2.捜査
翌日の土曜日。
朝7時きっかりに玄関のチャイムが鳴った。僕はちょうどトイレから出てきたところだったので、サンダルをひっかけてドアを開ける。
すると、目の前に腕組みで仁王立ちする夏美がいた。
「研究生で助手のくせにいつまで待たせんのよ。さっさと行くわよ」
僕は必死に思い出していた。昨日の別れ際、約束なんかしてたっけ? しかし、記憶をどこまでさかのぼっても今日の何時にどこに行くか、なんて話はした覚えがなかった。
「いつまでぼんやりしてるつもり?」
「あ、ごめん」
と、出ようとしたところで、まだ着替えもしていない事を思い出した。
「……着替えてくるよ」
慌てて家の中に入ると、二階に駆け上がった。自室に飛び込むと同時にパジャマを脱ぎ捨てた。少しの時間も惜しくて廊下でボタンを外していたのだ。
脱ぎ散らかした服たちを乱暴にどけると、洗濯したばかりのTシャツを発掘し、袖を通す。ズボンは昨日と同じジーンズでいいだろう。
ついでに洗うものを抱えて階段を降り、洗濯かごに放り込んでおいた。
キッチンを覗くと母が朝食の準備をしている。ちょっと出てくるよ、と声を掛けると「なにをそんなに慌てているの」と不思議がっていたが、かまっている暇はない。返事もせずドアを閉めた。
「お待たせ」
僕としては大急ぎで準備したつもりだったが、夏美はふくれっ面でぷいっと顔をそむけると、無言で歩き出した。
「ごめん、今日も行くとは思ってなくて」
「何言ってんのよ。そんなんじゃいつまで経っても立派な探偵にはなれないわよ」
「……べつに探偵を目指しているわけじゃないんだけどなあ」
と小さく呟きながらも夏美の後ろをついていく。こうして、今日も夏美の探偵ごっこに付き合うことになった。
今日は何時に解放されるんだろう。僕は朝食を食べそびれたことが心の底から悔やまれた。
「えっと、まずはここね」
僕の家を出てから15分ほど歩いたところにその家はあった。
夏美は手帳を取り出すと、入念に住所を見比べた。そして間違いがないことを確認すると、辺りを見回して首を傾げた。
「――おかしいな。今までと違う」
まるで何か――今まであったものが煙のように消えてしまうマジックでも見たような、不思議そうな顔をしている。
「どうしたの?」
夏美はもう一度ぐるりと見まわしてから、
「隠れられそなところがないのよ」
と言った。
ああ、なるほど、犯人が隠れる場所がないという設定か。
それなら。
「隠れるって、例えば車とか?」
「まあそうね」
「それなら、そこの家の前にいつも車が停まってるよ。今日はないみたいだけど」
「え、それほんと?」
夏美は驚いてこちらを振り向く。彼女のこんな表情はなかなか見られないぞ。いつも小馬鹿にされるが、ここは僕の家のすぐ近所だから僕の庭みたいなもんだ。
「ここ、たまに通るんだけど、いつも邪魔だなって思ってたもん」
いつも車があるというのは本当だ。フィクションに少し本当の事を混ぜてやると、嘘がとたんに本当みたいに思えるから不思議だ。
そんなことを考えながら、普段車が置いてあるあたりまで来てみると、何か白っぽいものが落ちているのが見えた。
「あれ?」
「どうしたの?」
夏美も僕のすぐ後ろに来ていた。足元を指さす。
「タバコが落ちてる」
そう答えながら、そういえばプルタブの一件があった事を思い出した。どうせまた馬鹿にされるんだろうと思っていたが、夏美の反応は予想と違うものだった。
「すごいじゃない! これは重要な発見よ!」
プルタブは駄目でタバコはいい? 判断基準が良く分からない。
首をひねっていると、夏美は昨日と同じように吸い殻をビニール袋に入れていた。だれが吸ったかも分からないもの、よく拾えるな。
「ここでも3本か、なるほど。――ちょっとついてきて」
「どこ行くの?」
もう興味は別のところに移ってしまったらしく、僕の質問には答えもせずに歩いていく。そして、さきほどの家の前に立つと、躊躇なく門を開けて中に入ってしまった。
「ちょ、ちょっと夏美ちゃ……先輩、勝手に入っちゃだめだよ」
すると夏美はキッとこちらを振り向いて、
「しっ! 静かにして!」
声は小さいものの、すごい迫力に僕は圧倒されてしまった。
彼女はそのまま塀に沿って家の周りをぐるりと一周しながら、窓の位置や植木の高さを確認してはメモ帳に書き込んでいく。僕を誘いに来たくせに。夏美は熱中するといつも僕を蚊帳の外に置いて自分の世界に入り込んでしまう。
こうなったら声を掛けても無駄だし……と、ふと窓に目をやると、家の中からじっとこちらを見ているおばさんと目が合った。
「あ」
おばさんはまるで般若のような形相で、
「そこで何してるの!」
と金切り声を上げた。
勝手に敷地に入り込んでうろうろしてる、見ず知らずの子どもがいるんだから当然の反応だと思う。まさか探偵ごっこだとも言えず、さりとてうまい言い訳も見つからずに困っていると、夏美がすっと前に出た。
「あ、ごめんなさい! 鬼ごっこしてて、この子がここに入っちゃったもんだから、連れ出しに来たの。知らない家に勝手に入っちゃ駄目でしょ! ほら、あんたも謝りなさい」
普段より1オクターブ高いよそいきの声だ。
しかし、よくもまあスラスラと嘘が出てくるもんだと感心する。一瞬、あっけにとられたが、ここは夏美に合わせておいた方がいいだろう。
「えと、その、勝手に入ってごめんなさい」
果たしてそれで納得したのかどうかは分からないが、おばさんの返答を待たずに急いで外に出た。
「めちゃくちゃびっくりしたよ……」
まだ心臓がバクバクいってる。これ、確実に寿命が縮まってると思う。
「こんな事でいちいちびっくりしてたら立派な探偵にはなれないわよ」
だから、僕は探偵なんて目指してないんだってば。
それからしばらく、夏美は3軒ほどの家に勝手に入ってはしきりにメモをとっていた。当然、さっきのように家の人に見つかる事もあるわけだが、毎回「鬼ごっこ」だとか「かくれんぼ」だとか言って誤魔化した。必ず僕が勝手に入って、夏美がそれを連れ戻しに来るという設定だ。
僕の家からけっこう近くなんだけどなあ。まさかお母さんの知り合いがいたりなんかしないよな。
この子と一緒にいると少しの時間も気を抜けない。
などと、顔には出さないようにしながら心の中で文句を言ってると、突然夏美が腕時計を確認して言った。
「あ、もうお昼じゃない。今日はここまでね」
「え、そうなの?」
「あたしはこれから用事があるから。それじゃ、今日はここで解散」
夏美はぱちんと手を打つと一方的に解散を言い渡し、くるりと踵を返して去っていった。
「え、あ、ええ!?」
なんということだ! 朝早くにうちまで呼びに来たと思ったらあちこち引っ張りまわした挙句、不法侵入の犯人に仕立て上げられ、振り回されたまま解散だって!
いくらなんでもひどい。僕はあまりにも傍若無人な振る舞いに辟易として、
「じゃ、また明日」
しかし、他の友達と遊ぶのとは全然違う、なんて表現したらいいのか――我ながら陳腐だけど、心が踊るような感覚を覚えていた。仕方ない、明日も付き合ってやるか。