85話:殿下!
「クリスティ、落ち着いて聞くんだ。鹿狩りでアクシデントが発生した。突然、狂暴化した鹿が現れ、同級生を庇ったアレク王太子殿下が怪我をされた」
父親の言葉を聞いた時は、血の気が引き、気絶しそうになった。
倒れそうになる私は父親に支えられ、それでもアレクの一大事だと歯を食いしばった。
「お父様、殿下はどちらにいるのですか!? 会わせてください!」
「勿論だ。学院内の医務室へ運ばれた。……クリスティ、歩けるか?」
「歩きます!」
森林エリアから学院の医務室は思いがけず遠く、気が急く。
できる限りの早足で向かい、そしてようやく医務室に辿り着いた。
「殿下!」
「クリスティ!」
医務室のベッドで上半身を起こした状態のアレクは、白シャツ姿で一見すると怪我をしているように思えない。だが近くまで行くと、長袖のシャツから見えている手首から手にかけ、包帯を巻かれている。
アレクのそばにいた養護教諭に確認すると、大怪我ではないとのこと。
「クリスティ、大丈夫だよ。応急処置が丁度済んだところだ。打ち身、擦り傷・かすり傷だから、問題ない」
そう答えるアレクの頬にはうっすら土がついていた。
養護教諭に頼み、ホーローのボウルに水を入れてもらい、タオルで汚れを落とす。
「ありがとう、クリスティ」
「殿下、一体何があったのですか?」
そこにアレクが王都から同行しているかかりつけ医がやって来た。
「殿下。応急処置は済んでいるとのことですが、念のため、骨折がないかなど確認させてください」
そこでベッド周りのカーテンを引き、アレクは服を脱ぎ、かかりつけ医の診察を受けることになった。
「クリスティ。一部始終はわたしも目撃することになった。応接室で話そう」
「お願いします、お父様!」
こうしてアレクが診察を受けている間、一体何が起きたのか。
応接室で父親から教えてもらうことになった。
ローテーブルを挟み、対面でお互いにソファに座ると、父親はその時の状況を話してくれた。
「狩りをされる殿下に何かあると大変だ。森の中には危険が沢山潜むからね。そこで急遽予定を変更し、狩りの様子を見守ることにした。だが殿下は狩りにも慣れていらっしゃる。問題なく狩りをスタートされたのだが……」
複数のチームが狩りのために森へ入っている。誤射がないよう、注意しながら、アレク達のチームは、森の中を進んでいた。そして一頭の鹿に狙いを定め、追跡を開始して間もなくのことだった。
「突然、枯れ葉を踏み荒らし、落ちた枝をパキッ、バキッと折りながらこちらへ駆けてくる獣の姿が見えた。驚いたチームのメンバーが音の方を見ると、興奮状態の鹿が、まるで猪突猛進で迫って来ている。これにはさすがのわたしも驚いた」
森に慣れ親しんでいる父親でさえ、見たことがない程の異常な状況<鹿の暴走>。
もし鹿ではなく、本当に猪が爆走していたら。
瞬時に皆、体が動けたのかもしれない。
だが実際は、こんな動きをすることを想定していない、鹿の異常な暴走。これに驚愕し、体が動くのが遅くなったり、なかなか動けなかったり。つまりは皆、逃げ遅れていた。
だが、そこで一人冷静に反応したのがアレクだった。
「殿下は大声で、すぐに鹿を回避するように叫んだ。さらに完全に逃げ遅れた同級生を庇おうとした。その結果、暴走する鹿と背中から接触することになった。だがそれもきちんと受け身をとっている。よって大怪我にならなかった」
アレクにより助けられた令息はかすり傷程度だったので、皆のところへ既に戻っている。
「失礼します!」
ノックと共に副官が入って来た。
「辺境伯様、報告があります」
私がソファから立ち上がろうとすると、父親がそれを制す。
そして副官にはそのまま報告を続けるよう伝える。
副官の報告を聞き、分かったことがあった。
父親は鹿の異常暴走を目撃し、迅速に動いている。
副官たち部下の一部に、アレクや怪我をした生徒達を医務室へ連れて行くようにと指示を出した。そして自身は残りの部下と共に、暴走する鹿の後を追った。そして見事、鹿を仕留め、他の生徒達へ被害が出ることを食い止めた。仕留めた鹿の様子の確認は部下に任せ、私を呼びに来てくれたのだ。
「子連れの雌鹿、発情期の牡鹿。そのような状況の鹿は興奮し、人に向かってくることもあります。季節的には牡鹿の発情期の可能性もありますが、それにしても異様でした。そこで鹿の様子を確認したところ、いくつか発見があったのです」
副官が兵士達から受けた報告によると、牡鹿の口の周り、口腔内には葉っぱが沢山残されていた。それもただの葉っぱではない。乾燥した樫の木の葉だった。だがその葉は鹿自身が噛んだ後というより、粉砕されたものを食べたように思えた。
さらに森の中で捜索を続けると、白い缶が転がっているのを発見。よく確認すると、周囲に茶葉らしきものが散乱していた。加えて発見されたその缶には、金色の文字で「ウラジロガシ茶」と書かれている。
その特徴を聞くだけでも、私がデパートメントストアで購入したウラジロガシ茶の茶葉が入った缶に思えてくる。だが、私の知るウラジロガシ茶と違うのは、茶葉に白い粉が混じっている点だ。
私が購入したウラジロガシ茶には、乾燥した樫の木の小さなチップが混ざっていた。白い粉なんて混ざっていない。そこを踏まえると、何か作為的なものを感じてしまう。