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第一章

第一章



 教科書だって唖然としているに違いない。


 川の水は海に流れて蒸発して、雲になって雨になって再び川の水になると相場が決まってるのに、どうして少女になっているんだ。

 触れるのだろうか。触ってみようか。いや、やめとこうか。


 僕の手か触れた瞬間に表面張力が失われて、背後の小川と仲良しこよしでサヨナラグッバイララバイしてしまうかもしれない。

 僕の手が触れた瞬間に沸き立ち、やにわに蒸発し、秋の森林が即席サウナになってしまうかもしれない。そうなったらあの小川に飛び込むしかない。

 それどころか、僕の瞬き、吐息、拍動さえも少女に大きな影響を与えてしまうかもしれない。


 少女は透き通っていた。

 これは少女の美しさに対する比喩表現じゃない。


 月光、波光、星の輝き、そして僕の瞳の煌めきさえも少女は味方にしてしまっていた。少女の周りに存在するありとあらゆる反照が、少女の体を浮かび上がらせているのだ。


 夜明けの速さで少女は動き、そして、僕を見た。

 太陽に呼応する朝露のように耀う笑顔を僕に照射して、

「待ってた」

 と、せせらぎのような声を僕の耳に浸透させた。


 少女は水なんかじゃない。

 ましてや異世界から召喚された精霊でも、天界から降りてきた御使い様でもない。

 同い年で、同級生で、クラスメートで、僕の思い人。

 家子彩琶(いえこいろは)

 僕は初めて知った。

 彼女の笑顔と、声を。




 今や僕の鼓膜は家子のためのものに等しかった。

 彼女の声を聞きたかったし、彼女の声を一文字も聞き逃したくなかった。

 夢中な僕のもとに、待ちかねた第二声が届けられた。

「致せ」

「へあ?」

 予想の斜め上を行く言葉に僕の口からマヌケな声が射出された。

 そして、さっきとは違う刺激が僕の眼を焼いた。

 なぜって?

 彼女がおもむろに衣服を脱ぎ始めたからである。

「ちょっ」

 僕はつむじ風に乗ったかまいたちよりも素早く両手で目を覆った。指と指の間が塞がらないのはなぜなんだ。

「言葉は後」

 と言った家子の制服のスカートがずり落ち、

「触れ合う。致す」

 確定事項かのように僕に伝えた。

 全裸の家子が、噴火をギリギリのところで堪える二百年近く前のタンボラ山のように力んでいる僕をジッと見つめること数十秒。


「そっち行く。服脱いで」


 家子は『いってきます』を言うかのような口調で僕に命令し、ひたひたと歩き出した。僕の指は骨と骨が小気味いい音を鳴らすほどの速度で閉じた。


「え!? ナニナニわかんない!」


 本当になんなんだコレは!

 夢か? 夢なのか!?

 いや現実かなあボク!?


「うわあッ――!」


 押し倒された。家子に。なすすべなく。

「ナニコレェッ!?」

 マジでヤバいなんだコレ! なんなんだコレ! なんだコレ!

 家子は肉体民族だったのか!?

 ショックだ……ショックだ!


「やめてっ、あっ、ベルトに触らないで!」

 ヤバい、無言でベルトをカチャカチャしだした!

 だが、僕は力に頼らない!

 言論で抵抗!


 なぜなら知的民族だから!

 そう、僕は知的民族。知的民族なのだ。

 僕は今、知的民族という言葉の素晴らしさを痛感した。僕にとってこの言葉は試合前のスポーツ選手のルーティンのようなものだ。唱えれば唱えるほど、ほら、ご覧の通り落ち着いてきた。抗不安薬を服用したかのようじゃないか。心の声も饒舌になってきたぞ。

 素晴らしい知的民族。素晴らしき知的民族。

 嗚呼、知的民族。知的民族に幸あれ。


「うぐ、ベルト締めないで……いや、緩くしてもダメだけどさ!」

 ……下手だな。

 家子の不慣れな手つきと、僕の胸に押しつけられた家子の胸が思ったよりふくよかじゃなく、なんなら時實(ときざね)の胸筋のほうが大きい気がしたという事実が、さらに僕の脳を正常にしていく。

 間近で感じる息づかいや脈動や体の使い方が、気のせいかもしれないが、どこかこわばっているような印象も受ける。


 落ち着き始めた僕の様子を察知したのかは知らないが、家子はスッと小柄な体を離し、

「脱いで」

 と、ついに脱衣を僕に丸投げしてきた。


 好機を得た僕はオオベッコウバチから逃げるタランチュラのようにカサカサと後退し、なるべく家子を見ないように顔を背けた。

「ハ、ハッキリ言わせてもらうが、不慣れなことはしない方がいい。というか、自分を粗末に扱うのは、よろしくない」

 僕はなおも横を向きながら、

「と、というか、ドキドキするから服を着てほしい」

 足音が遠ざかっていく。驚いたことに家子は僕の頼みを素直に聞き入れてくれたようだ。まあ、なんとなく場もシラけているし。


 僕は深い安堵の溜息をついた。

「……ショックだ」


 家子は肉体民族だった。その事実に今度は深い失望の溜息をついた。

 狐につままれた気分だ。僕の一年半があぶく銭のように雲散霧消していく。

 脱力感に抗えず、横になった。

 よくわからないが泣きそうだ。これが失恋というやつなのか?


「そうか……肉体民族だったか。にしては、下手くそだったな……」

 なぜ肉体民族のくせに肉体的接触が下手くそなのだ。なんだか中途半端で煮え切らない。どっちつかずのちゅうぶらりん。どうせなら振り切ってくれた方が良かった。微妙なパラメーターが一番ムカつく。だったら、もう、僕のように知的民族でも良かったじゃないか。ちくしょう。


 僕はさらに溜息をついた。

 一度ネガティブなことを考え出すと歯止めがきかないらしい。

 僕は今、無意識のうちに家子と天田ヶ谷(やたがや)くぬぎの肉体的接触の上手さを比べていたのだ。

 思わず身震いした。

 僕は知的民族であることに誇りを抱いているが、そのきっかけとなったあの淫乱痴女に対しては深い憎しみを抱いている。まだ毛も生えていないガキで性欲を発散しようとする限界性癖女と家子を比べるのは、さすがに家子が可哀想だ。


「こっち見て」


 うっすら目を開けると、しゃがんだ家子が僕を見下ろしていた。

 僕が複雑な感情で見上げていると、家子は一枚の封筒を取り出した。

「あ、ラブレター」

 反射的に声が出た。

 所在地が不明だったラブレターがそこにあった。


「書き直して」

 ペケだらけの答案に呆れた国語教師のように家子はラブレターを僕に突き返した。

「いやだ」

「じゃあ、口で伝えて」

「そっちの方がいやだ。君、さっきから勝手すぎるぞ」

 僕がそう言うと、家子はわかってましたよと言わんばかりの顔で、コロコロと喉を鳴らすようにして小さく笑った。


「家子彩琶」

 唐突な自己紹介。

「君、じゃない」

 暗に名前で呼べと言っているようだった。残念ながら、名前で呼ぶつもりはない。なぜなら、僕は知的民族。家子は肉体民族。相容れない存在だからだ。


 僕は家子の要求を無視して、何よりもまず、聞きたいことを聞こうと思った。

「どうして、君は半透明なんだ」

 最近ずっと気になっていたことだ。こんな超自然現象に触れないことなんてできっこない。


 家子は不服そうな顔を僕に向け、これまた不服そうに立ち上がった。

「ベンチ」

 そう言って家子は歩き出した。

 おそらく、ベンチで座って話し合おうということだろう。僕はなんでわかってしまうんだろうな。

 僕は何度目かわからない溜息をつき、無理無体な家子の後を追った。

 どうしてこんなことになってしまったんだっけ?


 ベンチに着くまでの間、僕はこれまでの僕の人生を振り返ることにした。



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