生きている。
食事が喉を通らない。無理に口に入れてみるが、咀嚼することもままならない。飲み込むことができない。しかしそれがたまらなく嬉しかった。
まるで自分が特別な人間のように思えたのだ。
生きているような気がした。
口に入れたものを皿に戻し、箸を置く。
汚いな。涎でドロドロに濡れたものを見た感想がそれだった。自分で出したものなのに、どうしてこう、涎というものは自分自身のものであっても汚らしく感じてしまうのだろうか。
そんなことはどうでもいい。
手を鳴らす。パンという簡素な音が鳴る。
「ごめんなさい」
普段はいただきますも、ごちそうさまも言わない。やはり自分の特別感に酔ってしまっているのだろうか。少しだけ気分が良い、そんな気がするのだ。それこそ、今なら一度や二度理不尽に殴られようと許せてしまうのではと思えてしまうほどに。
どうせ食事が入らないのなら要らぬ調理だった。しかし作り、食そうとしなければ結局食べれないのか、なんて分からないわけで、この今一な感情をどう処理すれば良いのだろうと、溜め息を吐きながら食事をゴミ箱に放った。
さて、食事が喉に通らなかったのだ。何かしら体に異常をきたしているのだろう。しかし空はもう、星が煌めいて見えるような、そんな闇に塗られている。今から病院に行くのも面倒だ。
明日でいいだろう。そう結論づけ、何気なしに閉まっていたカーテンを開いた。カカカッなんて音とともに視界に広がったのは、どうにも邪魔な一軒家だった。
そうなのだ。概ねこの家は満足するに値するものなのだが、これだけは良い気分にはなれない。これでは満足に空を眺めることができない。
まあ、空を眺める習慣なんてないのだけれども。
はてさて、とカーテンを閉める。
特別空が見たいわけではなかったのだ。次は何をしようか。そう考えているものの、体はどうしてかまるで別の意識を持っているように動いていく。
クローゼットから上着を取り出し身に着けると、何も持たずに家を出ていく。
寒い。
上着を着ているとはいえ、真冬の夜はさすが寒いものだ。体を抱くような体制でゆっくりと歩く。
白くなった息が目の前で消えていく。そんな景色が目に毒だ。
寂しい。
決して強い想いではないけれど、うっすらと姿を表してくる感情に僅かながらの違和感を覚える。
ああそうだ。飯を食っていないんだった。
自分が特別な人間である、なんてそんなわけがないのに、何を考えていたのだろうか。ああ、捨てるなら口にしたものだけで良かったのに。明日の手間が省けたというのに。
食事を捨ててからまだ十分経っていないだろう。後悔するにはまだ早いのではないだろうか。
自転車が後ろから抜き去っていった。
こんな寒い中自転車に乗れば冷たい風を一身に受けるだろうに、事情はあるだろうがなかなか度胸のあることだと思う。
今度は正面から強い光が視界を歪ませる。車が迫ってくる。できるだけ脇を歩き、車とすれ違う。
便利な車もこの微妙に狭い道では不便利なものだな、なんて考えながら空を見上げると、そこには星一つ見えない曇天が広がっていた。その景色に顔を顰めると、不意に眉間が僅かに濡れたような気がして、目を凝らしてみると、ゆっくりと雪が降ってきているのが見えた。
今日の天気予報で夜から雪だと言っていたことを思い出した。
大して歩いていないけれどもう帰ってしまおうか。そう考えて踵を返す。
すると、何か石にでも躓いてしまったのか、急に視界に地面が映った。
「──っぶねっぃ」
咄嗟の判断で両手を地面につき怪我は免れた。
少し恥ずかしさを感じながら立ち上がり、手をはらう。
誰も見ていなかったのが幸いか。大して段差があるわけでもない場所で転んでしまうというのは中々羞恥心を感じる。そういえば母もよく何もないところで躓いていたな。
懐かしいことを思い出した。
一息ついて再び家に向かって足を進めようとする、も次に体が地面についたのは数秒後、足ではなく頭だった。
「くぅっ──はぁっ! はっ、はっ、はっ、」
何が起きた。何が。息が詰まる。
痛い。
熱い。
苦しい。
何に吹き飛ばされた。体の感覚が薄れていく。痛みも薄れているような気がする。
自分の状況をもっとしっかり確認しようと、視線だけ体に向けると、右足がぐるんと回っていた。左足は普段と変わらなかったせいか、右足の異常性が余計に際立っていた。
「ぐぶぅっふ!」
咳のように出てきたものは、なんだったか、熱を持った液体だった。
視界が眩んでいく。頭が回らなくなっていく。
何が起きた。
痛い。
熱い。
嫌だ。
ここで死んでしまうのだろうか。死にたくない。
頭の中でずっと叫んでいるようだった。しかし一瞬だけ、ほんの一瞬だけ冷静であれた。
今この一瞬、なんだか人生で一番生きているような気がした。
死んでいるかもしれないし死んでいないかもしれない。どっちでしょうね。