Siebter Akt: Dichtung und Wahrheit (第七幕:詩と真実)
ギリシャの展示が終わった場所には、ローマの有名な真実の口のレプリカが置かれていた。
早速、キイツは真実の口に腕を入れて有名な映画の様に、腕が抜けない振りをしてアクアを驚かそうとした。
「と、とれへん! アクア助けて! …え、ととととれへんで」
アクアは冷ややかだった。流石に本場イタリア生まれは、事の顛末を知ってるだけに驚きも少ない様だ。
キイツが諦めて腕を抜こうとすると、口が本当に締めつけ始め、抜けなくなってしまった。キイツは焦ってアクアに助けを求めた。
「ほんまにとれへん!」
しかし、アクアの反応は相変わらずだった。
「…ご冗談でしょう?」
アクアは、”あなた”とのやりとりの様に言っていた。いつも”あなた”はこれをやっていたので飽きていたのだ。
その瞬間、真実の口が回転扉の様に前後に回転して、アクアとキイツは壁の向こう側に移動していた。
シャッター音がして、キイツの腕が口から抜けて尻餅をついた。呆然とする二人の前に、係員が現れて笑顔で説明した。
真実の口から、本当に腕が取れない時の驚きの表情を写真に収めるアトラクションだった。写真には、腕が取れなくて本気で焦っているキイツとそれを冷やかに見るアクアが映っていた。
更に、キイツの心拍数も測られており、7段階中の最低ランクGallina Cordiumと診断されていた。
アクアの心拍数の方は最高ランクのCor Cordium(心の心) だった。つまり、アクアは全く驚いていなかった。
写真の下にある、二人の相性占いは、Unroman weekday(無粋な平日)と書かれ、最低だった。
キイツは、恥ずかしさをごまかして詩を呟いた。
Arethusa arose
アレトゥーサは身を起こした
From her couch of snows
雪のしとねから
In the Acroceraunian mountains
アクロセラニアン山の
呟き終わるとキイツはアクアの顔を見つめていった。
「…キーツの詩や」
これも同じ有名な映画のセリフだった。そういったキイツに、アクアは反射的に答えていた。
「…キーツではなく、シェリーでしょう。寝ぼけてるんですか」
昔、親友が何度も言ったので、つい笑いながら口からこぼれ出ていた。
「…はあ、『ローマの休日』の本場出身だけに、聞き飽きてるか…」
「ええ、ローマで暮らした事もあるので良く知っています」
「自分もローマに行った事あるんや」
「キイツ一人では迷子になって、カモにされそうですね」
「なっ、そ、そんなことないで」
キイツは、動揺を隠す様に、また続きを呟いた。
From cloud and from crag,
雲と巌から
With many a jag,
数多の刻々(ギザギザ)と共に
Shepherding her bright fountains.
輝く泉を引き連れて。
She leapt down the rocks,
彼女は岩を飛び降りた
With her rainbow locks
虹色のその髪と共に
Streaming among the streams;―
流れに流されながら
Arethusa
アレトゥーサ
Percy Bysshe Shelley
パーシー・ビッシュ・シェリー
「そ、そういやあ、アレトゥーサって妖精だったけど、水になったんだよな。アクアも妖精だったん?」
「妖精ではないですが、死神の友達はいますよ」
恥ずかしい思いばかりをしたキイツだったが、それでもうれしかった。昔、”君”と共に神戸の辺りで似たようなやり取りをしていた事を思い出せたから。
真実の口に招かれて入った場所は、古代ローマの展示フロアだった。
ローマ建国の神話から始まり、「カルタゴ滅ぶべし(Carthago delenda est)」の標語を掲げたカルタゴとのポエニ戦争などの展示があった。その後は、カエサルやアウグストゥス以下の歴代皇帝の活躍など、ローマ帝国の興亡について説明していた。
文化の面では、ウェルギリウスやプルタルコスの展示が中心だった。
ルクレティウスについてはその他大勢と一緒に軽く説明しているだけでアクアにとっては残念だった。最古の物理学書を書いた人物なのに扱いは悪かった。古代ローマの遺産として、ローマ近郊の水道技術やガール水道橋に触れてはいたが、技術面に対しては更におざなりだった。
しばらく見て回った先に、発掘されたポンペイの展示があった。
紀元79年、ヴェスヴィオ火山が噴火し、ローマの都市ポンペイは火砕流に飲み込まれた。
そのため、都市がほぼ無傷で当時のまま残され、一種のタイムカプセルとして、時の歩みを止めていた。
その中には、火砕流に飲み込まれた刹那で縛られ、永遠に苦しむ人々の像もあった。 火砕流に巻き込まれた人々の肉体が朽ち果ててできた空洞に石膏を流し込んで作られた物だ。
アクアは、この災害を記録したプリニウスの簡単な展示に対して、詳細な注釈を加えながら隣のキイツに説明した。
大プリニウスこと、ガイウス・プリニウス・セクンドゥスは、『博物誌』を記した博物学者として有名だ。
彼は、ヴェスビオス火山噴火の際に、艦隊を率いてポンペイの救助に向かったが、その途中で亡くなった。火山ガスによる中毒だと考えられている。
甥の小プリニウスは、彼の遺志を引き継ぎ、ポンペイの調査を書簡にまとめた。現在でもその書簡は記録されている。
記録しなければ、未来を予想し、次の対策を練る事はできない。私は、二人のプリニウスに敬意を払った。
アクアの『博物誌』を書いたプリニウスの説明をキイツは聞いていた。『博物誌』は、サラマンダーやフェニックスなどの怪物が出てくるものとして知っていた。彼がポンペイの救助に向かう途中で亡くなったのは意外だった。
しかし、それよりも昔の事ばかり考えていた。あの時の苦痛を表現する様に思えた。たとえ、記録に残ったとしても、ポンペイの様になるのは嫌だった。
その後、古代ローマフロアの最後にある、トレヴィの泉を模した場所で、二人は少し休憩した。
展示の説明には、後ろ向きにコインを投げ入れると願いが叶うと記されていた。キイツは、少し離れた所から何度かコインを投げたが、距離感がつかめずに失敗していた。
それを横目に、アクアは例のコイン投擲装置(C-4)に付いた鏡を使い、楽々とコインを泉の中に投入していた。
それを見たキイツが不満を言った。
「鏡使うのって反則やない?」
アクアは、笑みを浮かべて反論した。
「鏡を見ながら入れてはいけないとは書かれていません」
昔は、私が親友に対して、同じ反論をしていた。結局、キイツもアクアに教えてもらいながら、コイン投擲装置を使って、コインを投入した。
「いつもの冗談で、三枚入れるとはいわないんか」
「…そんな不吉な冗談はいいません。あなたへの不満は多くありますが、それでも二度と会いたくないとまでは思いませんから」
中世のフロアを抜けて、近代のフロアに入って少し進むとカントの展示があった。
アクアはキイツに尋ねた。
「知ってますか。カントは哲学者のイメージが強いかもしれませんが、彼は地震の研究もしていたんですよ」
アクアは説明を始めた。
1755/11/1、ポルトガルのリスボンを中心にして大地震が起きた。
それにより多くの建物が崩れて人々は圧死し、海岸に逃げた人々の前には津波が押し寄せ溺死、更に、火災により多くの人々が焼死した。
総計数万人以上が犠牲になった大災害だった。
被害の大きさだけでなく、ヨーロッパの思想にも衝撃を与えている。この災害を天罰だと主張した神父等に啓蒙思想家のヴォルテールは、『リスボン大災害への詩』や『カンディード』で批判した。一方、ルソーは、人災の影響を指摘して自然に帰れと主張した。
そして、当時、ニュートン等の自然科学を学んでいたカントは、このリスボン大地震を研究した。彼の地震研究は、現在では色々と間違っているが、天罰などの説明が行われていた時代にあって、科学的な手法で、調査した点は評価できる。近代的な地震学の礎を築いた一人と言えるだろう。
とは言っても、ほとんどの展示は哲学に関するもので、科学や地震学の研究については、数行説明があるだけだった。それが、少しアクアを苛立たせた様だ。
最後に、カントの墓碑銘が飾られていた。
Zwei Dinge erfüllen das Gemüt
二つのものが我が心を満たす
mit immer neuer und zunehmender Bewunderung und Ehrfurcht,
常に新たにして益々増大する驚嘆と畏怖とを以って
je öfter und anhaltender sich das Nachdenken damit beschäftigt:
繰返し、絶え間なく考えれば考えるほど
Der bestirnte Himmel über mir und das moralische Gesetz in mir
それは、我が上なる星の輝く天空の法則と我が内なる道徳法則
我が内なる道徳律とは、カントが築いた、自由意志を前提にした道徳律の事だ。
そして、天空の法則は、ニュートンやケプラーの法則、当時発見されていた物理法則を指す。
アクアには、自然災害を神の罰ではないと言いながら、自然法則に崇高の念を感じている事が理解できなかった。
この言葉を見て、アクアは、愚かな幻想を抱いていたかつての自分を思い出し、虫唾が走った。
「何故カントは、リスボン地震を間近に経験していながら、その二つが両立できるなんて思ったのでしょう?」
思わず、そう言っていた。
「…内なる道徳律なんて曖昧なものやなくて、天空の法則に人間も従うべきって事かいな? …科学者らしいけど」
「…いえ、逆です。内なる道徳法則に従うがゆえに、天空の法則に抗う事も辞さないということです」
キイツは、言葉を失った。そういう発想は今まで聞いたことがなかった。
「…科学者だって生きているんですよ」
キイツは思った。
虹を壊してしまう科学と虹に意味を与える道徳が両立するわけがないという皮肉だろうか。
けれども、アクアはまるで睨むように、Zwei Dinge(二つのもの)を見つめていた。
アクアがいつも皮肉をいう時とは何かが違う。
本気で言っているのだ。
キイツは驚いた。科学者は、ニュートン等が発見した自然法則が好きだと思っていた。
だが、アクアはどこかで、自然法則を憎んでいる様だった。
自分は関東大震災の時に書かれた、芥川の言葉を思い出していた。
自然は人間に冷淡なり。
されど人間なるが故に、人間たる事実を軽蔑すべからず。
人間たる尊厳を放棄すべからず。
その憎しみは人であるというよりも悪魔に近かった。
次にあったのは、ゲーテの展示だった。
『ファウスト』については、あの稲むらの日以来、改めて話が弾んだ。
「そういえば、堤防で持っていた、森鴎外訳の『ファウスト』はどこで手に入れたんや?」
「東京の本郷ですが」
キイツは、一瞬、昔の事を思い出し、頭が真っ白になった。翻訳本に青い瞳という組み合わせが、”君”の事を連想させた。
アクアは、キイツの表情が変わった事に気付いた。キイツも本郷に行った事があるのだろうか?
そう聞こうと思った時、ちょうど、色彩論の展示に入った。
キイツはアクアに、広村堤防の事を改めて謝った。
「あの時は、この色彩論の事が浮かんでしまったんや」
「ええ、そうだとは思いました。私もあの時は少し感情的になりすぎました」
「やっぱり、ニュートンの光学が主流な科学者にとっては、この本はあまり評価できないんか?」
アクアは首を横に振った。
「確かに、科学的には間違っているものも多いですが、補色の概念などは、色彩の生理学的には意味があるものです」
それを聞いて、キイツは少しほっとした。
そんな様子を見たアクアは、ふと思い出した。
「そういえば、幼いゲーテも、リスボン大地震を体験してましたね」
キイツもすぐにピンときたようだった。
「自伝の『詩と真実』の中で触れてたな。確か、その時の言葉が…」
キイツもゲーテの自伝『詩と真実』を読んで内容を知っていたので、すぐに分かった。
Durch ein auserordentliches Weltereignis wurde jedoch die Gemutsruhe des Knaben zum erstenmal im tiefsten erschuttert.
私の心の平安は、異常な世界的大事変によって、生まれて初めて、土台から揺るがされた。
二人は、同時に同じ言葉を呟き、視線があった。
その言葉は、賢く慈悲深いはずの創造神が、地震によって悪人だけでなく善人も破滅させた事に、幼いゲーテが不信感を覚えた時のものだ。
互いの瞳は、どちらも深い悲しみに染まっていた。決して幸福な共通点ではないが、何かが共通している事に気付いた。
「…もしかしたら、詩と真実という正反対のものであっても和解できるのかもしれませんね」
アクアがぽつりと言った。
紆余曲折はあったが、詩を追及するキイツと真実を追求する私という真逆の存在でも、歩み寄る事はできるかもしれない。
ヴォルテールのカンディードが、パングロスの楽天主義を捨て、マルチンの厭世主義を振り払い、自らの道を歩き始めた様に。
この旅の終わりに、今まで打ち明けなかった私の過去を話してもいいかもしれない。
「…そうかもしれへんな。色々あったけど、アクアとの旅はおもろかったで」
「ええ。私も同じ意見です」
キイツは思った。
アクアなら、自分の心を分かってくれるかもしれない。
詩の心も分かるゲーテの様な科学者のアクアなら。
この旅の終わりに、アクアの自分の過去を打ち明けよう。