Fünfter Akt: Augenblick der Vergangenheit und Zukunft (第五幕:過去と未来の刹那)
年明けのある日、アクアは高校の防災科にて、津波と流体シミュレーションに関する講演を目前に備えていた。
私の発表を待つ傍らには、質問時の通訳としてキイツの姿があった。
メールなどでやりとりはしていたものの、キイツと会うのは1/17の阪神大震災慰霊祭の時偶然見かけて以来だった。その時は、混雑していたこともあって、互いに言葉を交わすことはできなかった。
私の発表の前に行われていた講演は、地震のメカニズムについてで、竹内均教授の教え子が分かりやすく説明していた。その姿は、映画『日本沈没』でプレートテクトニクスを説明した竹内均を彷彿とさせる素晴らしいものだった。
そして、私は講演を始めた。私が扱うのは、蛇の如く猛威を振るう水が引き起こす災害。つまり津波に関するものだ。
アクアが最初に移したスライドには次の文章が書かれていた。
Axiomata Sive Leges Motus
公理または運動の法則(ニュートンの三法則)
Lex Ⅰ
第一法則
Corpus omne perseverare in statu suo quiescendi vel movendi uniformiter in directum, nisi quatenus a viribus impressis cogitur statum illum mutare.
全ての物体は、加えられた力によってその状態が変化させられない限り、静止あるいは一直線上の等速運動の状態を続ける。
Lex Ⅱ
第二法則
Mutationem motus proportionalem esse vi motrici impressa, & fieri secundum lineam rectam qua vis illa imprimitur.
Id est, Mdv/dt=F
運動の変化は加えられた起動力に比例し、その力が働いている直線の方向に沿って行われる。
つまり、Mdv/dt=F
Lex Ⅲ
第三法則
Actioni contrariam semper & aqualem esse reactionem:
sive corporum duorum actiones in se mutuo semper esse aquales & in partes contrarias dirigi.
全ての作用に対して、等しく、反対向きの反作用が常に存在する。あるいは、互いに作用する二つの物体の相互作用は常に相等しく、反対方向に向かう。
"Philosophiæ Naturalis Principia Mathematica"
『自然哲学の数学的諸原理』
Sir Isaac Newton
サー・アイザック・ニュートン
いきなり難解なラテン語を出してきたかと思いきや、アクアは片言ながらも日本語で語り始めた。
「これは、ニュートンによって提唱されたニュートンの三法則の原文です。
なぜ最初にこれを説明するのかというと、この法則が物理学、ひいては全ての自然現象の基本となっているからです。相対性理論、量子力学など、物理学は発展してきましたが、それでも基礎となるのは、この三つの法則です」
「さて、第一法則は、慣性の法則です。身近な例では急停止した電車のなかで、前のめりになってしまう現象があります。私も、今日、この現象を感じながらここまで来ました。
つづいて、第二法則。
最後の、Mdv/dt=Fは、有名な運動方程式の形なので、あなたたちの中にも習ったが人がいるでしょう。
そして、水などの流体におけるニュートンの第二法則を理論化したものが、ナビエ・ストークス方程式であり、水滴から津波まで、この式に従っています。
しかし、そのままでは、解くのに時間がかかるため、実際には簡易化された式がシミュレーションに使われています」
第三法則を解説した後に、アクアは津波の原理やシミュレーションについての説明を始めた。
決して、高校生相手だからと言って簡単な内容にはせず、時には難解な数式も交えていたが、分かりやすく解説していた。
講演の最後に、アクアは主な聴衆の高校生にむけて語りかけた。
「災害にも科学にも国境はありません。
しかし、私は、あえてあなたたちの住む日本を讃えたいと思います。
いち早く津波研究をしてきた功もあり、日本語の津波は、Tsunamiとして世界共通語になっています。
更に、地震学会が世界で初めて設立されたのも、赤十字が世界初の災害派遣をしたのも、この日本です!
あなたたちの国は、数多の自然災害に襲われながら、何度も立ち上がってきました。
私は、日本から、君たちの中から新たな災害に立ち向かうヒーローが現れることを願っています」
隣で聞いていたキイツは講演を聞き終えて思っていた。
主な聴衆が高校生だったことも配慮して事前にキイツと原稿を確認して、英語ではなく日本語で話すためにアクアは練習していた。分かりやすい言葉で伝えられなくければ科学者として一流になれないからと。
そのアクアの熱意は学生にも伝わっていた。
ちなみに、アクアの発表原稿は、神戸に来る前にほぼ完成していたのだが、流しそうめんに関する部分は急遽追加されたものだ。
よほど、流しそうめんをすくえなかったのが悔しかったのだろう。
そういった点に感銘を覚えるととともに、アクアの姿は、まるで自然に挑む悪魔の様な力強さを感じてしまったのは自分だけなのだろうか。
拍手喝采の中、講演会は終わり、関係者による懇親会が開かれた。
懇親会で、キイツは後ろから声をかけられた。
「君は確か、小学校の時教えていた、キイツさんだよね?」
振り返ったキイツは見覚えのある姿に呆然としたが、すぐに平静を装って返事を返した。
「…ええ、先生。お久しぶりですね」
「まさか、君があのアクアさんの通訳を務めるとは、思いもよらなかったよ」
「…ハハ、そうですね。ちょっと緊張したのでトイレ行っていいですか」
もうそれ以上、冷静に話すことはできなかった。キイツは逃げる様に、その場を立ち去った。
学校を卒業してからあの教師に二度と会うことはないと思っていた。
しかし、まさかこんな所で再会するとは… いや、おかしくはないか。確か、この高校の教師をしているという話は小耳に挟んだことがあった。
あの時の事は教師が悪い訳ではない事は理性で分かっていた。けれども、やはり忘れることはできなかった。
キイツが落ち着いて会場に戻った後、アクアと例の教師が話し続けていた。
親しくなっても、アクアはやはり科学者なのだと、少しだけ遠くなった気がした。
居場所がなかった自分は、懇親会が終わるまで、寒空の下、一人会場を出て空を見上げていた。
あの日と同じく、空に虹はかかっていなかった。
***
講演の日が最後の案内の日だった。そのままアクアを帰してもよかったが、キイツにはどうしても案内したい場所があった。
翌日、キイツはアクアと共に、舞子からポートアイランドへと向かう前に、須磨海岸に寄る事にした。
二人は、須磨海岸の松林を歩きながら、冬の海を眺めていた。
「やっぱり冬はいつも人が少ないなあ。夏だと、海水浴客で賑わうんやけどな」
「私はむしろ、静かな海の方が好きですが」
「そう言えば、この地域は、源平合戦の一の谷の戦いがあった場所なんや」
キイツはこの場所で起きた、若くして亡くなった平敦盛の悲劇と、彼が持っていた青葉の笛の伝説を語った。
「青葉の様に、まだ若くして亡くなったんだ…」
「不思議な笛が出てきて、意外な結末になる点は、モーツァルトの魔笛みたいな話ですね」
「考えたことなかったけど、言われると似てるな」
「魔笛の第一幕では、善だと思われた夜の女王が、第二幕では一転して悪役になる。一瞬にして世界が逆転する展開です」
「一瞬にして、世界が裏返るか…。あの時もそうやった」
キイツは東に広がる海岸に面した街並みの方に目を向けた。
「あの長田の辺りは、阪神大震災の時に、火事で大勢の犠牲者が出たんや」
それきり、キイツは物思いに沈み、沈黙が訪れた。それを破るようにアクアは提案した。
「そこの犠牲者が眠る場所に案内してくれませんか」
キイツは、黙ってうなずくと、町の方へと向かった。
須磨海岸の端まで辿り着いた後、キイツの後ろをアクアは歩き続けた。
海岸に面した街並みが広がる中を地図も見ずに、スラスラと小道を歩いていく所を見ると、歩き慣れている様だ。ただ何故か、その後ろ姿は悲しく見えた。
しばらく歩いた所で、アクアはふと足を止めていた。
軒先の花屋に並んだある花が懐かしかったからだ。それは、赤と白のアネモネの花。
”あなた”と共に、ジョン・キーツの墓に供えた花だったからだ。
これから行く墓地に供えるために、その花を購入することにした。
アネモネの花を買って花屋を出てから、キイツが見当たらない事に気づいた。
どうやら、 キイツは私が足を止めたことに気づかずに先に行ってしまったらしい。
目的地はわかっていたので、アクアは一人で墓地に向かうことにした。
一方、キイツは、墓地の前でようやく、アクアがついてきていない事に気が付いた。
とりあえず、来た道を戻り、花屋の前まで来たところで声をかけられた。
花屋の店員からアクアが花を買って墓地に向かったことを聞き、再び墓地への道を急いだ。
そして、たどり着いた墓地でキイツはアクアを見つけたが、すぐに声をかけられなかった。
自分は、墓地で祈りを捧げるアクアと”君”を重ね合わせて見とれていたから。
だが、憎悪に染まったアクアの瞳を見て、”君”とは違うのだと悟った。
祈りを捧げたのち、キイツは、アクアの目を改めて見つめながら言った。
「これで案内は終わりやな。案内言うても、なんやかんやで足りないところばっかやったし、むしろ勉強になることも多かったなあ。なんかありがとうな。じゃあお別れやな」
キイツの瞳はどこか寂しげで、アクアは半ば反射的に答えていた。
「いえ、まだ終わりではありません。あなたが特別な場所を見せてくれたように、今度は私の特別な場所を見せましょう。つまり、量子コンピューターLの中にある私の研究室です」
ここに来てからずっと影のあったキイツの瞳に明るさが戻った。
「ほんまか。そしたら、今度は自分が案内してもらう番やな」
「それに、あの時もらったチケットもありますから、そちらも行かなくては損です」
そういって、アクアは梅田地下街脱出ゲームでもらったテーマパーク・アルカディの招待券を見せた。
「ああ、そうやな。最後に、アクアの理想郷を見せてや」




