだよ!」

 常時変にハイテンションな行方がいつにもなくヒートアップしている。これ以上水を向けるのは良くないな。


 ならば、

「間仁田、お前だって現在進行形で絶賛片思い中だろ。しかも、状況は僕と似通っている。書くならお前も一緒に書くべきなんじゃないか?」

「彼女はまさにミス・ルナミス!」

 間仁田は鬱陶しい口調で、

「君の言うとおり僕は刈米さんに恋をしているし、君と同じように精神的アプローチを続けているよ。だが、まだ機は熟していないんだ。何事においてもタイミングこそが要だからね。僕はまだ動くべきじゃないんだ」


「その通りだ」

 意外にも時實が同調した。

「間仁田の思い人はまだ一年生。つまり、間仁田の懸想はまだ半年。あと一年粘れば、今の貴様と同じことを間仁田にもさせるつもりでいる。心しておくことだな」

「そういうことだよ」

 間仁田は勝ち誇った顔で僕を見たが、今のどこに勝ちを確信する要素があったのだろうか。

「じゃあお前のお友達の――」

「うるさい! それは禁句だと言ったはずだ!」

 さっきまでの余裕はどこに行ったんだお前。

 間仁田はおそらく怒りを抑えるために、中のお湯が沸騰したやかんのように息を吐き出し、それがみるみるうちに溜息に変わっていった。


 そして僕に哀れむような目を向けて、

「時實、やっぱりこうなったね」

 やっぱりとはなんだ。

「ふっ。これまで微レ存だった可能性がなくなっちまったぜえ、ふっふ、桂木はもうだめぽ」

「一応言っておくが、僕はまだ書かないなんて言ってないぞ」

「いや、貴様は一生書かない」

 あ? 断言したな?

「拙僧たち三人でとっておきを用意しておいた」

 そう言って、時實は学ランのポケットからパステルカラーの封筒を取り出した。

「これはコピーだが」

今日一のいい笑顔で、


「オリジナルのラブレターはもう書いて出しておいた」


「は?」

「行方が下駄箱に朝のうちに入れておいたのだ」

「はあ!?」

 時實の残酷すぎるカミングアウト。僕は敵の根城に潜伏中に主君の裏切りを知ってしまった忍者のように固まってしまった。


 ラブレター? 出した? もう届いてる?

「なんてことしてくれたんだお前!」

 無意識のうちに立ち上がって、昇降口のほうに体が向かおうとしていたが、時すでに遅し。

「ああ終わった!」

 体中の筋肉が身を丸めるのに必死になり、僕はその場にくずおれた。

「どうすんだよもう!」

 打ちひしがれる僕を励ますかのように間仁田が言った。

「聞いてくれ桂木。内容は僕たちが責任を持って一文ずつ持ち回りで書いたから、素晴らしいセンテンスであることは保障する」

「一文ずつ持ち回りとか遊び心出すなよ!」

「いいか? 呼び出せればいいのだ」

「呼び出せたあとを考えろよ!」

「最近の作品は、ふっふ、序盤に急展開や奇抜さを求められてるんだ。これ常識」

「ラブレターに創作術を持ち込むなよ!」

 なめた真似しやがってさんぴん野郎どもめ。僕がこの一年半どれだけ大事にこの想いを胸に秘めていたかも知らないくせに。


「今日の夜八時、貴様のよく行く公園の立ち入り禁止区域に呼び出しておいた」

「僕は行かないぞ」

「行、か、な、い? はたして貴様にそんなことができるかな。貴様の性格的にそれはムリだ。誤解を解かなければ気が済まない質に加えて、貴様は根が真面目だから責任からは逃れられない。拙僧たちのしでかした貴様がらみの問題に対する責任を、貴様がほったらかしにできるとは到底思えんな」

 人質を盾にして警察を揺さぶるテロリストのような口調で時實はまくしたてた。


 こいつら……。

 僕の怒りは限界に達しそうだった。だが、三人の目から純粋なエールが飛ばされているような気がして、僕は怒るに怒れなくなってしまった。僕のお人好しがいらんところで発動してしまったのだ。ああ、まったくどうして僕はこんなにも損な性格をしているのだろうか。


 せめてもの抵抗で僕は時實の手からラブレターのコピーをひったくって部室を出た。

 封筒には時實の流麗な文字で僕の思い人の名前が書かれていた。


『家子彩琶へ』


 間違いなく彼女へ宛てた手紙だった。




廊下を歩きながら僕はラブレターに目を通した。予想通り、寒気と怖気と吐き気を催すような内容だった。


 

『拝啓おつかれい!

 拙僧は桂木文士なり。

 君が今このセンテンスを読んでいるということは、僕がこのセンテンスを書いたということなんじゃないかな?

 ふっふ、照れ隠し疑問詞仕方なし! ふっ、ヤサイマシマシロット乱しジロリアン! ふっふ、ベラベラチラ裏笑笑。

 この文章は貴下に拙僧の懸想を把捉してもらうためのものである。

 でも、このセンテンスを本当に僕が書いたという保証がどこにあるのかな。君はこのセンテンスを読んでいるだけにすぎないよね。つまり、もしこのセンテンスが僕のセンテンスじゃなくても、君はこのセンテンスを僕のセンテンスとして受け入れてしまうんだ。うん、これはとっても危険なことだよ。

 バカなの? 死ぬの? ネゴトワ・ネティエやゴルァ。いやいやもちつけもちつけマターリキボンヌマターリキボンヌ! ゆっくりしていってね!

 ついては、今日の二十時、○×公園の立ち入り禁止区域にて待つ。

 うん、君は疑うべきだよ。このセンテンスははたして誰が書いたのかをね。このセンテンスを書いたと自称している僕はいったい誰なのかをね。うん、もしかしたら、これが世に言う叙述トリックなのかもしれないね。

 このスレッドは千を超えました(小並感)。もう書けないのでここらでエスケイプする桂木文士です敬具!』



 やっばいわこいつら。

 悪ノリなんてレベルじゃない。こんなのはただの僕に対するイジメだ。それにこれが届いた家子の気持ちを考えてもみろ。彼女も寒気と怖気と吐き気を催しているに違いない。この中でも時實は真面目に書いてはいるが、なんで僕の一人称が『拙僧』になっているんだ。人類がみなお前みたいにけったいな一人称を使っていると思うなよ。やはりこの学校は早々に進学校という肩書きの上に自称をつけるべきだろう。生徒のレベルが低いのなんの。もう見てられない。こんなものはさっさと焼却処分してしまおう。はあ、マジでどうすんだ。


 僕はシームレスにこの呪詛入り封筒をポケットの中にしまった。すると、

「ちょっとアンタ」

 背後から声がした。振り返るとそこには見慣れた女子生徒が立っていた。


 この女子生徒の名前は男乕巫女(おのとらみこ)。よく行方が侍らせている女子のうちの一人だ。ツンとした猫目に金髪ポニーテール。挑戦的な顔立ちをしているが、その甘い顔立ちのおかげで首元にある制服の黄色いラインの入った赤いリボンが異様に似合っていた。


「やっぱり桂木だったのね」

 男乕は親の仇といわんばかりの目を僕に突きつけてきた。あまりの迫力に僕は肉食動物を前にした草食動物のように総毛立ってしまった。なんだ、なんなんだ。僕が何をしたというんだ。

 とりあえず謝っておくべきかと考えていると、

「出しなさいよ……」

 と言い、左手を突き出しながらこちらに歩いてきた。


 なんだ。本当になんなんだ。もしかしてお金か? お金が欲しいのか?

 小刻みにジャンプして小銭を持っていないことを証明しようかと考えていると、

「出しなさいって言ってるの!」

「ふぐう!?」

 自らジャンプするまでもなく男乕に胸ぐらをつかまれ、体が浮き上がった。なんて力してるんだこの女。

「離せ、離してくれ! 首が……!」

「全部見てたんだからね! 入れるところも隠すところも!」

 入れる? 隠す? 一体なんの話なんだ。いや、まさか、ラブレターのことを言ってるんじゃないだろうな。

 そうか。そういうことか。時實はあのラブレターを行方が家子の下駄箱に入れたと言った。つまり、男乕は見てしまったのだ。行方が家子の下駄箱にラブレターを入れている場面を。そうに違いない。ならば、誤解を解かねば!


「違う……! あれは、いや、行方は男乕のことが好――」

「別に、私は行方のことなんか好きじゃないんだからね!」

「ぐっ――!」

 さらに体が浮き上がった。僕は理解した。今は背負い投げの途中なのだと。ならば話は簡単だ。痛みを最小限にするために、体育で習った受け身の準備をすればいい!

「アウッ――!」

 受け身に失敗。背中を強打。

「グガッ――!」

 受け身のために振っていた腕がワンテンポ遅れて自ら床を強打。

 ……覚えているわけなどないし、できるわけもないんだよ、受け身なんて。かろうじてアゴは引けたけど。


 痛みに耐えている僕の気持ちなど何も知らないで、

「べ、別にあんなキモオタ好きじゃないから! 勘違いしないでよね!」

 と、ツンデレの定型文を口走る男乕。今時こんなテンプレートなツンデレ女がいてもいいのだろうか。さらに暴力系でもあるとか、干支を一ダース遡った周回遅れなキャラ設定じゃないか。だがまあ、行方が気に入りそうではあるな。


 とりあえず、この女と長く関わると命の危機が訪れるかもしれない。早いとこ誤解を解こう。

「ん?」

 学ランのポケットをまさぐってみたが、ラブレターの感触がしない。さっきまではあった。おそらく今の背負い投げでどこかに行ってしまったんだろう。その辺に落ちていなきゃ困るぞあんなもの。


「捜し物はこれですか?」

 見上げると、別の女子生徒が立っていた。


 音海奏(おとみかなで)。男乕の相方。行方が侍らせているもう一人の女子だ。清楚さのにじみ出た栗毛のロングヘアに、男乕とは違い、お姉さんキャラのような微笑をたたえた柔和な唇。思わず魅入ってしまうような美人な顔がそこにあった。胸元までの白ブレザーにコルセット型の黒ベストがよく似合っている。

 その音海の右手には僕が落っことしたラブレターが握られていた。


「ああ、ありがとう」

 僕が手を伸ばすと、

「ダメです」

 と言って、僕の手を突っぱねた。

「これは渡せません。なぜならこれは、康太(こうた)君のラブレターだからです。康太君が今朝下駄箱に入れたラブレターだからです」

 康太――これは行方の下の名前だ。

「違う。君たちは誤解している」

「なるほど。そうですか。受け取ってしまえばそれはもう自分の物だと。そう言いたいんですね、桂木君は」

「受け取る?」


 確かに行方や時實や間仁田から受け取りはしたが、それは文芸部室内のことで音海は知らないはずだ。それに、おそらく音海も行方が家子に出したと勘違いしているんだろう。だったら、僕が受け取るという反応はおかしくないか? それに男乕もなぜか僕がラブレターを持っていることを知って話しかけてきたし、冷静になって考えてみれば、家子に出されたものをなぜ僕が持っているのか男乕は疑問にも思わず、『やっぱり』と言って絡んできた。なんかお互いの認識にすれ違いが起きている気がするのは気のせいだろうか。


「そうやってとぼけるんですね」

「アンタそういうの本当に良くないわよ」

 二人が僕を責め立てる。

「一旦話を整理しないか?」

「ふん。まあ、いいわ。奏、言ってやりなさい」

「ええ、わかりました」

 音海は、すうと息を吸い込み、

「今朝、私たち見ていたんです。康太君が――」

 身構える僕に、音海は言い放った。


「桂木君の下駄箱にラブレターを入れているところを」


「はあ!?」

 思わずデカい声が出た。

 行方が僕の下駄箱にラブレターを入れた? なんで? もしかして、あいつ入れ間違えたのか? 家子と僕の下駄箱を間違えたのか? バカなのか? 死ぬのか?


「それも、ぼそっと『桂木……』ってアンタの名前をつぶやきながら入れてたのよ。もう完全にデキてんじゃないの!」

 あのバカ……! いや、僕にとっては好都合か。これで家子がラブレターを受け取ったという事実はなくなった。ありがとう行方。お前が正真正銘のマヌケで助かった。ならばこの二人の誤解を解けばミッションコンプリートだ。


「それは大いなる誤解なんだ」

「本当にそうでしょうか。あのときの康太君はとても憂鬱そうな顔をしていました。まるで、思いが届かないことを嘆いているようなそんな顔です」

 あの野郎。僕の失敗を見越してやがったな。

「観念しなさい桂木」

 そう言って男乕は音海に近づき、

「これを読めばすべてがわかるんだから!」

 二人は文芸部お手製ラブレターを広げて読み始めた。最初は真剣な顔つきで読んでいたものの、次第にその顔がおかしな感じに歪んでいった。まあ、そうなるよな。


「ナニコレ」

「巫女さん、これって」

「ううん……そういうことよね」

「では、本当に私たちの勘違い?」

「……みたいね」

 二人は何かを察したようで、僕に慈愛のこもった目線をぶつけてきた。

「頑張ってくださいね」

「うん。まあ、イイ線いくと思うわ。たぶん」

 なんだか納得がいかない。


 音海は僕の手にしっかりとラブレターを乗せて歩き去り、男乕は僕の肩をポンと優しく叩いて歩き去った。

 全員が全員僕の敗北を確信しているようで腹が立つが、なんにせよ、家子の元にラブレターが届いていないという事実が僕を安心させた。おかげで今日は良い夢が見られそうだ。

 そんな気軽な思いで僕は自分の下駄箱を開けた。


 ラブレターなんて入っていなかった。



 家子彩琶を初めて見たのは高校の入学式だった。


 知的民族としてあるまじきことだが、正直に言って、顔が好みだった。ちょっと垂れ目のパッチリ二重に綺麗な鼻筋。顔全体と均整の取れた唇。そして、疲れているかのような眠たげな表情。

 幼さと静謐さが奇跡的に調合されたかのような顔に僕の目は釘付けになってしまった。


 衝撃だった。高校ってすごいなって思ってしまった。

 同じクラスになったとき、胸が高鳴った。偶然にも席が隣になったとき、自分の出席番号に感謝した。


 だが、僕は知的民族として彼女への接触は控えた。というか、一言も話しかけなかった。

 今、ここで話しかけてしまえば、軽佻浮薄な肉体民族と同じになってしまう。


 じゃあ、一目惚れはどうなんだという話になってくると思うが、それはもうしょうがないことだろう。

 大事なのは一目惚れをしたあとなのだ。


 一目惚れをしたことによって湧き上がってくるインフレーションしそうな心の情動をどう押さえ込むか、その気持ちとどう付き合っていくか、それこそが最も大事なことなのだ。それ次第で己が知的民族なのか肉体民族なのかに振り分けられる。そして、僕はこの一年半、耐え忍んできた。つまり、僕は誇り高き知的民族なのだ。


 彼女とは、二年生になっても同じクラスだった。

 僕の目線はこの一年半、相も変わらず彼女を追っていた。


 家子には友達がいないようだった。僕は今まで家子が誰かと話しているところを見たことがない。

 なぜ友達がいないのかは知らない。単に一人が好きなだけなのかもしれないし、水清ければ魚棲まずというやつかもしれない。放課になってもジッと席に座り、窓の外を見てボーッと時が経つのを待つ。だから僕は彼女が一体どんな性格をしているのか、どんな顔をして笑うのかまったく知らない。


 長く彼女を見ているうちに、彼女がその顔に刻み込んだ眠たげな顔が単なる寝不足からくるものではないような気がしてきた。

 苦しんでいるような、なにか爆弾を抱えているような物悲しい雰囲気を感じるのは僕の錯覚だろうか。


 もし、これが間違っていないのだとしたら、彼女はその負の感情を誰に話すこともなく一人で抱え込んでいるということになる。


 できれば、僕が力になりたい。

 そう思うのは、なにも知的民族だからではなく良識的な人間ならば誰だって思うことだろう。


 彼女が僕に話しかけてくれれば、彼女が僕を頼りに来てくれれば、僕は喜んで家子の良き相談相手になるだろう。

 僕から話しかけに行く、ましてやラブレターで呼び出すなど、やはり論外だ。彼女から頼りに来てくれなければ意味がない。


 僕が家子に対してここまで入れ込んでいるのは、彼女に対して好意を抱いているから、そして、彼女の顔がどこか儚げに見えるからという理由だけではない。


 彼女に関して気になることがあるのだ。

 目を疑った。家子の体に異変が起きていた。


 直感的にこれは人に言える類いのものではないと僕は思った。それに、このことについて気づいているのは僕だけのような気がした。

 最近いつにも増して周りの人間が、置物のように座る家子のことを気にかけなくなったような気がする。彼女がそこにいると気づかずに、彼女の机の上に座って話すクラスメートが続出しているのだ。

 彼女のことは覚えているのに、彼女の存在には気づけていない。


 透き通って見えるのだ。


 これは彼女の美貌に対する表現じゃない。文字通り、彼女の体が透けて見えるのだ。


 家子彩琶は、半透明になっている。




 時實の言うとおり、僕は約束の場所に向かっていた。時實の僕に対するプロファイリングは正しいのかもしれない。


 あの後、どれだけ入念に下駄箱の中を確認してもラブレターは見つからなかった。行方がちゃんと家子の下駄箱に入れていて、男乕、音海が見間違えた可能性や、行方が家子でも僕でもない第三者の下駄箱に入れた可能性、行方がいつもの癖で自分の靴をしまうかのように自分の下駄箱にラブレターを入れた可能性、次第に自分のしでかしたことの大きさに耐えられなくなったチキンな間仁田がこっそり回収していた可能性、などを考えたが、どれもしっくりこない上に、どれだけ考えても結論が出そうになかった。


 歯がゆい思いをしながらも、僕は決死の思いで約束の地に赴くことを決めた。もしかしたら、誰も来ないかもしれないし、なにかの手違いで偶然ラブレターを拾った何某かが来るかもしれない。

 誰かが来て僕が行かないという状況になれば、その誰かに申し訳が立たないし、僕の心証が悪くなる。僕はその者に誤解であることと、文芸部員たちの悪代官的所業をつまびらかに語り聞かせなければならない。


 現時刻、七時五十分。


 僕は小学三年生の時にこの地に引っ越してきてからたまに通うようになった公園に足を踏み入れた。ここはあの苦い思い出を想起させる公園とは比べものにならないくらい元気な子ども達が駆けずり回る活気のある公園だ。そんな公園も夜になれば眠っているるかのように静かになる。本来、僕はこういう落ち着いた雰囲気が好きなのだ。


 この公園には立ち入り禁止区域がある。木が鬱蒼と乱立した、まさに森林地帯とも呼ぶべき場所だ。

 ここが立ち入り禁止になった理由は、別にこの区域の中で変死体が続出したからというわけでも、オリハルコンが採れることがわかった日本政府が閉鎖を命じたからというわけでも、ましてやどこかの偏屈な誰かの私有地になったからというわけでもない。ただ単に怪我する子どもが続出したため立ち入り禁止になっただけである。木がわんさかと生えるこの区域の中で、無茶な遊びをする子どもが多かったのだ。おそらく僕らの世代が戦犯だったのだろう。今更だが謝っておこう。すんまそん。


 僕は立ち入り禁止区域を区画するトラロープをまたいで中に入った。

 本当にここに僕以外の誰かが来るのだろうか。今のところは人の気配はしない。


 というか、まあまあ広いぞここ。時間通りに誰かが来たとしても僕を見つけられるだろうか。入り口付近で待っていた方がいいか? いや、閉鎖されているんだからここに入り口なんてないじゃないか。僕は不法侵入しているのだ。


 時實もなぜこの場所を指定したのだろうか。わざわざ立ち入り禁止区域に入らなくとも、公園のブランコなり滑り台なりに呼び出せばよかったのでは?

 こんなこといちいちグチグチ考えても仕方がないか。それにこの公園にはたまに来るがこの中に入るのは久しぶりだ。昔を思い出してワクワクする。


 水の音が聞こえてきた。そうだったそうだった。ここは用水路だったかなんだったか忘れたが、水が流れているんだったな。子どもでも余裕で飛び越せる程度の、小さな川モドキだ。懐かしい。


 月明かりのおかげで思った以上に視界は良好だった。目を凝らさなくても辿るべき道筋が見えてくる。もう少し行けば水が流れるちょっとした広場のような場所に出る。そこに秘密基地を築く小学生がごまんといたな。まあ、僕はそこよりもうちょっと奥に進んで一人で本を読んでいたけど。


 中学生になるまで、人と群れる楽しみを知らなかったのだ。今でも一人になるのは好きだが、遊ぶなら小規模の複数人と遊びたい。文芸部くらいの人数が丁度いい。

 そんなことをしみじみと思いながら草木をかき分け、特に苦労することもなく、広場にたどり着いた。


 そこで僕は様変わりしない風景を眺める余裕すら忘れてしまった。


 相方のように連れ添ってきた月明かりが照らしだしたのは幻想だったのかもしれない。

 ロー・ファンタジーにしてはいささか地味で、妄想にしては鮮明すぎた。

 頬をつねらなくても現実であることは、どれだけ言語で否定しても本能で理解してしまっていた。


 一瞬か永遠か、僕はその少女に見惚れてしまった。


 その少女とはつまり、言うまでもなく、家子彩琶だった。




 そしてラッキースケベ未満の攻防戦を繰り広げ、ベンチに無事たどり着いた。




 現時刻、八時三十分。


 うら寂しい公園を眺めていると体感温度が下がるような気がした。上旬といえども、十月の夜は肌寒かった。去年はもう少し温度が高かった気がする。もしかしなくとも、幽霊のように半透明な女子と一緒にいるから寒く感じるのだろうか。


 その半透明少女は今、ベンチに座ってだんまりを決め込んでいる。なぜ半透明なのか説明を求める僕に、家子は条件を出してきた。


「隣」

「ベタついてくるからいやだ」


 話す代わりに隣に座れというのだ。別に僕だって隣に座るだけなら構わない。だが座った瞬間にベタベタまとわりついてくることが知的民族として看過できないのだ。それを見知らぬ通行人に見られでもしたら『もしや肉体民族』と、疑われてしまうだろう。必死に弁明したところで信じてもらえないという、アンハッピーセット付きだ。


「子どもみたい」

「子どもみたいなのは君の方だろ」


 こんなにいやだと言うのはイヤイヤ期以来だ。それもこれも家子が先生に群がる小学一年生のようにくっついてこようとするせいだ。どうしてそんなにもベタベタしたいのか、皆目見当もつかない。

 家子はまただんまり。さっきからこんな感じのやりとりばかりしている。


 僕は思い人を前にしても思いのほか冷静を保っていた。いや、元・思い人という方が正しいか。一年半、溜まりに溜まった思いはどこへやら。僕は今、家子のことが本当に好きなのかそうじゃないのかわからないでいる。

 それは今まで僕が恋していた家子と目の前にいる家子があまりにも乖離していたからだ。そもそも、僕が恋をしていた家子とはなんだったのだろうか。


 話は平行線。公園のベンチについてからもう二十分は経っている。そろそろ足が疲れてきた。座りたい。

「仕方がない」

 僕は折れた。このままだと話が進まない。時間が無駄に流れていくだけだ。


 ほら来た。


 家子は人間が投げた餌に群がる鯉のように僕にすり寄ってきた。そして僕の左腕に手を回し、左肩に頭を乗せた。


 僕の筋肉はキュッと引き締まった。深呼吸。深呼吸。


「話す」

 約束通り、家子は話すことにしたらしい。

「半透明になった」

「それは知ってる」

「名前忘れたけど、その人が私を半透明にした」

「……魔法使いみたいな者がいるのか」

「なんなんだろあの人」

「僕に聞かれても困る」

 家子は猫のようにあくびして、

「なんかそんな感じ」

 と、適当な事を言った。


 待て待て。なんて緊迫感のなさなんだ。何者かによって半透明にされていながらなんでそんなに暢気にしていられるんだ。こっちは危ない匂いをプンプンと嗅ぎ取っているというのに。


「つまり、君はその何某に呪いかなにかをかけられたんだな?」

「呪いじゃない。契約」

「契約? じゃあ、その何某は悪魔か死神の類いか?」

「アニメの見すぎ」

「………………」

「でも、ありえる」

「ありえるのか」

「わからない」


 ……めんどくさい。この会話疲れる。聞き手の堪忍袋の緒が頑丈でない限り続けることなどできないだろう。さすがは僕。知的民族の鏡。


「わかった。とりあえず、その何某の正体は一度置いておこう」

 家子は突然、ツボにはまったかのように笑い出した。

「何某……面白い」

「そうだね。面白いね。落ち着け」

「続けて」

 一瞬で落ち着かれても怖いんだが。

「それで君はそのなにが――その者と契約をしたと言ったな。具体的にはどんな契約をしたんだ?」

「消してもらった」

「何を」

「力を」

「どんな」

「人の感情を読み取る力」

「……それは、本当の話なのか」

「本当」


 まさか、いや、半透明とかいう超常的な人間に対して今更こんなことを思うのはおかしなことだが、家子は超能力者だったのか?

 人の感情を読み取る能力。つまり、テレパス。


「具体的にはどんな能力なんだ」

「話すと長くなる」

 僕は身構えた。

「だからめんどくさい」

「それはなしだろう」

「一行以上話したくない」

「ワガママ言わないでくれ。頼む」

「条件」


 家子は体を倒し、僕の膝を枕にして横になった。これが条件か。くう。


 そして、遊具の方を見つめたまま、

「人の感情がわかる。読心術じゃないから、心の声は聞こえない。物心ついた頃にあったか、覚えてない。わからない。水みたい。人の感情は水の流れに似てる。それが、私に流れ込んでくる。清流、砂利が混じった水、鉄砲水。みんな違う。理由は、私に向ける感情の違い。私は、私に向けられた感情しかわからない。悪感情はとても痛い。流木とか、ゴミが混じってるし、流れも速い。いろんな人が一斉に私に感情を向けると、溺れそうになる。非難の的にされると苦しい。僻まれると死にそう。ありもしない噂が立つのは普通に辛い」

 家子は上体を起こして、僕の眼をジッと見据えた。

「伝わった?」


「ああ」

 拙い説明だったが、十分に伝わってきた。

 本当に辛かったのだろう。少なくとも僕はそう思う。

 事の真偽はともかく、家子の感情はこれでもかというくらい伝わってきた。

 これ以上話させるのは酷だろうかと考えていると、

「でも、いいこともあった」

 家子は僕にぐっと顔を近づけながら言った。僕は顔をそらし、家子のうっすらと隈のできた顔から逃げた。


「文士に出会えた」


 家子が僕の顔を顔で追いながら言った。

 おそらく今の僕は驚きで目を見開いていただろう。家子が言っているのは今じゃなく、透明化が始まる前のこと。つまり、まだ一度も話していない頃のことだ。そのときの僕のことを家子は認知していた。それだけじゃなく、『いいこと』と言った。


 僕はまた顔をそらして逃げた。家子に表情を見られたくなかった。


「ありがとう」

 家子はしつこく僕の顔を追いながら、

「救われた。嬉しかった。助かった。本当に、ありがとう」

 家子の先っちょがゆるめにカールしたセミロングの黒髪が、僕の視界を覆えているのに、覆えていなかった。もちろん、半透明だからだ。


 こういうとき、どういう顔をすればいいかわからない。いっそのこと透明になってしまいたい気分だ。


 家子は猫じゃらしを追う猫のように僕の顔を覗き込もうとしながら、

「文士の水はダムみたい。せき止めてくれた。守ってくれた。恋愛感情を超えた愛情を感じた」

 誰でもいいからトマトジュースを持った人がここを通らないかな。後でお金払うから僕の顔面にぶっかけてほしい。


「好き」


 家子の直球な言葉に僕は悶絶しそうになった。

 僕の恋愛感情がダダ漏れだったことも恥ずかしいし、真正面から告白されるのも照れる。時實、間仁田、行方。僕はどうしたらいい?


「でも、疲れた。文士を感じてたかったけど、この能力を手放したかった。何某が来たのはそのとき。契約した。能力を消してあげるって言われた。消えた。なぜか私も消えそう」

 家子的には笑うところなのだろう。なぜなら、家子がくしゃみを我慢する猫のように笑いを堪えているからだ。いや、笑えない。


 さっき家子は契約と言った。ならば何かをしてもらう代わりに、何かをする、もしくはされるのがセオリーなんじゃないか。もしかしたら、今の家子の現状が、それを物語っているのかもしれない。


 家子はすぐに笑うことに飽きたようで、もう一度僕の膝を枕にして寝転がった。

「感情がわからないことが怖くなった。いらなかったのに、怖い。気味悪かった。突然、見られなくなった。お母さんも見えてない。でも、朝食は出てくる。先生も見えてない。でも、出席扱いになる。気味悪い」


 見えていないのに、いることになっている。まさに透明人間だな。


「気づいてた。文士は私のこと見てる。見えてる。他の人と違う。何回か目が合った。覚えてる。嬉しい。運命。神様の贈り物」


 そう言うと、僕の腰辺りをギュッと抱きしめた。

 僕はこの肉体的接触に強く抵抗する気力を失っていた。というより、そんなことできそうになかった。


 どうして僕だけ見えているのか、その答えは家子も知らなさそうだった。実際、そんなことどうでもよかった。今の僕の関心は違うところにある。


「僕の気持ちに気づいていたなら、どうして話しかけに来てくれなかったんだ」

 今はこんなにもベタベタとくっついているくせに、なぜこれまで僕と接触をはかろうとしなかったのだろうか。


「待った。文士を待ってた」

 僕は天を見上げた。

 まさか、お互いにお互いが話しかけてくるのを待っていただなんて、マヌケにも程がある。


「ラブレター」

 家子は僕のポケットをポンポン叩きながら、

「文士が書いてない」

 見抜かれたいたようだ。


「でも、来てくれた。嬉しい」

「そうだ。君はなんでそのラブレターを持っているんだ。それは僕の下駄箱に入っていたはずだろう」

「うん」

 家子はあっさりうなずき、

「行方が入れてたの見た。だから、盗った」

 行方、お前はあの時人生で一番注目を集めていたんじゃないか?


「そういうことか」

 安堵のようなそうでないようなよくわからない溜息が漏れた。まあ、結果オーライだろう。


「君、じゃない。彩琶」

 唐突にまた名前で呼べムーブをかましてくる家子彩琶。

「困る。今更距離作られても」

 今更と言われても困るのはこちらだ。どうやら僕と家子には共に過ごした時間に大きな差があるようだ。


「それで、君はその半透明をどうしたいんだ。見るからに危機感を感じてないようだが」

 華麗にスルーする僕。

 家子はわざとらしく溜息をつき、

「どうでもいい」

「どうでもいい?」

「そう」

「なんで」

「今が楽しいから」

「この先のことを考えないのか」

「今がよければ別にいい」

「気味が悪いんじゃないのか」

「いいの。文士がいる。文士と二人だけの時間。それでいい」

「……よくはないだろ」

「しつこい」

「…………わかった。じゃあ、いいよ」


 どうせいつか考えが変わるだろう。それまで悠長にしていていいかどうかはわからないが、本人がこんな感じならば仕方がない。どうにかしたくなったときにまた……あれ?

 僕はいつの間にか家子の透明化現象に対して解決してやる気でいた。最初はただ話を聞こうとしていただけなのに。


「はあ」

 本日何度目かわからない溜息。

『責任からは逃れられない』

 そういうことなのか、時實。やっぱり僕は損な性格をしているのかもしれない。

 家子は突然立ち上がり、僕から三歩ほど離れた。


「明日から楽しくなりそう」


 そう告げて、手を振って去って行った。


 現時刻、わからない。知る気にもならない。しばらくこのまま動けそうにない。


 肉体民族・家子彩琶。

 それすら本当かどうかわからない。僕の知っている肉体民族とは違う。そして、僕はあんまり彼女のことを肉体民族だなんて呼びたくない。なぜかな。


 空を見上げると、月と目が合った。

 今は上弦の月なのか、下弦の月なのか、そんなことをしばらく考えてから家に帰った。

 結局、わからなかった。


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