星が降る夜に
「わあっ」
木々の切れ間から見える星々に、アリサは感嘆の声を上げた。
きらきらと輝く星は、手を伸ばせば届きそうなほど近かった。試しに、両手をうんと伸ばしてみると、指の間からアリサの顔に煌めきが降り注ぐ。初めて見る光景に、胸が高鳴る。
まるで、宝石箱の中に飛び込んだみたい。
「すごいすごいっ。ねねっ、キャロル、丘の方に行ってみようよ」
ランタンを取りに一度部屋に戻り、キャロルのリードを引っ張って、アリサは雪の積もった外へ飛び出した。
コテージの周りは背の高い木が多いけど、北に進むと見晴らしの良い丘がある。そこならもっときれいな光景が見られると思ったのだ。
「お父さんが夜は外に出ちゃだめって言ってたけど、ちょっとぐらいいいよねっ」
散歩が嬉しいのか、キャロルは元気にワンと吠えた。
キャロルと一緒に、歌いながらアリサは進んだ。興奮でほてった体に、冷えた空気は心地よく、蹴り上げた雪の結晶が星の光を受けて輝く様は、言葉にできない歓びをアリサに与えた。
雪はふんわりと柔らかく、踏みしめると愉快な音を立てる。それが嬉しくて、スキップしたり、キャロルと追いかけっこをした。行く先を星が照らしてくれるように思えた。
しばらくすると、開けた場所に出た。
「ひやぁーっ」
歓声が澄んだ空に響く。
地に白銀、空に黄金を敷き詰めたような景色が広がっていた。
アリサはキャロルと並んで丘の上を駆け回る。天を見上げながら走ると、空が自分を中心に転回し、まるで、宇宙の中心にいるような気持ちになった。
「きれいだねえ、キャロル……」
ひとしきり遊んだあと、座り込んで空を見上げる。
吐いた息が、星々の光を受けて煌めき、名残惜しそうに美しく消えていく。
「あっ」
夜空を駆け落ちていく星を見つけて、アリサの口から声が漏れた。
「流れ星!」
星はまたたく間にその輝きを失い、闇に消えていく。
「お父さんが言ってた。流れ星が消えるまでの間に、願い事を言えると叶うんだって」
キャロルの頭をなでながら、話しかける。
「キャロルは何がほしいっ?」
キャロルは首をかしげ、くうんと鳴いた。
「わたしはねー、ぬいぐるみとねー、あと温かい靴かなあ。それとおっきなケーキを食べたい! キャロルは美味しいお肉かな? お父さんはお花好きだから、花束かなあ。次に流れ星見つけたら、一緒に願おうね」
流れ星のように、ぬいぐるみと靴とケーキとお肉と、そして花束が降ってくる姿を思い描いてみる。
お父さんが好きな青紫色の花。爽やかで元気になる香りがする花。あの花の名前はなんと言ったか。小さくて可愛らしい、あの花は?
それはとても――素敵な想像だった。現実の悲しいことを忘れてしまえるくらい、愉快な夢だった。
どきどきとした鼓動を感じながら、空を見上げる。
しかし、流れ星はなかなか現れない。
気温は下がり、少し寒くなっていた。風が出てきて、雪が舞って顔を打ち付ける。
「おいで、キャロル」
アリサはキャロルを抱きしめる。
「キャロルは温かいねえ」
頬ずりをすると、キャロルは嬉しそうにアリサの鼻を舐めた。くすぐったくて、思わずアリサは笑ってしまう。更に頬ずりをしようとしたとき、強い風が吹いた。
「きゃうっ」
風に煽られた拍子にランタンが倒れ、火が消えてしまった。
「消えちゃった……」
夜の闇が一気に深まる。
あたりは木の葉が擦れ合う音と、雪が吹きすさぶ音以外、何も聞こえない。
世界に取り残されたような気がして、アリサは急に寂しくなった。キャロルを抱く手に力が入る。
「せっかくここまで来たんだもん。願い事、叶えたいな」
寂しさを振り払うため、楽しいことを考えようと思った。
プレゼントを持って帰ると、お父さんは、まず驚くだろう。だけど、とても喜んでアリサを抱き上げてくれるのだ。
そして、暖かいお家で、美味しいものを食べて、幸せな気分になって、みんなで眠るのだ。
しかし。
流れ星は現れない。
雪はますます強くなり、アリサの暖かな夢想を剥がして飛ばしていった。
孤独と闇への恐怖は、必死で見ないようにしてきたことを、アリサに思い起こさせる。
少女には、本当は、ぬいぐるみより、温かい靴より、大きなケーキより、もっとずっと――叶えたいことがあった。
「お母さん……」
ぽつりと、言葉が滑り落ちた。
それは、今まで考えないようにしていたこと。
蓋をして、押さえつけて、そして、元気に明るく振る舞うことで、忘れようとしていたこと。
でも――。
「でも……寂しいよ」
お母さんはお星さまになったんだよ、とお父さんは言った。
アリサの成長を、お空から見守ってくれている、と。
「お母さん、戻ってきて……」
だから、抑えてきた。耐えてきた。お母さんとお父さんを困らせないように。アリサが笑顔でいることを、お母さんもお父さんも望んでいると、そう思っていたから。
「戻って、きてようぅ……!」
それでも、抑えきれず、涙が溢れ、頬を伝った。
その時――涙が堕ち、雪と同化する前に――空に一筋の光が流れた。
美しい光の軌跡を前に、アリサは両手を合わせ、声を絞り出す。
「もう会えないなんて嫌だよ……会いたいっ、会いたいよぉ……お母あさあん……!」
祈るように、拝むように。
堕ちて、消えていく星に、アリサは願った。
手は震え、体がどんどん冷たくなっていっても。
指先の感覚が鈍くなり、耳が千切れそうなほど痛んでも。
キャロルがアリサの腕の中から離れ、いなくなっていることにも気づかないほど、一心に。
必死に、純粋に。奇跡を願った。
その間にも、雪は降り積もっていく。
奇跡は起きることなく、流れ堕ちた星は夜の闇に消えていく。
*
思いの外遅くなってしまった。
欲しがっていた靴とぬいぐるみ、ごちそう用の食材がたっぷりと詰まったリュックの重みを肩に感じながら、男は娘が待つコテージへ足を早めた。
今回の旅行は、ふさぎ込みがちになった娘に対するプレゼントのつもりだった。
豊かとはいえない生活の中、少なくない出費であった。しかし、ほんの少しでも楽しい思い出を作ってやりたかった。
そんな中思いついたのが、以前家族で来た、この地への旅行である。
雪を踏みしめながら、男は思い起こす。優しい妻と、元気な娘、賢い飼い犬と過ごした、幸せな時間を。以前この地へ訪れたときは春で、妻も元気だった。
娘は目に映るものすべてが新鮮で楽しいといった様子で、走り回っては転び、草原の柔らかなクッションの感触を楽しんでいた。
コテージから少し離れた丘には、妻が好きなローズマリーが咲き乱れ、娘と一緒に花かんむりを作りプレゼントすると、妻はとても喜んだ。
妻の病気が判明したのは、それからすぐだった。治療費は高額だったが、男は気にしなかった。売れるものは何でも売ったし、やれる仕事は何でもやった。愛は少しも揺らがなかった。
しかし、治療を初めて一年後、妻は死んだ。
妻は幼い娘の身を最後まで案じた。悲しみに暮れながらも、男は、妻の死が娘の負担にならないように振る舞ってきたつもりであった。
しかしそれでも、娘との間に、大きな、決して埋められない亀裂が出来たことを、感じずにはいられなかった。死んだ妻の話題はしないようにしていたが、そのことがかえって、よそよそしい空気を醸成させ、お互いに無理をしているのではないかと思うこともあった。
そのため、コテージに来たときの弾けるような娘の笑顔に、男は随分と救われた気持ちになった。
リュックに入っているプレゼントもサプライズで用意したものだった。オーダメイドで人気の品のため、わざわざこのタイミングで町へ行き、受け取ったのだった。
きっと、喜んでくれるだろう。
男は娘の笑顔を想像し、頬を緩ませた。
「アリサ、ただいま―っ」
肩で息をしながらコテージのドアを開けると、すぐに違和感を覚えた。
いつもなら、ぱたぱたと足音を響かせながら、娘とキャロルが駆けつけるはずだったが、返事もなければ、物音一つ、聞こえてこなかった。
「アリサ―っ? キャロル?」
ひょっとしたら待ち疲れて眠ってしまったのかもしれない。そう思い、リビングやベッドルームを覗く。
誰もいない。
暖炉では薪が煌々と燃えているが、暖めるべき者が、見当たらない。
嫌な汗が背筋を伝う。腹の奥に鉛を入れられたような圧迫感と不快感が男を襲った。
「アリサ! キャロル! 返事をしてくれっ」
男の叫びに反応するものはなかった。
たまらず荷物を投げ捨て、男は外に飛び出した。
ついさっきまで星が埋め尽くさんばかりだった空は、今や雲に覆われ、雪は痛いほど全身を打った。
この雪の中に、アリサが?
あざ笑うように吹きすさぶ風雪によって、あったであろう少女の足跡はすでに消えていた。
ぞっとする想像が頭によぎる。恐怖に飲み込まれないように、男は必死に声を張り、走り出した。
*
アリサの目の前には、あたたかな光景が広がっていた。
お父さんがいて、キャロルがいて。テーブルにはたくさんのごちそう。チキン、パイ、オレンジジュース、グラタン、ケーキ。部屋は紫色の花で彩られ、みんな楽しそうだ。
そして、その中心にはお母さんがいる。
少女がそばによると、お母さんはにっこりと微笑んで抱き上げてくれる。
暖かくて柔らかいものに包まれると、アリサはほうっと、息を吐いた。
「えへへ、お母さんっ。よかった―っ」
本当に、よかった。お母さんがいる。願い事がかなったんだ。
お母さんは、柔らかに頬を緩ませ、頭をなでてくれた。少しくすぐったく、とても優しいその感触にアリサは頬ずりで応えた。
「おいおい、アリサ、キャロルみたいだな」
お父さんが笑いながら言った。キャロルが同意するようにワンと吠え、みんなに笑顔が溢れた。
それからみんなでご飯を食べた。どれもとても美味しくて、アリサが口いっぱいに頬張って食べていると、お父さんがまた、キャロルみたいだと笑った。
とても、幸せなひとときだった。
こんな時間がいつまでも続けばいいと思った。
「ずっとずっと、一緒だよね?」
だからお母さんにたずねた。お母さんも同じ気持ちに違いないし、笑って頭をなでて、そしてうなずいてくれると思ったのだ。
お母さんは悲しそうに首を振った。
「え……どうして? なんで? だって、お願いしたんだよ、流れ星に。だから、お母さん……」
何度聞いても、困ったように首を振るばかり。
アリサははっとした。
お母さんが病気になってから、よくしていた表情だ。お母さんにはどうしようもなくて、だけど、その場しのぎでうなずくとアリサが後で悲しむことをわかっているとき、眉を少し寄せ、口元は優しく柔らかい笑みを浮かべていた。
そして、気づく。
これは夢だ。
素敵な――もう二度と来ることのない、夢、なんだ。
すると、周囲の景色が崩れ始める。
温かい暖炉も、雪から守ってくれる家も消えていく。お父さんとキャロルが遠くへ消え、そして
お母さんも遠ざかっていく。
アリサは必死に走り、手を伸ばした。
たとえ掴むことができない幻だったとしても、少女にとって、それは何よりも代えがたい、大切なものだったから。叶わないと知りつつも、手を伸ばさずにいられなかった。
指は空を切るが、しかし、そのたびにまた、手を前に出した。何度も何度も。しかしお母さんは遠ざかり、どんどん小さくなっていく。
「お母さん!」
決して届かないと知りつつも、アリサは叫び、そして祈るように手をのばす。
すると、何かが指先に触れた。
力強く握り締める。
消えていく一瞬、お母さんが微笑んだ気がした。
その笑顔を見て、アリサは思い出した。花の冠を作ってプレゼントしたときと同じ微笑み。
どうして忘れていたのだろう。あの紫色の花は。
お母さんが大好きだった花、ローズマリーだ。
*
「……ぁ」
どこかで声が聞こえた気がした。
「アリサ!」
「……お父、さん?」
薄っすらと目を開けると、今にも泣きそうなお父さんの顔が飛び込んできた。
「アリサ! 待ってろ、お父さんがすぐに家に連れてってやるから!」
お父さんは彼女を抱き起こし、おぶった。そして力強く走り出す。
「どうして、ここに……?」
「キャロルが教えてくれたんだ!」
お父さんの言葉に、並走していたキャロルがワンと吠えた。
元気なキャロルの声に、アリサはほっとした。もしキャロルが雪の中迷子になってしまっていたら、とても悲しかっただろうから。
とても眠く、疲れていた。
「あのね……流れ星が見えたの。だから、わたしお願いをしたの。お母さんと会えますようにって……」
つぶやいた声は、驚くほどか細かった。
苦しげにお父さんはアリサへ向いた。
「叶わないんだ……! 叶わないんだよ、アリサ。どれだけ祈っても、その願いは……! すまない、本当にごめんな」
絞り出すような声に、アリサは小さくうなずいた。
「……わかってた」
「え……?」
本当は、わかっていた。
「お母さんが死んじゃって、もう二度と戻らないってこと……」
それでも、ひょっとしたら。
星があまりにもきれいで、今にも手が届きそうで。
奇跡が起きるとしたら、こんな夜に違いないと――そう思った。
だけど。どれだけ待っても。祈っても。
何も起きなかったんだ。
「お父さん、わたし、夢を見てた気がするの」
頭は熱く、意識は沈み込むように重くなっていた。
「夢?」
「うん。暖かくて……幸せな夢。よく覚えてないんだけど、きっと、お母さんがいた」
「……」
「ずっとこんな時間が続けばいいと思ったんだ。だけど、終わっちゃった」
「……うん」
「だからね、お父さん。見つけてくれて、ありがとう。ばかなことして、ごめんなさい……」
「アリサ……⁉ アリサっ!」
お父さんの叫び声を聞きながら、アリサの意識は遠のいていった。
*
娘は高熱を出して寝込んだ。しかし、医者も驚くような回復力で、日に日に元気を取り戻していった。食欲は旺盛で、グラタンやシチューを作ると、たくさん食べた。「そんなに食べると太っちゃうぞ」と言うと、「成長期だからいいんですーっ」と頬を膨らませた。
そんなこんなで旅行の時間はあっという間に終わってしまったが、それからも、家族の時間を増やすようにした。
仕事に当てていた時間を、家庭に向けたのだ。金銭面では苦しくなったが、しかし、以前より笑い合う時間が増えた。
妻との思い出話も、良くするようになった。お日様が当たる窓の近くで、温かいお茶を飲みながら、ゆったりとした時間を過ごした。時折涙を浮かべることもあったが、そんなときはお互い我慢することなく泣いた。アリサは特に、彼女が生まれる前の話をすると、目を輝かせて続きをせがんだ。
妻がいないことは変わらない。悲しく寂しい夜もいまだにあった。
しかし、空虚でささくれだっていた心に、再び愛が満ち、癒やされていくのを感じていた。
「お父さん、それ、どうしたの?」
ある日、男が持つ植木鉢に目を丸くして娘が言った。
「ああ、アリサが持っていた種を、育てようと思って」
「種?」
男の言葉に、彼女は不思議そうに首をかしげる。
「あの、流れ星の夜にさ、アリサが握ってたんだ。ローズマリーの種を」
なぜ持っていたのか、男にはわからなかったが、しかし、それがとても大切な宝物であるかのように、アリサは種を握りしめていた。介抱しているときに気付き、それを取っておいたのだった。
「そうなんだ。へえー」
キョトンとした表情のあと、アリサはすこし遠い目をした。
「……でも、ちゃんと、咲くかな?」
「きっと咲くよ。ローズマリーの花言葉は知っているかな? きっと咲くとも」
「えー、なに、なに? 花言葉、知らない」
男は口を開きかけたが、途中で気が変わった。
「うん? それは――気になったなら、自分で調べてご覧?」
「けちぃ」
顔を見合わせて、二人は笑った。
あたたかな日差しは、長い冬の終わりと、春の到来を予感させた。
男は植木鉢の横に、妻の写真をおいた。今は芽も出ていないが、春から夏にかけて、ぐんぐんと育ち、そして花を咲かせるだろう。
彼女が愛した花、ローズマリー。
花言葉は、
『追憶』、
『不変の愛』、
そして――
『あなたは私を蘇らせる』。
・参考文献
『すてきな花言葉と花の図鑑』(川崎景介 監修 西東社)