1.出会い
まだ時折夏の気配が顔をのぞかせる十月の初め。学校が終わってから、僕は図書館に向かって歩いていた。このあたりはごくごく普通の住宅街で、似たような建売の家が並んでいる。
大きなツツジの木が植えられた家の角を曲がったところで、ふいにその声は聞こえてきた。歩きながら物思いにふけっていたとか、別のことを考えていたというわけではないけれど、まさかそこにそんなものがある──いるなんて思ってもいなかったから、気づかなかったのだ。
「ちょっと、そこ、踏まないで!」
下ろそうとしていた右足をかろうじて空中で止めながら、僕は慌てて電柱にすがりついた。そうでもしないとバランスを崩して倒れてしまいそうだったから。
と、ここでようやく声の主を探す。すると、僕が抱え込んでいる電柱の影にうずくまっている女の子がいた。彼女は大きな虫眼鏡を持って電柱の足元、今まさに僕が踏みつけようとしていた部分を凝視していた。
虫眼鏡の先には、誰かが捨てたらしいガムの包み紙が落ちている。ようするにゴミということだ。それなのに、女の子は熱心に虫眼鏡をのぞき込み、右から、左から、あらゆる角度から観察している。
「な、何してるの?」
関わってはいけないと本能では分かっているのに、何故か声をかけてしまった。
「見て分かんないの? 捜査よ」
「捜査?」
「ああもう、うるさいわね」
女の子は苛々をまったく隠そうともせずに顔をしかめると、ガムの包み紙をピンセットでつまみあげ、用意してあったビニール袋に放り込んだ。そして、むっつりとしたまま立ち上がると、めんどくさそうに言った。
「捜査は捜査よ。事件の捜査」
「事件?」
「そう! あたしはこう見えても探偵よ。人呼んで、『極悪ヒーロー少年探偵団』!」
正義なのか悪なのか分からないし、女の子のくせに少年って。しかも探偵団というわりには1人だし。いったいどこから突っ込んでいいのか分からないくらいに何を言ってるのか分からない。
僕が呆然としていると、女の子はニヤリと口を歪め、ずいと顔を近づけた。ああ、確かにこの顔は極悪人の顔だ。
「ねえあんた、暇? 暇よね。絶対暇でしょ」
ヤバい。これはヤバい。僕は直感的にそう思った。これは本格的に関わっちゃいけない人だ。
「ああそうだ、僕、お母さんにおつかい頼まれててゃんだった」
自分でもびっくりするくらい、大きな声が出た。それに滑舌も最悪だ。人間、ごまかそうとしている時ほど冷静ではなくなるものらしい。
「待ちなさいよ!」
女の子が腕を掴んでぐいと引っ張った。
「逃げなくてもいいじゃない。あんた、名前は?」
誰がそんなに簡単に個人情報を教えるものか。
「あたしは夏美。斉藤夏美。ほら、名前」
「藤原将太」
ああ、しまった、相手のペースに乗せられてつい喋ってしまった。だいたい、『斉藤夏美』という名前だって本名かどうか分からないのに。
この上なく後悔しながら夏美なる人物を改めて見てみると、彼女も僕をじっと見つめていた。――まあ、どうやら嘘を言うような人ではない、のかもしれない。
「あっそ、あんた暇でしょ」
結局名前で呼ばないんだ。
「ちょうど助手がほしいと思っていたのよ」
自称斉藤夏美はこちらの都合もなにもまったく関係なく話を進めるつもりらしかった。
「え、助手って、もしかして僕もその、極悪ヒーローなんとかに?」
「はっ、まさか。あんたは探偵団研究生であたしの助手よ」
良かった、どさくさ紛れで僕までそんな訳の分からない探偵団に入れられちゃたまらない。見下した態度には正直カチンときたが、勝手に仲間にされるよりはマシだと思われた。
「じゃあ、そこの家あるでしょ? 玄関の前に立ってくれる?」
どうやら本当に助手扱いをしようとしているらしい。このまま逃げても追いかけてきそうだし、少し探偵ごっこに付き合ってやれば気が済むだろう。
「でも、知らないうちだよ」
「いいから。ちょっとだけだって」
僕は渋々、指さされた家に向かった。
「ちーがーう、その隣!」
だいたい指示が曖昧なのがいけないんだ。僕は内心悪態をつきながら、言われるままに隣の家の玄関前に立った。
「ふうん、なるほどね」
夏美はポラロイドカメラを取り出すと、僕に向けておもむろにシャッターを切った。
「ちょっと、勝手に撮らないでよ」
「よし、じゃあ次行くわよ」
「え? あ、うん。」
夏美は僕の抗議は聞かず、さっさと歩きだした。まだ終わりじゃないのかとうんざりしながら後を追う。
しばらく歩いていくと突然立ち止まり、地図を取り出してきょろきょろとしている。
「確かこの辺……ああ、そこか」
そう言うと夏美はまたすたすたと歩いていく。
それは家と家の間、ほんの数メートル程度の隙間に作られた公園だった。
夏美はまたポラロイドカメラで公園の風景を撮っている。いったい、こんなさびれた公園なんか撮ってなにが楽しいのやら。
「ねえ、夏美ちゃん」
「はあ? なに馴れ馴れしく呼んでくれちゃってんのよ、助手のくせに」
あくまでも助手という扱いをしたいらしい。それなら、こちらもそれに乗ってやったほうが話が早いのかもしれない。ここで下手に文句を言って口論になると余計に時間がかかってしまう。
「ええと、じゃあ、夏美……さん?」
夏美は黙って首を横に振る。その態度はまるで出来の悪い生徒に教える教師のようだ。
しかし、さっき出会ったばかりの僕に彼女の求める答えなど出せるわけもない。
「あの、じゃあなんて呼べば……?」
「そこは、私に敬意をはらって『先生』でしょ」
「ええ~、先生ぃ~?」
「なによ、新人のくせに生意気な。分かったわよ、じゃぁ先輩で許してあげる」
いったいなんの先輩なのか。僕は探偵を目指しているわけでもないのに。
「先輩ねえ」
僕がまだ不服そうにしていると思ったのか、こちらを見、そして何か思い出したようにきょとんとした。
「そういや、あんた何年?」
「え? 5年だけど」
夏美は一瞬動きを止め、そしてまるでスローモーションのようにじわりと悪魔的な笑みをうかべた。
「なぁんだ、それじゃあやっぱり先輩でいいんじゃん。あたし、6年」
なんという事だ。この、僕より少し背の低いがさつな女の子が僕より年上だなんて。
「マジか……夏美……せんぱい」
夏美はぐいっと胸をそらし、尊大に答えた。
「ええ、なぁに? 聞いてあげるわよ」
「あれ? なんだっけ、忘れちゃった」
「はあ? 何よ、忙しいんだからくだらない事で声かけないでくれる」
だいたいお前がごちゃごちゃ言うから忘れちゃったんじゃないか! と、喉元まで出てきたけれど、それを言うときっと話が長くなりそうだったので言わないことにした。
なんだか、この数十分ほどでずいぶん大人になった気がする。
僕が自分に感心していると、夏美はベンチのそばにしゃがみこんでいた。何をしているのかと思って見ていると、いつの間に取り出したのかピンセットでガムの包み紙をつまんでいた。
「見て。さっきと同じガムの包み紙よ」
「あ、ほんとだ」
同じ、といってもごくありふれたガムだ。そりゃ、同じガムを噛んでる人だっているだろう。
「犯人は細かい性格ね。噛み終わったガムを包んで、きちんと折りたたんである。それなのにポイ捨てするなんて、アンビバレンスな性質ね。――あ、ひょっとするとカウンター・アイデンティティなのかも」
なんだか難しい単語を羅列している。どこかで聞きかじっただけの言葉をそれらしく言ってるだけだろう。
「そうなんだ。すごいね」
「なにが?」
「え?」
何気なく話を合わせたつもりだったのに、そんな風に返されるとは思っていなかった
「ああ、その、先輩は難しいことを知ってるなって」
一瞬、きょとんとしたけど、夏美はすぐにふんぞり返って鼻を膨らませた。
「ふふん、当然じゃない」
ははあ、この先輩、どうやら単純な性格らしい。とりあえず褒めておけば機嫌がよさそうだぞ。
「それからタバコの吸い殻が3本。ふむ、なるほどね」
夏美はまだベンチのそばにしゃがみこんで、ぶつぶつと独り言をつぶやいている。
手持無沙汰になった僕は何気なくあたりを見回し、ふと足元になにか落ちてるのを見つけた。
「ねえ、ほら、こっちに缶ジュースのひっぱるやつが」
「プルタブ。それ関係ないから」
夏美はこちらをちらりとも見ずに言った。
なんだよ、僕も探偵ごっこに付き合ってやろうと思ったのに。
どうも僕が証拠品集めをするのはお気に召さないらしい。僕は言われた通りの事だけをやることにした。
「じゃあ助手、この証拠品をビニール袋に入れて頂戴」
と、さっそくお仕事だ。落ちているタバコの吸い殻に手を伸ばしたところで、
「こら! 手で掴む馬鹿がいる? ちゃんとピンセットを使ってよ。あんたの指紋がついちゃうじゃない」
と怒鳴られてしまった。
「はいはい」
まったく、変なところでリアリティを求めるんだから。僕はさっき夏美に渡されたピンセットで吸い殻をつまんでビニール袋に入れた。
それからしばらく夏美はゴミを拾ったり写真を撮ったりしていた。
その日の捜査は夕方まで続き、日暮れとともにようやく終了となった。
こんな探偵ごっこは今までしたことがなかった。偉そうな先輩に顎で使われるのはどうにも癪に障るけど、思ったより楽しくなってきたのを自覚してしまった。
まあ、こういう遊びなら、たまにはいいかもな。と、思ってやることにした。
読んでいただいてありがとうございます。
このお話も、以前朗読イベント用に書いたものです。
のんびりほのぼのミステリーです。