紅茶
体が動かない。
上下も左右も前後もわからないほどの暗闇にいる。
全く光の無い空間なのに、目の前にいる男だけははっきりと視認できる。
背が高くて、鍛えられていながらもしなやかな肉体、整った顔立ち。
そしてそれらがどうでもよくなる、女装。
男が近づいてくる。
目の前まで。
体は未だに動かない。
男が口を開ける、開ける、開ける。
端正な顔に切れ目が入り、人間の顎の可動域を大きく超えて開き、そして、私を、頭から-----
「きゃああああああああああああ!!??」
…………。
………。
……。
…夢だったようだ。とんでもない悪夢だが。
(というか、寝ていた?ここはどこ?)
飛び起きた少女は部屋を見回した。
広くはないが、温かみのある部屋だ。大きな窓からは陽の光が柔らかく差し込んでいて、時間がゆっくりと流れているような気がする。
少し暖色味を加えたクリーム色の壁紙に、木を基調としたインテリア。テーブルの上にある繊細な装飾が施された上品な花瓶には、色とりどりの花が活けてある。
掃除も行き届いていて、嗅いだことのない良い匂いで部屋は包まれている。
布団も信じられないほどフカフカで、いつまででも寝ていたい。
この平和で温かい部屋は、住んでいる人の心の中を現しているのだろうと分かった。
スラムで暮らす少女には一生縁のないであろう部屋がそこにはあり、初めて目にする快適な生活空間に彼女は今日の出来事をすっかり忘れて浸っていた。
と、思考停止していたその時。
「アラぁ、目が覚めたの。無事でよかったわぁ」
そんな間延びした声と共に、夢で見た女装男が部屋に入ってきた。
「きゃああああ!?!?」
少女が叫びながら布団で身を隠した。ここでのんびりしてる場合ではなかったことを思い出した。
「ンもう、うるさい小娘ちゃんねぇ。それより、お茶でも飲む?モルデン産の美味しいお茶が手に入ったのよぉ」
そう言いながら女装男は慣れた手つき湯を沸かし始めた。
「あ、あ、アンタ何者なのよ!!私をどうするつもり!!ていうかココ、アンタの部屋だったの!なんか損した気分!!」
少女は布団に包まりながら男を睨んだ。
パンを盗んで逃げている途中で男と出会ったこと、魔法を指を鳴らしただけで掻き消されたこと、目の前から一瞬で背後まで移動され、恐怖で気絶したことを思い出した。
「マ、失礼ねぇ!悪いことは何もしないわよぅ。お嬢ちゃんに良いハナシをしてあげるだけ。お茶を淹れたから、こっちのテーブルにいらっしゃい」
男は紅茶の入ったカップを2つ、音を立てずにテーブルに置いた。良い匂いが少し離れたベッドにいる少女の鼻にまで届いた。だが、少女に飲む気は無かった。
「嫌よ!得体の知らないヤツに捕まって、部屋まで連れてこられて!更に何飲ませようってのよ!毒でも入ってんじゃないの!」
「まぁ確かに警戒もするわよねぇ。その辺の注意力も、弟子に見習わせたいわぁ。」
男は微笑みながらテーブルの上にある小さな壷に匙を差し込み、何かを掬った。
「毒なんか入れてないわよ。アナタがもし入れたいのなら、これをどれだけでも入れていいケド」
そう言いながら、男はティーカップの上で匙を傾けた。真っ白な砂糖がキラキラと輝きながら男のカップに降り注いだ。
砂糖。言うまでもなく高級品であり、スラムの住民はおろか、下町の住民でもおいそれとは使えない。しかも、砂糖は砂糖でも白砂糖である。最も高級な砂糖だ。
少女は揺らいだ。これを逃せば白砂糖を口にする事など今後一生できないかもしれない。おそらくあの紅茶も一流のものだ。
「まだ警戒してるの?ホント野生の猫ちゃんみたいねぇ。得体の知らないアタシが何者か、紅茶を飲みながらお話しましょうって言ってるの。ホラ、ここにお座りなさい」
男が椅子をポンポンと叩く。その仕草もとても女性らしく、余計に怪しく思えたが、少女は紅茶が飲めるならと渋々席に着いた。
「アタシの名前はローラっていうの。アナタの名前は?お嬢ちゃん」
少女は初めて近くからまじまじと男を見たが、やはりどう見ても男だ。しかし、男は、ローラ と、そう名乗った。女性の名前である。それを聞いた少女は偽名だと考え、さらに男に対する不信感を募らせた。
「私の名前はアテナ!……なんでアンタは私をここに連れてきたの?」
「そうねぇ。理由は沢山あるんだケド……。まあ、1番の理由は、勿体なかったからかしら?」
「勿体ない?なにが?」
「ア・ナ・タ がよ。いい?アテナちゃん。アナタ、魔法の才能あるわ。それも、ちょっとやそっとのモノじゃないヤツ。それをあんな風にパンを盗むのに使って、いつか逮捕されて……そんなの勿体無いと思ったのよ。人知れず枯れていく美しい花があったら、私は摘んで持って帰るわ」
「ワタシに、才能……。でも待って、それが私を連れ去るのとなんの関係があるのよ?」
「そうそう。そこが本題よ。いい?アテナちゃん。アナタ、アタシの弟子になりなさい」
「はぁ!?」
「弟子になりなさいって言ってるの。魔法の使い方を教えてあげるわ。生活の面倒も見てあげる。私の弟子になれば、アナタの人生、今までのことが嘘だったように変えてあげる。どう?」
「どう、って…………」
男は、いや、ローラは、長くて形の良い脚を組んだ。紅茶を啜りながらも、目はしっかりとアテナを見ている。相変わらず顔は整っていて、髪が美しい。瞳は黒い宝石のようで、彼女の心を透かして見ているようだ。
落ち着くような、怖いような。敵意が無いのはなんとなく分かったが、かと言って未だに何を考えているかはサッパリ分からない。アテナは、紅茶を飲み干しながら質問を続けた。
「第一、アンタ男よね!?男よ!どう見ても!魔法使えないでしょ?どうやって私に魔法教えるのよ!」
男は魔法を使えない。スラムの住民でも知っている、この世界の常識だ。
「アタシが男か女かは置いといて、魔法は使えるわ。ホラ。」
男が人差し指をクルクルと回した。すると、テーブルの上にあるティーポットの注ぎ口から、ゆっくりと紅茶が出てきた。重力など無いかのように、宙に漂っている。一直線に放たれた紅茶は、空中で宙返りをするようにハートを描き、アテナのカップに着地した。
「おかわりよ。砂糖はお好みでどぉぞ」
「ウソ……」
アテナは、驚愕した。男が魔法を使ったという事実より、ローラの魔力制御の精密さに。アテナ自身も魔法のコントロールには自信があった。しかし、目の前にいる男のそれは、アテナの数段上の技術であると、アテナには分かった。
「綺麗……」
「この魔法を見て綺麗という感想が出てくるなら、センスも確かね。そういえば、アナタご家族は?弟子になるならアタシ、ご挨拶しなくちゃ」
「家族……あっ!!忘れてた!!私、帰んなきゃ!!」
そういうとアテナは急に立ち上がった。
「どうしたの急に。そういえば帰らなくちゃいけないとか言ってたわねぇ。」
「私、おばあにパンを持って帰らないといけないの!忘れてた〜!!」
「おばあ様がいるの?ご家族?」
「血は繋がってないけど、私を育ててくれた人!もうあんまり歩けなくて、私がご飯を食べさせないといけないの!!帰らなきゃ!って、私のパンはどこよ!」
「私のって……盗んだ物でしょう。その辺はしっかり躾けないとねぇ。ま、いいわ。私もそのおばあ様の所へ一緒に行くわ」
ローラは立ち上がってそう言った。
「何勝手なこと言ってんのよ!ついてこないで!!」
「アナタが今まで盗んだ分のパン代はアタシが払ったわ。あのパンもアタシが買ったものよ。だからついてこないでというならあのパンもあーげない。それに、また盗むなら今度も止めるわぁ。どうするアテナちゃん?」
「ムキーーーー!この変態!!好きにすればいいじゃない!!」
ぐうの音も出なかったアテナはローラを罵り、肩を怒らせてドアへと向かった。
失礼ねぇ、と微笑みながら、ローラはその後を追った。